(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ハンガリー民主化運動 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ハンガリー民主みんしゅ運動うんどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハンガリー歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。

ハンガリー ポータル

ハンガリー民主みんしゅ運動うんどう(ハンガリーみんしゅかうんどう)は、1985ねんころから1990ねんまでのハンガリーハンガリー人民じんみん共和きょうわこく)における民主みんしゅ運動うんどうのこと。

この民主みんしゅ過程かていのちひろしヨーロッパ・ピクニックからベルリンのかべ崩壊ほうかいつらなるハンガリーとオーストリアあいだ国境こっきょう開放かいほうおこなわれた。

民主みんしゅ背景はいけい[編集へんしゅう]

マジャルじんには、元来がんらいハンガリーはオーストリアと連邦れんぽうオーストリア=ハンガリーじゅう帝国ていこく1867ねん - 1918ねん)としてヨーロッパ重要じゅうよう地位ちいめていたという、歴史れきしてき自負じふがあった。他方たほうロシアじん主導しゅどうする共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせい支配しはいのハンガリーは「ヨーロッパてき」ではなく、したがって民主みんしゅてきヨーロッパ枠組わくぐちゅう復帰ふっきしたい、というおもれがあった。

1956ねんきた民主みんしゅもとめるハンガリー動乱どうらんソ連それん軍事ぐんじ介入かいにゅう圧殺あっさつされたが、動乱どうらん収拾しゅうしゅうしてハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう書記しょきちょうとなったカーダール・ヤーノシュナジ・イムレ死刑しけいにし、いちとう独裁どくさいせいきながらも、「我々われわれてきでないもの味方みかたである」とべて政治せいじはん釈放しゃくほうローマ教皇きょうこうちょうとの和解わかいすす[1]東側ひがしがわ社会しゃかい主義しゅぎこくなかでは比較的ひかくてき穏健おんけん統治とうちおこなった。1966ねんにはニエルシュ・レジエハンガリーばん書記しょきらによって「しん経済けいざいメカニズム」が導入どうにゅうされ、市場いちば経済けいざい一部いちぶ導入どうにゅうなどをすすめたほか、同年どうねん11がつにはかたちばかりであった国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ候補者こうほしゃ複数ふくすう候補こうほせいにするなどの政治せいじ改革かいかくすすめられた[2]

これらの改革かいかく1973ねんソビエト連邦れんぽうあつりょくによって後退こうたい余儀よぎなくされ、ニエルシュらも解任かいにん左遷させんされた。しかし、その処遇しょぐうは「プラハのはる改革かいかく党員とういん追放ついほうしたチェコスロバキア共産党きょうさんとうの「正常せいじょう」にくらべればおだやかなものであった[3]。また、「しん経済けいざいメカニズム」も完全かんぜんには廃止はいしされず、1970年代ねんだい後半こうはんだい石油せきゆ危機きき以降いこうふたた改革かいかくすすめられるようになり、「社会しゃかい主義しゅぎ市場いちば経済けいざい」が目指めざされるようになった。政治せいじてきにも地方ちほう自治じち拡大かくだいとう指導しどうせい限定げんていなどの施策しさくおこなわれた。

1982ねんにはIMF加盟かめい1983ねんにはふたた議会ぎかい選挙せんきょ複数ふくすう候補こうほせいとなり、1985ねんには社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう党員とういん以外いがいからも国会こっかい議員ぎいん当選とうせんするものるようになった[4]

このようにハンガリーでは、すでに1980年代ねんだいなかばの時点じてん改革かいかく政治せいじ参加さんかする機会きかい確保かくほされてきており、支配しはい政党せいとうハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとうなかから体制たいせい変革へんかくうごきがまれててん東欧とうおう諸国しょこくとのおおきなちがいである。

民主みんしゅ開始かいし[編集へんしゅう]

ちゅう東欧とうおう社会しゃかい主義しゅぎこくくらべるとはやいうちから市場いちば経済けいざい政治せいじ自由じゆうすすめており、ソ連それんゴルバチョフ政権せいけんによるペレストロイカながれもあって、改革かいかくをさらにすすめていたハンガリーであったが、1980年代ねんだい後半こうはんになると、カーダール・ヤーノシュによるハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう独裁どくさい限界げんかいあきらかとなった。過度かど投資とうし対外たいがい債務さいむ増加ぞうかんで経済けいざい失速しっそくする一方いっぽう高齢こうれいになったカーダールは保守ほしゅし、これ以上いじょう経済けいざい自由じゆうには消極しょうきょくてきになっていた。1987ねん、カーダールは対外たいがい債務さいむ返済へんさい必要ひつよう財源ざいげん確保かくほすべく、経済けいざい自由じゆうしょうじた富裕ふゆうそうたいする増税ぞうぜいおこなおうとしたが、この法案ほうあん国会こっかい否決ひけつされてしまった。社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせいになってからはじめて政府せいふ提出ていしゅつ法案ほうあん議会ぎかいによってくつがえされるという事態じたいしょうじたのである。これによって保守ほしゅとカーダールは信用しんよううしない、1988ねん5月、カーダールは引退いんたいした[5]

カーダールののちいで穏健おんけん改革かいかくグロース・カーロイハンガリーばん書記しょきちょう就任しゅうにんし、同時どうじ政治せいじきょくにはニエルシュ・レジエが復帰ふっきし、ネーメト・ミクローシュ(1988ねんから首相しゅしょう)、ポジュガイ・イムレハンガリーばんらの急進きゅうしん改革かいかく政治せいじきょくりした。グロースはあくまでもいちとうせい維持いじし、党内とうない民主みんしゅすすめることで改革かいかく達成たっせいできるとかんがえていた[6]一方いっぽう、ポジュガイらは複数ふくすう政党せいとうせい導入どうにゅうなど、急進きゅうしんてき改革かいかく志向しこうしていた。1988ねん10がつには会社かいしゃほう制定せいていされて国有こくゆう企業きぎょう株式会社かぶしきがいしゃおこなわれた[7]

1989ねんになるとポジュガイら改革かいかくによって政治せいじ改革かいかく加速かそくしていった。1月には集会しゅうかい結社けっしゃ自由じゆう政党せいとう結成けっせい容認ようにんなどがすすめられ、2がつにはとう指導しどうせい放棄ほうきとう政府せいふ分離ぶんり決定けってい[8]、4がつには民主みんしゅ集中しゅうちゅうせい放棄ほうき決定けっていされた。

ハンガリー・オーストリアあいだ国境こっきょう解放かいほう[編集へんしゅう]

1989ねん5月2にち、ネーメトないかくは「財政ざいせいじょう理由りゆうにより」ハンガリー・オーストリアあいだ鉄条てつじょうもう維持いじ放棄ほうきすると発表はっぴょうし、その撤去てっきょ着手ちゃくしゅした。これはハンガリーにとってヨーロッパへ復帰ふっきする第一歩だいいっぽであったが、同時どうじウィンストン・チャーチル名付なづおやとなった「てつのカーテン」の一角いっかくくずったことも意味いみしていた[9][10]

これによる国境こっきょう開放かいほう意味いみはそれだけにまらなかった。ひがしドイツ国家こっか評議ひょうぎかい議長ぎちょうけんドイツ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう書記しょきちょうであったエーリッヒ・ホーネッカーよく5月3にちのドイツ社会しゃかい主義しゅぎ統一とういつとう政治せいじきょく会議かいぎで、「このハンガリーの連中れんちゅうは、一体いったいなにをたくらんでいるんだ!」と怒鳴どなった。それがなに意味いみするのかホーネッカーにはかっていたからである[11]結果けっかとして西にしドイツへの亡命ぼうめいもとめるひがしドイツ国民こくみんがハンガリーに殺到さっとうひろしヨーロッパ・ピクニックこし、ベルリンのかべ崩壊ほうかい冷戦れいせん終結しゅうけつ、さらには東欧とうおうからすべての共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんはらうきっかけともなった。当然とうぜん当時とうじのハンガリー政府せいふもハンガリー国民こくみんもそこまでの意味いみつとはかんがえていなかったであろうが、今日きょうにおいてはハンガリーがオーストリアとの国境こっきょう開放かいほうしたことをかたらずに一連いちれん東欧とうおう民主みんしゅ運動うんどうかたることは不可能ふかのうであり、その意義いぎきわめておおきいとわざるをない。

ハンガリー動乱どうらんさい評価ひょうかとナジの名誉めいよ回復かいふく[編集へんしゅう]

1989ねん6がつにはネーメト政権せいけんはハンガリー動乱どうらん処刑しょけいされたナジ・イムレもと首相しゅしょう名誉めいよ回復かいふく改葬かいそう許可きょかした。ハンガリー動乱どうらん評価ひょうかきにハンガリーの無血むけつ民主みんしゅかたることはほぼ不可能ふかのうであったのである。これをめぐって、かねがね改革かいかく方法ほうほうちがいのあった穏健おんけん改革かいかくのグロースと急進きゅうしん改革かいかくのニエルシュ、ネーメト、ポジュガイらのあいだ対立たいりつしょうじ、政治せいじきょく会議かいぎではナジの葬儀そうぎへの参加さんか表明ひょうめいしたポジュガイとあくまでもナジは反乱はんらん分子ぶんしであったという公式こうしき見解けんかいにこだわるグロースが口論こうろんになった。ポジュガイがグロースにネーメトは首相しゅしょうとしての公式こうしき資格しかく参列さんれつするはずだとうと、グロースは激高げっこうし「ネーメトは首相しゅしょうかもしれないが、ハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう書記しょきちょうは、このグロースだ。すべての権限けんげんはこのグロースがにぎっているんだ!」」とったものの、最後さいごには「きたいなら、け!勝手かってにしろ!」と怒鳴どなって部屋へやった[12]。6月16にち、ナジの改葬かいそうしきおこなわれ、野党やとう幹部かんぶ犠牲ぎせいしゃ家族かぞくともにポジュガイやネーメトも参列さんれつした。

共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせい終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう急進きゅうしん改革かいかくはさらなる改革かいかくすすめ、1989ねん6月23にち、24にち開催かいさいされたとう中央ちゅうおう委員いいんかいでは、政治せいじきょく廃止はいしして21にんからなる政治せいじ執行しっこう委員いいんかいと、ニエルシュ、ポジュガイ、ネーメト、グロースから幹部かんぶかいもうけ、党首とうしゅとう議長ぎちょう)にはニエルシュが就任しゅうにんした。グロースは書記しょきちょうのポストにとどまったが、幹部かんぶかいは4にんのうち3にん急進きゅうしん改革かいかくであり、またとう最高さいこう指導しどうしゃからはずされ、失脚しっきゃくしたかたちになった。こうして急進きゅうしん改革かいかくとう主導しゅどうけんにぎった[13]

6月25にち、ニエルシュは「スターリン主義しゅぎプロレタリア独裁どくさいから決別けつべつする」と表明ひょうめいし、複数ふくすう政党せいとうせい導入どうにゅう決定けっていしていちとう独裁どくさい放棄ほうきした[14]

10月のとう大会たいかいにおいて「とう国家こっか政党せいとうとしての歴史れきしわった」と宣言せんげんして社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう民主みんしゅ社会しゃかい主義しゅぎ志向しこうする「ハンガリー社会党しゃかいとう」へ改名かいめいがおこなれた[15]

10月18にち国会こっかい市場いちば経済けいざい複数ふくすう政党せいとうせいによる民主みんしゅせいなどをさだめた憲法けんぽう改正かいせいあん採択さいたくされて、国名こくめいも「ハンガリー共和きょうわこく」に改称かいしょうされた[16]

1989ねん10月23にち暫定ざんてい国家こっか元首げんしゅとなったスールシュ・マーチャーシュハンガリーばん国会こっかい議長ぎちょう国会こっかいまえ広場ひろば共和きょうわこく宣言せんげん[17]、ここにハンガリー人民じんみん共和きょうわこく完全かんぜん終焉しゅうえんした(だいいち大戦たいせん末期まっきだいいち共和きょうわこくハンガリー民主みんしゅ共和きょうわこく)、だい大戦たいせん直後ちょくごだい共和きょうわこく共和きょうわ政体せいたいとして「だいさん共和きょうわこく」とばれる)。

ハンガリーではすで民主みんしゅ勢力せいりょくである「民主みんしゅフォーラム」が活発かっぱつ政治せいじ活動かつどうをはじめていた。ピクニック事件じけんはその活動かつどう一端いったんであるが、その結果けっかこされたベルリンのかべ崩壊ほうかいかれらがのぞんでいたとおりの出来事できごとであり、民主みんしゅフォーラムの気勢きせいたかまった。

こうしておこなわれた1990ねん自由じゆう選挙せんきょでは民主みんしゅフォーラムが勝利しょうりし、社会党しゃかいとうから民主みんしゅフォーラムへの政権せいけん委譲いじょうおこなわれた。しかし改革かいかくであったハンガリー社会党しゃかいとうは、東欧とうおう諸国しょこくきゅう共産党きょうさんとうとはちがい、ハンガリー国民こくみん支持しじうしなわず、1994ねん政権せいけんかえき、その2002ねんふたた政権せいけん復帰ふっきするなど、フィデス=ハンガリー市民しみん同盟どうめいなどとならぶハンガリーの有力ゆうりょく政党せいとうとなっている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • グロース・カーロイハンガリーばん - カーダールののちいでハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう書記しょきちょうとなり、いちとう独裁どくさいせいわくない改革かいかくすすめようとするが、急進きゅうしん改革かいかくとの対立たいりつやぶれ、失脚しっきゃくした。
  • ニエルシュ・レジエハンガリーばん - ハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう改革かいかく人物じんぶつ社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう最後さいご指導しどうしゃとなり、とう社会党しゃかいとうへと改組かいそさせた。
  • ポジュガイ・イムレハンガリーばん - ハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう改革かいかく人物じんぶつ政治せいじ局員きょくいんとして民主みんしゅ主導しゅどうし、ネーメトとともひろしヨーロッパ・ピクニック支援しえんした。
  • ネーメト・ミクローシュ - ハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう改革かいかく人物じんぶつ。ハンガリーの民主みんしゅおおきくすすんだ時期じき首相しゅしょうつとめた。
  • ホルン・ジュラ - ハンガリー社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう改革かいかく人物じんぶつ。ネーメトないかく外相がいしょう西にしドイツとの交渉こうしょうなどをすすめた。のち社会党しゃかいとう勝利しょうりさせ、首相しゅしょうとなる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 永井ながいほか(1990) P.215
  2. ^ 三浦みうら山崎やまざき(1992) P.47-48
  3. ^ 三浦みうら山崎やまざき(1992) P.49-50
  4. ^ 永井ながいほか(1990) P.218-220
  5. ^ 永井ながいほか(1990) P.224
  6. ^ 三浦みうら山崎やまざき(1992) P.59
  7. ^ 永井ながいほか(1990) P.226
  8. ^ 永井ながいほか(1990) P.226-227
  9. ^ マイヤー・早良さわら(2010) P.128-129
  10. ^ マイヤー・早良さわら(2010) P.133-134によれば、ネーメトはソ連それん最高さいこう指導しどうしゃミハイル・ゴルバチョフとの会談かいだん財政ざいせい危機ききてき状態じょうたいのため、国境こっきょう障壁しょうへき維持いじできないと説明せつめいし、「あれはワルシャワ条約じょうやく機構きこうのフェンスだから費用ひようはワルシャワ条約じょうやく機構きこう負担ふたんするべきです」とったところゴルバチョフは「それは無理むりだ。そんな資金しきん用意よういはないからね」とこたえたという。ただ、ネーメトいわ本来ほんらい鉄条てつじょうもう撤去てっきょはそれが本当ほんとう理由りゆうではかったとかたっている。
  11. ^ マイヤー・早良さわら(2010) P.129
  12. ^ マイヤー・早良さわら(2010) P.158-159
  13. ^ 三浦みうら山崎やまざき(1992) P.50
  14. ^ 永井ながいほか(1990) P.229
  15. ^ 三浦みうら山崎やまざき(1992) P.51-73
  16. ^ 永井ながいほか(1990) P.233
  17. ^ 三浦みうら山崎やまざき(1992) P.75-76

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 永井ながい清彦きよひこ; 南塚みなみづか信吾しんご; NHK取材しゅざいはん守護しゅごかべ恥辱ちじょくかべ ひがしドイツ ; はん革命かくめい民衆みんしゅう蜂起ほうきか ハンガリー : NHKスペシャル 社会しゃかい主義しゅぎの20世紀せいきだい1、日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、1990ねんISBN 4140087315 
  • 三浦みうら元博もとひろ; 山崎やまざき博康ひろやす東欧とうおう革命かくめい : 権力けんりょく内側うちがわなにきたか』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1992ねんISBN 4004302560 
  • マイケル・マイヤー英語えいごばん しる早良さわら哲夫てつお わけ『1989 世界せかいえたとし作品社さくひんしゃ、2010ねん原著げんちょ2009ねん)。ISBN 4861822629