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ナネッテ・シュトライヒャー (Nannette Streicher 旧姓 きゅうせい シュタイン (Stein) 1769年 ねん 1月 がつ 2日 にち - 1833年 ねん 1月 がつ 16日 にち )は、ドイツ 生 う まれのピアノ製造 せいぞう 技師 ぎし 、作曲 さっきょく 家 か 、音楽 おんがく 教師 きょうし 、作家 さっか 。
シュトライヒャーはアウクスブルク に生 う まれた。オルガン 及 およ びピアノの製造 せいぞう 業 ぎょう を営 いとな むヨハン・アンドレアス・シュタイン (1728年 ねん - 1792年 ねん )と妻 つま のマグダレーナ(1742年 ねん - 1800年 ねん )の間 あいだ の6番目 ばんめ の子 こ どもであった。早 はや くから父 ちち よりピアノのレッスンを受 う ける。父 ちち は友人 ゆうじん のイグナーツ・フォン・ベーク の影響 えいきょう を受 う けていた。アウクスブルクでは演奏 えんそう 会 かい でピアノ演奏 えんそう を行 おこな い、時 とき には友人 ゆうじん のナネッテ・フォン・シャーデンが一緒 いっしょ に舞台 ぶたい に上 あ がることもあった。1787年 ねん にはあるコンサートで「知 し られていないアリア数 すう 曲 きょく 」を歌 うた ったが、後 のち に健康 けんこう 上 じょう の理由 りゆう で歌唱 かしょう の道 みち を断念 だんねん している。父 ちち が1792年 ねん 2月 がつ 29日 にち に他界 たかい し、彼女 かのじょ が独立 どくりつ してピアノ工房 こうぼう を続 つづ けることになった。
1793年 ねん に音楽家 おんがくか のヨハン・アンドレアス・シュトライヒャー (1761年 ねん - 1833年 ねん )と結婚 けっこん し、1794年 ねん になると彼 かれ とともにウィーン へ移 うつ り住 す む。父 ちち の事業 じぎょう を受 う け継 つ いだ当初 とうしょ は弟 おとうと のマティアス・アンドレアス・シュタイン(1776年 ねん - 1842年 ねん )と共同 きょうどう であったが、その後 ご 1802年 ねん からは彼女 かのじょ 自身 じしん の名前 なまえ を冠 かん するようにした("Nannette Streicher née Stein")。夫 おっと の支 ささ えと、1824年 ねん から1825年 ねん にかけては息子 むすこ のヨハン・バプティスト (1796年 ねん - 1871年 ねん )が共同 きょうどう 経営 けいえい に加 くわ わったこともあり、会社 かいしゃ は重要 じゅうよう なピアノ製作 せいさく 会社 かいしゃ へと成長 せいちょう を遂 と げた。工場 こうじょう を単独 たんどく で切 き り盛 も りしていたヨハン・バプティストの経営 けいえい 手腕 しゅわん により、多 おお くの特許 とっきょ を取得 しゅとく して世界 せかい 的 てき に有名 ゆうめい となるまでになった。会社 かいしゃ は1896年 ねん にシュティングル兄弟 きょうだい に売却 ばいきゃく された。
ナネッテとアンドレアスのシュトライヒャー夫妻 ふさい の活動 かつどう はピアノ製造 せいぞう のみに留 と まらなかった。彼女 かのじょ はまず自宅 じたく で、1812年 ねん 以降 いこう は自 みずか らサロン を組織 そしき して演奏 えんそう 会 かい を催 もよお し、若 わか い芸術 げいじゅつ 家 か に自由 じゆう な演奏 えんそう の機会 きかい を提供 ていきょう した。これがウィーンの音楽 おんがく 会 かい にもたらしたものは大 おお きく、夫妻 ふさい の友人 ゆうじん 、客人 きゃくじん の中 なか にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン やヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ らがいた。
音楽 おんがく サークルに友人 ゆうじん や客人 きゃくじん が集 あつ まると、ナネッテは彼 かれ らの前 まえ で私的 してき にピアノ演奏 えんそう を披露 ひろう することもあった。母 はは 同様 どうよう にピアノ演奏 えんそう の才 ざい に恵 めぐ まれた娘 むすめ のゾフィー(1797年 ねん -1840年 ねん )とも折 おり に触 ふ れて共演 きょうえん した。彼女 かのじょ のサークルにはウィーンの著名 ちょめい 音楽家 おんがくか も多数 たすう 参加 さんか しており、ベートーヴェンとの親交 しんこう は60通 つう を超 こ える書簡 しょかん に記録 きろく されている。甥 おい カール の後見人 こうけんにん となったベートーヴェンはそうしたやり取 と りの中 なか で、彼女 かのじょ に対 たい して日常 にちじょう 的 てき な事柄 ことがら や教育 きょういく に関 かん する疑問 ぎもん をぶつけ、援助 えんじょ を求 もと めていた。
1833年 ねん 1月 がつ 16日 にち 、2か月 げつ に及 およ ぶ闘病 とうびょう 生活 せいかつ ののちにウィーンで息 いき を引 ひ き取 と った。
Deux Marches pour le Piano Forte. Composées par Madame Nannette Streicher née Stein. Prix 75 Cs. Bonn et Cologne chez N. Simrock . Propriété de l‘Editeur 1378. [1827.]
Klage über den frühen Tod der Jungfer Ursula Sabina Stage. Für eine Singstimme und Klavier (c-Moll), Augsburg 1788.
Uta Goebl-Streicher, Jutta Streicher und Michael Ladenburger (eds.). Beethoven and the Viennese piano .
Catalog of the collection of old musical instruments, Part I . Vienna: Kunsthistorisches Museum, 1966.
Women's Conversation Lexikon , Volume 9, 1837, pp. 449–452.
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