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ドロテア・ダグラス・チェンバース

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ドロテア・ダグラス・チェンバース
Dorothea Douglass Chambers
ドロテア・ダグラス・チェンバース
基本きほん情報じょうほう
フルネーム Dorothea Katherine Douglass Lambert Chambers
愛称あいしょう ドリー
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
出身しゅっしん どう・イーリング
生年月日せいねんがっぴ (1878-09-03) 1878ねん9月3にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1960-01-07) 1960ねん1がつ7にち(81さいぼつ
死没しぼつ どう・ケンジントン
殿堂でんどう 1981ねん
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・シングルス
ちょんすぐる 優勝ゆうしょう(1903・04・06・10・11・13・14)
全米ぜんべい ベスト8(1925)
優勝ゆうしょう回数かいすう 7(えい1)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・ダブルス
ちょんすぐる じゅん優勝ゆうしょう(1913・19・20)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき混合こんごうダブルス
ちょんすぐる じゅん優勝ゆうしょう(1919)
獲得かくとくメダル
女子じょし テニス
オリンピック
きむ 1908 ロンドン シングルス

ドロテア・ダグラス・チェンバースDorothea Douglass Chambers, 1878ねん9月3にち - 1960ねん1がつ7にち)は、イングランド・イーリング出身しゅっしん女子じょしテニス選手せんしゅ20世紀せいき初頭しょとう活躍かつやくし、ウィンブルドン選手権せんしゅけん女子じょしシングルスに「7しょう」(女子じょし歴代れきだい3タイ)をげた選手せんしゅである。フルネームは Dorothea Katherine Douglass Lambert Chambers (ドロテア・キャスリーン・ダグラス・ランバート・チェンバース)という。もと名前なまえは「ドロテア・キャスリーン・ダグラス」(Dorothea Katherine Douglass)といったが、ロバート・ランバート・チェンバース(Robert Lambert Chambers)との結婚けっこんにより、このフルネームとなった。彼女かのじょは「ドリー」(Dolly)という愛称あいしょうばれることもあった。(彼女かのじょ名前なまえ様々さまざま仕方しかた表記ひょうきされるが、ほん記事きじでは国際こくさいテニス殿堂でんどうなどでもっと一般いっぱんてきもちいられている「ドロテア・ダグラス・チェンバース」を見出みだしとして記載きさいする。)

来歴らいれき

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ドロテア・ダグラスは1903ねんウィンブルドン女子じょしシングルスではつ優勝ゆうしょうかざり、以後いご1907ねんまで5ねん連続れんぞく決勝けっしょう進出しんしゅつした。1906ねんまでは「ドロテア・キャスリーン・ダグラス」の名前なまえでウィンブルドン優勝ゆうしょう記録きろくひょう掲載けいさいされているが、そのロバート・ランバート・チェンバースと結婚けっこんし、1907ねんからは既婚きこん女性じょせい名前なまえ掲載けいさいされる。その場合ばあいも、おっとせいだけをもちいて「ドロテア・ランバート・チェンバース」と表記ひょうきされることもおおい。1908ねんロンドン五輪ごりんで、ドロテア・ダグラス・チェンバースは女子じょしシングルス決勝けっしょうおなイギリスドラ・ブースビー1881ねん - 1970ねん)を 6-1, 7-5 でやぶってきんメダルを獲得かくとくした。その、チェンバース夫妻ふさいには2人ふたり子供こどもまれたが、ドロテアはだい1出産しゅっさん1910ねん1911ねんのウィンブルドンを連覇れんぱし、だい2出産しゅっさん1913ねん1914ねんのウィンブルドンを連覇れんぱした。こうして彼女かのじょのウィンブルドン女子じょしシングルス優勝ゆうしょう総計そうけい「7しょう」となったが、1914ねんのウィンブルドン選手権せんしゅけん終了しゅうりょうだい1世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした。世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつまで、ウィンブルドン選手権せんしゅけん開催かいさい中止ちゅうし余儀よぎなくされた。

だい1世界せかい大戦たいせん1918ねん11月に終結しゅうけつしたのち1919ねんからウィンブルドン選手権せんしゅけん再開さいかいされ、すでに40さい高齢こうれいむかえていたドロテア・ダグラス・チェンバースも大会たいかいもどってきた。1919ねん大会たいかいで、彼女かのじょ女子じょしシングルス・女子じょしダブルス・混合こんごうダブルスの3部門ぶもんすべてに決勝けっしょう進出しんしゅつたしたが、いずれもじゅん優勝ゆうしょうわった。このとし女子じょしシングルス決勝けっしょうで、チェンバースはフランススザンヌ・ランラン歴史れきしてき激戦げきせんひろげる。試合しあい時間じかんは2あいだ5ふんおよんだが、40さいのチェンバースはだい3セットで2のマッチ・ポイント(このポイントをれば試合しあい勝利しょうりまる)をのがし、20さいのランランに 8-10, 6-4, 7-9 でやぶれた。この試合しあいをきっかけに、女子じょしテニスかいでスザンヌ・ランランの時代じだいまくける。チェンバースはダブルスせんでは、女子じょしダブルス・混合こんごうダブルスともエリザベス・ライアンくみやぶれた。1920ねん女子じょしシングルス決勝けっしょうは2ねん連続れんぞくでチェンバースとランランの顔合かおあわせになったが、チェンバースはもはやランランと対等たいとうたたかえず、最後さいご女子じょしシングルス決勝けっしょうは 3-6, 0-6 の完敗かんぱいわった。最後さいご舞台ぶたいとなった1920ねん記録きろくした「41さい10ヶ月かげつ」は、女子じょしシングルス決勝けっしょう進出しんしゅつしゃ最年長さいねんちょう記録きろくとしてのこっている。

最後さいごのウィンブルドン出場しゅつじょうから5ねん、チェンバースは47さい高齢こうれい1925ねん全米ぜんべい選手権せんしゅけん遠征えんせいし、エリナー・ゴスとの準々じゅんじゅん決勝けっしょうまですすんだ。彼女かのじょ全米ぜんべい選手権せんしゅけん出場しゅつじょうは、この1だけである。

だい1世界せかい大戦たいせんをはさんだながいテニス経歴けいれきつうじて、ドロテア・ダグラス・チェンバースはウィンブルドン選手権せんしゅけん女子じょしシングルスで「11決勝けっしょう進出しんしゅつ(7しょう4はい)の記録きろくのこした。どう選手権せんしゅけん女子じょしシングルスにおける決勝けっしょう進出しんしゅつ回数かいすう記録きろくは、ブランチ・ビングリー1863ねん - 1946ねん)の「13」(6しょう7はい)、マルチナ・ナブラチロワの「12」(9しょう3はい、9優勝ゆうしょう女子じょし歴代れきだい1)につづ歴代れきだい3記録きろくである。女子じょしシングルス通算つうさん7しょうは、ヘレン・ウィルス・ムーディ1905ねん - 1998ねん)が8度目どめ優勝ゆうしょう達成たっせいした1938ねんまでウィンブルドンの最多さいた優勝ゆうしょう記録きろくであった。ドロテア・ダグラス・チェンバースは1960ねん1がつ7にちロンドン市内しないケンジントンで81さい生涯しょうがいじた。1981ねん国際こくさいテニス殿堂でんどうはいり。

チェンバースの没後ぼつごマルチナ・ナブラチロワ1990ねん女子じょしシングルス「9しょう」の金字塔きんじとう樹立じゅりつして女子じょし歴代れきだい1となり、8しょうヘレン・ウィルス・ムーディは2、7しょうのチェンバースは3後退こうたいした。1996ねんにはシュテフィ・グラフが7度目どめ優勝ゆうしょう達成たっせいし、チェンバースとなら女子じょし歴代れきだい3タイにつけた。1966ねんから1975ねんにかけて6優勝ゆうしょうしたビリー・ジーン・キング夫人ふじんは、チェンバースに1つおよばなかった。ウィンブルドンの歴史れきしつうじて、この5にん女子じょし選手せんしゅ大会たいかい史上しじょうのこ偉人いじんとして記録きろくにとどめられている。

ウィンブルドン選手権せんしゅけん成績せいせき

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  • 女子じょしシングルス優勝ゆうしょう:7しょう(1903ねん&1904ねん・1906ねん・1910ねん&1911ねん・1913ねん&1914ねん
  • 女子じょしシングルスじゅん優勝ゆうしょう:4(1905ねん・1907ねん/1919ねん&1920ねん
女子じょしダブルスじゅん優勝ゆうしょう3:1913ねん1919ねん&1920ねん/混合こんごうダブルスじゅん優勝ゆうしょう11919ねん

外部がいぶリンク

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