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ニコラ・ルブラン

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ニコラ・ルブラン

ニコラ・ルブラン(Nicolas Leblanc, 1742ねん12月6にち1806ねん1がつ16にち)は、フランス化学かがくしゃ外科医げかいでもある。

塩化えんかナトリウムから炭酸たんさんナトリウム合成ごうせいする方法ほうほうルブランほう)をはじめて発見はっけんした。ルブランほうはフランスではなく、おもイギリス発展はってんし、ソルベーほう発明はつめいされるまで100ねん以上いじょう化学かがく工業こうぎょう基盤きばんとなった。

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ルブランはフランスのイスーダン (Issoudun) でまれた。かれ父親ちちおやちいさな製鉄せいてつ工場こうじょう下級かきゅう役員やくいんだったが、1751ねん死去しきょした。ルブランは一家いっかきわめてしたしい友人ゆうじんであった医師いしビエンとともむためにブールジュおくられた。この後見人こうけんにん影響えいきょうにより、ルブランは医学いがくたいする興味きょうみつようになった。ビエンが1759ねん死去しきょしたとき、ルブランはパリの Ecole de Chirurgie (医学いがく大学だいがく)に入学にゅうがくした。

外科げかがく修士しゅうしごう卒業そつぎょうし、ルブランは診療しんりょうしょ開設かいせつした。1775ねん結婚けっこんし、その4ねん最初さいしょ子供こどもさずかった。診療しんりょうしょ患者かんじゃから治療ちりょうだけでは家族かぞく十分じゅうぶん収入しゅうにゅうることができなかったので、ルブランは1780ねんオルレアン私的してき侍従じじゅうとなった。

ルブランほう

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当時とうじ炭酸たんさんナトリウム(ソーダとばれていた)の原料げんりょう木材もくざいはいだけであった。ところが、森林しんりん減少げんしょうする一方いっぽうなのにたいし、ソーダの需要じゅようしていた。このため、 1775ねん、フランス科学かがく学士がくしいん食塩しょくえんから炭酸たんさんナトリウムをつくすことのできる工程こうていたいするしょう提案ていあんした。フランス学士がくしいん安価あんか塩化えんかナトリウムから需要じゅようおお炭酸たんさんナトリウムを製造せいぞうすることを推進すいしんしたかった。

1791ねんまでに、ニコラ・ルブランは2段階だんかい反応はんのうによってしおから炭酸たんさんナトリウムを製造せいぞうすることに成功せいこうした。最初さいしょ段階だんかいでは、塩化えんかナトリウムは硫酸りゅうさんと800 – 900℃で混合こんごうされ、塩化えんか水素すいそしょうじ、固体こたい硫酸りゅうさんナトリウム生成せいせいされる。だい2段階だんかいで、硫酸りゅうさんナトリウムはくだいて木炭もくたん石灰石せっかいせき混合こんごうされ、ふたた高炉こうろなか加熱かねつされる。木炭もくたん混合こんごうした炭酸たんさんナトリウムは「くろはい」とばれた。これをみずかしたのち炭酸たんさんナトリウムのみを回収かいしゅうした。

海水かいすいちゅうしお硫酸りゅうさん原料げんりょうとしてもちいたニコラ・ルブランの方法ほうほうたいしてしょう授与じゅよされた。のちに、1年間ねんかんに320トンの炭酸たんさんナトリウムを製造せいぞうするかれ自身じしん工場こうじょうがオルレアンこう援助えんじょによりパリのきた位置いちするサンドニに稼働かどうした。

晩年ばんねん

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2ねんに、ルブランの工場こうじょうフランス革命かくめい政府せいふにより没収ぼっしゅうされ、革命かくめい政府せいふは10ねんまえかれ賞金しょうきん支払しはらいをこばんだ。

1802ねんに、ナポレオン・ボナパルト工場こうじょうかれ返還へんかんしたが、懸賞けんしょうきん返還へんかんしなかった。ルブランはそのときまでにすでにひどく凋落ちょうらくしていたのでふたた工場こうじょう稼働かどうさせる余裕よゆうがなかった。借金しゃっきんかかえたルブランはうつびょうおちいり、1806ねんピストル自殺じさつした。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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