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ジョシュア・ノートン - Wikipedia コンテンツにスキップ

ジョシュア・ノートン

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ジョシュア・ノートン
Joshua Norton
合衆国がっしゅうこく皇帝こうてい」の礼服れいふくにまとうノートン1せい
生誕せいたん 1818ねん2がつ4にち
イギリスの旗 イギリス
死没しぼつ (1880-01-08) 1880ねん1がつ8にち(61さいぼつ
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカリフォルニアしゅうサンフランシスコ
別名べつめい 合衆国がっしゅうこく皇帝こうていノートン1せい
Imperial Majesty Emperor Norton I)
メキシコの保護ほごしゃ
(Protector of Mexico)
職業しょくぎょう 帝位ていい僭称せんしょうしゃ自称じしょう皇帝こうてい
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ジョシュア・エイブラハム・ノートン(Joshua Abraham Norton、1818ねん2がつ4にち - 1880ねん1がつ8にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく帝位ていい僭称せんしょうしゃ

19世紀せいきのアメリカにおいて「合衆国がっしゅうこく皇帝こうてい」(Emperor of The United States of America)を自称じしょうした[1]さらには当時とうじアメリカと敵対てきたい状態じょうたいにあったメキシコ保護ほごしゃとして帝位ていい請求せいきゅうおこなった[2]

概要がいよう

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イギリスまれのイングランドじんで、みなみアフリカ幼少ようしょうごした資産しさん子息しそくであった。1845ねん後半こうはんケープタウンはなれ、リヴァプール経由けいゆしてよく1846ねん3がつボストンにたどりいた[3]。 その、1849ねんにサンフランシスコに邸宅ていたく購入こうにゅうしてうつみ、父親ちちおやからいだ遺産いさん4まんドルを運用うんようしていちざいつくった。成功せいこうした実業じつぎょうとして裕福ゆうふく生活せいかつおくっていたが、ペルーべい投機とうき失敗しっぱいして破産はさんしたことを契機けいき正気しょうきうしなったとされている[4]

かれ行為こうい打算ださん野心やしんではなく、狂気きょうきおちいったことによるものだとかんがえられるが[5]かれ皇帝こうていとして要求ようきゅうした内容ないよう温和おんわなものであり、実際じっさい先進せんしんてき価値かちのある発想はっそうおおふくまれていた。とくに、サンフランシスコにかかる大橋おおはしとトンネルの建設けんせつというアイデアはのち実現じつげんされている(サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジトランスベイ・チューブ[6]

当時とうじまったくの無名むめい前歴ぜんれき不明ふめいであった人物じんぶつ大胆だいたん帝位ていい請求せいきゅう真剣しんけんにこそられなかったが、次第しだいサンフランシスコ市民しみんたちのあいだられた存在そんざいとなっていった。おおくのひと君主くんしゅせいには賛同さんどうしなかったが「皇帝こうていみことのりれい」にしたしみ、温和おんわ平和へいわてき人格じんかくから市民しみんにとってあいすべき著名ちょめいじんとして敬愛けいあいされた。晩年ばんねんには本当ほんとうにノートンが王族おうぞく落胤らくいん末裔まつえいなのではないかとかんがえるものもあらわれるほどで、市民しみんによる葬儀そうぎには3まんにん群集ぐんしゅうめかけた[7]

青少年せいしょうねん

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ノートンの出生しゅっしょうはイングランドであるということ以外いがい明確めいかく証明しょうめいたない。さまざまな論者ろんしゃがテルフォードなどかれ出身しゅっしんかんがえられる場所ばしょ言及げんきゅうしているが、資料しりょうによってことなる見解けんかいしめされている。同様どうよう生年月日せいねんがっぴ明確めいかく記録きろくはなく、サンフランシスコの新聞しんぶんサンフランシスコ・クロニクル』に掲載けいさいされたかれ追悼ついとうぶんでは「かれ生年せいねんかんするもっとたよりになる情報じょうほうは、かんいていたぎんのプレートにおよそ65さいぼつきざまれていたことのみである」としている[8]。その場合ばあいかれは1814ねんまれということになるが、1819ねん2がつ4にちにロンドンでまれたとする記録きろくのこっている[9]

幼少ようしょうみなみアフリカのイギリス植民しょくみんごしたことは先述せんじゅつしたが、移住いじゅう滞在たいざい許可きょかしょうには1818ねんまれとかれている[10]。またこの登録とうろくによればちちはジョン・ノートン、はははサラ・ノートンと記録きろくされている[11]。サラは裕福ゆうふくなユダヤ商人しょうにんエイブラハム・ノーデンのむすめであった[9]。1849ねん父親ちちおやから4まんドル相当そうとう資産しさんぎ、アメリカ西海岸にしかいがんのサンフランシスコに移住いじゅうして不動産ふどうさんへの投資とうしはじめた[7]かれ事業じぎょう目覚めざましい成功せいこうおさめ、1850年代ねんだい前半ぜんはんにはそう資産しさんは5ばい以上いじょうの25まんドルにまでふくがっていた[7][9]

1850年代ねんだい中国ちゅうごく飢饉ききんによりべい輸出ゆしゅつ禁止きんしした影響えいきょうで、サンフランシスコのべい価格かかくは1キロたり9セントから79セントまで高騰こうとうした[7]。これを商機しょうきかれはペルーから輸入ゆにゅう途中とちゅうにあった20まんポンドのこめを1キロにつき12セントですべめ、値段ねだんさらげてりさばく準備じゅんびととのえた[7]。これが成功せいこうしていればきょまんとみながんでいたはずだったが、不幸ふこうにも商品しょうひんけるまえ輸入ゆにゅうまいがサンフランシスコに輸出ゆしゅつされ、べい値段ねだんは3セントにまで暴落ぼうらくしてしまった[7]。ノートンはあきらめずにべい商人しょうにんたいして事前じぜん予測よそくたいする責任せきにんもとめ、契約けいやく破棄はき要求ようきゅうした[7]。1853ねんから1857ねんの4年間ねんかんにわたってべい商人しょうにんへの訴訟そしょう裁判さいばんおこなわれ、カリフォルニア最高さいこう裁判所さいばんしょにまでまれた裁判さいばんはノートンの敗訴はいそであった[12]負債ふさい裁判さいばん費用ひようぜん資産しさんうしない、不動産ふどうさんのほとんども競売きょうばいされたノートンは1858ねん破産はさん宣告せんこくした[7]

このいちけんでノートンは邸宅ていたくって行方ゆくえ不明ふめいになり、次第しだい正気しょうきうしなったものとかんがえられている[6]

合衆国がっしゅうこく皇帝こうてい

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帝位ていい請求せいきゅう開始かいし

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新聞しんぶん掲載けいさいされた皇帝こうてい宣言せんげんについての記事きじ異様いよう人物じんぶつによる愉快ゆかいはんとしてあつかわれている。

失踪しっそうしてからいちねん後年こうねんかれべるところの「自発じはつてき亡命ぼうめい」をえてサンフランシスコにもどったノートンは唐突とうとつ行動こうどうこした。かれ合衆国がっしゅうこく政治せいじ体制たいせい共和きょうわせい連邦れんぽう主義しゅぎ)にいちじるしい不備ふびがあるとかんがえ、それを絶対ぜったい君主くんしゅせい導入どうにゅうによって解決かいけつするという信念しんねんとらわれていた。そしてかれみずからがその旗印はたじるしとして帝位ていい請求せいきゅうしゃにならんと決意けついしたのである。

1859ねん9月17にちかれはサンフランシスコの新聞しんぶん各社かくしゃ手紙てがみおくり、下記かきのように「合衆国がっしゅうこく皇帝こうてい」たることを宣言せんげんした。即位そくい宣言せんげんはいたずらとして正当せいとうあつかいをけなかったが、声明せいめいった新聞しんぶんしゃひとつであるサンフランシスコ・コールかみがジョークとして「皇帝こうてい宣言せんげん」を掲載けいさいした新聞しんぶん発行はっこうした[13]。ここから、現在げんざいまでかたがれる、21年間ねんかんにわたる「帝都ていとサンフランシスコ」を拠点きょてんにした合衆国がっしゅうこく皇帝こうてい」ノートン1せい帝位ていい請求せいきゅうはじめられた。

だい多数たすう合衆国がっしゅうこく市民しみん懇請こんせいにより、もちほうなるアルゴアわんよりたりて過去かこきゅうねんじゅうヶ月かげつあいだサンフランシスコにりし、ジョシュア・ノートンはこの合衆国がっしゅうこく皇帝こうていたることをみずか宣言せんげん布告ふこくす。

―――合衆国がっしゅうこく皇帝こうていノートン1せい[9][14]

のちにノートン1せい請求せいきゅう称号しょうごうに「メキシコの保護ほごしゃ」を追加ついかした。

みことのりれい

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ノートンがはっしたみことのりれい一部いちぶ

ノートン1せいおもにサンフランシスコの日刊にっかん紙上しじょうすうおおくの国事こくじかんする「みことのりれい」を投書とうしょとしておくりつけ、これを帝位ていい請求せいきゅうにおける主要しゅよう活動かつどうとした。

絶対ぜったい君主くんしゅせい移行いこうしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおいては皇帝こうていによる親政しんせいおこなわれる必要ひつようがあり、議会ぎかい制度せいど廃止はいしされるべきである」として、ノートン1せいは1859ねん10月12にちをもってアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい解散かいさん命令めいれいした。

詐術さじゅつ腐敗ふはいのゆえに、正統せいとう適切てきせつ民衆みんしゅう意思いし表明ひょうめいさまたげられている。法律ほうりつたいする公然こうぜんたる違反いはん徒党ととう政党せいとう政治せいじ結社けっしゃ、そして派閥はばつによってかえしそそのかされている。そのため市民しみん個人こじん人間にんげんせいもその所有しょゆうぶつも、どちらもふさわしい保護ほごけていない[15]

かれとく強調きょうちょうしたのは議会ぎかいせいへの嫌悪けんおかんであり、「関心かんしん民衆みんしゅう罪悪ざいあく克服こくふくするため、サンフランシスコのプラッツ音楽おんがくどうに1860ねん2がつ集合しゅうごうすること」をもとめている[16]

このみことのりれいは「謀反むほんこした」ワシントン政治せいじたちによって黙殺もくさつされた。もっときびしい措置そち必要ひつようかんがえたノートン1せい1860ねん1がつあらたな「皇帝こうていみことのりれい」をはっして帝国ていこくぐん反乱はんらんしゃ一掃いっそうするようめいじた。

みずからを「議会ぎかい」としょうする反逆はんぎゃくしゃがワシントンにおいて会合かいごうする事実じじつは、あきらかに昨年さくねん10がつ12にちの「議会ぎかい解散かいさんめいずる皇帝こうていみことのりれい」に違反いはんせり。帝国ていこく名誉めいよのため、このみことのりれいたい厳格げんかくなる服従ふくじゅうあらざるべからず。

かかるゆえには、帝国ていこく陸軍りくぐん司令しれいかんウィンフィールド・スコット少将しょうしょうたいし、ただちに議会ぎかい制圧せいあつせんことをつよめいずる[17]

しかし(「帝国ていこく陸軍りくぐん」とされた)合衆国がっしゅうこく陸軍りくぐんは「みことのりれい」を無視むしし、実務じつむ議会ぎかいゆだねられつづけた。ノートン1せい治世ちせい共和きょうわせい立憲りっけん君主くんしゅせいによる議会ぎかい統治とうち双方そうほう否定ひていし、かれらと対峙たいじすることについやされた。1860ねんには連邦れんぽうせい廃止はいし結社けっしゃ禁止きんしを「みことのりれい」により宣言せんげんした[16]議会ぎかい主義しゅぎしゃたちとのたたかいは「皇帝こうてい」としての生涯しょうがいつうじてやむことがなかった。かれ嫌々いやいやながらではあるものの、次第しだい議会ぎかい活動かつどう継続けいぞくゆるすようになっていった。しかし服従ふくじゅう議会ぎかい挑戦ちょうせんけていつもくすぶっているこの対立たいりつたいするノートンの対抗たいこう手段しゅだん先鋭せんえいしていった。1869ねん8がつ4にちノートンは「皇帝こうていみことのりれい」によって無造作むぞうさ民主みんしゅ共和きょうわりょうとう廃止はいし宣言せんげんした。

ノートン1せい南北戦争なんぼくせんそう時期じき合衆国がっしゅうこく国民こくみんあいだこったおおくのみにくあらそいを解決かいけつすることを希望きぼうして、1862ねんにはプロテスタントとカトリックのぜん教会きょうかいたいかれ皇帝こうてい任命にんめいするよう命令めいれいした。また、皇帝こうてい御座所ござしょであるサンフランシスコを「フリスコ」とりゃくしてぶことは敬意けいい欠如けつじょあらわしているとしてノートン1せい以下いかのような憂慮ゆうりょしめ勅書ちょくしょはっした。

言語げんごてきにもそのにもいかなる意味いみたない「フリスコ」なる嫌悪けんおすべき概念がいねんもちいるものはすべて、このつよ警告けいこく以降いこう、このかたり使用しようした現場げんばさえられた場合ばあいじゅうあつし誤用ごようのかどをもって帝国ていこく国庫こっこたいする25ドルの罰金ばっきん徴収ちょうしゅうさるべきこと。

ノートンの精神せいしん状態じょうたい

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ベイブリッジの建設けんせつ計画けいかくにおけるノートンの役割やくわりたたえ、1939ねん設置せっちされた記念きねん現在げんざいサンフランシスコ・トランスベイ・ターミナル展示てんじされている。

かれの「みことのりれい」を調しらべることで、ノートンの精神せいしん状態じょうたい推測すいそくしようとするいくつかのこころみがあったが、かれ統合とうごう失調しっちょうしょうであったとかんがえられている。この精神せいしん状態じょうたいにはしばしば誇大妄想こだいもうそう観察かんさつされるためである。また、ノートンは破産はさんうつ状態じょうたいおちいり、架空かくう世界せかいにおける生活せいかつつうじてそれをえたとかんがえることもできる。かれ行動こうどう双極そうきょくせい障害しょうがいの躁状態じょうたいによくてはまる。しかし、かれ医学いがくてき完全かんぜん健康けんこうであったとかんがえることもまた不可能ふかのうではない。

かれ奇矯ききょういにもかかわらず、また実際じっさい精神せいしん状態じょうたいとも無関係むかんけいに、わすれてはならないのはノートンがときとして予見よけんてき発想はっそうしめしており、「皇帝こうていみことのりれい」はすくなからずかれ視野しやひろさをしめしているということである。国際こくさい連盟れんめい設立せつりつめいじたり宗教しゅうきょう宗派しゅうはあいだ紛争ふんそうきんじたりする指示しじにそれがあらわれている。さらには、かれはしばしばオークランドとサンフランシスコをむす懸架けんかしき橋梁きょうりょう建設けんせつめいじており、発言はつげんには当局とうきょくがその命令めいれい服従ふくじゅうであることにたいする苛立いらだちがつよしめされている。

ちんめいじたことについて、サンフランシスコの市民しみんはオークランドの架橋かきょう計画けいかくおよび隧道すいどう建設けんせつ計画けいかく検討けんとう資金しきん準備じゅんびし、どちらの計画けいかくがよりすぐれたるかを決定けっていすべし。当市とうし市民しみんとう命令めいれい無視むししており、ちん権威けんい顕示けんじせんがため、かくのごとく命令めいれいする。かれらがなおもちんさからう場合ばあい陸軍りくぐんりょう議会ぎかい議員ぎいん逮捕たいほすべし。

御名ぎょめい御璽ぎょじ 1872ねん9月17にち サンフランシスコ

架橋かきょうかれ死後しごになって実行じっこうされた。サンフランシスコとオークランドをむすサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ建設けんせつ1933ねんはじまり、1936ねん完成かんせいした。

皇帝こうてい」としての生活せいかつ

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執務しつむ

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プレシディオ陸軍りくぐん駐屯ちゅうとん将校しょうこうからゆずられたきんモールきのあおった軍服ぐんぷくをまとい、ビーバーかわせいシルクハットはねかざりをし、勲章くんしょうをつけて、ノートンはかれ支配しはいにあるとかんがえるサンフランシスコの街路がいろ頻繁ひんぱんに「視察しさつ」におとずれた。このんでたずさえたステッキかさなどをよそおっていたが、サンフランシスコの街路がいろめぐりながらかれ歩道ほどうケーブルカー状態じょうたい公共こうきょう施設しせつ修理しゅうり進行しんこうじょうきょうや、警官けいかんいやだしなみにくばった。かれ個人こじんてきかれの「臣民しんみん」のことをにかけ、さまざまなテーマについて哲学てつがくてき談義だんぎ長々ながながれるのをこのんだ。

サンフランシスコでは1860年代ねんだいから70年代ねんだいにかけて、てい賃金ちんぎんはたらいて雇用こよううば中国ちゅうごくけい住民じゅうみんたいする白人はくじん市民しみんデモ市内しないもっとまずしい地域ちいきでしばしばおこなわれたが、それらはいたるところで流血りゅうけつ事態じたい発展はってんした。あるとき、このようなデモのひとつに皇帝こうていノートン1せい居合いあわせ、暴徒ぼうとたちとリンチをけそうになっている中国ちゅうごくけい住民じゅうみんたちのあいだっていた。かれあたましだれ、なんおもいのくちずさんでいたが、それをいた暴徒ぼうとたちはじて解散かいさんしてしまったとわれている。

警官けいかんアーマンド・バービアによる「大逆だいぎゃくざい

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1867ねん、アーマンド・バービアという警官けいかんがノートンをとらえ、かれはんして精神病せいしんびょう治療ちりょうけさせようとしたとき、騒動そうどうがった。この逮捕たいほはサンフランシスコの市民しみん新聞しんぶんによるつよ抗議こうぎこしたのである。警察けいさつ署長しょちょうパトリック・クロウリーはすぐに対応たいおうし、ノートンを釈放しゃくほうして警察けいさつとして公式こうしき謝罪しゃざいした。ノートンは寛大かんだいにもこのわか警官けいかんバービアによる「大逆だいぎゃくざい」に「特赦とくしゃ」をくだした。この騒動そうどう以降いこう警官けいかんたちはとおりで「皇帝こうてい」にったとき敬礼けいれいするようになった。

人々ひとびと尊敬そんけい

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ノートン1せいの「帝国ていこく政府せいふ発行はっこうの10ドル国債こくさい

大衆たいしゅう公然こうぜんと「皇帝こうていノートン」を敬愛けいあいしていた。ほとんどきんたなかったにもかかわらず、かれはしばしば最上級さいじょうきゅうレストラン食事しょくじをとり、そこのオーナーは「合衆国がっしゅうこく皇帝こうていノートン1せい陛下へいか御用達ごようたし」ときざんだブロンズのプレートをレストランの玄関げんかんかざった。ノートンはこのような見栄みえることをゆるしており、このプレートは実際じっさいにレストランのげに寄与きよしたというひともいる。

セントラルパシフィック鉄道てつどう食堂しょくどうしゃ食事しょくじをした「皇帝こうてい」に支払しはらいを請求せいきゅうしたために不興ふきょうい、「みことのりれい」によって営業えいぎょう停止ていし命令めいれいけた。おおくの市民しみんが「皇帝こうてい」を支持しじし、反響はんきょうおどろいた鉄道てつどう会社かいしゃかれ金色きんいろ終身しゅうしん無料むりょうパスを奉呈ほうていして謝罪しゃざいした。

ノートン1せい地位ちいには実際じっさい公式こうしき承認しょうにんこまかい記録きろくがある。1870ねん国勢調査こくせいちょうさ統計とうけいひょうにおいてかれは、「ジョシュア・ノートン、住所じゅうしょ:コマーシャル・ストリート624番地ばんち職業しょくぎょう皇帝こうてい」としるされている。かれはまた小額しょうがく負債ふさい支払しはらいのために独自どくじ紙幣しへい発行はっこうしており、それは地域ちいき経済けいざいにおいて完全かんぜん承認しょうにんされていた。この紙幣しへいは50セントから5ドルまでの額面がくめん発行はっこうされていたが、今日きょうオークションではその希少きしょう価値かちのため1000ドルをえるいている。

サンフランシスコはその「権力けんりょくしゃ」に名誉めいよあた敬意けいいあらわした。その軍服ぐんぷくふるびてくると当局とうきょく盛大せいだい儀式ぎしきとともに新品しんぴんうのにりるぶん支出ししゅつした。その見返みかえりに「皇帝こうてい」は感状かんじょうおくり、終身しゅうしん貴族きぞく特許とっきょじょう発行はっこうした。

伝説でんせつされたノートンの行動こうどう

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雑種犬ざっしゅけんラザルスの葬儀そうぎ教皇きょうこう姿すがたおこなうノートン1せい姿すがたえがいた、エドワード・ジャンプの風刺ふうし当時とうじ様々さまざま著名ちょめいじん列席れっせきしゃとしてえがかれており、墓穴ぼけつっているのは「ジョージ・ワシントン2せい」を自称じしょうしていたフレデリック・クームス
ノートンおよびラザルスとブマーをえがいたエドワード・ジャンプの風刺ふうし。「Three bummer」(さんにん浮浪ふろうしゃ)とだいされたこのたノートンは激怒げきどし、かざられているショーウィンドウをつえはげしくたたいた[18]

晩年ばんねんには、かれはしばしば色々いろいろなうわさや憶測おくそくまとになった。よくささやかれたうわさのひとつに、かれ本当ほんとうナポレオン3せいで、表向おもてむみなみアフリカ出身しゅっしんうことになっているのは追及ついきゅうをかわすためだ、というものがある。べつのうわさではノートンはヴィクトリア女王じょおう結婚けっこんしようとしているというものがあったが、かれ女王じょおういく手紙てがみわしたことがあって、それによって彼女かのじょ忠告ちゅうこくあたえていたのである。最後さいごに、ノートンは本当ほんとう大金持おおがねもちだが貧民ひんみんたいする同情どうじょうねんからまずしさをよそおっている、といううわさもあった。

また、メディアや作家さっかたちもこのんでノートンの風評ふうひょうてた。いくつかのにせみことのりれい」が新聞しんぶん掲載けいさいされている。これらの新聞しんぶん編集へんしゅうしゃたちは、すくなくともいくつかの「みことのりれい」をそれらしい内容ないよう偽造ぎぞうしたのではないかとうたがわれている。サンフランシスコ市立しりつ博物館はくぶつかん英語えいごばん本物ほんものだと証明しょうめいされたすべての「皇帝こうていみことのりれい」のリストを所蔵しょぞうしている。

ノートンはひきのおとも雑種ざっしゅいぬラザルスとブマー英語えいごばん[19]れ、劇場げきじょう貴賓きひんせきあらわれていたというものもあるが[20]現在げんざいではひきいぬ皇帝こうてい関係かんけいはほとんどかったとかんがえられている[18][21]当時とうじ人気にんきしゃであった皇帝こうていひきいぬ関連付かんれんづける記述きじゅつ当時とうじ新聞しんぶん記事きじには掲載けいさいされていない[18]画家がかエドワード・ジャンプ英語えいごばんえがいたラザルスの葬儀そうぎをノートンが仕切しきっているものもあるが、事実じじつではない。ノートン自身じしんは、ラザルスとブマー、そしてノートンがえがかれたジャンプの激怒げきどし、かざられていたショーウインドウをつえたたいたことがある[22]

崩御ほうぎょ

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1880ねん1がつ8にちばん、ノートン1せい科学かがくアカデミーでの講演こうえんかう途中とちゅうたおれた。警官けいかん大急おおいそぎで馬車ばしゃ救援きゅうえん要請ようせい病院びょういんはこんだが、馬車ばしゃ病院びょういんまえいきった。

翌日よくじつ『サンフランシスコ・クロニクル』は「Le Roi Est Mort(おう崩御ほうぎょス)」というフランス語ふらんすご見出みだしでいちめん追悼ついとうぶんせた。記事きじ雰囲気ふんいきかなしみと敬意けいいにあふれたものだった。「みすぼらしい敷石しきいしうえで、つきのないくらよる、しのつくあめなかで…かみ恩寵おんちょうあつ合衆国がっしゅうこく皇帝こうていにしてメキシコの庇護ひごしゃノートン1せい陛下へいか崩御ほうぎょされた」。サンフランシスコのもうひとつの主要しゅよう『モーニング・コール』はほとんどおな見出みだしで社説しゃせつに「かみ恩寵おんちょうあつ合衆国がっしゅうこく皇帝こうていにしてメキシコの保護ほごしゃノートン1せい陛下へいか崩御ほうぎょ」と掲載けいさいした。「皇帝こうてい崩御ほうぎょとおしゅうがいにまでほうじられ、『ニューヨーク・タイムズ』は「かれだれころさず、だれからもうばわず、だれ追放ついほうしなかった。かれおな称号しょうごう人物じんぶつで、このてんかれまさもの1人ひとりもいない」とひょうする追悼ついとう記事きじ掲載けいさいした。

ノートン1せい貧窮ひんきゅうなかぼっした。死去しきょしたさいかれものは、っていた5 - 6ドルの現金げんきんとコマーシャル・ストリートの下宿げしゅく部屋へや捜索そうさくつかった2.5ドルのほかは、散歩さんぽようステッキのコレクション、ヴィクトリア女王じょおうわした書簡しょかん、1,098,235かぶ価値かち金山かなやま株式かぶしきだけだった。

ノートン1せいのこしたものでは貧民ひんみん墓地ぼちへの埋葬まいそうがやっとなのはあきらかだったので、ビジネスマンたちのあつまり「パシフィック・クラブ」は荘厳そうごんな「大喪たいそう」をいとなむための資金しきんあつめをはじめ、最後さいごにはだい規模きぼ厳粛げんしゅく荘厳そうごん葬送そうそう式典しきてんができるだけの資金しきんあつまった。「…すべての階層かいそう人々ひとびと皇帝こうてい敬意けいいあらわした。資本しほんから貧民ひんみんまで、商店しょうてんぬしから泥棒どろぼうまで、なりのよいご婦人ふじんからいやしい出自しゅつじだとでわかるものたちまで」とだれもが「皇帝こうてい」とのわかれをしんだ。3まんにんもの人々ひとびとかん墓地ぼちはこばれたときかきをなし、かんつづ葬列そうれつは2マイルおよんだといくつかの記録きろくのこされている。ノートン1せい最初さいしょ、サンフランシスコのフリーメイソン墓地ぼちほうむられた。

1934ねん、ノートン1せい遺骨いこつ改葬かいそうされ、かれいまカリフォルニアしゅうコルマのウッドローン墓地ぼち埋葬まいそうされている。墓石はかいしには「ノートン1せい合衆国がっしゅうこく皇帝こうてい、メキシコの庇護ひごしゃ」ときざまれている。1980ねんにサンフランシスコではノートン1せい死後しご100ねん記念きねんするいくつもの式典しきてんひらかれた。

ノートン1せいいま

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文学ぶんがくにおけるノートン1せい

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ノートンの物語ものがたりニール・ゲイマンによるグラフィックノベルサンドマン』のエピソードのひとつ「さんきゅうがついちいちがつ(Three Septembers and a January)」に登場とうじょうする。この物語ものがたりはシリーズのだいろくしゅう「The Sandman: Fables and Reflections」に収録しゅうろくされている。

ロバート・シルヴァーバーグ短編たんぺん小説しょうせつ真夜中まよなか宮殿きゅうでん』は最終さいしゅう戦争せんそうカリフォルニアしゅうにあるサンフランシスコの帝国ていこくえがいており、そこを統治とうちする皇帝こうていはノートン7せいという名前なまえになっている。ノートン皇帝こうていとその愛犬あいけんブマー、ラザルスは、バーバラ・ハンブリーの「スター・トレックぶつのオリジナル小説しょうせつ「イシュマエル」のなかにもちらりと登場とうじょうする。クリストファー・ムーアの長編ちょうへん小説しょうせつえた悪霊あくりょう』には不死ふしとおぼしきノートンが現代げんだいのサンフランシスコにあらわれる。漫画まんが『ラッキー・ルーク』の57かんには「アメリカの皇帝こうてい」というタイトルのかいがあり細部さいぶがノートン皇帝こうていささげられている。

その

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疑似ぎじ宗教しゅうきょう(パロティ宗教しゅうきょう)のディスコルディアでは、ノートンは実在じつざいした人間にんげんのうちでは最高さいこう霊的れいてき段階だんかいにあるだい聖者せいじゃとされている。聖典せいてん不調和ふちょうわ原論げんろん(Principia Discordia)」の記述きじゅつにはサンフランシスコのジョシュア・ノートンにかんする標語ひょうごがある。

だれもがミッキーマウス理解りかいする。ヘルマン・ヘッセをわずかのひと理解りかいする。ほんのひとにぎりのひとアルベルト・アインシュタイン理解りかいする。そしてノートン皇帝こうてい理解りかいするもの一人ひとりもいない。

サンフランシスコのチョコレート会社かいしゃ、ギラデッリはほんバナナとひとつかみのナッツはいった「ノートン皇帝こうていアイス」を販売はんばいしている。英語えいごで「バナナ」と「ナッツ」は口語こうごで「あたまのおかしいひと」という意味いみになるため、ノートン「皇帝こうてい」のわった性格せいかくかさねあわせている。

インディーズレーベル「エンペラー・ノートン・レコーズ」もノートンからられている。一連いちれんのややシュールなソフト娯楽ごらくようソフトにも「エンペラー・ノートン・ユーティリティーズ」という名前なまえがついている。この名前なまえはまた、このソフトしゅう「ノートン・ユーティリティーズ」をつくったのがピーター・ノートンだということもついでにおもさせる。

ノートン「皇帝こうてい」は1993ねん、サンフランシスコでひらかれた世界せかいSF大会たいかい貴賓きひんとしてまねかれた。このときかれあらわれるために当地とうち印象深いんしょうぶかファン霊媒れいばいつとめている。エンニオ・モリコーネがノートンの人生じんせいえがいたオペラもあり、ウェスト・ベイ・オペラ・カンパニーによって1990ねんあきにサンフランシスコで上演じょうえんされるなどしている。

出典しゅってん

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  1. ^ Smith, Fred (2002ねん1がつ31にち). “Emperor Joshua Norton I of America”. BBC. 2007ねん4がつ15にち閲覧えつらん
  2. ^ Hansen, Gladys (1995). San Francisco Almanac. San Francisco: Chronicle Books. ISBN 0-8118-0841-6 
  3. ^ John Lumea,"Joshua Norton First Arrived in the U.S. in Boston, 1846 — Not San Francisco, 1849", The Emperor Norton Trust, 25 May 2021.
  4. ^ Carr, Patricia E. (July 1975). “Emperor Norton I: The benevolent dictator beloved and honored by San Franciscans to this day”. American History Illustrated 10: 14?20. http://www.molossia.org/norton.html. 
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  16. ^ a b Gazis-Sax, Joel (1998ねん). “The Proclamations of Norton I”. 2007ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  17. ^ Gazis-Sax, Joel (1998ねん). “He calls on the Army”. 2007ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  18. ^ a b c Malcolm E. Barker - Bummer and Lazarus: the Truth
  19. ^ 当時とうじのサンフランシスコで著名ちょめいであったひき野良犬のらいぬ1863ねん、ラザルスが消防車しょうぼうしゃかれてんだときには当局とうきょくによって服喪ふくも期間きかん設定せっていされた。ブマーがんだときマーク・トウェインはその墓碑銘ぼひめいとして「年月としつきかさね、名誉めいよかさね、やまいかさね、そしてシラミかさねた」といた。
  20. ^ Emperor Norton - Funeral of Lazarus
  21. ^ Encyclopedia of San Francisco Archived 2007ねん8がつ8にち, at the Wayback Machine. - Encyclopedia of San Francisco ラザルスとブマーの項目こうもくMalcolm E. Barker 執筆しっぴつ
  22. ^ Encyclopedia of San Francisco Archived 2007ねん2がつ23にち, at the Wayback Machine.- Encyclopedia of San Francisco ジョシュア・ノートンの項目こうもく執筆しっぴつ:Peter Moylan

関連かんれん項目こうもく

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  • アメリカ帝国ていこく
  • 宝塚歌劇団たからづかかげきだん - 2011ねん3がつ、ノートンとかれ記事きじ部数ぶすう増進ぞうしんねら新聞しんぶん記者きしゃ奮闘ふんとうえがいたコメディ記者きしゃ皇帝こうてい」を上演じょうえん脚本きゃくほん演出えんしゅつ大野おおのたく主演しゅえんきたしょううみ
  • フレデリック・クームス - ジョージ・ワシントン2せい自称じしょうし、ノートンとともにサンフランシスコの名物めいぶつおとことしてられていた人物じんぶつのちにノートンとの確執かくしつすえ、サンフランシスコをはなれた。
  • ニコラス・スニガ・イ・ミランダ - メキシコの政治せいじ大統領だいとうりょうせんかえ出馬しゅつばし、そのたび大敗たいはいしては不正ふせい選挙せんきょうったえをこした。かれ自分じぶんこそが選挙せんきょ勝利しょうりした正当せいとうなる大統領だいとうりょうだと最後さいごまでしんじていた。
  • 葦原よしわら金次郎きんじろう - 日本にっぽん皇位こうい僭称せんしょうしゃ新聞しんぶん記者きしゃ見物人けんぶつにん勅語ちょくご乱発らんぱつした。

外部がいぶリンク

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典拠てんきょ

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