ジャン・ビュリダン

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ビュリダンの著書ちょしょ"Expositio et quaestiones"(1362ねん?)

ジャン・ビュリダン(Jean Buridan、1295ねんごろ - 1358ねん)はフランスの司祭しさいで、ヨーロッパにおける科学かがく革命かくめい火付ひつやく一人ひとりである。中世ちゅうせい後期こうき代表だいひょうする哲学てつがくしゃ一人ひとりであり、今日きょうではむしろ哲学てつがくしゃとして記憶きおくされている。かれは「インペトゥス」("Impetus")理論りろん展開てんかいし、現代げんだいてき慣性かんせい概念がいねんせまった。ラテン語らてんごヨハンネス・ブリダヌス(Johannes Buridanus)。よくられた思考しこう実験じっけんビュリダンのロバ[ちゅう 1]かれ由来ゆらいする(ただしかれ現存げんそんする著作ちょさくに、この思考しこう実験じっけん言及げんきゅうしたものはない)。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

生地きじは、げんパ=ド=カレーけん(フランスさい北部ほくぶ)の都市としベテューヌBéthune)とするせつ有力ゆうりょくである。パリ大学だいがくまなび、その同校どうこう教鞭きょうべんる。恋愛れんあいがらみの事件じけん冒険ぼうけんだんがいくつもつたえられている。いちれいげると、ビュリダンはあさぶくろめられてセーヌがわほうまれるけいしょせられたが、いち学生がくせい機転きてんによりすくわれたとのことである。フランソワ・ヴィヨン有名ゆうめい"Ballade des Dames du Temps Jadis"のなかでこの逸話いつわ言及げんきゅうしている。またビュリダンは研究けんきゅう資金しきん獲得かくとく異常いじょう才能さいのうしめしたという。

哲学てつがくてるもの典型てんけいからはずれて、かれ神学しんがく博士はかせごう取得しゅとく熱心ねっしんでなく、人文じんぶん学科がっかおおくの時間じかん使つかった。また修道しゅうどうかいくわわらず教区きょうく聖職せいしょくしゃまることに傾注けいちゅうし、それにより知的ちてき独立どくりつたもった。1340ねんまでには、先輩せんぱいかく哲学てつがくしゃオッカムのウィリアムわたえるだけの地位ちい確立かくりつした。かれ運動うんどう理論りろん懐疑かいぎ主義しゅぎ科学かがく革命かくめい夜明よあけであり、ガリレオ・ガリレイ研究けんきゅう露払つゆはらてき意義いぎがあったと今日きょうでは評価ひょうかされている。ビュリダンはまた複数ふくすうパラドックスうそつきのパラドックスなど)のただしい解釈かいしゃくのこしている。1358ねん、パリでぼつ[1]。その、オッカム運動うんどうによってビュリダンの著作ちょさくは1474ねんから81ねんあいだ禁書きんしょ目録もくろく』にリストアップされた。

ビュリダンの弟子でしなかでは、論理ろんり学者がくしゃとなったザクセンのアルベルト (Albert of Saxony, 1316-1390) がもっと著名ちょめいである(かれ運動うんどうについて考察こうさつおこなっている[2])。

インペトゥスろん[編集へんしゅう]

慣性かんせい概念がいねんアリストテレス運動うんどうろんとは異質いしつである。アリストテレスならびに逍遙しょうよう学派がくは後継こうけいしゃたちは、物体ぶったい運動うんどうは、外部がいぶからちから継続けいぞくてきくわえられる場合ばあいにのみ持続じぞくするとかんがえた。つまり、アリストテレスの見解けんかい今日きょう知見ちけんからすると完全かんぜん間違まちがいである)によると投射とうしゃたい周囲しゅうい空気くうきからちからくわえられるために運動うんどうつづけるのであり、普通ふつう物体ぶったい運動うんどうがすぐに停止ていしするのは近接きんせつりょくはたらかないためである。

ジャン・ビュリダンはピロポノス(Philoponus)の注釈ちゅうしゃくイブン・スィーナー(アウィケンナ)の著作ちょさくもとづき、物体ぶったいはそれ自体じたいゆうするなんらかのりょう運動うんどうはじめにあたえられたりょう)によって運動うんどうつづけるのだと主張しゅちょうした。ビュリダンはそのりょうを"impetus"「インペトゥス」(「駆動くどうりょく[1]などの訳語やくごあり)とんだ。さらに、かれはインペトゥスが自然しぜん散逸さんいつするというかんがえを否定ひていし、物体ぶったい空気くうき抵抗ていこうおよび重力じゅうりょくによってめられるのだと断言だんげんした。これは従来じゅうらい理論りろんとはまったぎゃくである。ビュリダンは、物体ぶったいつインペトゥスは、物体ぶったい運動うんどうはじめたときはやさ(初速しょそく)および物体ぶったい構成こうせいする物質ぶっしつりょう質量しつりょう)とせい相関そうかん関係かんけいつとかんがえた。ビュリダンのうところのインペトゥスが、現代げんだいてき運動うんどうりょう概念がいねんちかいことは明白めいはくである。かれはインペトゥスを物体ぶったい運動うんどう原因げんいんなした。

ビュリダンはインペトゥスろんにより、投射とうしゃたい運動うんどうを(定性的ていせいてきながら)正確せいかく説明せつめいした。しかしかれにとってこの理論りろんはあくまでアリストテレスにたいするひとつの修正しゅうせいぎず、「運動うんどう」と「静止せいし」を質的しつてきまった別物べつものなすアリストテレスてき逍遙しょうよう学派がくはてき)な基本きほん理念りねんるいでいなかった。

なおインペトゥスろん直線ちょくせん運動うんどうもの運動うんどうだけではなく、天体てんたい円運動えんうんどう説明せつめいするためにも使つかわれた(ビュリダンの力学りきがくてき知見ちけん天文学てんもんがく適用てきようした人物じんぶつ代表だいひょうとして、天文学てんもんがくしゃニコル・オレームげられる[2])。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Alexander Hellemans, Bryan H. Bunch共著きょうちょ植村うえむら美佐子みさこほかやく『MARUZEN 科学かがく年表ねんぴょう - の5000ねん - 』丸善まるぜん、1993ねん
  2. ^ a b S・メイスン『科学かがく歴史れきしうえ)』(岩波書店いわなみしょてん、1955ねん初版しょはん)127ページ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ふたつのまったひとしいわらやまをロバからまった等距離とうきょりくと、ロバはどちらをえらぶかめかねて飢死うえじにしてしまう、という思考しこう実験じっけん

推薦すいせん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • Michael, Bernd (1985) Johannes Buridan: Studien zu seinem Leben, seinen Werken und zu Rezeption seiner Theorien im Europa des späten Mittelalters. 2 Vols. Doctoral dissertation, University of Berlin.
  • Thijssen, J. M. M. H., and Jack Zupko (ed.) (2001) The Metaphysics and Natural Philosophy of John Buridan. Leiden: Brill.
  • Landi, M., Un contributo allo studio della scienza nel Medio Evo. Il trattato Il cielo e il mondo di Giovanni Buridano e un confronto con alcune posizioni di Tommaso d'Aquino, in Divus Thomas 110/2 (2007) 151-185
  • Zupko, Jack (2003) John Buridan. Portrait of a Fourteenth-Century Arts Master. Notre Dame, Indiana: University of Notre Dame Press. (cf. pp. 258, 400n71)
  • 大野おおのようろう監修かんしゅう)、高村たかむら泰雄やすお藤井ふじい寛治かんじ須藤すとう喜久男きくおへん)『異端いたん科学かがく - 近代きんだい科学かがく源流げんりゅう物理ぶつりがくへん別巻べっかん自然しぜん科学かがく原典げんてんシリーズ)』北海道大学ほっかいどうだいがく図書としょ刊行かんこうかい、1979ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]