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ジェレマイア・ブラック

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ジェレマイア・ブラック

ジェレマイア・サリヴァン・ブラック(Jeremiah Sullivan Black, 1810ねん1がつ10日とおか - 1883ねん8がつ19にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政治せいじだい23だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかんおよびだい24だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく司法しほう長官ちょうかんつとめた。

ちと家族かぞく

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1810ねん1がつ10日とおか、ブラックはペンシルベニアしゅうドーフィンぐんストウニークリーク近郊きんこう誕生たんじょうした。父親ちちおやはアイルランドからの移民いみん子孫しそんヘンリー・ブラック (Henry Black, 1783-1841)、母親ははおやはスイスからの移民いみん子孫しそんメアリー・サリヴァン (Mary Sullivan, 1787-1852) であった。

ブラックは公立こうりつ学校がっこうでわずかに初等しょとう教育きょういくけ、それ以降いこう知識ちしきだい部分ぶぶん独学どくがく獲得かくとくした。ブラックはシェイクスピア聖書せいしょ、その文学ぶんがく作品さくひんから知識ちしき獲得かくとくした。ブラックは医師いし目指めざしていたが、父親ちちおや地元じもと弁護士べんごしチョウンシー・フォワードした法律ほうりつまな機会きかいあたえたため、ブラックは法律ほうりつ世界せかい関心かんしんうつした。ブラックはフォワードのしたで3ねんにわたって法律ほうりつまなんだ。1830ねん、ブラックはペンシルベニアしゅうから弁護士べんごしとして認可にんかけ、弁護士べんごしぎょう開業かいぎょうした。フォワードは政治せいじぎょう専念せんねんするため、自身じしん依頼いらいしゃをブラックにがせた。

1836ねん、ブラックはフォワードのむすめのメアリー・フォワード (Mary Forward) と結婚けっこんした。ブラックはメアリーとのあいだ2人ふたり子供こどもをもうけた。

ペンシルベニアしゅうでの活動かつどう

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ブラックは民主党みんしゅとう所属しょぞくし、積極せっきょくてき政治せいじ活動かつどうおこなった。1831ねん、ブラックはペンシルベニアしゅうサマセットぐんふく検事けんじ総長そうちょう任命にんめいされた。1842ねん、ブラックはペンシルベニアしゅうだい16裁判さいばん民事みんじ訴訟そしょう裁判所さいばんしょ判事はんじとなった。ブラックはそこで判事はんじを9年間ねんかんつとめ、1851ねんペンシルベニアしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ選任せんにんされた。ブラックは1854ねんにもしゅう最高裁さいこうさい判事はんじ再任さいにんされ、1857ねんまで首席しゅせき判事はんじつとめた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく司法しほう長官ちょうかん

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ブラックは長年ながねんにわたってジェームズ・ブキャナン支持しじしていた。1856ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでブキャナンが勝利しょうりおさめると、ブラックはジェームズ・ブキャナン政権せいけん発足ほっそくとともに司法しほう長官ちょうかん起用きようされた。ブラックはべいぼく戦争せんそう終結しゅうけつさいしてメキシコ政府せいふから取得しゅとくした割譲かつじょう4まん9000平方へいほうキロメートルが土地とち横領おうりょうにあたるのではないかという論争ろんそう収束しゅうそくさせた。この当時とうじ、カリフォルニア割譲かつじょう不正ふせいなものであるとする裁判さいばん各地かくち地方裁判所ちほうさいばんしょこされており、おおくの裁判所さいばんしょでは割譲かつじょう不正ふせいなものであるとする判決はんけつされていた。ブラックはこの論争ろんそう終結しゅうけつさせるため、連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょでの審理しんりけて、エドウィン・スタントン調査ちょうさ担当たんとうちょう指名しめいした。連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょはカリフォルニア割譲かつじょう取得しゅとく不正ふせいうたがいがあるとしたかく地方裁判所ちほうさいばんしょ判決はんけつ破棄はきし、割譲かつじょう正当せいとうなものであることを確立かくりつした。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかん

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1860ねん12月ルイス・カス国務こくむ長官ちょうかん辞任じにんすると、ブキャナン大統領だいとうりょうはブラックを後任こうにん国務こくむ長官ちょうかん任命にんめいした。ブラックは、つよ連邦れんぽう主義しゅぎしゃとしてのスタンスを維持いじつづけるようブキャナン大統領だいとうりょう進言しんげんし、南部なんぶもろしゅう連邦れんぽう離脱りだつ運動うんどう牽制けんせいするよう要求ようきゅうした。ブラックは連邦れんぽう離脱りだつ意見いけんであると主張しゅちょうし、サムター要塞ようさい強化きょうか防衛ぼうえい提言ていげんした。その一方いっぽうでブラックは、あくまでしゅう権限けんげん優先ゆうせんし、連邦れんぽう政府せいふ法律ほうりつによってしゅう強制きょうせいすることはできないとも主張しゅちょうした。またブラックはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく首席しゅせき代表だいひょうとしてヨーロッパ各国かっこく訪問ほうもんし、アメリカ連合れんごうこく国家こっかとして承認しょうにんしないようもとめた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょ判例はんれい編纂へんさんかん

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1861ねん1がつ、ブキャナン大統領だいとうりょうはブラックを連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ指名しめいした。だがブラックは1861ねん2がつおこなわれた上院じょういん投票とうひょうで、共和党きょうわとうからのつよ反対はんたいけて承認しょうにん棄却ききゃくされた。ブラックはわりに連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょ判例はんれい編纂へんさんかん就任しゅうにんし、1861ねん辞任じにんするまで「ブラック・レポート」とばれる判例はんれいしゅう2かん編纂へんさんした。

晩年ばんねん弁護士べんごし活動かつどう

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ブラックは1861ねん判例はんれい編纂へんさんかん退しりぞいたのち、ペンシルベニアしゅうでの弁護士べんごしぎょう専念せんねんした。ブラックは連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょにおけるミリガン裁判さいばん (71 U.S. 2, 1866) において軍事ぐんじ統制とうせい違憲いけんせい主張しゅちょうした。またマッカードル裁判さいばん (74 U.S. 506, 1868) やブライウたい合衆国がっしゅうこく裁判さいばん (80 U.S. 581, 1871) において、陪審ばいしん裁判さいばん権利けんり主張しゅちょうした。

1883ねん8がつ19にち、ブラックはペンシルベニアしゅうヨークにおいて死去しきょした。ブラックの遺体いたいはヨーク市内しないプロスペクトヒル墓地ぼち埋葬まいそうされた。

関連かんれん図書としょ

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  • Black, C. F., Essays and Speeches of Jeremiah S. Black, with a Biographical Sketch, New York: 1885.

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
ジョン・ギブソン
ペンシルベニアしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょ首席しゅせき裁判官さいばんかん
1851ねん - 1855ねん
次代じだい
エリス・ルイス
先代せんだい
ケイレブ・クッシング
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく司法しほう長官ちょうかん
1857ねん3月6にち - 1860ねん12月16にち
次代じだい
エドウィン・スタントン
先代せんだい
ルイス・カス
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかん
1860ねん12月17にち - 1861ねん3月5にち
次代じだい
ウィリアム・スワード
先代せんだい
ベンジャミン・チュー・ハワード
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最高裁判所さいこうさいばんしょ判例はんれい編纂へんさんかん
1861ねん - 1862ねん
次代じだい
ジョン・ウィリアム・ウォリス