ブラザーミュージアム に展示 てんじ されている3代目 だいめ TAKERU
ソフトベンダーTAKERU (ソフトベンダー・タケル)は、1986年 ねん に日本 にっぽん のブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう の安 あん 友雄 ともお 一 いち が中心 ちゅうしん となって開発 かいはつ した、世界 せかい 初 はつ のパソコン ソフト の自動 じどう 販売 はんばい 機 き 。本 ほん サービスは、自動 じどう 販売 はんばい 機 き を通 つう じてフロッピーディスクにゲームのデータを書 か き込 こ むという仕組 しく みで知 し られている。サービスの運営 うんえい は、当初 とうしょ ブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう TAKERU事務 じむ 局 きょく が行 おこな い、自動 じどう 販売 はんばい 機 き のほか郵便 ゆうびん での通信 つうしん 販売 はんばい も行 おこな っていたが、1994年 ねん 5月21日 にち にJOYSOUNDを運営 うんえい している子会社 こがいしゃ のエクシング 通信 つうしん システム事業 じぎょう 部 ぶ に業務 ぎょうむ 移管 いかん され[1] 、1997年 ねん 2月 がつ に全 ぜん サービス終了 しゅうりょう [2] 。
1985年 ねん にテスト機 き SV-2000 [注 ちゅう 1] 15台 だい でスタートし、1986年 ねん 4月 がつ 21日 にち にソフトベンダー武 たけ 尊 たかし として正式 せいしき にサービスを開始 かいし した。1986年 ねん に2代目 だいめ のSV-2100が導入 どうにゅう され16ビットパソコンに対応 たいおう 、3代目 だいめ は NEW TAKERU という名称 めいしょう のSV-2300が1991年 ねん 春 はる から夏 なつ にかけて導入 どうにゅう された。
稼動 かどう を開始 かいし した当時 とうじ はまだ8ビット御三家 ごさんけ など8ビットパソコン 全盛 ぜんせい の時代 じだい であり、パッケージソフトウェア 販売 はんばい がパソコンゲーム を含 ふく むソフトウェア全般 ぜんぱん の販売 はんばい 経路 けいろ の主流 しゅりゅう だった。その頃 ころ にいち早 はや く「自動 じどう 販売 はんばい 機 き 」という形 かたち でオンライン販売 はんばい を開始 かいし したTAKERUは、パソコン通信 つうしん ですら「趣味 しゅみ 人 じん (マニア )の特殊 とくしゅ な行為 こうい 」だった時代 じだい に、全 まった く新 あたら しい流通 りゅうつう 形態 けいたい を築 きず こうとした先駆 せんく 的 てき 業態 ぎょうたい である。
その一方 いっぽう で、サービス展開 てんかい 当初 とうしょ から高額 こうがく な通信 つうしん 費 ひ やラインナップの貧弱 ひんじゃく さといった課題 かだい に悩 なや まされてきており、2000台 だい の設置 せっち を目標 もくひょう としていたものの、設置 せっち 台数 だいすう は最盛 さいせい 期 き でも300台 だい だった[3] 。
それでも、通信 つうしん カラオケ ・JOYSOUND など、本 ほん サービスのネットワークを応用 おうよう して生 う まれたサービスも存在 そんざい する[3] 。
2016年 ねん 11月26日 にち には、ブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう により公式 こうしき の30周年 しゅうねん 記念 きねん イベントが開催 かいさい された[4] 。
1983年 ねん にブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう がアンテナショップ「コムロード」を立 た ち上 あ げた際 さい 、商品 しょうひん の一 ひと つであるパソコン用 よう のソフトの売 う れ行 ゆ きがソフトによってばらつきがあり、中 なか には不良 ふりょう 在庫 ざいこ になってしまうものもあった[5] 。また、ブラザーは電気 でんき 通信 つうしん 事業 じぎょう の自由 じゆう 化 か (1985年 ねん )以前 いぜん から、情報 じょうほう ネットワークサービスキャプテンシステム に参加 さんか するなど、NTT とも接点 せってん があった[6] 。そこで、若手 わかて 社員 しゃいん だった安 あん 友雄 ともお 一 いち は通信 つうしん を用 もち いた「ニューメディア」によって在庫 ざいこ を解消 かいしょう することを思 おも いついた[5] [6] 。安 やす 友 とも は2016年 ねん のアスキーとのインタビューの中 なか で、速度 そくど の遅 おそ さや高額 こうがく な通信 つうしん 費 ひ という課題 かだい を抱 かか える「ニューメディア」によるサービスは実現 じつげん 性 せい が薄 うす いものの、大変 たいへん だけどやってみようという気持 きも ちで企画 きかく を立 た ち上 あ げたと振 ふ り返 かえ っている[5] 。
利用 りよう 者 しゃ は画面 がめん の指示 しじ に従 したが って購入 こうにゅう ソフトウェアを選択 せんたく 、指定 してい 金額 きんがく を支払 しはら うとブランクメディアが出 で てきて、これをフロッピーディスクドライブ やROMライタ等 とう の書 か き込 こ み装置 そうち にセットしてソフトウェアを書 か き込 こ ませ、フロッピーディスクケースやプリントアウトされたマニュアル と共 とも にソフトウェアを入手 にゅうしゅ する。
CPUボードは自社 じしゃ 製 せい で、初代 しょだい と2代目 だいめ のメインCPUはNEC V30 であった。3代目 だいめ は、大 おお きさは1565×1220×570mm。メインCPUはIntel 80386SX に、ROMカセット・VAN回線 かいせん を廃止 はいし 、TAKERU CLUB用 よう カードリーダー・CD-ROM・フロッピーディスク(5インチ・3.5インチ)・INSネット 回線 かいせん ・ハードディスクの容量 ようりょう を増量 ぞうりょう ・感 かん 圧 あつ 式 しき タッチパネル(ブラウン管 ぶらうんかん モニタ)・五 ご 千 せん 円 えん 札 さつ と一 いち 万 まん 円 えん 札 さつ の入金 にゅうきん 等 とう に対応 たいおう [7] [8] 。筐体 きょうたい の色 いろ は、初代 しょだい が白色 はくしょく の筐体 きょうたい に青色 あおいろ の線 せん と筐体 きょうたい の上部 じょうぶ ・右側 みぎがわ は灰色 はいいろ の塗装 とそう 、2代目 だいめ が赤色 あかいろ と灰色 はいいろ の塗 ぬ り分 わ けでモニターの下 した に黄色 おうしょく のロゴ、3代目 だいめ は灰色 はいいろ と黄色 おうしょく の塗 ぬ り分 わ けである。本体 ほんたい 内 ない にはパッケージに収 おさ められた何 なに も記録 きろく されていない各種 かくしゅ ブランクメディア(記憶 きおく 媒体 ばいたい )が蓄 たくわ えられている。
CD-ROMドライブを内蔵 ないぞう し、ここから読 よ み出 だ したデータを各種 かくしゅ メディアに書 か き込 こ んだほか、コンピュータネットワーク (VAN回線 かいせん (インテック Ace Telenet・Tri-P)・ISDN 回線 かいせん )経由 けいゆ でソフトウェアをダウンロードして取 と り寄 よ せることができた。サービス開始 かいし 当初 とうしょ はCD-ROMドライブが一般 いっぱん に利用 りよう されておらず、コンシューマーゲーム なども含 ふく めCD-ROMドライブの利用 りよう が始 はじ まったのは、2年 ねん 後 ご の1988年 ねん にPCエンジン にCD-ROM² が発売 はつばい されたのが最初 さいしょ である。
FM TOWNS ・FM-7 ・FM77AV ・ダイナブック(東芝 とうしば ) ・Classic Mac OS ・MSX ・X1 ・PC-88 (mkII・SR以降 いこう )・PC-98 (EPSON_PCシリーズ 対応 たいおう )・Windows (3.1 、95 )・X68000 のソフトと、各社 かくしゃ ワープロのテンプレート・クリップアートを販売 はんばい していた。初期 しょき にはFM-7 ・X1 のカセットテープメディアの販売 はんばい も行 おこな っていた。また末期 まっき にはCD-ROM写真 しゃしん 集 しゅう ・パッケージソフトの通信 つうしん 販売 はんばい も行 おこな っていた。
説明 せつめい 書 しょ および領収 りょうしゅう 書 しょ は内蔵 ないぞう プリンター で印刷 いんさつ されるが、ドットインパクトプリンター であり、数 すう ページ分 ぶん のマニュアルでは少々 しょうしょう 印字 いんじ に時間 じかん がかかった。3代目 だいめ のNEW TAKERUではレーザープリンター になり印刷 いんさつ 時間 じかん は1ページ当 あ たり15秒 びょう となった。加 くわ えてメディア書 か き込 こ みも3.5インチ2DDの場合 ばあい で約 やく 70秒 びょう 多少 たしょう 待 ま たなければならなかった。マニュアルが10ページを超 こ える場合 ばあい は別送 べっそう となるため、TAKERU CLUB会員 かいいん 以外 いがい は印刷 いんさつ された引換 ひきかえ 券 けん を郵送 ゆうそう でTAKERU事務 じむ 局 きょく に送 おく る必要 ひつよう があった。
フロッピーディスク ケースは5インチ・3.5インチフロッピーディスク共用 きょうよう で、紙 かみ 製 せい の緑 みどり →青 あお →黄色 おうしょく →プラスチック製 せい の緑 みどり →黒色 こくしょく と変遷 へんせん した。後期 こうき には有無 うむ を選 えら べるようになり、その後 ご 廃止 はいし された。
筐体 きょうたい には、タッチパネル 方式 ほうしき CRTディスプレイ が主 おも なユーザーインターフェイス として組 く み込 こ まれ、5インチ・3.5インチフロッピーディスクドライブ、MSX用 よう ROMカートリッジ 差 さ し込 こ み口 こう (初代 しょだい ・2代目 だいめ のみ)、説明 せつめい 書 しょ 印刷 いんさつ 用 よう プリンター、フロッピーディスク・フロッピーディスクケース取 と り出 だ し口 こう が内蔵 ないぞう されている。
内部 ないぶ には、データキャッシュ 用 よう のハードディスクドライブ (2代目 だいめ までは20MB)、メニュー画面 がめん データ格納 かくのう 用 よう のCD-ROMドライブが内蔵 ないぞう されている。自動 じどう 販売 はんばい 機 き としての金銭 きんせん 識別 しきべつ 機 き や、媒体 ばいたい のストックも蓄 たくわ えられていた。試作 しさく 機 き ではPC-9800シリーズ で制御 せいぎょ していたことから、CPU は2代目 だいめ まではIntel 8086 互換 ごかん のV30 (μ みゅー PD70116)を、3代目 だいめ はIntel 80386SX を、OS にDR-DOS を用 もち いていた。
内蔵 ないぞう されたCD-ROMやキャッシュ内 ない にデータの無 な いソフトウェアはVAN回線 かいせん (2代目 だいめ まで)・ISDN 回線 かいせん (3代目 だいめ のみ)でダウンロード し、フロッピーディスクや専用 せんよう のROMカートリッジに書 か き込 こ んで販売 はんばい することにより、店頭 てんとう に在庫 ざいこ がなくても販売 はんばい を可能 かのう としていた。
なお、流通 りゅうつう コストの抑制 よくせい ならびにパッケージやマニュアルの省略 しょうりゃく 化 か により、TAKERUで販売 はんばい されるソフトは、パッケージ販売 はんばい されているソフトよりも販売 はんばい 価格 かかく を低 ひく く抑 おさ えることができた[9] [注 ちゅう 2] 。
1983年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、安 あん 友 とも は電気 でんき 通信 つうしん 事業 じぎょう 者 しゃ のインテックのネットワーク責任 せきにん 者 しゃ と相談 そうだん し、企画 きかく が始動 しどう した[5] 。
まず、プロトタイプ4台 だい をFRP を用 もち いて作 つく ったものの、静電気 せいでんき とノイズ特性 とくせい の弱 よわ さが浮 う き彫 ぼ りとなったほか、高額 こうがく な通信 つうしん 費 ひ も課題 かだい となった。また、制御 せいぎょ に用 もち いたPC-98 の詳細 しょうさい な資料 しりょう がなく、内部 ないぶ 資料 しりょう を求 もと めに製造元 せいぞうもと のNECに行 い くこともあった[5] 。苦労 くろう の末 すえ 、1985年 ねん に完成 かんせい し、同年 どうねん 3月 がつ に「パソコンソフト自動 じどう 販売 はんばい システム発表 はっぴょう 会 かい 」を開 ひら き、「SV-2000」という名前 なまえ でプロトタイプの4台 だい を展示 てんじ した[注 ちゅう 1] [5] 。
そして、コムロードをはじめ、J&P(上新電機 じょうしんでんき )をはじめとする家電 かでん 量販 りょうはん 店 てん 15店舗 てんぽ の協力 きょうりょく を得 え て、同年 どうねん 末 まつ までに東京 とうきょう 、大阪 おおさか 、名古屋 なごや で試験 しけん 運用 うんよう を行 おこな った[5] 。
1986年 ねん 4月 がつ の正式 せいしき 運用 うんよう にあたり、サービス名 めい を「ソフトベンダーTAKERU」に変更 へんこう した[5] 。「TAKERU」の名称 めいしょう は古代 こだい 大和 やまと 朝廷 ちょうてい 発展 はってん 期 き において東 ひがし 伐 き 西 にし 征 せい 事業 じぎょう を行 おこな った英雄 えいゆう 日本 にっぽん 武 たけ 尊命 そんめい に由来 ゆらい している[5] 。
安 やす 友 とも はアスキーとのインタビューの中 なか で、当初 とうしょ はテスト運用 うんよう 時 じ と同 おな じく「SV-2000」で売 う り出 だ そうとしたが、当時 とうじ の流行 りゅうこう に乗 の って製品 せいひん 名 めい に漢字 かんじ を用 もち いた「ソフトベンダー武 たけ 尊 たかし 」にしたところ、漢字 かんじ を読 よ めない子 こ どもから「ブソン」と間違 まちが えられたことを振 ふ り返 かえ っている[5] 。
高額 こうがく な通信 つうしん 費用 ひよう により赤字 あかじ となったことから撤退 てったい が決 き まり、1987年 ねん (昭和 しょうわ 62年 ねん )にそのための費用 ひよう として5,000万 まん 円 えん の予算 よさん が組 く まれたが、安 あん 友 とも は撤退 てったい ではなく事業 じぎょう の継続 けいぞく に用 もち いた。
回線 かいせん を高額 こうがく な専用 せんよう 回線 かいせん からアナログの一般 いっぱん 回線 かいせん に変更 へんこう し、かつデータの送信 そうしん 時間 じかん 帯 たい も電話 でんわ 代 だい が安価 あんか な夜間 やかん に行 おこな うなどの工夫 くふう を施 ほどこ したことでわずかながら黒字 くろじ に転 てん じ、撤退 てったい の取 と り消 け しに成功 せいこう した。
後述 こうじゅつ の通 とお りラインナップの貧弱 ひんじゃく さが課題 かだい となっていたため、ロングテール で生 い き残 のこ る作戦 さくせん がとられた[11] 。
販売 はんばい ソフトは既 すで にパッケージ販売 はんばい された商品 しょうひん の廉価 れんか 版 ばん ・復刻 ふっこく 版 ばん が中心 ちゅうしん だったが、TAKERUでしか買 か えないオリジナル作品 さくひん や、自社 じしゃ 開発 かいはつ のパッケージソフト(郵送 ゆうそう となる)もあった[11] 。また、有名 ゆうめい 作品 さくひん の追加 ついか シナリオ集 しゅう や、雑誌 ざっし 企画 きかく と連動 れんどう した作品 さくひん も販売 はんばい された[11] 。
さらに、在庫 ざいこ を持 も たなくてよいという利点 りてん から、実用 じつよう 的 てき なソフトも多数 たすう 存在 そんざい しており、年賀状 ねんがじょう の素材 そざい 集 しゅう や音楽 おんがく のMIDI データなども発売 はつばい された[12] 。
1993年 ねん 頃 ごろ には同人 どうじん ソフト の取 と り扱 あつか いを開始 かいし し、アイマジック のように一般 いっぱん 企業 きぎょう に転身 てんしん したサークルも出 で てきた[2] 。また、アイマジックはデジタルカタログソフト『おうちでTAKERU』の開発 かいはつ にも関 かか わっている[2] 。店頭 てんとう での待 ま ち時間 じかん を減 へ らすために作 つく られたこのソフトは、TAKERU上 じょう でPC-9801 やX68000 向 む けに販売 はんばい されたほか、1995年 ねん 頃 ごろ に発売 はつばい された『マイコンBASICマガジン 』、『TECH Win 』などのパソコン雑誌 ざっし の付録 ふろく CD-ROMなどにWindows 3.1 版 はん が収録 しゅうろく された[2] 。
1991年 ねん に『TAKERU CLUB』と呼 よ ばれる会員 かいいん 組織 そしき を導入 どうにゅう 。入会 にゅうかい 金 きん 500円 えん 、年会 ねんかい 費 ひ 500円 えん 。前回 ぜんかい の購入 こうにゅう 履歴 りれき ・住所 じゅうしょ ・氏名 しめい が記録 きろく された磁気 じき カードが発行 はっこう された。会員 かいいん 特典 とくてん として、マニュアルが別送 べっそう となるソフトを購入 こうにゅう する際 さい に住所 じゅうしょ ・氏名 しめい の入力 にゅうりょく が不要 ふよう 、会員 かいいん 価格 かかく で購入 こうにゅう できる、会員 かいいん 紙 し 『TAKERUわあるど』(『TAKERU PRESS』を会員 かいいん 向 む けに編集 へんしゅう したもの)が毎月 まいつき 送 おく られてくる、購入 こうにゅう 時 じ にクーポンが付 つ き(後 のち に廃止 はいし )それを欲 ほ しいソフトの金額 きんがく 分 ぶん 集 あつ めると購入 こうにゅう できる等 とう があった。会員 かいいん は約 やく 4万 まん 人 にん (1992年 ねん 3月 がつ 時点 じてん )。特 とく に若年 じゃくねん 層 そう が多 おお く、10代が58%、20代 だい が33%、合計 ごうけい 91%を占 し めていた[13] 。
1990年代 ねんだい に入 はい り、カラオケ が広 ひろ く普及 ふきゅう するが、この当時 とうじ のカラオケはレーザーディスク が主体 しゅたい であり、30曲 きょく 程度 ていど しか入 はい らない上 じょう 、最新 さいしん 曲 きょく の導入 どうにゅう まで数 すう か月 げつ かかっていた[3] 。そこで中谷 なかたに らはTAKERUのネットワークを用 もち いて楽曲 がっきょく データの配信 はいしん を思 おも いつき[注 ちゅう 3] 、通信 つうしん カラオケJOYSOUND (JS-1シリーズ 初代 しょだい JOYSOUND)が誕生 たんじょう した[3] 。また、TAKERUのソフトウェア配信 はいしん サーバとJOYSOUNDの楽曲 がっきょく データ配信 はいしん サーバは当時 とうじ は同一 どういつ のシステムで稼動 かどう しており、昼 ひる はTAKERUを主体 しゅたい 、夜 よる はJOYSOUNDを主体 しゅたい に稼働 かどう していたため、システム稼働 かどう 率 りつ を高 たか く保 たも てた。また、TAKERUの技術 ぎじゅつ を生 い かして証明 しょうめい 書 しょ 自動 じどう 発行 はっこう 機 き も生 う まれた。
サービス開始 かいし から10年 ねん 後 ご の1997年 ねん 2月 がつ 、本 ほん サービスは終了 しゅうりょう した[2] 。安 やす 友 とも は2016年 ねん の「日経 にっけい TRENDY 」とのインタビューの中 なか で、当時 とうじ は黒字 くろじ になっていたとしつつも、インターネットの環境 かんきょう がパソコンの処理 しょり 能力 のうりょく に追 お いついておらず、将来 しょうらい 性 せい の観点 かんてん からサービスを終了 しゅうりょう したと語 かた っている[6] 。
当初 とうしょ は革新 かくしん 性 せい が注目 ちゅうもく されたものの、通信 つうしん 契約 けいやく が従 したがえ 量 りょう 制 せい だった上 うえ 、データ送信 そうしん に時間 じかん がかかってしまった結果 けっか 、売上 うりあげ を上回 うわまわ るほどの通信 つうしん 費 ひ を請求 せいきゅう され、赤字 あかじ に陥 おちい っていた[注 ちゅう 4] 。
通信 つうしん 費用 ひよう の問題 もんだい は専用 せんよう 線 せん から加入 かにゅう 電話 でんわ に変更 へんこう することで解決 かいけつ できたものの[5] 、売 う り上 あ げの低迷 ていめい は続 つづ き、社内 しゃない では撤退 てったい の声 こえ も上 あ がっていた[3] 。その原因 げんいん の一 ひと つがラインナップの貧弱 ひんじゃく さであった[11] 。このことについて、アスキーの2016年 ねん の記事 きじ では、多少 たしょう 安 やす く配信 はいしん しても売 う れる本数 ほんすう はパッケージタイトルには及 およ ばないと思 おも われていたとされている[11] 。一方 いっぽう 、2022年 ねん に放送 ほうそう されたNHKのテレビ番組 ばんぐみ 『神田 かんだ 伯 はく 山 やま のこれがわが社 しゃ の黒 くろ 歴史 れきし 』では、ソフトメーカーがサービス展開 てんかい 当時 とうじ 人気 にんき を博 はく していたファミリーコンピュータ に流 なが れてしまったことが指摘 してき されている[3] 。また、ファミリーコンピュータ用 よう ソフトなどは華 はな やかなパッケージや取扱 とりあつかい 説明 せつめい 書 しょ などで客 きゃく を引 ひ き付 つ けていたのに対 たい し、TAKERU用 よう のフロッピーディスクは無地 むじ のラベルであり自分 じぶん でタイトルを書 か き込 こ まなければいけないため[注 ちゅう 5] 、取扱 とりあつかい 説明 せつめい 書 しょ も文字 もじ 中心 ちゅうしん の質素 しっそ なものだった[3] [11] 。テコ入 てこい れに参加 さんか したブラザーの市場 いちば 調査 ちょうさ 部門 ぶもん であるライフ・リサーチ・センターの中谷 なかたに 幸夫 ゆきお [注 ちゅう 6] はNHKのテレビ番組 ばんぐみ 『神田 かんだ 伯 はく 山 やま のこれがわが社 しゃ の黒 くろ 歴史 れきし 』の中 なか で、客 きゃく がTAKERUでコピーしたフロッピーディスクを偽造 ぎぞう 品 ひん (コピー品 ひん )だと認識 にんしき していたことが印象 いんしょう 的 てき だったと振 ふ り返 かえ っている[3] 。
ブラザーは自社 じしゃ ソフトの開発 かいはつ に乗 の り出 だ すも、もともとゲームソフトの開発 かいはつ 経験 けいけん がなかったため、うまくいかなかった[3] 。そこで、ブラザーは同人 どうじん ゲームソフトやマニア向 む け作品 さくひん 、さらにはアダルトゲーム の配信 はいしん を行 おこな ってきたが、売 う り上 あ げの増大 ぞうだい にはつながらなかった[3] 。
その一方 いっぽう 、ユーザーとソフト開発 かいはつ 者 しゃ の両面 りょうめん からTAKERUに接 せっ してきたD4エンタープライズ の丸山 まるやま 武志 たけし は、パッケージソフトを作 つく るだけの体力 たいりょく がない小 ちい さな会社 かいしゃ にとって、会社 かいしゃ の設立 せつりつ 時 じ からソフトの販売 はんばい ができるTAKERUは大 おお きな存在 そんざい だったとみている[14] 。また、MSXの衰退 すいたい によってソフトの購入 こうにゅう が困難 こんなん になり、パッケージソフトの発売 はつばい 中止 ちゅうし も相次 あいつ ぐ中 なか 、MSXのマニアたちはTAKERUを通 つう じて新作 しんさく ソフトを購入 こうにゅう していた[15] 。
NPO法人 ほうじん ゲーム保存 ほぞん 協会 きょうかい の理事 りじ 長 ちょう を務 つと めるルドン・ジョゼフは、来日 らいにち して秋葉原 あきはばら を訪 おとず れた際 さい に、TAKERUの実機 じっき を見 み て衝撃 しょうげき を受 う けたと2016年 ねん のアスキーとのインタビューの中 なか で振 ふ り返 かえ っており、もしサービスを継続 けいぞく していれば、Steam に肩 かた を並 なら べる存在 そんざい になっていただろうと語 かた っている[16] 。
^ a b SVとはソフトベンダーの略 りゃく であり、「2000」は「2000年 ねん までに2000台 だい 設置 せっち し、2000億 おく 円 えん の売 う り上 あ げを達成 たっせい する」という目標 もくひょう を込 こ めてつけられた[5] 。
^ たとえば、『A列車 れっしゃ で行 い こう 』の通常 つうじょう 版 ばん (パッケージ販売 はんばい )は7,800円 えん であるのに対 たい し、TAKERUでの販売 はんばい 価格 かかく は6,600円 えん である[9] 。
^ カラオケに行 い きつくまでの経緯 けいい は媒体 ばいたい によって異 こと なっており、同志社大学 どうししゃだいがく の小林 こばやし 啓 あきら 志 こころざし による論文 ろんぶん 「カラオケのマーケティング史 し : パイオニアの事例 じれい を中心 ちゅうしん に」と、アスキーによる安 あん 友雄 ともお 一 いち へのインタビュー(2016)[2] では、音楽 おんがく 系 けい の教育 きょういく 機関 きかん からパソコン音楽 おんがく 普及 ふきゅう のためにMIDIをTAKERUで販売 はんばい するよう持 も ち掛 か けられたことがきっかけだった一方 いっぽう 、NHKのテレビ番組 ばんぐみ 『神田 かんだ 伯 はく 山 やま のこれがわが社 しゃ の黒 くろ 歴史 れきし 』での再現 さいげん VTRでは、ブラザーの社員 しゃいん が偶然 ぐうぜん 寄 よ ったカラオケバーで歌 うた いたい曲 きょく がないことに気 き づいたという描写 びょうしゃ がなされている[3] 。
^ 具体 ぐたい 的 てき には、サービス開始 かいし 1か月 げつ の時点 じてん で売上 うりあげ 1000万 まん 円 えん に対 たい し1300万 まん 円 えん の通信 つうしん 費 ひ がかかっていた[3]
^ このため、ラベルを自作 じさく する者 もの が多 おお かった[14] 。その一方 いっぽう 、『セレクテッドソーサリアン』(TAKERU配信 はいしん 作 さく 『ソーサリアン 』の追加 ついか シナリオ集 しゅう )のように、特典 とくてん という形 かたち でケースやラベルがユーザーに贈 おく られる場合 ばあい もあった[14] 。
^ のちのテイチクエンタテインメント 会長 かいちょう (2022年 ねん 8月 がつ 時点 じてん )[3] 。
BCN This Week 1986年 ねん 3月 がつ 31日 にち vol.157「ブラザ ぶらざ ー販売 はんばい 「ソフト自販 じはん システム」本格 ほんかく 販売 はんばい へ」BCN
BCN This Week 1990年 ねん 4月 がつ 9日 にち vol.350「ブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう タケル 今後 こんご 1年 ねん で倍増 ばいぞう へ」BCN
BCN This Week 1991年 ねん 4月 がつ 8日 にち vol.398「ブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう タケルをバージョンアップ」BCN
BCN This Week 1991年 ねん 7月 がつ 22日 にち vol.412「ブラザ ぶらざ ー工業 こうぎょう NEW TAKERUを〝実戦 じっせん 配備 はいび 〟」BCN
小林 こばやし 啓 あきら 志 こころざし 「カラオケのマーケティング史 し : パイオニアの事例 じれい を中心 ちゅうしん に 」『同志社 どうししゃ 商学 しょうがく 』第 だい 61巻 かん 第 だい 6号 ごう 、2010年 ねん 3月 がつ 15日 にち 、56–81頁 ぺーじ 、ISSN 03872858 。
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1 1984年 ねん 4月 がつ 以降 いこう は複数 ふくすう 社 しゃ 提供 ていきょう で継続 けいぞく カテゴリ