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ショーン・オケーシー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ショーン・オケーシー

Seán O'Casey
生誕せいたん 1880ねん3月30にち
アイルランドの旗 アイルランド ダブリン
死没しぼつ 1964ねん9月18にち(1964-09-18)(84さいぼつ
イングランドの旗 イングランド デヴォンしゅうトーキー
国籍こくせき アイルランドの旗 アイルランド
職業しょくぎょう げき作家さっか
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ショーン・オケーシー (アイルランド: Seán Ó Cathasaigh1880ねん3月30にち - 1964ねん9月18にち[1])は、アイルランドのげき作家さっかかつ回顧かいころく著者ちょしゃである。かれは、社会しゃかい主義しゅぎ傾倒けいとうしてダブリン労働ろうどうしゃ階級かいきゅうについていた、特筆とくひつされる最初さいしょのアイルランドじんげき作家さっかであった。

少年しょうねん[編集へんしゅう]

オケーシーは、マイケルとスーザンの夫婦ふうふあいだに「John Casey」[2] もしくは「John Cassidy」[3] して、アイルランドのダブリンの「85 Upper Dorset Street(ダブリンの市街地しがいちない北部ほくぶ)」にあるいえまれた。かれ家系かけいてき背景はいけいは、「ちぶれていても気位きぐらいたかもの」であり、しばしばなされることがあるが、かれ演劇えんげき設定せっていとしている労働ろうどうしゃ階級かいきゅう文化ぶんかではなかった。かれ両親りょうしんは、プロテスタントであった。そしてかれは、アイルランド国教こっきょうかいのメンバーであり、1880ねん7がつ28にちにセント・メアリー・パリッシュにおいて洗礼せんれいおこな[4] 、クロンターフにあるセント・ジョン・バプティスト教会きょうかい(アイルランド国教こっきょうかいのクロンターフしょう教区きょうく)においてけんしんれいほどこ[5] 、この教会きょうかいから退出たいしゅつした20だいなかばまでセント・バルナバスの会員かいいんであった。

オケーシーのちちは、ショーンがたった6さいのとき、13にん家族かぞくのこしてくなった[5]以降いこう家族かぞくは、きたダブリンちゅういえからいえへとわたある生活せいかつをすることになった。子供こどもころのオケーシーは弱視じゃくしわずらっていたので、このことはかれ早期そうき教育きょういくにある程度ていど支障ししょうがあったが、かれは13さいまでにきを自習じしゅうした。

かれは14さい学校がっこうり、GNR(グレート・ノーザン鉄道てつどう)における鉄道てつどういんとしての9年間ねんかんふくめて様々さまざま仕事しごとについた。オケーシーは、短期間たんきかん新聞しんぶん配達はいたつぎょうにおいてイーソンズしゃはたらいたが、かれ賃金ちんぎんるときに帽子ぼうしをとらなかったことによって解雇かいこされた[6]

1890年代ねんだい初頭しょとうから、オケーシーと、かれあにアーチーは、家庭かていでディオン・ブシコーやウィリアム・シェイクスピアによる演劇えんげき演技えんぎおこなった。またかれは、メカニックス劇場げきじょうにおいてブシコーの『The Shaughraun』のなか端役はやくた。この劇場げきじょうは、そのアベイができるところにった。

政治せいじてき活動かつどう[編集へんしゅう]

アイルランドのナショナリズムについてのオケーシーの関心かんしんふくらんできだので、かれは1906ねんにゲールくわえてアイルランドまなんだ。このときかれは、その名前なまえを「John Casey」からゲール対応たいおうの「Seán Ó Cathasaig」にえた。かれイリアン・パイプス演奏えんそうすることもまなび、「セント・ローレンス・オーツール・パイプ・バンド(St. Laurence O'Toole Pipe Band)」の創始そうししゃであり事務じむきょくであった。かれは「アイルランド共和きょうわ主義しゅぎ同盟どうめい(Irish Republican Brotherhood)」にくわわり[7]、「アイルランド運輸うんゆ一般いっぱん労働ろうどう組合くみあい(Irish Transport and General Workers Union)」にまれるようになった。これは、ジェームス・ラーキンによって設立せつりつされたダブリンの借家しゃくや居住きょじゅうするスキルの労働ろうどうしゃ利益りえき代表だいひょうするための組合くみあいである。かれは、ダブリン・ロックアウトに参加さんかし、ブラックリストにって、しばらくのあいだ安定あんていした仕事しごとつけられなかった。

1914ねん3がつかれは、ラーキンのアイルランド市民しみんぐん(ICA:Irish Citizen Army)の事務じむ局長きょくちょう(General Secretary)となった。これは、すぐにジェームズ・コノリーによっておこなわれることになる。1914ねん7がつ24にちかれはICAをめたが、それはICAとアイリッシュ・ボランティアの両方りょうほう会員かいいんとなることを拒否きょひするかれ提案ていあん却下きゃっかされたのちのことであった。

イースター蜂起ほうき[編集へんしゅう]

1917ねんかれ友人ゆうじんトーマス・アッシュ英語えいごばんがハンガーストライキでくなり、このことがくきっかけとなった。かれは、ふたつの哀詩あいし(ひとつはぎゃくのもので、よりながいものは散文さんぶんたいのもの)をいた[8]。この時期じき、オケーシーによってかれたほかのバラードが、1918ねん発行はっこうされた『Songs of the Wren』において特集とくしゅうされた。これらには、「Grand Ould Dame Britannia」と「The Man from the Daily Mail」がふくまれており、のちにアイルランドの反乱はんらんうた主要しゅよう作品さくひんとなった。共通きょうつうのテーマのひとつは、だいいち世界せかい大戦たいせんにおいてアイルランドがだいえい帝国ていこくぐん徴兵ちょうへいされることに反対はんたいすることであった。

「あ~、この大騒おおさわぎはなになの?」とろう貴婦人きふじんブリタニアはう。

「あなたがいっしょにまないようにしようとしているのは我々われわれかい?」とろう貴婦人きふじんブリタニアはう。
シン・フェインとうのウソにはみみをふさぎなさい。イングランドのためにゲールじんはみんなぬことをっているでしょ!」

「そしてあなたはんだあおそらした独自どくじのルールをもつのよ。」とろう貴婦人きふじんブリタニアはう。
Seán Ó Cathasaigh、Grand Ould Dame Britannia (1918ねん

かれは、つぎの5年間ねんかん劇作げきさくついやした。1918ねんかれ父母ちちはは両方りょうほうが(1がつと9がつに)くなったとき、「セント・ローレンス・オーツール・ナショナル・クラブ(St Laurence O'Toole National Club)」は、かれ演劇えんげきはななかしも(The Frost in the Flower)」をくことを約束やくそくした。かれは、「セント・ローレンス・オーツールパイプ・バンド(St Laurence O'Toole Pipe Band)」にぞくしてハーリング・チームで競技きょうぎしていたが、クラブは「この劇作げきさくちゅうきょう区民くみんについてのいくつかの風刺ふうしてきあつかいは、いきどおりをもたらす懸念けねんがあること」をおそれて、上演じょうえんしないことにした。つぎにオケーシーは、この劇作げきさくアベイ応募おうぼした。どう劇場げきじょうも、これを却下きゃっかしたが、かれつづけることをうながした。結局けっきょく、オケーシーは、この演劇えんげきを3まく構成こうせい拡張かくちょうし、これを「収穫しゅうかく感謝かんしゃさい(The Harvest Festival)」と改題かいだいした。

アベイ[編集へんしゅう]

No.422 きた環状かんじょう道路どうろいえ。オケイシーがダブリン3さくいたところ。

オケーシーの最初さいしょ採用さいようされた演劇えんげき革命かくめい戦士せんしかげ」がアベイにおいて1923ねん上演じょうえんされた。これは、劇場げきじょうげき作家さっか両方りょうほう有益ゆうえきとなるはずの関係かんけいはじまりであったが、後味あとあじにがいものにわった。 

この演劇えんげきは、ダブリンのスラムやその住民じゅうみんについての政治せいじ影響えいきょう革新かくしんてきあつかっており、マウントジョイ・スクエアにおける設定せっていとなっているとほぐされていた。ここは、1916ねんイースター蜂起ほうき期間きかんかれ生活せいかつしていたところである。これに「ジュノーと孔雀くじゃく」(1924ねん)と「すきほし(すきとほし)」(1926ねん)がつづいた。前者ぜんしゃがこのまち労働ろうどうしゃ階級かいきゅう貧民ひんみんについてのアイルランド内戦ないせん影響えいきょうあつか一方いっぽう後者こうしゃは、1916ねんにおけるイースター蜂起ほうきころのダブリンという設定せっていになっている。りょう演劇えんげきは、美辞麗句びじれいくとアイルランドの愛国心あいこくしん危険きけんせいを、借家しゃくや生活せいかつ自己じこ欺瞞ぎまん、サバイバルととも生々なまなましくあつかった。これらは悲喜劇ひきげきであり、これらのなか暴力ぼうりょくてき安堵あんどかんをもたらす。「ジュノーと孔雀くじゃく」におけるジャック・ボイルやジョクサー・ダリーのようないさましい虚勢きょせいをはるキャラクターがくるい、「すきほし」におけるジュノー自身じしんもしくベッシー・バージェスが英雄えいゆうてき回復かいふくりょくしめ[9]。「ジュノーと孔雀くじゃく」は、アルフレッド・ヒッチコック監督かんとくによって映画えいがになった。

すきほし」は、アベイ聴衆ちょうしゅうによる反応はんのうかんばしくなく、ジョン・ミリントン・シングの「西国さいこく人気にんきおとこThe Playboy of the Western World)」(1907ねん)を歓迎かんげいした騒動そうどうおもさせるシーンにわった。ショーのだい4めについての騒動そうどう報告ほうこくされている。かれせい信仰しんこう記述きじゅつには、役者やくしゃにも抵抗ていこうするものがいて、かれらの台詞せりふをしゃべることをこばんだ。最大さいだい規模きぼ騒動そうどうきた。その一部いちぶは「この演劇えんげき提起ていきされているテーマについての攻撃こうげきであるとかんがえられたこと」に起因きいんし、一部いちぶは「だい2まくにおける売春ばいしゅんのアニメーションされた外観がいかん反対はんたいする抗議こうぎ」に起因きいんする[10]ウィリアム・バトラー・イェイツくわえて、聴衆ちょうしゅう自身じしんじるものとして描写びょうしゃした。演劇えんげき台詞せりふは、そのまえしゅうくらべてのあるものとなった。オケーシーはかれ仕事しごとあきらめ、フルタイムの作家さっかとなった。この事件じけん以降いこう、この演劇えんげきはアベイ来場らいじょうする人々ひとびとだい部分ぶぶんには好評こうひょうであったものの、リアム・オフラエティ、オースティン・クラークおよびF・R・ヒギンズは、報道ほうどうなかで、この演劇えんげきたいする攻撃こうげきはじめた。オケーシーは、「これはイェイツにたいする攻撃こうげきである」としんじていたので、かれらはイェイツをしかりつけるためにオケーシーの演劇えんげき使つかっていた。1952ねんかれは、テレサ・デーヴィーによって「ワイルド・ギース」とばれるアイルランドの演劇えんげき登場とうじょうした[11]。このなかかれは、ファーザー・ライアンのやくえんじた。オケーシーは、アベイにおける無数むすう作品さくひん参画さんかくしていた。これらは、アベイ・アーカイブにある[12]

イングランド[編集へんしゅう]

ホーソーンデンしょうHawthornden Prize)をって、「ジュノーと孔雀くじゃく」のウエスト・エンド (ロンドン) による制作せいさく監督かんとくするためにロンドンにあいだにオケーシーは、アイリーン・ケアリーとこいちた。このカップルは1927ねん結婚けっこんし、ロンドンにはかれらがトットネス(Totnes)にうつった1938ねんまでとどまった[13]

1928ねん、W・B・イェイツは、アベイのためのオケーシーの4番目ばんめ演劇えんげき銀杯ぎんぱいThe Silver Tassie)」を却下きゃっかした。この演劇えんげきは、帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそうと、それがもたらした苦痛くつうたいして攻撃こうげきするものであった。アベイは、これを公演こうえんすることを拒否きょひした。主要しゅよう制作せいさくは、チャールズ・B・コックラン(Charles B. Cochran)によってきずかれた。かれ上演じょうえんまで、たった18かげつしかかけなかった。

この演劇えんげきは、アポロ・シアター (ロンドン)において上演じょうえんされたが、たった26かい上演じょうえんしかつづかなかった。この演劇えんげきは、監督かんとくレイモンド・マッセイ主演しゅえんチャールズ・ロートンだい2まくのセットデザインはオーガスタス・ジョン(Augustus John)によるものであった。ジョージ・バーナード・ショーオーガスタ・グレゴリーは、このせものをひいきにする意見いけんをもっていた。

ダブリンのアーティスト、レジナルド・グレイ(Reginald Gray)による『ニューヨーク・タイムズ』のためのショーン・オケーシーのスケッチ(1966ねん

これ以降いこうにオケーシーがいた演劇えんげきには、くら寓話ぐうわてきな「もんなかで」(1934ねん)がふくまれる。これは、ロンドンのハイドパークもとづいて、にぎやかなまちちゅう公園こうえんのゲートないという設定せっていになっている。これは論争ろんそうまとになる懸念けねんたかいものであったが、ユージン・オニールは、これに前向まえむきにこたえた。この演劇えんげきは、もともとはアルフレッド・ヒッチコックのための映画えいが脚本きゃくほんとなるはずのものであった[14]。オケーシーの未亡人みぼうじんは、このことを彼女かのじょ追憶ついおく『ショーン(Sean)』(1971ねん)に記述きじゅつした。

当初とうしょかれは、これを(花壇かだんから制服せいふくいたるまで)すべてがスタイリッシュな映画えいがとして想定そうていしていました。すこはなれたビッグ・ベンやわらかいチャイムが夜明よあけからはじまり、深夜しんやわる…。これは、『幾何きかがくてきでありながら感情かんじょうてきで、きたキャラクターたちの感情かんじょうが、かれ自身じしんのパターンとこの公園こうえんのパターンにたいしてしめされるもの』となるはずのものでした。ここまでできたとき、かれはアルフレッド・ヒッチコックあてきました。そして、ヒッチコックとその奥様おくさまが、我々われわれ食事しょくじともにしたとき、ショーンは、かれのアイディアをあきらかに敏感びんかんなききて説明せつめいしました。ヒッチコックとかれは、興奮こうふんしてはないました。かれらはおな条件じょうけんで、つぎわせの約束やくそくともわかれましたが、ショーンがふたたくことはありませんでした。」[8]

このけんは、開始かいしからもなくわり、もうひとつのわせの失敗しっぱいれいとなった。

1934ねんあき、オケーシーは、ニューヨークに「もんなかで」の制作せいさく現場げんば訪問ほうもんするため、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくった。かれは、これをおおいに称賛しょうさんした。監督かんとくメルヴィン・ダグラス主演しゅえんリリアン・ギッシュであった。かれユージン・オニールシャーウッド・アンダーソンジョージ・ジーン・ネーサン友人ゆうじんになったのは、このときであった[8]

「ザ・スター・ターンズ・レッド(The Star Turns Red)」(1940ねん)は、4まく構成こうせい政治せいじてき寓話ぐうわであり、このなかベツレヘムのほしあかくなる。このはなしは、貿易ぼうえき組合くみあいのリーダーであるビッグ・レッド(オケーシーの友人ゆうじんジェームス・ラーキン(James Larkin)にもとづく)をいかける。この組合くみあい名前なまえのないくに接収せっしゅうし、サフランしょくのシャツを無情むじょう努力どりょくをしたにもかかわらず、ファシスト組織そしきが、このくにのローマ・カトリックの階層かいそう組織そしきによっておおやけにサポートされていた。このげきは、ロンドンにあるユニティ劇場げきじょうによって1940ねんとおして(のちに1978ねん、ダブリンにあるアベイによって) 上演じょうえんされた。

「パープル・ダスト(Purple Dust)」(1943ねん)は、ふたりの裕福ゆうふく唯物ゆいぶつろんしゃのイギリスじん株式かぶしき仲買人なかがいにんたちをいかける。かれらは、古来こらいのアイルランドのマンションをい、チューダー様式ようしき伝統でんとう趣味しゅみについて、かれらのあやまったかんがえにもとづいて、それをリストアすることをこころみる。かれらはコミュニティにたいして、おおいにことなる習慣しゅうかん生活せいかつ様式ようしき提起ていきすることをこころみる。コミュニティの習慣しゅうかん生活せいかつ様式ようしき古来こらいゲールぞくのものによりちかく、このようなあやまった価値かちとは相反あいはんするものであった。

Sean O' Casey home.
Seán O'Casey幼年ようねん時代じだいいえ上部じょうぶドーセットどおり、ダブリン。

そのイギリスじんは、そのいえをリノベーションするためにやとわれたもの代表だいひょうするものたいして、対立たいりつするかれらの基準きじゅん設定せっていする。結果けっかとしての対立たいりつにおいて、そのイギリスじんてこすられ、最後さいごには象徴しょうちょうてきあらしかれらの(ふるいものをあたらしくするという)ゆめ破壊はかいしたとき、失望しつぼうさせられた。この結論けつろんによって教示きょうしされているヒントは、「ちいさな紫色むらさきいろちりかさねが、変化へんかをもたらすふうによって、ばされる。アイルランドにとどまっている尊大そんだい帝国ていこく主義しゅぎ残留ざんりゅうぶつのように。」ということであった。このショーは、オケーシーのこのみのもののひとつであったが、バーナード・ショーの『ジョン・ブルのほかしまJohn Bull's Other Island)』とくらべられてきた。 しかし、少数しょうすう類似るいじせいはあるものの、比較ひかくするための現実げんじつ基盤きばんかった[8]

かれは、「レッド・ローズ・フォー・ミー(Red Roses for Me)」(1943ねん)もいた。この演劇えんげきは、かれ執筆しっぴつたいして初期しょきのスタイルより表現ひょうげん主義しゅぎ手段しゅだん社会しゃかい主義しゅぎしゃてき内容ないよう明白めいはく使つかうようにえることを自覚じかくさせるものであった。これは、ダブリンのオリンピア劇場げきじょう上演じょうえんされた。(これは、アイルランドにおける17年間ねんかん最初さいしょ制作せいさくされたものであった。) 1946ねん、これはロンドンにうつって公演こうえんされることになる。ロンドンでは、オケーシー自身じしんることができた。これは、「もんなかで」(1934ねん以降いこうかれ自身じしん最初さいしょのショーであった[8]

「オークのとラヴェンター(Oak Leaves and Lavender)」(1945ねん)は、はんナチ十字軍じゅうじぐんにおけるバトル・オブ・ブリテンだいえい帝国ていこく英雄えいゆうてき行為こうい記念きねんするプロパガンダ演劇えんげきであり、くらい18世紀せいきのやりかた描写びょうしゃして、現在げんざいについてコメントするものである[8]

これらの演劇えんげきは、初期しょき3さくのような批評ひひょうもしくは商業しょうぎょうてき成功せいこうることはなかった。だい大戦たいせんかれは、「にわとり(Cock-a-Doodle Dandy)」(1949ねん)をいた。これは、おそらくかれもっとうつくしくエキサイティングな作品さくひんである。「ビショップのかがり(The Bishop's Bonfire)」(1955ねん以降いこうのオケーシーの末期まっき演劇えんげきは、アイルランドにおける普通ふつう生活せいかつについての研究けんきゅうであり、「ちちネッドのドラムス(The Drums of Father Ned)」(1958ねん)のような「アイルランドのミクロコスモス(縮図しゅくず)」であった。

かれ演劇えんげきちちネッドのドラムス」は、1958ねんのダブリン劇場げきじょうフェスティバル(Dublin Theatre Festival)において上演じょうえんされることが想定そうていされていたが、ダブリン大司教だいしきょうCatholic Archbishop of Dublin)ジョン・チャールズ・マクケイド(John Charles McQuaid)は、祝辞しゅくじおくることを拒否きょひした。(これは、ジェイムズ・ジョイスとオケーシーの両者りょうしゃ作品さくひんがフェスティバルに出演しゅつえんすることになっていたからであると推察すいさつされてきた。)ジョイスの演劇えんげきしずかに却下きゃっかされたあと、オケーシーをろすためのよこしまなやりかたとして、「ちちネッドのドラムス」については大量たいりょう変更へんこう要求ようきゅうされた。こののちサミュエル・ベケットは、抗議こうぎのためかれパントマイム作品さくひんげた[8]

余生よせい[編集へんしゅう]

Seán O'Casey home.
No.9 Innisfallen Parade, ダブリン。ショーン・オケーシーは、ここで1882ねんから1888ねんまできた。

1959ねん、オケーシーは、アメリカじん作曲さっきょくマーク・ブリッツスタインによる「ジュノーと孔雀くじゃく」のミュージカルたいしてかれ賛意さんいしめした。「ジュノー」と改題かいだいされたミュージカルは、商業しょうぎょうてきには失敗しっぱいし、たった16かいブロードウェイ・シアター公演こうえんのあと閉幕へいまくした。またこれは、いくつかの批評ひひょうによってむくいられた。適切てきせつなミュージカルとするにはあまりに「くらい」、というものであり、当時とうじこのジャンルは、ほとんどつねあかるいコメディにかんするものであった。しかし、この音楽おんがくは、ブリッツスタインの最高さいこう作品さくひんぐんなされてきた。これは、このショーが開幕かいまくするまえつくられた配役はいやくアルバムのなかのこっている。当時とうじ79さいのオケーシーによって推薦すいせんされたが、オケーシーは制作せいさくには貢献こうけんしなかったし、このみじか公演こうえん期間きかんちゅうかんさえしなかった。基礎きそになっている素材そざい素晴すばらしさについての一般いっぱんてき合意ごういにもかかわらず、このミュージカルの再演さいえん成功せいこうさせようとするあらゆる努力どりょくは、無視むしされてきた。

また1959ねん、ジョージ・ディヴァインは、ロイヤル・コート劇場げきじょうRoyal Court Theatre)において、「にわとり(Cock-a-Doodle Dandy)」をプロデュースした。これもエディンバラ国際こくさいフェスティバルにおいて成功せいこうし、ウエスト・エンドでも上演じょうえんされた。

かれの80さい誕生たんじょうは1960ねんのことであったが、これをいわうためにデビッド・クラウゼとロバート・ホーガンが、標準ひょうじゅんてきながさの研究けんきゅうしょいた。ロンドンにあるマーメード劇場げきじょうMermaid Theatre)は、1962ねん、「オケーシー・フェスティバル」を開始かいしした。これによって、(だい部分ぶぶんはブリテンとドイツにある)伝統でんとうある劇場げきじょうのよりおおくがかれ作品さくひん上演じょうえんするようになった[8]。オケーシーは、かれ創造そうぞうてきなエネルギーを6へんからる『自叙伝じじょでん(Autobiography)』にちゅういだのは晩年ばんねんのことであった。

1964ねん9がつ18にち、84さいでオケーシーは、デヴォンしゅうトーキーにおいて心臓しんぞう発作ほっさくなった[15]かれは、ゴルダーズ・グリーン・クレモテリウム(Golders Green Crematorium)において火葬かそうされた。

1965ねんかれ自叙伝じじょでんわたしいえにあるかがみ(Mirror in my House)』(1956ねんに2へん構成こうせい発行はっこうされた総集編そうしゅうへん題名だいめいであり、この題名だいめいのもとで1939ねんから1956ねんにかけて発行はっこうされた6さつ自叙伝じじょでんからる)は、かれ生涯しょうがいにもとづいて『わかのキャシディ(Young Cassidy)』とばれる映画えいがになった。この映画えいがは、監督かんとくジャック・カーディフ (およびジョン・フォード)、主演しゅえんロッド・テイラー(オケーシーやく)、出演しゅつえんフローラ・ロブソンマギー・スミスジュリー・クリスティ、イーディス・エヴァンス(Edith Evans)、マイケル・レッドグレイヴであった。

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

オケーシーは、アイルランドじん女優じょゆうアイリーン・ケアリー・レイノルズ(1903–1995)[16] と1927ねんからかれまで結婚けっこんしていた。このカップルは、3にん子供こども、ふたりの息子むすこ(ブレオン(Breon)とナイル(Níall:1957ねん白血病はっけつびょう死亡しぼう))と、ひとりむすめジヴァン(Shivaun)をもった[8][17]

作品さくひん[編集へんしゅう]

  • 「トーマス・アッシュのための哀詩あいし」 - Lament for Thomas Ashe (1917ねん) - Seán O Cathasaigh名義めいぎ
  • 「トーマス・アッシュのはなし」 - The Story of Thomas Ashe (1917ねん) - Seán O Cathasaigh名義めいぎ
  • 「ウレンの唱」 - Songs of the Wren (1918ねん) - Seán O Cathasaigh名義めいぎ
  • ぞく・ウレンの唱」 - More Wren Songs (1918ねん) - Seán O Cathasaigh名義めいぎ
  • 収穫しゅうかく感謝かんしゃさい」 - The Harvest Festival (1918ねん
  • 「アイルランド市民しみんぐんはなし」 - The Story of the Irish Citizen Army (1919ねん) - Seán O Cathasaigh名義めいぎ
  • 革命かくめい戦士せんしかげ」 - The Shadow of a Gunman (1923ねん) - ダブリン3さくの1
  • 「ききいるキャスリーン」 - Kathleen Listens In (1923ねん
  • 「ジュノーと孔雀くじゃく」 - Juno and the Paycock (1924ねん) - ダブリン3さくの2
  • 「ナニーの夜遊よあそび」 - Nannie's Night Out (1924ねん
  • すきほし」- The Plough and the Stars (1926ねん) - ダブリン3さくの3
  • 銀杯ぎんぱい」 - The Silver Tassie (1927ねん
  • もんなかで」 - Within the Gates (1934ねん) - ボストンでは禁止きんし
  • はじまりのわり」 - The End of the Beginning (1937ねん
  • 「もう1ポンド」 - A Pound on Demand (1939ねん
  • 「ザ・スター・ターンズ・レッド」 - The Star Turns Red (1940ねん
  • 「レッド・ローズ・フォー・ミー」 - Red Roses for Me (1942ねん
  • 「パープル・ダスト」 - Purple Dust (1943ねん
  • 「オークのとラヴェンター」 - Oak Leaves and Lavender (1946ねん
  • 「にわとり」 - Cock-a-Doodle Dandy (1949ねん
    • 「にわとり」菅原すがわらたくわけ今日きょうえいべい演劇えんげき01』白水しろみずしゃ(1968ねん
  • 医療いりょう施設しせつ」 - Hall of Healing (1951ねん
  • 「ベッドタイム・ストーリー」 - Bedtime Story (1951ねん
  • 「タイム・トゥ・ゴー」 - Time to Go (1951ねん
  • 「ワイルド・ギース」 - The Wild Goose (1952ねん
  • 「ビショップのかがり」 - The Bishop's Bonfire: A Sad Play within the Tune of a Polka (1955ねん
  • わたしいえにあるかがみ』 - Mirror in My House (1956ねん) - 2構成こうせい、のち『自叙伝じじょでん』 - Autobiographies として再版さいはん (1963ねん) - つぎの6さつ回顧かいころくすべしゅうして出版しゅっぱん
    • かたをたたく」 - I Knock at the Door (1939ねん
    • 廊下ろうかにある写真しゃしん」 - Pictures in the Hallway (1942ねん
    • まどしたのドラムス」 - Drums Under the Window (1945ねん
    • Inishfallen, Fare Thee Well (1949ねん
    • 薔薇ばら王冠おうかん」 - Rose and Crown (1952ねん
      • 薔薇ばら王冠おうかん常盤ひたち新平しんぺいわけ『ニューヨーク拝見はいけん白水しろみずしゃ〈アンソロジー〉(1993ねん
    • 日没にちぼつよいほし」 - Sunset and Evening Star (1954ねん
  • ちちネッドのドラムス」 - The Drums of Father Ned (1959ねん
  • Behind the Green Curtains (1961ねん
  • Figuro in the Night (1961ねん
  • The Moon Shines on Kylenamoe (1961ねん
  • 『ナイル : 哀悼あいとう』 - Niall: A Lament (1991ねん) - 白血病はっけつびょうくなった息子むすこについて没後ぼつご出版しゅっぱん

遺産いさん[編集へんしゅう]

ダブリンにおいて、リフィーがわにかかるはしには、かれにちなんで命名めいめいされたもの(Seán O'Casey Bridge)がある。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ かわ利夫としお保坂ほさか栄一えいいち へん新版しんぱん 世界せかい人名じんめい事典じてん 西洋せいようへん 増補ぞうほばん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1993ねん、149ぺーじISBN 4-490-10346-8 
  2. ^ Bio of O'Casey
  3. ^ Irish Writers on Writing, ed.
  4. ^ Baptismal entry
  5. ^ a b O'Casey, Sean; Krause, David; Lowery, Robert G. (1980). Sean O'Casey, Centenary Essays. C. Smythe. pp. 1–2. ISBN 0-86140-008-9. https://books.google.com/books?id=IhVaAAAAMAAJ&q=clontarf+parish+church&pgis=1#search 
  6. ^ LM Cullen, Eason and Son, A History.
  7. ^ Murray, Christopher (2004). Seán O'Casey: writer at work : a biography. Gill & Macmillan Ltd. pp. 66. ISBN 978-0-7171-2750-4 
  8. ^ a b c d e f g h i Ayling, Ronald (1982). Modern British Dramatists, 1900–1945.. Detroit, Michigan: Gale. ISBN 978-0-8103-0937-1 
  9. ^ The Oxford Companion to English Literature, 6th Edition. Edited by Margaret Drabble, Oxford University Press, 2000 Pp 734
  10. ^ Contemporary Authors Online. Detroit, Michigan: Gale. (2003). ISBN 978-0-7876-3995-2 
  11. ^ The Wild Goose”. The Teresa Deevy Archive. 2016ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  12. ^ O'Casey, Sean (I)”. The Abbey Theatre Archive. 2016ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  13. ^ Krause, David Sean O'Casey and his world, London: Thames & Hudson, 1976
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