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ハマー虐殺ぎゃくさつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハマー虐殺ぎゃくさつ
政府せいふぐんによる攻撃こうげきまち一角いっかく
場所ばしょ シリアの旗 シリア、ハマー
日付ひづけ 1982ねん2がつ2にち〜28にち
標的ひょうてき ムスリム同胞どうほうだん
攻撃こうげき手段しゅだん 焦土しょうど作戦さくせん
死亡しぼうしゃ 10,000にんから40,000にんのスンニ一般いっぱん市民しみん(推計すいけいにはばらつきがある)
犯人はんにん ハーフィズ・アル=アサド
リフアト・アル=アサド英語えいごばん
 • シリア陸軍りくぐん
 • シリア空軍くうぐん
 • ムハーバラート
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ハマー虐殺ぎゃくさつ (ハマーぎゃくさつ、アラビア: مجزرة حماة‎) は1982ねん2がつハーフィズ・アル=アサド大統領だいとうりょう命令めいれいによりシリアぐんハマーまち実行じっこうした焦土しょうど作戦さくせん結果けっかとしてこった。この、アサド政権せいけんのもとで蜂起ほうきしたムスリム同胞どうほうだん鎮圧ちんあつ目的もくてきとした作戦さくせん指揮しきしたのは、アサド大統領だいとうりょうおとうとであるリフアト・アル=アサドだとされている[1]指導しどうしゃそう大統領だいとうりょうふくアラウィ出身しゅっしん人間にんげんかたよっていたアサド政権せいけんたいして、ムスリム同胞どうほうだんをはじめとしたスンニイスラム主義しゅぎもの集団しゅうだんおこなった1976ねんはじまる組織そしきてき運動うんどうは、1982ねんのハマー虐殺ぎゃくさつにより事実じじつじょうわりをむかえた。

はじめ西側にしがわ諸国しょこく外交がいこうすじからつたえられた数字すうじは、1,000にん殺害さつがいされた、というものだった[2][3]。その推計すいけいにはばらつきがあり、もっとすくない10,000にん以上いじょうのシリア市民しみんころされたという報道ほうどうから[4]、20,000にんロバート・フィスク[1])、40,000にん(シリア人権じんけん委員いいんかい[5][6])まで数字すうじひらきがある。作戦さくせんちゅうにシリアぐん兵士へいしも1,000にんあまりが死亡しぼうし、歴史れきしあるまちだい部分ぶぶん破壊はかいされた。例外れいがいてきな、という意味いみではヨルダンのくろい9がつ事件じけんならぶであろう[7] この出来事できごとは「単一たんいつ事件じけんとしては現代げんだい中東ちゅうとうにおいてアラブけい政府せいふ国民こくみんたいしてこした最悪さいあく行動こうどう[8]ひとつにもかぞえられる。犠牲ぎせいしゃ圧倒的あっとうてきだい多数たすう一般いっぱん市民しみんだった[9]

シリア国内こくないのメディアのまとめによれば、戦闘せんとう開始かいししたはん政府せいふ暴徒ぼうとは「いえねむりについている我々われわれ仲間なかまおそいかかり、手当てあたり次第しだいおんな子供こどもころし、犠牲ぎせいしゃ遺体いたいをバラバラにして路上ろじょう放置ほうちしている。かれらはまるで狂犬きょうけんのようにくらにくしみにうごかされていた」。しかし治安ちあん部隊ぶたいが「かれらの犯罪はんざいかうべくうごきだし」、「殺人鬼さつじんきいきをとめてらしめた」[10]

背景はいけい

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アラブ民族みんぞく主義しゅぎアラブ社会しゃかい主義しゅぎ標榜ひょうぼうするシリアのス党すとう保守ほしゅ主義しゅぎかかげるムスリム同胞どうほうだんと1940ねん以来いらい衝突しょうとつかえしていた[11]。このふたつの組織そしき重要じゅうようてんかんがえをことにしていた。世俗せぞくてきかつ民族みんぞく主義しゅぎてきで、少数しょうすうのアラウィひきいられるス党すとう(さらにアラウィ保守ほしゅてきなスンニのイスラム教徒きょうとから異端いたんとみなされていた)とのイスラム主義しゅぎ組織そしき同様どうよう民族みんぞく主義しゅぎイスラムてきとみなし、政治せいじおよび政府せいふ信仰しんこうとは分離ぶんりできないとかんがえるムスリム同胞どうほうだんちがいはおおきかった。ス党すとういんだい多数たすう社会しゃかいてき地位ちいひく出自しゅつじ不明ふめいであり、過激かげき経済けいざい政策せいさくこのんだのにたいして、スンニのムスリムはシリアの権力けんりょく基盤きばんさえ、スーク支配しはいしており、経済けいざい介入かいにゅうする政府せいふ脅威きょういとみなす傾向けいこうにあった[12]。とはいえスンニ著名ちょめいじんすべ原理げんり主義しゅぎ信奉しんぽうしていたわけではなく、同胞どうほうだんス党すとう対抗たいこうするための便利べんり道具どうぐとみていただけでもない[13]

政府せいふぐんによる攻撃こうげきまえのハマーのまち

ハマーはたんなるシリアのいち都市としではなく「このづく保守ほしゅ主義しゅぎとムスリム同胞どうほうだんとりで」であり「かねてからス党すとう国家こっかおそれるべきてきであった」。両派りょうはによる最初さいしょ本格ほんかくてき衝突しょうとつが1963ねんのクーデター(ラマダーン革命かくめい)の直後ちょくごこり、 この騒乱そうらんのなかでス党すとうはじめてシリア国内こくない権力けんりょく掌握しょうあくした。しかし1964ねん4がつにハマーで暴動ぼうどうこり、イスラム教徒きょうとはん政府せいふ勢力せいりょくが「バリケードをきずき、食糧しょくりょう武器ぶきあつめ、ワインショップをらした」。イスマーイールス党すとういんだった民兵みんぺいころされると暴動ぼうどういきおいをし、ハマーにおいてス党すとうの「痕跡こんせきのこすあらゆるもの」におそいかかった。暴徒ぼうと鎮圧ちんあつするために戦車せんしゃ動員どういんされ、ムスリム同胞どうほうだんには70にん死者ししゃた。おおくの逮捕たいほしゃ負傷ふしょうしゃたが、地下ちか姿すがたした人間にんげんはそれ以上いじょうおおかった。

ハマーでの衝突しょうとつ政府せいふとイスラム主義しゅぎ諸派しょは定期ていきてきあらそ事態じたいになった。しかしさらに深刻しんこく問題もんだいしょうじたのは1976ねんシリアによるレバノン侵攻しんこうである。1976ねんから1982ねんにかけてスンニのイスラム主義しゅぎしゃス党すとうあやつ政府せいふと「テロルのながたたかい」(Long campaign of terror[13])とばれる運動うんどうおこなった。1979ねんには同胞どうほうだん国内こくない複数ふくすう都市としぐん当局とうきょくしゃ政府せいふ職員しょくいんをターゲットにしたゲリラ活動かつどう展開てんかいした。それにたいして政府せいふ大量たいりょう逮捕たいほ拷問ごうもん虐待ぎゃくたい、そして虐殺ぎゃくさつおこなった。1980ねん7がつ法律ほうりつだい49ごう制定せいていされムスリム同胞どうほうだんのメンバーであることが意味いみするものとなった[14]

1980年代ねんだいはいってからもすう年間ねんかんはムスリム同胞どうほうだんはじめとするイスラム主義しゅぎ諸派しょはによる政府せいふ機関きかんやその職員しょくいんへのゲリラ攻撃こうげきばくだん攻撃こうげきつづき、1980ねん6がつ26にちにはマリ大統領だいとうりょう政府せいふ主催しゅさいレセプションの最中さいちゅうにハーフィズ・アル=アサド大統領だいとうりょう暗殺あんさつされかける事件じけんまでこった。マシンガンの一斉いっせい射撃しゃげきがそばをかすめるなか、アル=アサドはまれた手榴弾しゅりゅうだんってがえし、ボディガードがもうひとつのばくだん炸裂さくれつ身体しんたいさえんだとつたえてられている(かれのこり、のちにきわめてたか地位ちい昇進しょうしんしている)。軽傷けいしょうった程度ていどびたアル=アサドはすみやかな、容赦ようしゃない復讐ふくしゅうめいじた。おとうとのリフアト・アル=アサドの忠実ちゅうじつ部下ぶかによって、わずか数時間すうじかんにはパルミラ近郊きんこうのタドモル刑務所けいむしょかん房内ぼうないにおいて、投獄とうごくされていたイスラム主義しゅぎしゃ(1200にん以上いじょうという報告ほうこくがある)のおおくの処刑しょけい実行じっこうされた。

はん政府せいふ勢力せいりょくによるハマー襲撃しゅうげき

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ハマー虐殺ぎゃくさつ発端ほったんとなる出来事できごとが1982ねん2がつ3にち午前ごぜん2こった。きゅう市街しがい探索たんさくちゅう陸軍りくぐん部隊ぶたいが「〔アブー・バクルのでもられる〕地元じもとゲリラの指揮しきかんウマル・ジャワドの潜伏せんぷく場所ばしょ偶然ぐうぜん発見はっけんし」せをおこなっていた。それ以外いがいはん政府せいふ勢力せいりょく部屋へやには無線むせん警戒けいかい態勢たいせいをとるよう連絡れんらくがはいり、「屋上おくじょう狙撃そげきしゅがおそらく1人ひとり〔のシリアぐん兵士へいし〕を仕留しとめた」。増援ぞうえん部隊ぶたい当時とうじハマーに「一斉いっせい蜂起ほうき号令ごうれいをかけた」アブー・バクルの包囲ほういいそいだ。モスクのスピーカーを使つかって信者しんじゃス党すとうへのジハードがびかけられ、なんひゃくという暴徒ぼうとしたイスラム主義しゅぎしゃ政府せいふ職員しょくいんス党すとう指導しどうしゃ自宅じたく殺到さっとうし、警察けいさつしょ占拠せんきょされ、武器ぶきらされた。2月3にちがたまでには70にんちかス党すとう幹部かんぶころされ、蜂起ほうきしたイスラム主義しゅぎしゃはじめとするはん政府せいふ勢力せいりょくはハマーを「解放かいほう」であると宣言せんげんし、シリアじんに「異教徒いきょうと」にたいしてがることをうったえた[15]

政府せいふぐん攻撃こうげき

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シリア大統領だいとうりょうハーフィズ・アル=アサド (みぎ)。おとうとリフアト・アル=アサド英語えいごばん(ひだり) が作戦さくせん指揮しきしたとされている

おりしもイラン・イラク戦争せんそう前年ぜんねんイスラエルによるイラク原子げんしばくげき事件じけん国際こくさい社会しゃかい関心かんしんあつまり、だい規模きぼ武力ぶりょく鎮圧ちんあつ実行じっこうしても欧米おうべい周辺しゅうへん諸国しょこくのシリアへの介入かいにゅういと判断はんだんしたハーフィズ・アル=アサドはこのにムスリム同胞どうほうだん殲滅せんめつすること決断けつだん革命かくめい防衛ぼうえいたい特殊とくしゅ部隊ぶたい空軍くうぐんおよびムハバラートへ作戦さくせん命令めいれい下達かたつし、リフアトのひきいる革命かくめい防衛ぼうえいたい中心ちゅうしんとした地上ちじょう部隊ぶたいとムハーバラートをまちかわせた。攻撃こうげきまえまちには降伏ごうぶく勧告かんこくされ、同時どうじ市内しないのこっているものはだれであろうと反逆はんぎゃくしゃとみなすという警告けいこくがおこなわれた。作家さっかのパトリック・シールによれば「とう関係かんけいしゃもハマーにおくられたパラシュート部隊ぶたいみな今度こんどこそイスラム主義しゅぎしゃ闘争とうそうしんまちからうばらねばならないということを理解りかいしていた。たとえどんな犠牲ぎせいはらってでも…」と作戦さくせん参加さんかした政権せいけんがわ将兵しょうへいへは最高さいこう司令しれいかんハーフィズ・アル=アサドの目標もくひょうがムスリム同胞どうほうだん完全かんぜん殲滅せんめつであること理解りかい徹底てっていさせていたという。12,000にん軍隊ぐんたい包囲ほういするなか、ハマーでの戦闘せんとうは3週間しゅうかんつづいた。「まち奪還だっかん」は1週間しゅうかんわり、のこりの2週間しゅうかんは「反逆はんぎゃくしゃり」についやされた[15]ロバート・フィスクは「このくにあわれみを」のなかで、戦車せんしゃようする部隊ぶたいまち包囲ほうい開始かいしするため郊外こうがい終結しゅうけつしつつあるときに市民しみんがどのようにハマーから脱出だっしゅつしたかについて記述きじゅつしている。このときかれ引用いんようしているのは死者ししゃおおさ、脱出だっしゅつする市民しみん兵士へいしみず食糧しょくりょう不足ふそくしていることを報告ほうこくする文書ぶんしょである[16]

アムネスティ・インターナショナルによれば、シリアぐんせま街路がいろとお歩兵ほへい戦車せんしゃ侵入しんにゅう容易よういにするため上空じょうくうからきゅう市街しがい中心ちゅうしんばくげきおこなっている。建築けんちくぶつるい戦闘せんとうはじまって4にち戦車せんしゃ部隊ぶたいによって破壊はかいされ、まちだい部分ぶぶん廃墟はいきょとなった。政府せいふぐんシアン化水素しあんかすいそ使用しようしたという報告ほうこくもあるが、これは根拠こんきょがない[17]内部ないぶはげしい抵抗ていこうけたリフアトの軍隊ぐんたいは、まち包囲ほういおこない3週間しゅうかんわたって砲撃ほうげきくわつづけた。

最初さいしょ攻撃こうげきのちで、政府せいふぐん治安ちあん部隊ぶたい派遣はけんされ、がれきのしたまでムスリム同胞どうほうだんのメンバーと支持しじしゃ捜索そうさくおこなわれた.[18]反逆はんぎゃく容疑ようぎをかけられたもの拷問ごうもん大量たいりょう処刑しょけいおこなわれ、すう週間しゅうかん死者ししゃすうせんにんおよんだ。きゅう市街しがい地下ちかにある坑道こうどうにまだ反乱はんらんしゃかくれているとたりをつけたリフアトは、ディーゼル燃料ねんりょうをポンプでおくんで炎上えんじょうさせ、坑道こうどうくち待機たいきさせていたT-72戦車せんしゃにそこから脱出だっしゅつしようとする人間にんげん砲撃ほうげきさせた[19]

犠牲ぎせいしゃすう

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1982ねんはじめて西側にしがわ各国かっこく政府せいふ外交がいこうすじからつたえられた情報じょうほうでは戦闘せんとうで1000にん殺害さつがいされたということがしんじられていた[2][3]。その犠牲ぎせいしゃ推計すいけいは、政府せいふぐん死者ししゃおよそ1000にんふくめて7,000にんから40,000にんまでばらつきがある[よう出典しゅってん]虐殺ぎゃくさつ直後ちょくごのハマーに滞在たいざいしたロバート・フィスクは、もともと死者ししゃすうを10,000にんとしていたがのちになってばいの20,000にん推計すいけいしている[1][20][21]。あるいは政府せいふがわの「推計すいけい」であれば、大統領だいとうりょうおとうとであるリフアトがほこらしげに自分じぶんは38,000にんころしたとかたったというエピソードもつたわっている[22]。アムネスティ・インターナショナルははじめ犠牲ぎせいしゃすうを10,000から25,000にんあいだでありほとんどが民間みんかんじんであるという数字すうじしていた[8]

シリア人権じんけん委員いいんかい報告ほうこくでは、「25,000にん以上いじょう[23] あるいは30,000にんから40,000にんころされたと推計すいけいされている[5]。シリア・ムスリム同胞どうほうだんも40,000にん前後ぜんこう犠牲ぎせいしゃまれたと主張しゅちょうしている。

24ねん、シリアじんジャーナリストのスビ・ハディドは「アリー・ハイダル少将しょうしょう指揮しきのもとがい包囲ほういは27日間にちかんおよび、重砲じゅうほう戦車せんしゃ火力かりょくさらされた。そしてまち侵略しんりゃくされ、30,000にん、40,000にんという市民しみんころされた。15,000にんがいまも行方ゆくえ不明ふめいであり、土地とちわれた人間にんげんは100,000にんたっする」とかたっている[6]

虐殺ぎゃくさつ以後いご

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ハマーの暴動ぼうどう以後いご、イスラム主義しゅぎしゃ武力ぶりょく闘争とうそう破綻はたんした。ムスリム同胞どうほうだん亡命ぼうめいしゃグループとなり、派閥はばつ服従ふくじゅうするか、地下ちかもぐった。暴動ぼうどうちゅうシリア政府せいふ国内こくないけてきわめて強硬きょうこう姿勢しせいをとっており、そのもアサドは政治せいじとしての余生よせい政治せいじてき戦術せんじゅつによらず圧政あっせいたよるようになる。一方いっぽう経済けいざい自由じゆうは1990年代ねんだいはじまっている[24]

またこの事件じけんにより以前いぜんからあきらかになっていたはん政府せいふ勢力せいりょく足並あしなみのみだれに拍車はくしゃがかかり、かく派閥はばつない深刻しんこく亀裂きれつしょうじた。とりわけかれらの信念しんねんらいだことにこの虐殺ぎゃくさつ意味いみがある。そして同時どうじかれらはハマーの暴徒ぼうと支援しえんなしにシリア国内こくないではもうスンニ蜂起ほうきこりえないことを理解りかいしていた。はん政府せいふグループのメンバーの大半たいはん国外こくがい脱出だっしゅつし(あるいは追放ついほう状態じょうたいのままで)おもにヨルダンとイラクにかった。なかにはアメリカ、イギリス、ドイツを目指めざしたものもいる[25]最大さいだい反対はんたい勢力せいりょくであったムスリム同胞どうほうだん武力ぶりょくによる抵抗ていこうあきらめ、その2分裂ぶんれつした。一方いっぽうはより近代きんだいてきで、国外こくがいのムスリム同胞どうほうだんにも承認しょうにんされており、最終さいしゅうてきにイギリスに本拠地ほんきょちきこの活動かつどうつづけている。もう一方いっぽうはイラク政府せいふ支援しえんけてイラク国内こくないなんねんにもわたって軍事ぐんじ組織そしきようしていたが、のちにロンドンの主流しゅりゅう合流ごうりゅうした。

ハマー虐殺ぎゃくさつはアサド政権せいけん人権じんけん軽視けいししていた「前科ぜんか」を告発こくはつする文脈ぶんみゃくにおいてしばしばりあげられる[14][26]。シリア国内こくないでこの虐殺ぎゃくさつ事件じけんれることはきびしく制限せいげんされている。しかし事件じけん全体ぜんたいのおおまかな輪郭りんかく双方そうほう様々さまざまなゲリラにえられて―はくにちゅうでよくられている。虐殺ぎゃくさつおおやけ言及げんきゅうされたとき、それはすでにハマーにおけるひとつの「出来事できごと」「事件じけん」でしかなかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c Fisk 2010
  2. ^ a b “Syria: Bloody Challenge to Assad”. Time. (8 March 1982). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,921108,00.html 
  3. ^ a b By JOHN KIFNER, Special to the New York Times (12 February 1982). “Syrian Troops Are Said To Battle Rebels Encircled In Central City”. The New York Times. 20 January 2012閲覧えつらん
  4. ^ New York Times 2011 March 26
  5. ^ a b Syrian Human Rights Committee, 2005
  6. ^ a b MEMRI 2002
  7. ^ The Media; Freedom or Responsibility: The War in Lebanon, 1982: A Case Study, Julian J. Landau, (NY 1984), page 67
  8. ^ a b Wright 2008: 243-244
  9. ^ Fisk, Robert. 1990. Pity the Nation. London: Touchstone, ISBN 0-671-74770-3.
  10. ^ [New York Times. 24 Feb 1982. Syria Offers Picture of Hama Revolt]
  11. ^ Seale 1989, p. 93.
  12. ^ Seale 1989, pp. 37, 93, 148, 171.
  13. ^ a b Seale 1989, pp. 335–337.
  14. ^ a b Human Rights Watch 1996
  15. ^ a b Seale 1989, pp. 332–333.
  16. ^ Fisk 1990: 185–86
  17. ^ Reports of cyanide gas being used, SHRC, オリジナルの2011ねん3がつ25にち時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110325232345/http://www.shrc.org/data/aspx/d0/1260.aspx 
  18. ^ Benjamin and Simon 2002: 86
  19. ^ Melman, Yosi (19 May 2011). “Tanks finally get their thanks”. Haaretz. http://www.haaretz.com/blogs/2.294/tanks-finally-get-their-thanks-1.362670 7 June 2012閲覧えつらん 
  20. ^ Fisk 1990:186
  21. ^ Fisk 2007
  22. ^ From Beirut to Jerusalem, pp. 76–105
  23. ^ Syrian Human Rights Committee, 2006.
  24. ^ US Dept. of State, country profile
  25. ^ Global Politican.com
  26. ^ Human Rights Watch, 2010
参考さんこう文献ぶんけん
関連かんれん文献ぶんけん
  • Kathrin Nina Wiedl: The Hama Massacre – reasons, supporters of the rebellion, consequences. München 2007, ISBN 978-3-638-71034-3.
  • The Economist (16 November 2000) Is Syria really changing?, London: 'Syria’s Islamist movement has recently shown signs of coming back to life, nearly 20 years after 30,000 people were brutally massacred in Hama in 1982' The Economist
  • Routledge (10 January 2000) Summary of the 10 January 2002, Roundtable on Militant Islamic Fundamentalism in the Twenty-First Century, Volume 24, Number 3 / 1 June 2002: Pages:187 – 205
  • Jack Donnelly (1988) Human Rights at the United Nations 1955–85: The Question of Bias, International Studies Quarterly, Vol. 32, No. 3 (Sep., 1988), pp. 275–303
  • More Detailed Account of the actual Hama Massacre and Killings
  • NSArchive