第 だい 四 よん 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう で兵士 へいし を激励 げきれい するアサド(1973年 ねん 10月 がつ )
ハーフィズ・アル=アサド (حافظ الاسد Ḥāfiẓ al-Asad, 1930年 ねん 10月6日 にち - 2000年 ねん 6月 がつ 10日 とおか )は、シリア の軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か 、第 だい 4代 だい 大統領 だいとうりょう (在任 ざいにん 1971年 ねん - 2000年 ねん )。日本語 にほんご ではハーフェズ・アル=アサド とも表記 ひょうき し、アサド が姓 せい として認識 にんしき される場合 ばあい が多 おお い。
シリアで流通 りゅうつう している1000シリア・ポンド 紙幣 しへい に肖像 しょうぞう が描 えが かれている。
シリア北部 ほくぶ のアンサーリーヤ山地 さんち にあるアラウィー派 は の小村 こむら カルダーハで、カルビイヤ部族 ぶぞく の貧 まず しい家庭 かてい の9番目 ばんめ の子 こ として生 う まれた。高校 こうこう 在学 ざいがく 中 ちゅう の1946年 ねん 、16歳 さい でバアス党 とう に入党 にゅうとう するなど早 はや くから積極 せっきょく 的 てき な政治 せいじ 活動 かつどう に取 と り組 く んでいた。ラタキア の高校 こうこう を首席 しゅせき で卒業 そつぎょう した後 のち 、経済 けいざい 上 じょう の理由 りゆう から大学 だいがく 進学 しんがく をあきらめ1952年 ねん にアレッポ の飛行 ひこう 士官 しかん 学校 がっこう に入校 にゅうこう し、ソビエト連邦 れんぽう (ソ連 それん )での訓練 くんれん を経 へ た1955年 ねん の卒業 そつぎょう 後 ご 、少尉 しょうい に任官 にんかん し、シリア空軍 くうぐん に入隊 にゅうたい した。なお、後 のち に後継 こうけい 者 しゃ と目 め された長男 ちょうなん バースィル・アル=アサド もソ連 それん に留学 りゅうがく させることになる。
アラブ連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく 成立 せいりつ 後 ご 、カイロ に派遣 はけん され戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊長 たいちょう となり、後 ご のエジプト大統領 だいとうりょう ホスニー・ムバラク とともに訓練 くんれん を受 う けるが[1] 、エジプトとの連合 れんごう への懐疑 かいぎ 的 てき な見解 けんかい により軍 ぐん から解雇 かいこ された。カイロでは、秘密 ひみつ 軍事 ぐんじ 委員 いいん 会 かい を組織 そしき して同 おな じアラウィー派 は のサラーフ・ジャディード 、ムハンマド・ウムラーン と共 とも にアラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ バアス党 とう の運動 うんどう に参加 さんか し、シリア帰国 きこく 後 ご 、1963年 ねん のクーデター(3月8日 にち 革命 かくめい )に参加 さんか した。バアス党 とう 政権 せいけん が樹立 じゅりつ されると国防 こくぼう 相 しょう を務 つと めた。1966年 ねん から1970年 ねん まで空軍 くうぐん 司令 しれい 官 かん を兼任 けんにん 。
1967年 ねん の第三次中東戦争 だいさんじちゅうとうせんそう でゴラン高原 ごらんこうげん を失 うしな うと、バアス党内 とうない ではジャディード党 とう 地域 ちいき 指導 しどう 部 ぶ 書記 しょき 長 ちょう 率 ひき いる急進 きゅうしん 派 は と穏健 おんけん ・現実 げんじつ 主義 しゅぎ 派 は が対立 たいりつ し、アサド(当時 とうじ 国防 こくぼう 相 しょう )がリーダーとなった穏健 おんけん 派 は が1969年 ねん 2月 がつ 28日 にち の政変 せいへん で実権 じっけん を握 にぎ った。アサドはジャディードに肩入 かたい れしたソ連 それん による干渉 かんしょう に激怒 げきど し、腹心 ふくしん のムスタファ・タラース を中 ちゅう ソ対立 たいりつ から中 ちゅう ソ国境 こっきょう 紛争 ふんそう を起 お こしたばかりの中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に派遣 はけん して武器 ぶき 支援 しえん を獲得 かくとく させ[2] [3] [4] 、毛 もう 主席 しゅせき 語録 ごろく を掲 かか げさせた[5] [6] 。
1970年 ねん 9月 がつ に隣国 りんごく でヨルダン内戦 ないせん が勃発 ぼっぱつ した。その後 ご ヨルダン軍 ぐん とPLOとの戦闘 せんとう はヨルダン各地 かくち に波及 はきゅう し、圧倒的 あっとうてき な軍事 ぐんじ 力 りょく と国民 こくみん からの支持 しじ を持 も つヨルダン軍 ぐん に対 たい してPLOは敗走 はいそう を重 かさ ねる。しかしこれに対 たい して、かねてからヨルダンと対立 たいりつ していた上 うえ に、(ソビエト連邦 れんぽう からの後援 こうえん を受 う け)PLO及 およ びPFLPに対 たい する支援 しえん に積極 せっきょく 的 てき な隣国 りんごく のシリア のヌーレッディーン・アル=アターシー 大統領 だいとうりょう が、陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい をヨルダン領内 りょうない に侵入 しんにゅう させたことなどを受 う けて、ヨルダン国内 こくない は混乱 こんらん 状態 じょうたい に陥 おちい った。さらに、かねてからPLOの姿勢 しせい に懐疑 かいぎ 的 てき であったアサドは、アターシー大統領 だいとうりょう の出動 しゅつどう 命令 めいれい を拒否 きょひ した。
1970年 ねん 11月、ジャディードはアサドとタラースへの反撃 はんげき を試 こころ みたが、アサドはクーデター(矯正 きょうせい 運動 うんどう )でジャディードとアル=アターシー大統領 だいとうりょう を失脚 しっきゃく させて全権 ぜんけん を握 にぎ った。アサドは首相 しゅしょう と国防 こくぼう 相 しょう を兼 か ね、さらにバアス党 とう の地域 ちいき 指導 しどう 部 ぶ 書記 しょき 長 ちょう に就任 しゅうにん し、翌 よく 1971年 ねん には国民 こくみん 投票 とうひょう により大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ された。以後 いご は対外 たいがい 的 てき にはゴラン高原 ごらんこうげん の奪還 だっかん を目標 もくひょう として、アラブ諸国 しょこく 間 あいだ の対 たい イスラエル強硬 きょうこう 派 は としてエジプトのアンワル・アッ=サーダート 大統領 だいとうりょう と組 く み、第 だい 四 よん 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう に参戦 さんせん 。また、エジプトとアラブ共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう を樹立 じゅりつ した。ソ連 それん との結 むす びつきも強 つよ め、タルトゥース にソ連 それん 軍 ぐん の基地 きち を設置 せっち させた。国内 こくない では事実 じじつ 上 じょう の一 いち 党 とう 独裁 どくさい と軍事 ぐんじ 力 りょく による政治 せいじ で民心 みんしん の引 ひ き締 し めを行 おこな う一方 いっぽう 、バアス党 とう の世俗 せぞく 的 てき 民族 みんぞく 主義 しゅぎ の立場 たちば から「シリア・ムスリム同胞 どうほう 団 だん 」勢力 せいりょく を抑圧 よくあつ した。
1976年 ねん からはレバノン内戦 ないせん にシリア軍 ぐん を派兵 はへい して介入 かいにゅう し始 はじ めた。レバノンを事実 じじつ 上 じょう の影響 えいきょう 下 か に置 お くに至 いた る。同 どう 時期 じき にバアス党 とう 左派 さは がアサド政権 せいけん に対 たい してクーデター を起 お こして失敗 しっぱい 。多数 たすう の将校 しょうこう とコマンド部隊 ぶたい を中心 ちゅうしん に約 やく 4000人 にん を逮捕 たいほ したことで、結果 けっか 的 てき に不満 ふまん 分子 ぶんし を一掃 いっそう することにも成功 せいこう した[7] 。
1970年代 ねんだい 後半 こうはん から経済 けいざい 状況 じょうきょう が悪化 あっか し、またシリアにおいては少数 しょうすう 派 は に過 す ぎないアラウィー派 は を優遇 ゆうぐう したことから国内 こくない 最大 さいだい 宗派 しゅうは のスンナ派 は の反発 はんぱつ を招 まね き、国内 こくない でムスリム同胞 どうほう 団 だん などの台頭 たいとう がみられるなど、政権 せいけん 基盤 きばん の不安定 ふあんてい 化 か がみられた。イラン革命 かくめい に触発 しょくはつ された1980年代 ねんだい 前半 ぜんはん にはイスラム主義 しゅぎ 者 しゃ による政権 せいけん に対 たい する反抗 はんこう が激化 げきか し、1982年 ねん には中部 ちゅうぶ の都市 とし ハマー などでイスラム主義 しゅぎ 勢力 せいりょく による暴動 ぼうどう が起 お こるが、アサド政権 せいけん はこれを武力 ぶりょく 鎮圧 ちんあつ した(ハマー虐殺 ぎゃくさつ )。これによってシリアにおけるムスリム同胞 どうほう 団 だん の活動 かつどう は衰退 すいたい に向 む かう。
翌 よく 1983年 ねん にアサドが心臓 しんぞう 病 びょう で入院 にゅういん している最中 さいちゅう 、軍部 ぐんぶ で実力 じつりょく をもつ弟 おとうと リファアト・アル=アサド 革命 かくめい 防衛 ぼうえい 隊 たい 司令 しれい 官 かん がクーデターを計画 けいかく 、軍部 ぐんぶ はアサド派 は とリファアト派 は に分 わ かれ内戦 ないせん 寸前 すんぜん となった。退院 たいいん したアサドはいったんリファアトを安全 あんぜん 保障 ほしょう 担当 たんとう の副 ふく 大統領 だいとうりょう に据 す えて懐柔 かいじゅう し、注意深 ちゅういぶか くその勢力 せいりょく を削 そ いだ後 のち 、1984年 ねん にフランスおよびスペインに追放 ついほう した。
長期 ちょうき 政権 せいけん と後継 こうけい 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
シリアでは各所 かくしょ でアサドの銅像 どうぞう や肖像 しょうぞう 画 が を見 み かける(2001年 ねん 、アレッポにて)
バアス党 とう の正統 せいとう 性 せい やユーフラテス河 かわ の水 みず 資源 しげん 利用 りよう をめぐり、隣国 りんごく イラクとは対立 たいりつ 関係 かんけい にあった。このためイラン・イラク戦争 せんそう ではアラブ諸国 しょこく で唯一 ゆいいつ イランを支持 しじ し、イラクとの国境 こっきょう を閉鎖 へいさ した。1990年 ねん の湾岸 わんがん 戦争 せんそう ではイラクのクウェート侵攻 しんこう を受 う けてイラクと国交 こっこう を断絶 だんぜつ し、イラン・イラク戦争 せんそう ではイラクを支持 しじ したアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく やサウジアラビアとの関係 かんけい を改善 かいぜん し、多 た 国籍 こくせき 軍 ぐん の一員 いちいん としてサウジアラビアにも派兵 はへい した。当時 とうじ のアメリカ国務 こくむ 長官 ちょうかん ジェイムズ・ベイカー によれば、このシリアの決定 けってい にはアサドと個人 こじん 的 てき に交流 こうりゅう があったエジプトのムバラク大統領 だいとうりょう が関 かか わっていたとされる[8] 。1990年代 ねんだい にはマドリードで行 おこな われた中東 ちゅうとう 和平 わへい 会議 かいぎ に参加 さんか するなどイスラエルとの交渉 こうしょう を開始 かいし するが、ゴラン高原 ごらんこうげん の全面 ぜんめん 返還 へんかん という原則 げんそく を譲 ゆず らず、状況 じょうきょう の打開 だかい を見出 みだ せないまま交渉 こうしょう は一 いち 度 ど の中断 ちゅうだん を挟 はさ んで停滞 ていたい した。
1994年 ねん には、長男 ちょうなん バースィル を交通 こうつう 事故 じこ で失 うしな い、後継 こうけい 者 しゃ 問題 もんだい が不安定 ふあんてい 化 か したことで大 おお きな打撃 だげき を被 こうむ ったが、ロンドンで医師 いし として生活 せいかつ していた次男 じなん バッシャール を急遽 きゅうきょ 呼 よ び寄 よ せて後継 こうけい 者 しゃ としての帝王 ていおう 教育 きょういく を施 ほどこ した。それでも後継 こうけい 者 しゃ としてのバッシャールに対 たい する不安 ふあん 感 かん は拭 ぬぐ えなかったため、ロンドン留学 りゅうがく で身 み につけた学歴 がくれき や開 ひら かれた国際 こくさい 感覚 かんかく といった息子 むすこ の「博識 はくしき 」さを特徴 とくちょう づける試 こころ みとして、父 ちち ハーフィズは情報 じょうほう 科学 かがく 協会 きょうかい の会長 かいちょう にバッシャールを就任 しゅうにん させた。若手 わかて 官僚 かんりょう の育成 いくせい やインターネットの導入 どうにゅう など、バッシャールをシリアの近代 きんだい 化 か や若 わか い世代 せだい の旗手 きしゅ として位置付 いちづ けようとしたほか、彼 かれ を軍医 ぐんい としてシリア軍 ぐん に勤務 きんむ させるなどバッシャール自身 じしん にも高級 こうきゅう 軍人 ぐんじん としての経験 けいけん や実績 じっせき を積 つ ませようとした。
また、バッシャールの政治 せいじ 手腕 しゅわん を疑問 ぎもん 視 し あるいは後継 こうけい 指名 しめい に反発 はんぱつ していたアリー・ハイダル前 ぜん 特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい 司令 しれい 官 かん を逮捕 たいほ し、ヒクマト・アル=シハービー軍 ぐん 参謀 さんぼう 総長 そうちょう とムハンマド・フーリー空軍 くうぐん 司令 しれい 官 かん を退役 たいえき させ、ムハンマド・ナースィーフ総合 そうごう 情報 じょうほう 部 ぶ 次長 じちょう 兼 けん 内務 ないむ 部長 ぶちょう とアリー・ドゥーバ軍事 ぐんじ 情報 じょうほう 部長 ぶちょう を降格 こうかく するなど、今 いま までハーフィズ・アサド体制 たいせい を支 ささ えてきた古参 こさん 軍 ぐん 幹部 かんぶ や情報 じょうほう 将校 しょうこう を粛清 しゅくせい する政策 せいさく を進 すす め、政権 せいけん の世襲 せしゅう 化 か と息子 むすこ の軍 ぐん ・治安 ちあん 機関 きかん 部門 ぶもん における基盤 きばん 強化 きょうか を図 はか った。
カルダーハのアサド霊廟 れいびょう
持病 じびょう の心臓 しんぞう 病 びょう を抱 かか えながら晩年 ばんねん も精力 せいりょく 的 てき に政務 せいむ をこなしていたが、2000年 ねん 6月 がつ 10日 とおか にレバノンのサリーム・アル=フッス (英語 えいご 版 ばん ) 首相 しゅしょう との電話 でんわ 会談 かいだん 中 ちゅう に心臓 しんぞう 発作 ほっさ で死去 しきょ 。後継 こうけい 大統領 だいとうりょう には予定 よてい 通 どお り次男 じなん のバッシャールが就任 しゅうにん した。
ハーフィズとその家族 かぞく 。前列 ぜんれつ で椅子 いす に座 すわ っているのは、ハーフィズと妻 つま アニーサ。後列 こうれつ 左 ひだり から四 よん 男 なん マーヘル、次男 じなん バッシャール、長男 ちょうなん バースィル、三男 さんなん マジド、長女 ちょうじょ ブシュラー
ハーフィズ・アサドは妻 つま アニーサ・マフルーフとの間 あいだ に5人 にん の子供 こども がいる。
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