ジャンヌ・ダルク列聖れっせい

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ジャンヌ・ダルク列聖れっせい
殉教者じゅんきょうしゃ
生誕せいたん 1412ねんころ1がつ6にち
フランス王国おうこくドンレミ
死没しぼつ (1431-05-30) 1431ねん5月30にち(19さいぼつ
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこく占領せんりょう)、ルーアン
崇敬すうけいする教派きょうは カトリック教会きょうかい
れつぶく 1909ねん4がつ18にち
れつぶく場所ばしょ フランスの旗 フランス ノートルダムだい聖堂せいどう (パリ)
れつぶく決定けっていしゃ ピウス10せい
列聖れっせい 1920ねん5月16にち
列聖れっせい場所ばしょ バチカンの旗 バチカン サン・ピエトロだい聖堂せいどう
列聖れっせい決定けっていしゃ ベネディクトゥス15せい
記念きねん 5月30にち
守護しゅご対象たいしょう フランス殉教者じゅんきょうしゃ捕虜ほりょ軍人ぐんじん女性じょせい従軍じゅうぐんしゃなど[1]
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ジャンヌ・ダルク列聖れっせい英語えいご: Canonization of Joan of Arc)とは、1920ねん5月16にちジャンヌ・ダルク教皇きょうこうベネディクトゥス15せいにより(教皇きょうこう勅書ちょくしょ『ディヴィナ・ディスポネンテ』による)[2]カトリック教会きょうかい聖人せいじん列聖れっせいされたことをいう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1431ねん、ジャンヌ・ダルクはイングランド支持しじ聖職せいしょくしゃにより裁判さいばんにかけられ、異端いたんとして火刑かけいしょされたが、死後しご再審さいしんにより1456ねん復権ふっけん1869ねんに、フランスオルレアン司教しきょうフェリックス・デュパンルー英語えいごばんがジャンヌの列聖れっせい申請しんせいした[3]1909ねん4がつ18にちにローマ教皇きょうこうピウス10せいによりれつぶく。その、1920ねん5がつ16にち教皇きょうこうベネディクトゥス15せいにより列聖れっせいされる[4]。そして、フランスのカトリック教徒きょうととフランスのためにイングランドとたたかうことをかみによってめいじられたというはなし触発しょくはつされた兵士へいしたちの守護しゅご聖人せいじんとなる。おおくのフランス政権せいけんはジャンヌの崇敬すうけい奨励しょうれいし、フランスだいさん共和きょうわせい1905ねん政教せいきょう分離ぶんりまえ列聖れっせい嘆願たんがんしょ賛成さんせいしていた。

聖人せいじんへのみちのり[編集へんしゅう]

ジャンヌのと15世紀せいき[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう裁判所さいばんしょによって破門はもんされたか、調査ちょうさされたほか聖人せいじん同様どうように、(たとえばアレクサンドリアのアタナシオスアビラのテレサ十字架じゅうじかのヨハネ)ジャンヌは審問しんもん法廷ほうていによって審理しんりされた。ジャンヌの場合ばあいは、法廷ほうていはルーアンのヴィユ・マルシェ広場ひろばフランス語ふらんすごばん彼女かのじょ処刑しょけいいたって、イングランド(きたフランスを占領せんりょうしていた)によって影響えいきょうされていた。フランスが1449ねんにルーアンをもどしたとき、一連いちれん調査ちょうさ開始かいしされた。ジャンヌの生存せいぞんしている家族かぞくははイザベル・ロメ2人ふたりあにピエール・ダルクフランス語ふらんすごばんとジャン(オルレアンの包囲ほういせんでジャンヌとともたたかった[5])は、教皇きょうこうニコラウス5せいにジャンヌの事件じけん再審さいしん請願せいがんした。正式せいしきうったえは、教皇きょうこうカリストゥス3せい庇護ひごけ、ジャン・ブレアル異端いたん検察けんさつ総監そうかんによって、1455ねんおこなわれた。イザベルは、ノートルダムだい聖堂せいどう上告じょうこく事件じけん審理しんりする裁判さいばん開会かいかいしきねつのこもったうったえで彼女かのじょむすめ名誉めいよあきらかにすることをもとめる演説えんぜつした。ブレアル異端いたん検察けんさつ総監そうかん教会きょうかいほう違反いはんした法廷ほうていによって処刑しょけいされた殉教者じゅんきょうしゃとして記述きじゅつした事件じけん証拠しょうこをまとめ、1456ねん7がつ7にちにジャンヌのぜん判決はんけつ破棄はきされ、有罪ゆうざい判決はんけつ無効むこう宣言せんげんされた[6]。オルレアンは1432ねんから毎年まいとしジャンヌを記念きねんし、1435ねん以降いこうは、包囲ほうい解除かいじょ中心ちゅうしんとする宗教しゅうきょうてき演劇えんげきおこなった。その演劇えんげきは、ジャンヌが天使てんしみちびかれる神聖しんせい救済きゅうさいしゃとして表現ひょうげんされている。

うったえののちまもなく、教皇きょうこうピウス2せい回顧かいころくで、ジャンヌについて賛成さんせいしめ箇所かしょいている。

16世紀せいき[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう戦争せんそうあいだプロテスタント団体だんたいたたかうために組織そしきされたカトリック連盟れんめい象徴しょうちょうとしてジャンヌはもちいられた。 そして、匿名とくめい著者ちょしゃはジャンヌの伝記でんきあらわした。それは、1500ねんごろに「教皇きょうこうルイ12せい命令めいれいによって」編集へんしゅうされたとべた[7]

18世紀せいきおよび19世紀せいき[編集へんしゅう]

ジャンヌが君主くんしゅこく奉仕ほうしした敬虔けいけんなカトリック教徒きょうとであったので、ジャンヌの個人こじん崇敬すうけいはフランス革命かくめい指導しどうしゃたちによって反対はんたいされた。かれらはオルレアンの包囲ほういせん解放かいほう毎年まいとしいわうことを禁止きんしし、そして、けんとバナーをふくむジャンヌの遺物いぶつ破壊はかいされた。1571ねんにオルレアンの人々ひとびとによって建立こんりゅうされたジャンヌぞう(1568ねんにプロテスタントによって破壊はかいされたものをえた)は、かされて大砲たいほうとなった[8]

ナポレオンは、1803ねんつぎのようにしるしている。

「フランスの独立どくりつおびやかされるときは、すぐれた英雄えいゆうかなら奇跡きせきをもたらしてくれることを、あの有名ゆうめいなジャンヌ・ダルクは証明しょうめいしている。」 — 『奇跡きせき少女しょうじょジャンヌ・ダルク』 2ぺーじ

翌年よくねんの1804ねんにナポレオンは皇帝こうていとなるが、かれ自己じこ権威けんい正当せいとうするため、そしてフランス国民こくみん国粋こくすい主義しゅぎ高揚こうようさせるためにジャンヌを利用りようできると認識にんしきしていた[9]。ナポレオンは、オルレアンとしいち、「オルレアン包囲ほういせんからの解放かいほう」のいわうことをゆるし、オーギュスタン・デュプレに記念きねんコインを鋳造ちゅうぞうするようめいじた[10] [11]。そして、ジャン-アントワーヌ・シャプタルはオルレアン市長しちょう市議会しぎかいによる決議けつぎがエドム-フランソワ-エティエンヌ・ゴワによるジャンヌぞう建立こんりゅうすることを承認しょうにんしたと報告ほうこくした。

ゴワの作品さくひんは1855ねんにドフィーヌ広場ひろば移転いてんされ[12]、デニス・フォヤティエによるジャンヌぞうえられた[13]

最初さいしょ全編ぜんぺんのジャンヌの伝記でんきはニコラス・レンゲル・デュ・フレノワとクレマン・シャルル・フランソワーズ・デ・ラヴェルディとみとめられているが、すうにんのイングランドの著者ちょしゃ皮肉ひにくなことに彼女かのじょ列聖れっせいつながるうごきをこした。ハーバード大学だいがく英文えいぶん学科がっかのハーシェル・ベイカー教授きょうじゅは、リバーサイド・シェイクスピア英語えいごばんはん『ヘンリーろくせい』への序文じょぶんで、つぎのことを注記ちゅうきしている。すなわち、いかにウィリアム・ウォーバートン英語えいごばんが『ヘンリーろくせい だい1』におけるジャンヌの描写びょうしゃ衝撃しょうげきけたか、そして、エドモンド・マローンが、「『ヘンリーろくせい』のみっつのしょうについての論文ろんぶん」のなかで、シェイクスピアが作品さくひん関与かんよしていないことを証明しょうめいしようとしたということである。(1974; p.587)。チャールズ・ラムは、サミュエル・テイラー・コールリッジが、『The Destiny of Nations』の初稿しょこうで、ジャンヌを酒飲さけのみに給仕きゅうじする「ポットガール」(pot-girl)に改変かいへんし、おとしめたことを非難ひなんした(『The Destiny of Nations』は元々もともとロバート・サウジー叙事詩じょじし『ジャンヌ・ダルク』の一部いちぶであった)。ジャンヌはマホンきょうによる「クォータリー・レビュー」のための[14]、そして、トマス・ド・クインシーによる「タイトズ・エジンバラ・マガジン英語えいごばん」のための[15]エッセイの主題しゅだいとなった。

1890ねん、イギリスで設立せつりつされたジャンヌ・ダルク教会きょうかい英語えいごばんは、ジャンヌにささげられている。

ジャンヌが大衆たいしゅう文化ぶんかなかによりふか浸透しんとうするようになると、フランス政府せいふエマニュエル・フレミエに、(1870ねんから1914ねんまでくに唯一ゆいいつ公共こうきょう委員いいんかいしゅう唯一ゆいいつ公共こうきょう委員いいんかいである) ピラミッド広場ひろばにジャンヌのぞうてるよう依頼いらいした。歴史れきしのジュール・キシュラの著作ちょさく(ラテン語らてんご)である2つの裁判さいばん記録きろく(1841-1849)は、列聖れっせい運動うんどう影響えいきょうあたえた[3]

1869ねんに、ジャンヌがオルレアンの包囲ほうい解放かいほうした440周年しゅうねん記念きねんして、オルレアンの司教しきょうフェリックス・デュパンルーは、オルレアンへの経路けいろあいだにジャンヌがはいったり解放かいほうしたまちふく司教しきょうたちを招待しょうたいした[16]。アンリ-アレクサンドル・ワロン[17]支援しえんけて、デュパンルー司教しきょうは、教皇きょうこうレオ13せいに、ジャンヌが正式せいしき列聖れっせいされるための請願せいがんしょ出席しゅっせきしている高官こうかんによって署名しょめいされる)を提出ていしゅつした[18]。だが、ひろしふつ戦争せんそうさらなる行動こうどう延期えんきされる。

宣誓せんせい証言しょうげんは1874ねん収集しゅうしゅうされはじめ、ルイジ・ビリオ枢機卿すうききょうが1876ねんった。デュパンルーの後継こうけいしゃであるピエール-ヘクター・コウリエ司教しきょうは、ジャンヌの裁判さいばん復権ふっけんからジャンヌのおこないと証言しょうげん認証にんしょうするための尋問じんもん指示しじした。1894ねん1がつ27にち、ローマ教皇きょうこうちょう(ベネデット・アロイシ-マセッラ枢機卿すうききょう, アンジェロ・ビアンキ、ブノワ-マリー・ランジュ、 ルイージ・マッキー、カミッロ・マゼッラ、ポール・メルシャーズ、 マリオ・モシェニ、ルシード・パロッチ、フルコ・ルイジ・ラッフォ-シッラ、そしてイシドロ・ヴェルガ)の、レオ13せいがその午後ごご署名しょめいした「Commissio Introductionis Causæ Servæ Dei Joannæ d'Arc」への投票とうひょう満場一致まんじょういっちとなった[19] [20] [21]

20世紀せいき[編集へんしゅう]

だが、聖人せいじんへのみち順調じゅんちょうすすまなかった。1902ねん8がつ20日はつか教会きょうかい会議かいぎ(ローマ教皇きょうこうによる枢機卿すうききょう正式せいしき会議かいぎ英語えいごばん)は聖人せいじんれきにジャンヌをくわえることを拒否きょひした。

「ジャンヌはパリ包囲ほういせん聖母せいぼマリア誕生たんじょう開始かいしした。彼女かのじょ捕縛ほばくは、「彼女かのじょかみからおくられたという彼女かのじょ主張しゅちょう虚偽きょぎだった」という「証明しょうめい」である。彼女かのじょろうから脱出だっしゅつしようとした。おびやかされたのち彼女かのじょ悔悛かいしゅん。そして、彼女かのじょ潔白けっぱくたいするうたがい。」 — [22][23]

1903ねん11月17にち、ローマ教皇きょうこうちょうは、教皇きょうこうピウス10せい命令めいれいでジャンヌの根拠こんきょ議論ぎろんするために会合かいごうする[24][25]。ジャンヌの英雄えいゆうてき美徳びとく宣言せんげんするきょうれいはセラフィーノ・クレトニ枢機卿すうききょうによって1904ねん1がつ6にち発表はっぴょうされ[26]、ピウス10せいは1がつ8にちにジャンヌを「尊者そんじゃ」と宣言せんげんした[27]。 3つの奇跡きせききょうれいは1908ねん12月13にち発表はっぴょうされ、5にち、1909ねん1がつ24にちにローマ教皇きょうこうちょうによって正式せいしきれつぶくきょうれいげられた[28][29]

れつぶくしきは1909ねん4がつ18にちおこなわれ、セバスティアーノ・マルティネッリ枢機卿すうききょうとマリアーノ・ランポッラガが主宰しゅさいした。スタニスラス・トゥシェ司教しきょうミサおこなった。枢機卿すうききょうセラフィーノ・ヴァンヌテッリ、 ピエール・アンドリュー、ルイス・ルソン、コージェ、ジローラモ・マリア・ゴッティ、ホセ・カラザック・ヴィーヴ・イ・トゥト、当時とうじ高位こうい聖職せいしょくしゃの ラファエル・メリー・デル・ヴァル[30]、ジョン・パトリック・ファレル司教しきょう、トーマス・ケネディ司教しきょう高位こうい聖職せいしょくしゃのロバート・セトン、マルタ騎士きしだんのトリブヌスの一員いちいんである伯爵はくしゃくジュリオ・ポーロ-ランバンテンギ (ルイージ・ポーロ・ランバンテムのまご)、公爵こうしゃくアレンソンとヴァンドームこう当時とうじ大司教だいしきょうであるウィリアム・ヘンリー・オコネル[31]、そして、ノーフォークこう[32]出席しゅっせきした。その式典しきてん正統せいとう王朝おうちょう主義しゅぎしゃによってフランスだいさん共和きょうわせい攻撃こうげきするために使つかわれることはないと決定けっていしたピウス10せい[33]午後ごごに70にんのフランスの高位こうい聖職せいしょくしゃがわせい遺物いぶつ崇敬すうけいした[34]

ジャンヌ・ダルク列聖れっせいしき(1920ねん5がつ16にち)

ジャンヌのれつぶくは、フランスの鋳造ちゅうぞうされた硬貨こうか記念きねんメダイの作成さくせい容易よういにするジャンフィア転写てんしゃ彫刻ちょうこく(ダイ彫刻ちょうこくパンタグラフともばれる)の発明はつめいとほぼ一致いっちした。この発明はつめいは、すで確立かくりつされたフランスの彫刻ちょうこく伝統でんとうとともに、ジャンヌのれつぶくあらたな要素ようそ追加ついかした。ジャンヌの人生じんせいからの場面ばめんおもとしたセットのよくつくられた宗教しゅうきょう芸術げいじゅつのメダイである。

1911ねんには、エドモンド・リッチャーの初期しょきのジャンヌ・ダルク時代じだい歴史れきしである1625ねんから1630ねんにかけてかれたオルレアンの乙女おとめ物語ものがたりは、1911ねんにアンリとジュール・デスクレエによって2かん出版しゅっぱんされた[35]

だいいち世界せかい大戦たいせんちゅう、フランスぐんはジャンヌの肖像しょうぞう戦場せんじょうんだ。ある戦闘せんとうちゅうに、かれらはていくも投射とうしゃされたドイツぐんのサーチライトのかたちをジャンヌの出現しゅつげん解釈かいしゃくし、かれらの士気しき大幅おおはば強化きょうかした[36]

ジャンヌの列聖れっせいしきは1920ねん5がつ16にちおこなわれ、ジャンヌの家族かぞく子孫しそん140にんふくむ60,000にん以上いじょう出席しゅっせきした。 ヴァンドーム、マルタ騎士きしだんのランバンギ、現在げんざい司教しきょうオコネル、ガブリエル・ハノトウ、ジナイダ・ユスポヴァおおやけおんなイリナ・アレクサンドロヴナおおやけおんなフョードル・アレクサンドロヴィチ皇太子こうたいしミゲル2せい・デ・ブラガンサおおやけ、サリス・ソグリオ伯爵はくしゃく、ラファエル・ヴァレンティン・エラズリーツ、ディエゴ・ヴォン・ベルゲン、ジョン・パトリック・キャロル司教しきょう、エドワード・ジョセフ・ハンナ大司教だいしきょう、ダニエル・メアリー・ゴーマン司教しきょう、ローマのアメリカンカレッジの学生がくせい自治じちかいのポール・ジョセフ・ナスバウム司教しきょうサン・ピエトロだい聖堂せいどうはいり、儀式ぎしき主宰しゅさいした教皇きょうこうベネディクトゥス15せい歓迎かんげいした現在げんざい枢機卿すうききょうメリー・デル・ヴァル、といった高位こうい人々ひとびとふくまれる。ジャンヌの列聖れっせいをもたらす教皇きょうこうベネディクトゥス15せい教皇きょうこう勅書ちょくしょは、同日どうじつづけの『ディヴィナ・ディスポネンテ』である[2]。およそ10まんにん人々ひとびとが、ロンドンのウェストミンスターだい聖堂せいどうとフランスの教会きょうかいいわった[37][38][39][40][41]

1920ねん5がつ18にちのル・マティンでは、もと大統領だいとうりょうのレイモンド・ポアンカレは、ジャンヌの列聖れっせいについて、つぎのようにしるしている。

マーケット大学だいがく英語えいごばんひじりジャンヌ・ダルク礼拝れいはいどう英語えいごばん。(フランスより移築いちく)
「ジャンヌ・ダルクの記憶きおく神聖しんせいさを永遠えいえんむすびつける彼女かのじょ使命しめい最後さいご部分ぶぶんたしている。そして、わたしたち(かつての仇敵きゅうてきイングランドとフランス)はジャンヌの精神せいしん人類じんるい利益りえきのために団結だんけつつづけよう。」 — [42]

ジャンヌ・ダルクの記念きねんは5月30にちである[43]。ジャンヌの祝祭日しゅくさいじつは、とくにフランスのおおくの地方ちほうおよび地域ちいき教会きょうかいいわわれている。列聖れっせい以来いらい、10ねんあいだ世界中せかいじゅうおおくのカトリック教会きょうかいにジャンヌ・ダルクの名前なまえけられている。ジャンヌはカトリック教徒きょうと崇敬すうけいされ人気にんきたかく、とくにフランスでは、愛国心あいこくしんナショナリズム、カトリックの信仰しんこうという要素ようそによって民族みんぞくほこりと象徴しょうちょうとなっている[44]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ http://www.catholic.org/saints/saint.php?saint_id=295
  2. ^ a b Pope Benedict XV, Divina Disponente (Latin), 16 May 1920, http://w2.vatican.va/content/benedict-xv/la/bulls/documents/hf_ben-xv_bulls_19200516_divina-disponente.html.
  3. ^ a b ペルヌー 2016, p. 121.
  4. ^ St. Joan of Arc Catholic Encyclopedia
  5. ^ ペルヌー 2016, p. 47.
  6. ^ Pernoud, Regine. "Joan of Arc by Herself and Her Witnesses". Scarborough House, 1994; pp 268-269.
  7. ^ The First Biography of Joan of Arc: Translated and Annotated by Daniel Rankin and Claire Quintal University of Pittsburgh Press (1964) Google Books 2 April 2017
  8. ^ "The Maid of Orléans" by Andrew Lang The English Illustrated Magazine Vol. 16 (October 1896-March 1897), pps. 315-320 Google Books March 25, 2017
  9. ^ ペルヌー 2016, p. 2.
  10. ^ "1803 France - Napoleon - The Monument of Joan of Arc by Augustin Dupré" VHobbies.com 25 March 2017
  11. ^ "Monuments" Memoirs of Jeanne d'Arc, Vol. 2; J. Moyes, London (1824), p. cclxxvi Google Books March 25, 2017
  12. ^ "Orleans: Jeanne d'Arc guerrière" vanderkrogt.net March 25, 2017
  13. ^ "Orleans: Jeanne d'Arc" vanderkrogt.net March 25, 2017
  14. ^ Joan of Arc: Reprinted From Lord Mahon's Historical Essays John Murray (1853) Google Books January 20, 2017
  15. ^ "Selections" English Classic Series #69; Maynard, Merrill & Co. (1892), pps. 9-41 Google Books January 20, 2017
  16. ^ "The Festival of Joan of Arc at Orleans" Evangelical Christendom Evangelical Alliance (June 1, 1869) Vol X; pps. 206-207 Google Books November 29, 2017
  17. ^ "Joan of Arc" The Past in French History by Robert Gildea (1994) Yale University Press p. 156; Google Books November 27, 2017
  18. ^ "Joan the Saint" The Maid of Orleans: The Life and Mysticism of Joan of Arc by Sven Stolpe (1956) Pantheon Books; reprint (2014) Ignatius Press; p. 269 Google Books November 27, 2017
  19. ^ "The Beatification of Joan of Arc" The Literary Digest (March 1, 1894) Vol. VIII; No. 18, pps. 22-23 Google Books March 27, 2017
  20. ^ The Saints: Joan of Arc by Louis Petit de Julleville (1901) Duckworth & Co. pps. 185-191 Google Books February 24, 2017
  21. ^ "Appendix: D. The Proposed Canonization of Joan of Arc" Joan of Arc by Francis Cabot Lowell (1896) Houghton Mifflin Company pps. 372-373 Google Books December 6, 2016
  22. ^ "Was Not Made a Saint: Why Consistory Refused to Canonize Joan of Arc" Indianapolis Journal (7 September 1902), p. 12 newspapers.library.in.gov 25 March 2017
  23. ^ "Joan of Arc Not to be Canonized" Harper's Weekly (11 April 1903) Vol. XLVII; No. 2416, p. 610 Google Books 25 March 2017
  24. ^ "Editorial Notes" The Sacred Heart Review Boston College (3 October 1903) Vol. 30; No. 14, p. 5 newspapers.bc.edu 26 March 2017
  25. ^ "Notes" The Tablet (28 November 1903) Vol. 102; No. 3316, p. 845 Google Books 26 March 2017
  26. ^ "Joan of Arc - Her Heroic Virtue: Text of the Decree" The Tablet (16 January 1904) Vol. 103; No. 3323, pp. 88-89 Google Books 26 March 2017
  27. ^ Life of His Holiness Pope Pius X by Josef Schmidlin and Anton de Waal (1904) Benziger Brothers, p. 392 Google Books 26 March 2017
  28. ^ "The Blessed Joan of Arc" by Bishop Thomas James Conaty The West Coast Magazine Vol. 7; No. 6. (March 1910), pps. 737-745 Google Books 25 March 2017
  29. ^ "Blessed Joan of Arc. Reading of the Decree of the French Heroine" Montreal Gazette (19 December 1908), p. 14 Google News Archive 3 August 2016
  30. ^ "The Spectator" The Outlook (3 July 1909) Vol. 92, pps. 548-550 Google Books 19 May 2016
  31. ^ "Pilgrims Honor Maid of Orleans" The Daily Republican (19 April 1909), p. 2 Google News Archive 24 February 2017
  32. ^ "The Beatification of Joan of Arc" The Age (20 April 1909) via The Kilmore Free Press (24 June 1909) p. 1 Trove 24 February 2017
  33. ^ "The Beatification of Joan of Arc" Current Literature vol. XLVI no. 6 (June 1909) pps. 601-603 Google Books 21 June 2017
  34. ^ "The Maid of Orleans: Joan of Arc Beatified and The Pope Venerates the Relics" Montreal Gazette (19 April 1909), p. 4 Google News Archive 18 October 2016
  35. ^ "Edmond Richer (1560-1631)" Post-Reformation Digital Library. Retrieved 15 September 2017
  36. ^ The Maid of Orléans:The Story of Joan of Arc Told to American Soldiers by Charles Saroléa, Georges Crès & Cie (1918)
  37. ^ "Maid of Orleans is Made a Saint" The Toronto World (17 May 1920), p. 11 Google News Archive 19 May 2016
  38. ^ "Joan of Arc is Decalred Saint in Ceremony by Church at Rome" The Bakersfield Californian (17 May 1920), p. 2 Google News Archive 19 May 2016
  39. ^ "Impressive Ceremonies Used in Canonizing Joan of Arc" The Deseret News (17 May 1920), p. 8 Google News Archive 19 May 2016
  40. ^ "Joan of Arc is Exalted by Pope" Telegraph-Herald (17 May 1920), pps. 1,8 Google News Archive 21 May 2016
  41. ^ "Remarkable Scene: 100,000 Watched Great War Pageant in London" Montreal Gazette (17 May 1920), p. 1 Google News Archive 22 May 2016
  42. ^ "Mission is Fulfilled: Spirit of Joan of Arc Unites Britain and France" Edwin L. James Montreal Gazette (17 May 1920), p. 1 Google News Archive 22 May 2016
  43. ^ 5月30にち ひじりジャンヌ・ダルクおとめ 女子じょしパウロかい公式こうしきサイト Laudate
  44. ^ ペルヌー 2016, p. 1.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • レジーヌ・ペルヌー、塚本つかもと哲也てつや監修かんしゅう ちょ遠藤えんどうゆかり やく奇跡きせき少女しょうじょジャンヌ・ダルク』そうもとしゃ、2016ねん6がつ20日はつかISBN 978-4-422-21162-6