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ジャン・ピエール・ボワイエ

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ジャン・ピエール・ボワイエ
Jean Pierre Boyer


ハイチ共和きょうわこく
だい2だい 大統領だいとうりょう
任期にんき 1806ねん10月17にち1818ねん3月30にち

出生しゅっしょう 1776ねん2がつ15にち
フランス王国おうこく
サン=ドマングポルトープランス
死去しきょ 1850ねん7がつ9にち (73さいぼつ)
フランスの旗 フランス共和きょうわこくパリ

ジャン・ピエール・ボワイエJean Pierre Boyer, おそらく1776ねん2がつ15にち - 1850ねん7がつ9にち)は、ハイチ軍人ぐんじんハイチ共和きょうわこく大統領だいとうりょう (1822ねん - 1843ねん)。

生涯しょうがい

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ボワイエはプロヴァンスひとちちギニア出身しゅっしんはは自由じゆうムラートとしてポルトープランスまれ、ちち影響えいきょうフランス士官しかん学校がっこう教育きょういくけた。そのフランス共和きょうわ国軍こくぐんくわわり、短期間たんきかん大隊だいたい指揮しきかん昇格しょうかくした。いでかれはフランスの代表だいひょうくわわり、白人はくじんおう党派とうはたいするたたかいにくわわるためにサン=ドマングもどった。この直後ちょくごにサン=ドマングはイギリスぐん侵攻しんこうけた。そしてジャクメルアンドレ・リゴー将軍しょうぐんひきいる部隊ぶたい参加さんかした[1]。リゴーらぜんムラートぐん南部なんぶトゥーサン・ルヴェルチュールたいたたかやぶれ、ボワイエはあらたな友人ゆうじんリゴーらとフランスへのがれた。

途中とちゅうボワイエは生涯しょうがいいちだけ米国べいこく立寄たちよったが、いつもそのときのことをありありとおもかべた[1]米国べいこく滞在たいざいクエーカーとその慈善じぜんてきかたれ、ふか感銘かんめいけた。べいふつ危機ききるとボワイエはフランスへわたり、1801ねんまでパリごした。このあいだにフランスがムラートの権利けんりうばい、サン=ドマングで奴隷どれいせい再開さいかいするつもりであったことはおおいようもなかった。ボワイエらは1802ねんルクレール帰還きかんした。ボワイエはして見守みまもってはいなかった。アレクサンドル・ペションらにくわわり、ムラートと黒人こくじん連合れんごうがフランスの支配しはいわらせた[1]

独立どくりつ賠償ばいしょう

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ハイチは1804ねん独立どくりつジャン=ジャック・デサリーヌ皇帝こうていとなるが1806ねんたおされ、アンリ・クリストフ支配しはいする北部ほくぶハイチ王国おうこくとペションの支配しはいする南部なんぶのハイチ共和きょうわこくとにかれた。クリストフが自殺じさつするとペションの後継こうけいしゃとなっていたボワイエはハイチ王国おうこく併合へいごうした。1821ねんサントドミンゴスペインから独立どくりつすると侵攻しんこうして1822ねん2がつにこれも併合へいごうした。ボワイエは1843ねんにエリート支配しはいそう支持しじうしなって追放ついほうされるまでイスパニョーラとう全島ぜんとう支配しはいした[2]

ボワイエはフランスの脅威きょうい国際こくさいてきのぞくことをねがって交渉こうしょうはじめた。14せきのフランスの軍艦ぐんかんがポルトープランスおき停泊ていはくするなかで、1825ねん7がつ11にち合意ごういむすばれ、ボワイエは賠償ばいしょう署名しょめいした。そこで5ねん以内いないに1おく5000まんフラン支払しはら見返みかえりとして、フランスがハイチを独立どくりつこくみとめると宣言せんげんした。この金額きんがくはボワイエの交渉こうしょうすえ1838ねんに9000まんフランに減額げんがくされたものの、ハイチ経済けいざい壊滅かいめつてき打撃だげきとなり、残酷ざんこくにもボワイエは賠償ばいしょう最初さいしょぶん支払しはらうためのフランスからの3000まんフランの借入かりいれ交渉こうしょういられた。

ハイチの人々ひとびと自給じきゅうてき農業のうぎょう移行いこうしていたが、このためにボワイエははん封建ほうけんてき小作こさく農業のうぎょう強制きょうせいすることになった。ハイチの人々ひとびとはこの状況じょうきょう気分きぶんそこね、かれらをなだめるためにボワイエは最初さいしょ革命かくめいこころみられて放棄ほうきされた土地とち分配ぶんぱい計画けいかく復活ふっかつさせた。おおきなプランテーション細分さいぶんされ、土地とち分配ぶんぱいされて、地方ちほう住民じゅうみんにはかれらのしょう自作農じさくのうおうじた生産せいさん割当わりあてがあたえられた。ボワイエ政権せいけんは1843ねんまでこたえたが、ひどい経済けいざい状況じょうきょう地震じしんによってさらに悪化あっかし、めぐまれない地方ちほう住民じゅうみんが1がつまつシャルル・リヴィエル=エラールした蜂起ほうきした。2がつ13にちボワイエはハイチからジャマイカのがれ、フランスに亡命ぼうめいしパリでくなった。

ボワイエの子孫しそん今日きょう困窮こんきゅうしたハイチで生活せいかつしている。

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ a b c Baur, John Edward (1947). The Journal of Negro History. Association for the Study of African-American Life and History, Inc.. pp. pp 307-353 
  2. ^ Rogozinski, Jan (1999). A Brief History of the Caribbean (Revised ed.). New York: Facts on File Inc.. pp. pp 218-220. ISBN 0-8160-3811-2 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Baur, John Edward, “Mulatto Machiavelli, Jean Pierre Boyer, and the Haiti of His Day”, The Journal of Negro History, Vol. 32, No. 3, (July, 1947).
  • Boyer, Jean Pierre and Loring Dewey, Society for Promoting the Emigration of Free Persons of Colour to Hayti (Mayday, 1824).
  • Brown, Gordon S., Toussaint’s Clause: The Founding Fathers of the Haitian Revolution (Mississippi: University Press of Mississippi, 2005).
  • Leger, Jacques Nicolas, Haiti, Her History and Her Detractors (New York: The Neale Publishing Company, 1907).
  • Miller, Floyd J., The Search for Black Nationality: Black Emigration and Colonization 1787-1863 (Chicago: University of Illinois Press, 1975).
  • Shick, Tom. W, Contemporary Sociology 11/1/76, Vol. 5 Issue 6, p798-799, 2p.
  • Staudenraus, P.J., The African Colonization Movement 1816-1865 (New York: Columbia University Press, 1961).

外部がいぶリンク

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先代せんだい
アレクサンドル・ペション
ハイチ大統領だいとうりょう
ハイチ共和きょうわこく大統領だいとうりょう
1822ねん - 1843ねん
次代じだい
シャルル・リヴィエル=エラール
ハイチ大統領だいとうりょう