既 すんで 視 し 感 かん (きしかん)は、実際 じっさい は一 いち 度 ど も体験 たいけん したことがないのに、すでにどこかで体験 たいけん したことのように感 かん じる現象 げんしょう である。フランス語 ふらんすご : "déjà-vu" [ † 1] よりデジャヴュ 、フランス語 ふらんすご 由来 ゆらい の英語 えいご "déjà vu "[ † 2] よりデジャヴ、デジャブ、デジャビュ、デジャビュー、デジャヴー、デジャヴューなどとも呼 よ ばれる。
フランス語 ふらんすご の vu (「見 み る」を意味 いみ する動詞 どうし voir の過去 かこ 分詞 ぶんし )、および、訳語 やくご の「視 し 」は、いずれも視覚 しかく を意味 いみ するものであるが、聴覚 ちょうかく 、触覚 しょっかく など視覚 しかく 以外 いがい の要素 ようそ もここでいう「体験 たいけん 」のうちに含 ふく まれる。既知 きち 感 かん ともいう。
既 すんで 視 し 感 かん と逆 ぎゃく に、見慣 みな れたはずのものが未知 みち のものに感 かん じられることを未 み 視 み 感 かん という。フランス語 ふらんすご "jamais vu "[ † 3] [ † 4] よりジャメヴュ 、と呼 よ ぶ。他 た の表記 ひょうき において、ジャメヴ、ジャメヴュー、ジャメブ、ジャメビュ、ジャメビューなどとも呼 よ ばれる。
一般 いっぱん 的 てき な既 すんで 視 し 感 かん は、その体験 たいけん を「よく知 し っている」という感覚 かんかく だけでなく、「確 たし かに見 み た覚 おぼ えがあるが、いつ、どこでのことか思 おも い出 だ せない」というような違和感 いわかん を伴 ともな う場合 ばあい が多 おお い。過去 かこ の体験 たいけん は夢 ゆめ に属 ぞく するものであると考 かんが えられるが、多 おお くの場合 ばあい 、既 すんで 視 し 感 かん は過去 かこ に実際 じっさい に体験 たいけん したという確固 かっこ たる感覚 かんかく があり、夢 ゆめ や単 たん なる物忘 ものわす れとは異 こと なる。デジャヴは神経 しんけい の“通 とお り道 みち ”が違 ちが ってくることで起 お こる脳 のう 内 ない の情報処理 じょうほうしょり プロセスに起因 きいん するものである。
過去 かこ の文学 ぶんがく 作品 さくひん においても言及 げんきゅう が見 み られ、近年 きんねん 現 あらわ れ始 はじ めた現象 げんしょう ではないことを示 しめ している。一般 いっぱん 大学生 だいがくせい の72%が経験 けいけん しているという調査 ちょうさ 結果 けっか がある[ 1] 。記憶 きおく 喪失 そうしつ や夢 ゆめ などのギミックと組 く み合 あ わせて、物語 ものがたり の伏線 ふくせん として利用 りよう されることもある。日本 にっぽん では映画 えいが 『君 きみ の名 な は 』や[ 2] 、夏目 なつめ 漱石 そうせき のエッセイ などにも描 えが かれている。
déjà vu という語 かたり は、超 ちょう 能力 のうりょく 研究 けんきゅう をしていたフランスの超 ちょう 心理 しんり 学者 がくしゃ エミール・ブワラック (英語 えいご 版 ばん ) がシカゴ大学 だいがく 在学 ざいがく 中 ちゅう に執筆 しっぴつ した『超 ちょう 心理 しんり 学 がく の将来 しょうらい 』(L'Avenir des sciences psychiques , 1917年 ねん )の中 なか で提唱 ていしょう されている。
この現象 げんしょう を説明 せつめい しようとする試 こころ みが多数 たすう ある。
既 すんで 視 し 感 かん は、統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう の発病 はつびょう 初期 しょき 段階 だんかい の人 ひと や、側 がわ 頭 あたま 葉 は てんかん症状 しょうじょう を持 も つ人 ひと に現 あらわ れることも一部 いちぶ でありはするが、かといって既 すんで 視 し 感 かん 全般 ぜんぱん を精神 せいしん 疾患 しっかん に結 むす びつけて説明 せつめい しようとするのは無理 むり がある。既 すんで 視 し 感 かん は健全 けんぜん な人 ひと に多発 たはつ することも稀 まれ ではなく、健常 けんじょう 人 じん が持 も っている、ごく一般 いっぱん 的 てき な感覚 かんかく である。すでに言及 げんきゅう したように、一般 いっぱん 大学生 だいがくせい の72%が経験 けいけん しているという調査 ちょうさ 結果 けっか もある[ 1] 。
ジークムント・フロイト はPsychopathologie de la vie quotidienne 『日常 にちじょう 生活 せいかつ の精神病 せいしんびょう 理学 りがく 』(1901年 ねん )において、デジャヴというのは既 すで に見 み た夢 ゆめ なのだ、とした。同 どう 著 ちょ では、以前 いぜん 見 み た夢 ゆめ がよみがえったのだが、無意識 むいしき のうちに見 み たものだから意識 いしき 的 てき には思 おも い出 だ すことができないものなのだ、とした。
超 ちょう 心理 しんり 学 がく 的 てき な見方 みかた を好 この む者 もの などでは、しばしば予知 よち 夢 ゆめ と関連 かんれん づけて考察 こうさつ することがある。
だが「実際 じっさい にはそうした夢 ゆめ すら見 み ていない場合 ばあい が多 おお く、別 べつ の内容 ないよう である場合 ばあい も多 おお い」とする批判 ひはん 、また「体験 たいけん するのと同時 どうじ に、過去 かこ に同 おな じ体験 たいけん を夢 ゆめ で見 み たという記憶 きおく を作 つく り上 あ げ、その場合 ばあい でも夢 ゆめ を見 み たと感 かん じるためだ」という批判 ひはん もある。 [要 よう 出典 しゅってん ]
20世紀 せいき 末 まつ から、既 すんで 視 し 感 かん は心理 しんり 学 がく や脳神経 のうしんけい 学的 がくてき 研究 けんきゅう 対象 たいしょう として注目 ちゅうもく された。しかし、実験 じっけん で既 すんで 視 し 感 かん を再現 さいげん することは非常 ひじょう に困難 こんなん であるため、実験 じっけん を通 とお しての研究 けんきゅう 法 ほう は確立 かくりつ していない。
これらの領域 りょういき では、既 すんで 視 し 感 かん は予知 よち ・予言 よげん ではなく、「記憶 きおく が呼 よ び覚 さ まされるような強 つよ い印象 いんしょう を与 あた える記憶 きおく 異常 いじょう 」と考 かんが えられている。
ほとんどのケースではその瞬間 しゅんかん の記憶 きおく のみが強 つよ く、その記憶 きおく を体験 たいけん した状況 じょうきょう (いつ、どこで、など)についてははっきりしないことが多 おお い。同様 どうよう に時間 じかん の経過 けいか により、既 すんで 視 し 感 かん の経験 けいけん 自体 じたい が落 お ち着 つ かない経験 けいけん として強 つよ く記憶 きおく に残 のこ り、既 すんで 視 し 感 かん を引 ひ き起 お こした事象 じしょう や状況 じょうきょう の記憶 きおく はほとんど残 のこ らない。これは「短期 たんき 記憶 きおく と長期 ちょうき 記憶 きおく の重 かさ なり合 あ いが原因 げんいん 」と考 かんが えられている。体験 たいけん している事象 じしょう は、脳 のう の意識 いしき 的 てき に働 はたら いている部分 ぶぶん が情報 じょうほう を受 う け取 と る前 まえ に記憶 きおく に蓄 たくわ えられ、処理 しょり されるからである。
他 た の視覚 しかく に関連 かんれん づけた説明 せつめい もある。「片目 かため がもう片方 かたがた の目 め よりわずかに早 はや く見 み た部分 ぶぶん 的 てき な視覚 しかく が記憶 きおく され、ミリ秒 びょう 後 ご にもう片方 かたがた の目 め で見 み た、同 おな じ光景 こうけい が強 つよ い既 すんで 視 し 感 かん を引 ひ き起 お こす」というものである。しかしこの説明 せつめい では、既 すんで 視 し 感 かん のきっかけが聴覚 ちょうかく によるものや指先 ゆびさき によるものである場合 ばあい を説明 せつめい できない。また、隻眼 せきがん の者 もの も既 すんで 視 し 感 かん を経験 けいけん することが報告 ほうこく されており、これも説明 せつめい できない。
「人間 にんげん の感覚 かんかく から神経 しんけい を通 とお ってきた信号 しんごう が、脳 のう 内 ない で認識 にんしき し記憶 きおく される段階 だんかい で、脳 のう 内 ない で認識 にんしき される作業 さぎょう 以前 いぜん に、別 べつ ルートを通 とお り記憶 きおく として直接 ちょくせつ 脳 のう 内 ない に記憶 きおく として蓄 たくわ えられ、脳 のう が認識 にんしき をした段階 だんかい で、既 すで に記憶 きおく として存在 そんざい するという事実 じじつ を再 さい 認識 にんしき することによりおこる現象 げんしょう ではないか」とする説 せつ がある。
統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう の発病 はつびょう 初期 しょき や側 がわ 頭 あたま 葉 は てんかん の症状 しょうじょう として発現 はつげん することも多 おお く、かつては精神 せいしん 疾患 しっかん や脳 のう 疾患 しっかん などを原因 げんいん とする「記憶 きおく 異常 いじょう の問題 もんだい 」と考 かんが えられた時期 じき もあった。認知 にんち 心理 しんり 学 がく が専 せん 門 もん の京都大学 きょうとだいがく ・大学院 だいがくいん 教育 きょういく 学 がく 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ 楠 くすのき 見 み 孝 こう よれば、約 やく 7割 わり の人 ひと が経験 けいけん するほど普遍 ふへん 的 てき な体験 たいけん で、記憶 きおく 異常 いじょう 現象 げんしょう ではなく、人 ひと の認知 にんち における「類似 るいじ 性 せい 認知 にんち メカニズム」の働 はたら きによって生 しょう じる現象 げんしょう と考 かんが えられている。例 たと えば、場所 ばしょ についてのデジャビュを引 ひ き起 お こすのは、ごくありふれた公園 こうえん 、並木道 なみきみち 、町並 まちな み などが多 おお いが、これらがどこも似 に たような類似 るいじ する光景 こうけい であるために、反復 はんぷく して経験 けいけん を重 かさ ねることで記憶 きおく の重層 じゅうそう 化 か が引 ひ き起 お こされ、細部 さいぶ の忘却 ぼうきゃく が重 かさ なって「典型 てんけい 的 てき 光景 こうけい 」が形成 けいせい される。この典型 てんけい 的 てき 光景 こうけい が、眼前 がんぜん の光景 こうけい と類似 るいじ することでデジャヴが引 ひ き起 お こされるという。この際 さい 、どの記憶 きおく なのかが特定 とくてい できないことで不思議 ふしぎ な気分 きぶん が引 ひ き起 お こされる。一方 いっぽう 、人 ひと についてのデジャヴでは、通 とお りすがりの人物 じんぶつ については起 お こらず、例 たと えば「初対面 しょたいめん の同級生 どうきゅうせい 」などのように、私的 してき な関係 かんけい の始 はじ まりにおいて起 お こりやすい。この際 さい の「よく似 に ている」とする印象 いんしょう に関連付 かんれんづ けられる人物 じんぶつ は、長 なが くあっていない過去 かこ の同級生 どうきゅうせい や遠 とお い親戚 しんせき 程度 ていど の知人 ちじん である場合 ばあい が多 おお く、外観 がいかん ・雰囲気 ふんいき なども含 ふく め「漠然 ばくぜん としたイメージ」的 てき な、全体 ぜんたい 的 てき な類似 るいじ 性 せい に起因 きいん する。楠 くすのき 見 み は、デジャビュは「現前 げんぜん の光景 こうけい と類似 るいじ 性 せい の高 たか い光景 こうけい を長期 ちょうき 記憶 きおく から自動的 じどうてき に思 おも い出 だ すプロセス」に関係 かんけい し、「人 ひと の記憶 きおく は似 に ている出来事 できごと 同士 どうし が強 つよ く結 むす びついていること」や「人 ひと は、眼前 がんぜん の風景 ふうけい や人 ひと と似 に ているものを記憶 きおく から探 さが し出 だ すことに優 すぐ れている」ことから生 しょう じる現象 げんしょう と説明 せつめい した[ 3] 。
日常 にちじょう 会話 かいわ の中 なか では、「新 あたら しい要素 ようそ がない」ということの例 たと えとして、否定 ひてい 的 てき に使 つか われることがある。
楠 くすのき 見 み 孝 こう 「類似 るいじ 性 せい に基 もと づく事例 じれい 検索 けんさく の認知 にんち 的 てき 分析 ぶんせき -アナロジー・メタファ・デジャブ」1995年 ねん 。 人工 じんこう 知能 ちのう 学会 がっかい 32回 かい 知識 ちしき ベータシステム研究 けんきゅう 会 かい , 1995
泉山 いずみやま 秋 あき 『ずっと不思議 ふしぎ だった夢 ゆめ の秘密 ひみつ : 予知 よち 夢 ゆめ ・デジャヴ・自覚 じかく 夢 ゆめ 』双葉社 ふたばしゃ 、2000年 ねん 。
郡司 ぐんじ ペギオ-幸夫 ゆきお 『時間 じかん の正体 しょうたい : デジャブ・因果 いんが 論 ろん ・量子 りょうし 論 ろん 』講談社 こうだんしゃ 、2008年 ねん 。