聖 ひじり ヨハネ・アリトゥルゲトス教会 きょうかい (14世紀 せいき )
前駆 ぜんく 授洗イオアン聖堂 せいどう (11世紀 せいき )
ネセバルの木造 もくぞう 建築 けんちく
ネセバルの旧 きゅう 市街 しがい
ネセバル 、あるいはネセブル (Nesebar , Nessebar , Nesebur , ブルガリア語 ご : Несебър , [nɛˈsɛbɐr] )は、ブルガリア の古代 こだい 都市 とし であり、現在 げんざい では海岸 かいがん 沿 ぞ いのリゾート地 ち となっているブルガス州 しゅう の町 まち 、およびそれを中心 ちゅうしん とした基礎 きそ 自治体 じちたい 。トラキア語 ご での名称 めいしょう はメネブリア (Menebria)、現代 げんだい ギリシャ語 ご ではメシンヴリア (Μεσημβρια 、Mesimvria )、かつての名称 めいしょう はメセンブリア (Mesembria ) である。ネセバルは3千年紀 せんねんき を超 こ える長 なが い歴史 れきし に裏付 うらづ けられた、豊 ゆた かな都市 とし 博物館 はくぶつかん である。
ネセバルは黒海 こっかい で最 もっと も有名 ゆうめい な観光 かんこう 地 ち であり、リゾート地 ち である。ネセバル付近 ふきん には多 おお くのリゾート拠点 きょてん があるが、その中 なか で最大 さいだい のものは町 まち のすぐ北 きた に位置 いち しているサニー・ビーチ である。
ネセバルの古代 こだい 都市 とし は、細長 ほそなが い人工 じんこう の地峡 ちきょう によって大陸 たいりく 部 ぶ とつながった半島 はんとう (かつては完全 かんぜん な島 しま であった)の上 うえ に築 きず かれ、その地形 ちけい ゆえに多 おお くの異 こと なる文明 ぶんめい による征服 せいふく から逃 のが れてきた。その豊富 ほうふ な歴史 れきし 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ の存在 そんざい により、ネセバルは1983年 ねん にUNESCO の世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された(ID217)[1] 。
もともとは、紀元前 きげんぜん 千年紀 せんねんき に興 おこ ったメナブリア (Menebria ) という名 な のトラキア人 じん の集落 しゅうらく であり、メガラ (Megara ) からきたドーリア人 じん によって紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき 初頭 しょとう にギリシャ植民 しょくみん 地 ち となった。以降 いこう 、重要 じゅうよう な交易 こうえき 拠点 きょてん として、アポロニア(ソゾポル )のライバルとなった。ヘレニズム 時代 じだい の遺物 いぶつ にはアクロポリス 、アポローン の神殿 しんでん 、そしてアゴラ がある。青銅 せいどう 、銀 ぎん のコインが紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき から、金 きむ のコインが紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき から鋳造 ちゅうぞう されていた。
町 まち は紀元前 きげんぜん 71年 ねん にロ ろ ーマ帝国 まていこく の支配 しはい 下 か となるが、その後 ご も独自 どくじ のコインの鋳造 ちゅうぞう など以前 いぜん からの特権 とっけん は守 まも られた。町 まち は紀元 きげん 後 ご 5世紀 せいき 以降 いこう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい には最 もっと も重要 じゅうよう な要塞 ようさい のひとつとなり、東 ひがし ローマと第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく の間 あいだ の戦闘 せんとう が行 おこな われた。812年 ねん にはブルガリア帝国 ていこく のクルム によってブルガリアの支配 しはい 下 か となったが、2週間 しゅうかん の包囲 ほうい の後 のち に東 ひがし ローマへと復 ふく した。864年 ねん にはブルガリア皇帝 こうてい シメオン1世 せい によって再 さい 征服 せいふく され、再度 さいど ブルガリア領 りょう となった。
第 だい 二 に 次 じ ブルガリア帝国 ていこく の時代 じだい もまた、ネセバルはブルガリアと東 ひがし ローマの争 あらそ いの的 まと となり、ブルガリア帝国 ていこく のイヴァン・アレクサンダル 帝 みかど (在位 ざいい 1331年 ねん -1371年 ねん )の支配 しはい 下 か で繁栄 はんえい を謳歌 おうか したが、サヴォイア伯 はく アメデーオ6世 せい (en ) 率 ひき いる十字軍 じゅうじぐん に征服 せいふく された。1366年 ねん に町 まち は東 ひがし ローマの支配 しはい 下 か に復 ふく する。町 まち のスラヴ語 ご 名称 めいしょう であるネセバル (Nesebar )、あるいはメセバル (Mesebar ) の名 な は11世紀 せいき 以降 いこう 使 つか われていたことが明 あき らかにされている。
中世 ちゅうせい からの建造 けんぞう 物 ぶつ には、5世紀 せいき -6世紀 せいき にかけての「古 こ 主教 しゅきょう 区 く 」(Стара Митрополия / Stara Mitropoliya 、en 。聖 せい ソフィア聖堂 せいどう 。トランセプトがない)、10世紀 せいき の聖堂 せいどう (生神 うるかみ 女 おんな 聖堂 せいどう )、11世紀 せいき の「新 しん 主教 しゅきょう 区 く 」(Нова Митрополия / Nova Mitropoliya 、en 。聖 ひじり ステファン聖堂 せいどう )、聖 せい パラスケヴァ聖堂 せいどう (en )、聖 せい テオドレ聖堂 せいどう 、大 だい 天使 てんし ミハイル・ガウリール聖堂 せいどう 、聖 ひじり ヨハネ・アリトゥルゲトス教会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) [2] などがある。
町 まち は1453年 ねん に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく からオスマン帝国 ていこく の支配 しはい 下 か へと変 か わり[3] 、町 まち は衰退 すいたい を始 はじ めるが、その歴史 れきし 的 てき 遺物 いぶつ は保存 ほぞん され、また19世紀 せいき にはブルガリアの黒海 こっかい 沿岸 えんがん 部 ぶ で典型 てんけい 的 てき な東 ひがし ルメリア様式 ようしき の木造 もくぞう 建築 けんちく の家屋 かおく が建 た ったことでその重 おも みを増 ま した。1878年 ねん のブルガリア解放 かいほう 以降 いこう は、ネセバルはオスマン帝国 ていこく の自治 じち 州 しゅう である「東 ひがし ルメリ自治 じち 州 しゅう 」の一部 いちぶ となり、後 ご の1886年 ねん に同 どう 自治 じち 州 しゅう がブルガリアに併合 へいごう されたことにより、ブルガリア領 りょう となった。
19世紀 せいき の末 すえ には、ネセバルはギリシャ人 じん の漁民 ぎょみん 、ワイン生産 せいさん 者 しゃ の住 す む小 ちい さな村 むら となっていたが、20世紀 せいき に入 はい ってからはブルガリアの沿岸 えんがん 部 ぶ リゾートの要 よう として開発 かいはつ が進 すす められた。1925年 ねん の住民 じゅうみん 交換 こうかん によりギリシャ人 じん が追放 ついほう されてから新 しん 市街 しがい が建設 けんせつ され、歴史 れきし 的 てき 地区 ちく は修復 しゅうふく された。
ネセバルは、ときに面積 めんせき あたりの聖堂 せいどう の数 かず が最 もっと も多 おお い街 まち といわれる[4] [5] 。これはおそらく事実 じじつ に反 はん するが、それでもなおネセバルに立 た ち並 なら ぶ多様 たよう な聖堂 せいどう は特筆 とくひつ すべきものである。その代表 だいひょう 的 てき な聖堂 せいどう には次 つぎ のようなものがある。
古 こ 主教 しゅきょう 区 く /聖 せい ソフィア聖堂 せいどう (5世紀 せいき -6世紀 せいき 、en )
生神 うるかみ 女 おんな エレウサ聖堂 せいどう (6世紀 せいき 、en )
前駆 ぜんく 授洗イオアン聖堂 せいどう (11世紀 せいき 、en )
新 しん 主教 しゅきょう 区 く /聖 ひじり ステファン聖堂 せいどう (11世紀 せいき 。16世紀 せいき -18世紀 せいき に修復 しゅうふく 、en )
聖 せい テオドレ聖堂 せいどう (13世紀 せいき 、en )
聖 せい パラスケヴァ聖堂 せいどう (13世紀 せいき -14世紀 せいき 、en )
大 だい 天使 てんし ミハイル・ガウリール聖堂 せいどう (13世紀 せいき -14世紀 せいき 、en )
全能 ぜんのう 者 しゃ ハリストス聖堂 せいどう (13世紀 せいき -14世紀 せいき 、en )
聖 ひじり ヨハネ・アリトゥルゲトス教会 きょうかい (14世紀 せいき 、en )
聖 せい スパス聖堂 せいどう (17世紀 せいき 、en )
聖 せい クリメント聖堂 せいどう (17世紀 せいき 、en )
東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい 、ブルガリア帝国 ていこく 時代 じだい 、オスマン帝国 ていこく 時代 じだい のいずれに建 た てられたものも、ネセバルの聖堂 せいどう 群 ぐん は正教会 せいきょうかい における重要 じゅうよう な建築 けんちく 遺跡 いせき であり、初期 しょき キリスト教 きりすときょう 様式 ようしき から中世 ちゅうせい のクロス・ドーム様式 ようしき への変遷 へんせん の過程 かてい を見 み ることが出来 でき る。
世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん [ 編集 へんしゅう ]
この世界 せかい 遺産 いさん は世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん のうち、以下 いか の条件 じょうけん を満 み たし、登録 とうろく された(以下 いか の基準 きじゅん は世界 せかい 遺産 いさん センター公表 こうひょう の登録 とうろく 基準 きじゅん からの翻訳 ほんやく 、引用 いんよう である)。
(3) 現存 げんそん するまたは消滅 しょうめつ した文化 ぶんか 的 てき 伝統 でんとう または文明 ぶんめい の、唯一 ゆいいつ のまたは少 すく なくとも稀 まれ な証拠 しょうこ 。
(4) 人類 じんるい の歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう な時代 じだい を例証 れいしょう する建築 けんちく 様式 ようしき 、建築 けんちく 物 ぶつ 群 ぐん 、技術 ぎじゅつ の集積 しゅうせき または景観 けいかん の優 すぐ れた例 れい 。
ネセバルは、ブルガス州 しゅう ネセバル基礎 きそ 自治体 じちたい (Община Несебър ) の中心 ちゅうしん である。ネセバル自治体 じちたい には、3町 まち 11村 むら が存在 そんざい している。
ネセバル歴史 れきし 地区 ちく のパノラマ画像 がぞう 。半島 はんとう 部 ぶ によって作 つく られる湾 わん の対岸 たいがん から望 のぞ む
Evaluation (PDF ) of the International Council on Monuments and Sites, June 1983
^ Главна Дирекция - Гражданска Регистрация и Административно Обслужване (2009年 ねん 6月 がつ 15日 にち ). “Таблица на населението по постоянен и настоящ адрес ” (ブルガリア語 ご ). 2009年 ねん 7月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。