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ジョセフィン・ベーカー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョセフィン・ベイカーから転送てんそう
Josephine Baker
ジョセフィン・ベイカー
ジョセフィン・ベイカー
1927ねん
本名ほんみょう Freda Josephine McDonald
べつ名義めいぎ くろいヴィーナス
生年月日せいねんがっぴ (1906-06-03) 1906ねん6月3にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1975-04-12) 1975ねん4がつ12にち(68さいぼつ
出生しゅっしょう アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ミズーリしゅうセントルイス
国籍こくせき フランスの旗 フランス(1937 - )
民族みんぞく アフリカけいアメリカじん
職業しょくぎょう 歌手かしゅ、エンターテイナー
ジャンル ジャズ
活動かつどう期間きかん  1920年代ねんだい - 1970年代ねんだい
活動かつどう内容ないよう  歌手かしゅ
配偶はいぐうしゃ  あり
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ジョセフィン・ベイカーJosephine Baker1906ねん6月3にち - 1975ねん4がつ12にち)は、アメリカセントルイス出身しゅっしんジャズ歌手かしゅ女優じょゆうである。フランス語ふらんすごみで「ジョゼフィーヌ・バケル」ともばれる。

まれたときの名前なまえは、フリーダ・ジョセフィン・マクドナルドFreda Josephine McDonald)。1937ねんフランス国籍こくせき取得しゅとくしている。「くろヴィーナス」の異名いみょうをとった。

生涯しょうがい

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若年じゃくねん

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ジョセフィンは、ユダヤけいスペインひとのドラマー、エディー・カーソン(Eddie Carson)とアフリカけいアメリカじん洗濯せんたくのキャリー・マクドナルド(Carrie McDonald)とのあいだ私生児しせいじとして、ミズーリしゅうセイントルイスでまれた。

彼女かのじょは、非常ひじょうまずしい環境かんきょうなかそだつ。1917ねん7がつ2にち彼女かのじょはセイントルイスで人種じんしゅ差別さべつ経験けいけんして、これが彼女かのじょのち人種じんしゅ差別さべつ撤廃てっぱい運動うんどう熱心ねっしん肩入かたいれする背景はいけいとなる。13さいで、母親ははおやによってかなり年配ねんぱい黒人こくじん男性だんせい結婚けっこんさせられるが、すう週間しゅうかんしか結婚けっこん生活せいかつつづかなかった。そのあと家出いえで。1921ねん彼女かのじょ鉄道てつどう車掌しゃしょう黒人こくじんウィリー・ベイカー(Willie Baker)と結婚けっこんし、1925ねん離婚りこんするが、この苗字みょうじ彼女かのじょはそのもしばらくのあいだ使用しようしている。

デビュー

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レビューに出演しゅつえんしていたころ写真しゃしん(1927ねん

彼女かのじょのキャリアは、16さいフィラデルフィアのスタンダード劇場げきじょうでのデビューからはじまる。そのすぐニューヨークき、ちょうど半年はんとしあいだアメリカを巡業じゅんぎょうしていたボードビル・グループに参加さんか。1923ねん-1924ねん、ニューヨークのでミュージカルコメディ「シャッフル・アロング(Shuffle Along)」でコーラスガールのやくのち黒人こくじんのレビューグループ、チョコレート・ダンディーズ(The Cholocate Dandies)のメンバーとなる。ニューヨークのプランテーション・クラブに出演しゅつえんしたのち、1925ねん10がつ2にち、パリのシャンゼリゼ劇場げきじょうていた「レビュー・ネグロ(黒人こくじんレビュー)」にくわわることになる。

このダンスで彼女かのじょは、はじめてチャールストンたりにしたパリの観客かんきゃくをたちまちとりこにしてしまう。舞踏ぶとうジャーナリストのアンドレ・ルヴァンソン(André Levinson)は、「ジョセフィンは、不恰好ぶかっこう黒人こくじんのダンサーだとおもったらとんでもない間違まちがいで、彼女かのじょこそ詩人しじんボードレールゆめ褐色かっしょく女神めがみ」と熱狂ねっきょうして賛辞さんじおく[1]アーネスト・ヘミングウェイは「これまでたことのあるもっともセンセイショナルな女性じょせい」ととなえた[2]

レビュー・ネグロは、さらにブリュッセルベルリンでも公演こうえんおこない、ドイツではベルリンのクァフュルステンダムのネルソン劇場げきじょうで1926ねん1がつ14にちにドイツでの初演しょえんおこなっている。1926ねんから1927ねん彼女かのじょはまさにフォリー・ベルジェール劇場げきじょうのスターだった。彼女かのじょはルイ・ケーナシャンの2つのレビューに出演しゅつえんバナナこしまわりにぶらげただけという有名ゆうめい衣装いしょうおどった。

スターに 

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1926ねんすえにベイカーは、それまでベイカーのショーの美術びじゅつ手伝てつだっていたシチリア石工せっこうジュゼッペ・ペピート・アバティーノ(Giuseppe Pepito Abatino)と結婚けっこんして、世間せけん話題わだい一身いっしんあつめる。アバティーノは「ディ・アルベルティーニ」と自称じしょうしていたが、ベイカーの恋人こいびとけんマネージャーのやくについていた。ジョゼフィン・ベーカーあらため「ジョゼフィーヌ・ディ・アルベルティーニ」となったベイカーは、最初さいしょにヨーロッパの貴族きぞくとしてのったアフリカけいアメリカじん女性じょせいということになった。

当時とうじベイカーは、ラングストン・ヒューズパブロ・ピカソアーネスト・ヘミングウェイなどどう時代じだい作家さっか画家がか彫刻ちょうこくにとっての女神めがみ大衆たいしゅうにとってのセックス・シンボルとなった。想像そうぞうえたエロティックな衣装いしょうおどりのために、ベイカーはウィーンプラハブダペスト、そしてミュンヘン劇場げきじょう出演しゅつえん禁止きんしされてしまう。それほどまでにベイカーはセンセイショナルな存在そんざいになったのである。

アルジェリアオランにて(1943ねん)

また、建築けんちくアドルフ・ロースは、1928ねんにベイカーのために白黒しろくろ大理石だいりせき正面しょうめん玄関げんかんいえ設計せっけいしたが、それは実際じっさい建築けんちくするまでにはいたらなかった。

ひがしヨーロッパとみなみアメリカ公演こうえん旅行りょこうのち、ベイカーは今度こんど歌手かしゅとしてもデビューをたす。「ふたつのあい」(J'ai deux amours)、「ハイチ」(Haiti)、「かわいいトンキンむすめ」(La Petite Tonkinoise)、「かわいいベイビー」(Pretty Little Baby)は、彼女かのじょもっと成功せいこうしたうたである。彼女かのじょ映画えいがにも出演しゅつえんし、「南海なんかい女王じょおう」(La Sirène des Tropiques、1927ねん)、「はだかの女王じょおう」(Zouzou、1934ねん)、 そして「タムタムひめ」(Princesse Tam-Tam、1935ねん)で主演しゅえんをしている。

フランス市民しみんけん取得しゅとく 

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たちまちにして「フランスでもっと成功せいこうしたアメリカじん」となったベイカーは、そのために人種じんしゅ差別さべつひど祖国そこくアメリカでは、人種じんしゅてき差別さべつ偏見へんけん人一倍ひといちばいさらされることとなった。

1936ねんにアメリカで「ジーグフェルド・フォリーズ」のショーでメンバーからはずされ、それにショックをける。また私生活しせいかつでもあまり幸福こうふくではなかった。アメリカにおける人種じんしゅ差別さべつ嫌気いやけがさしたベイカーは、1937ねんにフランスの市民しみんけん取得しゅとくする。

だい世界せかい大戦たいせん前後ぜんこう

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1949ねん
1951ねん

1939ねん9がつはじまっただい世界せかい大戦たいせん最中さいちゅうを、ベーカーはドイツぐん北部ほくぶ占領せんりょうされ、南部なんぶしんどく政権せいけんであるヴィシー政権せいけん樹立じゅりつされたフランスと、その植民しょくみんであったきたアフリカアルジェリアごした。

ベーカーは自由じゆうフランスぐん前面ぜんめんて、レジスタンス運動うんどう秘密ひみつ情報じょうほう活動かつどうたずさわった。ベーカーはまた飛行ひこう資格しかく取得しゅとくし、自由じゆうフランスぐん中尉ちゅういになっている。戦後せんごこれらの功績こうせきによりレジオンドヌール勲章くんしょうなどを授与じゅよされた。

人種じんしゅ差別さべつとグレース・ケリーとの交友こうゆう

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ベーカーはだい世界せかい大戦たいせんもフランスで生活せいかつしていたが、1950年代ねんだいにはアメリカの公民こうみんけん運動うんどう支援しえんしている。また、ベーカーはさまざまな人種じんしゅの12にん孤児こじ養子ようしとし、しばしば経済けいざいてき危機ききひんしながらもフランスの古城こじょう生活せいかつともにした。エリザベス・サンダース・ホーム沢田さわだ美喜みきとは同志どうしかつ親友しんゆうべる間柄あいだがらで、養子ようしをサンダースホームからゆずそだてるとともに、来日らいにちしたさい公演こうえん収入しゅうにゅうをホームに寄付きふするなどしみない援助えんじょおこなっている。

1951ねんに、ニューヨークのナイトクラブにきゃくとしていれてんしようとしたベーカーを、みせ拒否きょひするという人種じんしゅ差別さべつ事件じけん(「ストーク・クラブ事件じけん」)がきた。このとき、たまたまみせ居合いあわせて、みせがわ猛然もうぜん抗議こうぎするベーカーの様子ようす映画えいが女優じょゆうグレース・ケリーは、初対面しょたいめん彼女かのじょかばって一緒いっしょみせて、自分じぶんのパーティーがわるまでみせもどらなかった。

これがきっかけではじまった2人ふたり交友こうゆうは、ケリーがそのモナコおおやけになってからもながつづくこととなり、ベーカーが経済けいざいてき危機ききおちいったさいにケリーが援助えんじょしたりした。

引退いんたいとカムバック

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1954ねん昭和しょうわ29ねん4がつ11にちエールフランスでパリを出発しゅっぱつ4がつ13にち午後ごご8時半じはん羽田空港はねだくうこう到着とうちゃくし、来日らいにちたした[3]。4月19にち長崎ながさき、4がつ20日はつか佐世保させぼ、4がつ21にち福岡ふくおか、4がつ22にち名古屋なごや[3]各地かくちでのコンサートに出演しゅつえん4がつ23にち広島ひろしま公演こうえん原爆げんばく死没しぼつしゃ慰霊いれい参拝さんぱい[4]。4月25にちから29にちまで東京とうきょう帝国ていこく劇場げきじょう、5月1にちには京都きょうと弥栄やさか会館かいかん公演こうえんおこな人気にんきはくした[3]。 また、5月2にちから3にちまで宝塚たからづかだい劇場げきじょうでも公演こうえんおこなった。

1956ねんにベーカーは舞台ぶたいからの引退いんたい声明せいめい発表はっぴょうしたが、1961ねんにははやくもカムバックし、1973ねんにはニューヨークでおこなわれたカーネギー・ホールでの公演こうえんだい成功せいこうおさめている。

またこのころベーカーは、1950年代ねんだい後半こうはんからアメリカで活発かっぱつになった人種じんしゅ差別さべつ撤廃てっぱい運動うんどう、いわゆる公民こうみんけん運動うんどう協力きょうりょくし、1963ねん8がつマーティン・ルーサー・キングびかけでおこなわれたワシントンだい行進こうしんにはハリー・ベラフォンテマーロン・ブランドチャールトン・ヘストンらとともに参加さんかしている。

死去しきょ

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1975ねん4がつ8にちに、フランスのパリでベーカーの芸能げいのう生活せいかつ50周年しゅうねんいわうショーの初日しょにち公演こうえんおこなわれた。その直後ちょくご脳溢血のういっけつおそわれ、4がつ12にち死去しきょモナコ墓地ぼち埋葬まいそうされた。没後ぼつご46ねんった2021ねん11月には、黒人こくじん女性じょせいとして、また芸能人げいのうじんとしてはじめてパンテオンまつられた(セントルイスやパリとう、ゆかりのある4箇所かしょはいったかんが、内部ないぶ霊廟れいびょう安置あんちされている)[5]

ベーカーは、すうおおくの自叙伝じじょでん執筆しっぴつし、その都度つどキャリアや家族かぞくのことについてちがいをせている。ベーカーは、フランスの戦没せんぼつしゃ慰霊いれいにその栄誉えいよとなえられた最初さいしょのアメリカじんでもある。数奇すうきなベーカーの人生じんせいは、映画えいが、TVドラマ、舞台劇ぶたいげきでもしばしばげられている。

私生活しせいかつ

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ベーカーは、6結婚けっこん経験けいけんしている。最初さいしょ鋳物いもの工場こうじょう職人しょくにんウィリー・ウェルズ(1919ねん結婚けっこんし、離婚りこん)、列車れっしゃのポーター、ウィリアム・ハワード・ベーカー(1921ねん結婚けっこんし、離婚りこん)、ジュゼッペ・ペピート・アバチーノ(1926ねん結婚けっこん一種いっしゅ宣伝せんでん行為こうい法的ほうてきには拘束こうそくりょくなし)、フランスの製糖せいとう業界ぎょうかい大物おおものジャン・リヨン(1937ねん - 1940ねん)、フランスのバンドリーダー、ジョー・ブイヨン(1947ねん結婚けっこん、1957ねん別居べっきょ、そのまま離婚りこん)、そしてアメリカじんのアーティスト、ロバート・ブラッドレー(1928ねん - 1986ねん結婚けっこんしたのは1973ねん、ただし法的ほうてき拘束こうそくりょくのないもの、1974ねんわかれている)の6にんである。

出演しゅつえん映画えいが

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出典しゅってん

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  1. ^ Mae Gwendolyn Henderson, "Colonial, Postcolonial, and Diasporic Readings of Josephine Baker as Dancer and Performance Artist"
  2. ^ Lahs-Gonzales, Olivia.Josephine Baker: Image & Icon (excerpt in Jazz Book Review, 2006). Archived 25 October 2009 at the Wayback Machine.
  3. ^ a b c Konomi Ara ちょ「Josephine Baker: A Chanteuse and a Fighter」(2010ねん、カリフォルニア大学だいがくescholarshipサイトない掲載けいさいPDFファイル)
  4. ^ 増補ぞうほヒロシマの記録きろく」(1976ねん中国新聞社ちゅうごくしんぶんしゃ
  5. ^ “J・ベイカーさん、ふつ偉人いじん殿堂でんどう黒人こくじん女性じょせいはつ. AFPBB News. フランス通信つうしんしゃ. (2021ねん12月1にち). https://www.afpbb.com/articles/-/3378483 2021ねん12月12にち閲覧えつらん 

文献ぶんけん

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  • Jean-Claude Baker, Josephine: The Hungry Heart, Random House, December 28, 1993, ISBN 0679409157, Paperback: Cooper Square Press, September 25, 2001, ISBN 0815411723
  • Josephine Baker, Jo Bouillon, Mariana Fitzpatrick, Josephine, Paragon House Publishers, May 1988, ISBN 1557781087, Revised edition: Marlowe & Co, January 1995, ISBN 1569249784
  • Paul Colin, Karen C. C. Dalton, Henry Louis Gates, Josephine Baker and LA Revue Negre: Paul Colin's Lithographs of Le Tumulte Noir in Paris, 1927, Harry N Abrams, September 1998, ISBN 0810927721
  • Lynn Haney, Naked at the Feast: The Biography of Josephine Baker, Robson Books, June 1995, ISBN 0788161199, Reprint: Robson Books, January 2003, ISBN 1861055072
  • Alan Schroeder, Josephine Baker (Black Americans of Achievement), Chelsea House Publishers, December 1995, ISBN 0791011429
  • Ean Wood, The Josephine Baker Story, Sanctuary Publishing, Ltd, October 2000, ISBN 1860742866, Paperback: Totem Books, May 2002, ISBN 1860743943

外部がいぶリンク

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