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パキータ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
デルデヴェスによるピアノ楽譜がくふ表紙ひょうし
1847ねん

パキータ』 (Paquita) は、1846ねんフランスつくられたぜん2まく3じょうバレエ作品さくひんはら振付ふりつけジョゼフ・マジリエ音楽おんがくエドゥアール・デルデヴェス

ナポレオンぐん占領せんりょうスペインで、ジプシーむすめパキータがフランスぐん将校しょうこうリュシアンを陰謀いんぼうからすくこい物語ものがたりである。民族みんぞくしょくあふれるスペインふうおどり、ジプシーおどりがひとつとなっている。

わかマリウス・プティパロシアはじめて演出えんしゅつがけた作品さくひんとしてもられており、今日きょうではプティパばん抜粋ばっすい音楽おんがくレオン・ミンクス)が1まく作品さくひんとして上演じょうえんされることがおおい。

あらすじ

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パキータのヴァリアシオン
おも登場とうじょう人物じんぶつ[1]   
 リュシアン   Lucien d'Hervilly   フランスぐん将校しょうこう
 デルヴィリ伯爵はくしゃく   Comte d'Hervilly   リュシアンのちち、フランスぐん将軍しょうぐん 
 ドン・ロペス   Don Lopez   スペインじん地方ちほう総督そうとく 
 パキータ   Paquita   ジプシーわかむすめ 
 イニゴ   Iñigo   ジプシーの首領しゅりょう 

だい1まく

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サラゴサ郊外こうがい谷間たにまで、デルヴィリ将軍しょうぐん息子むすこのリュシアン、総督そうとくロペス、ロペスのいもうとセラフィナらがあつまっている。戦役せんえき権力けんりょくしゃとなったデルヴィリ伯爵はくしゃくは、息子むすこ総督そうとくいもうと縁組えんぐみさせようとしているが、リュシアンは愛情あいじょうかんじないセラフィナとの結婚けっこんには気乗きのりしない。ロペスもまた自国じこくんできたフランスじんどもをしんひそかににくんでいた。

このときイニゴのひきいるジプシーの一団いちだんやまからくだってきた。このなかにジプシーらしからぬ雰囲気ふんいきのパキータがいる。リュシアンは彼女かのじょきつけられる。イニゴも以前いぜんからパキータに好意こういいていたので、リュシアンにたいしてはげしく嫉妬しっとする。2人ふたり衝突しょうとつしそうになるが、総督そうとくのとりなしでなにとかそのおさまった。

イニゴがリュシアンに敵意てきいいていることをてとった総督そうとくロペスは、イニゴをやとってリュシアンを暗殺あんさつすることをおもいつく。

だい2まく

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だい1じょう
ジプシーの住居じゅうきょなか。パキータは昼間ひるま出会であった将校しょうこうリュシアンのことがわすれられずおもなやんでいる。そこに仮面かめんをつけたロペスと、イニゴがあらわれた。リュシアン暗殺あんさつ計画けいかくされていることをったパキータは慄然りつぜんとし、なにとかこれを阻止そししたいとかんがえる。

やがてリュシアンがやってきた。食事しょくじともどくしゅきょうされるが、パキータがなんとかますまいとする。リュシアンも様子ようすがおかしいことに気付きづく。パキータは一瞬いっしゅんすきをついてはいえ、イニゴはそれをんでたおれこんでしまった(挿絵さしえ)。

だい2じょう
サラゴサのフランスぐん司令しれい官邸かんてい。デルヴィリ将軍しょうぐんと、総督そうとくロペスらをかこんで舞踏ぶとうかいおこなわれている。リュシアンの姿すがた見当みあたらないので不安ふあんおもっていた矢先やさき本人ほんにんがパキータをれてあらわれた。リュシアンは襲撃しゅうげきあやうくまぬかれたことをはなし、自分じぶんすくったパキータを紹介しょうかいする。そのでリュシアンは求婚きゅうこんするが、身分みぶんちがいからパキータはそれをこばんでいる。このときパキータは総督そうとくロペスをて、それが仮面かめんをつけてイニゴとともにやってきたおとこだと見破みやぶった。悪事あくじ露見ろけんしたロペスは連行れんこうされ、ようやく危機ききった。

それでもパキータは幸福こうふくにつながるとはおもっていない。しかし舞踏ぶとうあいだかかげられている肖像しょうぞうるや、自分じぶんむねげているメダイヨンのおなじであることに気付きづく。彼女かのじょ行方ゆくえ不明ふめいとなっていたデルヴィリ将軍しょうぐんおとうとむすめであった。れて家族かぞくとしてれられ、よろこびのなかいわいの舞踏ぶとうかいはじまる。

概要がいよう

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初演しょえん1846ねん4がつ1にちにパリの帝室ていしつ音楽おんがくアカデミー現在げんざいオペラ)でおこなわれた。

カルロッタ・グリジがパキータやくを、リュシアン・プティパマリウス・プティパ実兄じっけいのちにオペラのメートル・ド・バレエとなる) がリュシアンやくおどった。物語ものがたりがやや通俗つうぞくてきであるものの、だいいち帝政ていせい時代じだいのフランスを再現さいげんした舞台ぶたい装飾そうしょくとグリジのおどりが見事みごとであったとして当時とうじ批評ひひょうT・ゴーティエはこれを好感こうかんした[2]。グリジのパキータやく当時とうじとしてはポワント時間じかん非常ひじょうながかったとされ[3]雑誌ざっしル・コルセール・サタン』 は最大さいだいきゅうさんおくったという[4]

好評こうひょう後押あとおしされるかたちで、同年どうねん6がつにはグリジをパキータやくとしてロンドン王立おうりつ劇場げきじょうでも上演じょうえんされ、オペラでは1851ねんまでえんじられた。

プティパばん

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ミハイル・フォーキンふんするリュシアン。1898ねんマリインスキー劇場げきじょうにて。

1847ねんだいいち舞踏ぶとうしゅとしてロシア帝室ていしつ劇場げきじょう現在げんざいマリインスキー・バレエ) にまねかれていたおとうとマリウス・プティパは、『パキータ』 の評判ひょうばんきつけた支配人しはいにんA・M・ゲデオノフの依頼いらいけ、P・F・マレヴェルニュとともにしん演出えんしゅつでこれを上演じょうえんした。これはマリウスのロシアにおける振付ふりつけ舞踏ぶとうしゅデビューとなり、ロシアのバレリーナ、E・アンドレヤノワとも皇帝こうていニコライ1せい御前ごぜんでリュシアンやくおどった[5]

それから34ねんの1881ねん、プティパはあらたにレオン・ミンクス音楽おんがくによるパ・ド・トロワ(3にんおどり)とグラン・パくわえて大幅おおはば改作かいさくをほどこし、1882ねん1がつ8にち[6]帝室ていしつ劇場げきじょう上演じょうえんした。作品さくひん設定せっていがスペインであるにもかかわらず、帝室ていしつバレエ学校がっこう生徒せいとおどらせるマズルカ挿入そうにゅうするなど、ややこじつけにちか部分ぶぶんもあったが、振付ふりつけをほぼ全面ぜんめんてき一新いっしんして、グラン・パによって終幕しゅうまくいわいの舞踏ぶとうかい強調きょうちょうしたものとなった。

プティパの死後しごぜんまくではなく、このだい3まくのみがえんじられるようになり、ロシア革命かくめいの1920年代ねんだいには一旦いったん上演じょうえん途絶とだえてしまう[2]。しかし1957ねんソ連それんのK・ボヤルスキーがグラン・パのみを再演さいえんし、また西側にしがわ移住いじゅうしていたジョージ・バランシンアレクサンドラ・ダニロワがミンクスの楽曲がっきょく部分ぶぶん集成しゅうせいしたものを1まくぶつとして復活ふっかつさせた。同様どうよううごきが各国かっこくひろがり、今日きょう上演じょうえんされるものは後述こうじゅつするラコットばんのぞき、ほとんどがこの短縮たんしゅくされたミンクス=プティパばん下敷したじきとしている。

ラコットによる復元ふくげんばん

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2001ねん1がつ、パリ・オペラのピエール・ラコットにより、ながらくえんじられなかった1881年版ねんばん全曲ぜんきょく上演じょうえんおこなわれた。

マジリエのげん振付ふりつけ今日きょうまで正確せいかくつたわっていないため、プティパによる追加ついか部分ぶぶん以外いがいはラコットがあらたに振付ふりつけて2まく構成こうせい復元ふくげんした。オペラのレパートリーにくわえられ、そのかえ再演さいえんされている (動画どうが参照さんしょう)。

動画どうが

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 台本だいほん完訳かんやくは、平林ひらばやし正司せいじじゅうきゅう世紀せいき フランス・バレエの台本だいほん』 2000ねん, ISBN 4-7664-0827-6, pp.131-145. を参照さんしょう
  2. ^ a b A. Degen, "Paquita", International Dictionary of Ballet, vol.2, St. James Press, 1993, ISBN 1-55862-158-X, pp.1073-1074.
  3. ^ ポワントが最初さいしょ教科書きょうかしょかれたのが1830年代ねんだいで、技術ぎじゅつとして確立かくりつしてからまだあさかった。
  4. ^ 優雅ゆうがにして軽妙けいみょう魅惑みわくてきであり、かつ敏捷びんしょうかい濶であることにおいて比類ひるいがない。グリジじょうふんするジプシーむすめパキータは頻繁ひんぱん舞台ぶたい登場とうじょうし、とりのごとくかほそあしやすむことがなかった」 Cyril W. Beaumont, Complete Book of Ballets, 1949, Putnam, p.229.より
  5. ^ 『マリウス・プティパ自伝じでん石井いしい洋二郎ようじろう やく, 新書しんしょかん, 1993ねん, ISBN 4-403-23034-2, p.47.
  6. ^ ユリウスれきでは1881ねん12月27にち。このため各種かくしゅ文献ぶんけんでは1881ねんかれることがおおい。