パブロ・ダニエル・オスバルド(Pablo Daniel Osvaldo, 1986年1月12日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手。元イタリア代表。現役時代のポジションはフォワード。
9歳で地元ブエノスアイレスのCAラヌースに入団。CAバンフィエルドを経て、2000年にCAウラカンに移籍。2005年まで同クラブの下部組織でプレーした。
- アタランタ
2006年1月18日に当時セリエBのアタランタBCに入団。イタリアでの初年度は出場3試合で1ゴールだった。7月25日、同じくセリエBのUSレッチェにレンタル移籍。31試合8得点の成績を残し、ACFフィオレンティーナのスポーツディレクターであるパンタレオ・コルヴィーノの目に留まる。
- フィオレンティーナ
2007年8月13日、移籍金460万ユーロでフィオレンティーナに移籍。9月29日のASリヴォルノ・カルチョ戦でセリエA初出場。スタメン起用に応え移籍後初ゴールを含むドッピエッタ(2得点)を記録した。2008年3月2日、アウェイでのユヴェントスFC戦において後半ロスタイムに逆転ゴールを決める。ゴールパフォーマンスとしてガブリエル・バティストゥータを真似たマシンガンポーズを披露し、20年ぶりとなる敵地でのユヴェントス戦勝利に歓喜するサポーターを熱狂させた。また、最終節となった5月18日のトリノFC戦ではオーバーヘッドキックで決勝点を挙げ、チームに翌シーズンのチャンピオンズリーグ出場権をもたらした。
翌2008-09シーズンはアルベルト・ジラルディーノやステヴァン・ヨヴェティッチの加入にともない一転して出場機会が減少し、冬に移籍することを希望した。
- ボローニャ
2009年1月16日、ボローニャFCに移籍[1]。8月23日のフィオレンティーナ戦で古巣相手に移籍後初ゴールを挙げた。しかし、ボローニャではマルコ・ディ・ヴァイオの存在もあり思ったような活躍ができなかった。
- エスパニョール
2010年1月11日、スペインのRCDエスパニョールへレンタル移籍[2]。シーズン後半のみで20試合に出場してチーム最多の7得点を挙げ、6月3日に5年契約で完全移籍した。
2年目の2010-11シーズンは終盤戦を怪我で棒に振ったものの、24試合でキャリア初の2桁得点となる13得点を挙げる活躍を見せヨーロッパリーグ出場権争いの立役者となったが、クラブは財政状況の悪化にともないオスバルドの売却を検討した[3]。
- ローマ
2011年8月25日、ASローマに5年契約の移籍金総額1750万ユーロで移籍[4]。ボローニャ時代以来1年半ぶりのイタリア復帰となった。11月25日のウディネーゼ・カルチョ戦後、同僚のエリク・ラメラを殴ったとしてクラブから10日間の謹慎処分と罰金が課された[5]。また、2012年2月26日の古巣アタランタ戦ではMFルカ・チガリーニを蹴って退場になり、2試合の出場停止処分を受けた[6]。このようなトラブルや度重なる負傷にもかかわらず、シーズン全体では26試合でチーム最多の11得点をあげ、セリエAでは自身初の2桁得点を記録した。
2年目は迷走を極める中でチームトップの16ゴールを挙げた。しかし、2013年2月10日のUCサンプドリア戦でダニエレ・ガスタルデッロに倒されPKを獲得した際に本来キッカーであるはずのフランチェスコ・トッティからその座を奪って蹴ったが、これを失敗[7]。試合後には空港でサポーターと揉み合いになった。コッパ・イタリア決勝では宿敵SSラツィオに0-1で敗れ準優勝に終わりヨーロッパリーグ出場を逃すと、表彰式を欠席しさらにアウレリオ・アンドレアッツォーリ監督(当時)に対してツイッターで「無能なことを認めればよかったものを。ラツィオの連中と祝っていればいい」と侮辱するような呟きをしたため、当初はFIFAコンフェデレーションズカップ2013の代表メンバーに選出されていたが、この騒動によってチェーザレ・プランデッリ監督により代表を追放される事態となった[8]。
新監督に就任したリュディ・ガルシアには一定の評価を受けていたが、サポーターとの対立は日を追うごとに深まっていった。
- サウサンプトン
2013年8月18日、エスパニョール時代の恩師マウリシオ・ポチェッティーノが率いるサウサンプトンFCへの移籍が合意[9]。移籍金はクラブレコードとなる1500万ポンド(約23億円)となった。背番号は17番。2014年1月、練習中にチームメイトのジョゼ・フォンテと喧嘩になり、左目を殴り怪我をさせたことから、チームから停職処分が与えられた。この前にも12月のニューカッスル戦で相手チームと揉め合いの原因を起こしたとし、3試合の出場停止を受けていたばかりであった。
- ユヴェントス
2014年1月31日、ユヴェントスFCへ買い取りオプション付きでレンタル移籍した[10]。背番号は18番。しかし、オプションは行使されず、シーズン終了後にサウサンプトンに復帰。
- インテル
2014年8月、サフィル・タイデルとのトレードでインテルナツィオナーレ・ミラノに買い取りオプション付きでレンタル移籍した[11]。しかし、2015年1月のイタリアダービーの試合最中にマウロ・イカルディとの口論など規律を乱す行動があったため、放出の方向へと向かった。
- ボカ・ジュニアーズ
2015年2月、母国アルゼンチンのボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍が決定[12]。オスバルドは以前からボカのファンであった。
- FCポルト
2015年8月5日、FCポルトに1年契約に2年の契約延長オプション付きの条件で移籍が発表された。
- ボカ復帰
2016年1月にボカに完全移籍の形で復帰。しかし同年5月にドレッシングルームで喫煙したとしてギジェルモ・バロスケロット監督と衝突し契約解除となった[13]。
ボカ退団後は無所属の状態が続きACキエーヴォ・ヴェローナなどからオファーを受け取っていたものの、9月1日に代理人を通じて現役引退を表明した[14]。今後はロックバンドのボーカルとして活動していくという。
2020年1月2日、CAバンフィエルドに加入することが発表され、約3年半ぶりに現役復帰した[15]。
アルゼンチンとイタリアの二重国籍を所持していたがイタリア代表を選択。2007年11月16日のU-21アゼルバイジャン戦にU-21イタリア代表として初出場。
2011年10月11日に行われたEURO2012予選の北アイルランド代表戦でイタリア代表デビュー。EURO2012のメンバーからは漏れた。
2012年9月7日のワールドカップ予選ブルガリア戦で代表初得点を含む2ゴールを挙げた[16]。
ドリブルでの仕掛けやゴールエリア内での正確なシュートを武器とし、本人がもっとも好むセンターフォワード以外にもセカンドトップやウィングなど前線の複数のポジションをこなすことができる[17][18]。
- → USレッチェ 2006-2007 (loan)
- → RCDエスパニョール 2010.1-2010.6 (loan)
- → ユヴェントスFC 2014.1-2014.6 (loan)
- → インテル・ミラノ 2014-2015
- → ボカ・ジュニアーズ 2015-2015.7
- アタランタ
- ユヴェントス
- ボカ・ジュニアーズ
- ^ ▼ボローニャ、U-21伊代表獲得 ゲキサカ 2009年1月22日
- ^ 【中村俊輔情報】アルゼンチン人FWオスバルドを獲得
- ^ エスパニョール、オスワルド売却の具体額提示か goal.com 2011年6月4日
- ^ 【喪失】エスパニョール、FWオスバルドがローマへ移籍
- ^ ローマで内紛が発生…オスバルドがチームメートを殴り謹慎処分に SOKKER KING 2011年11月28日
- ^ ローマ、オスバルド処分は撤回されず goal.com 2012年3月9日
- ^ “オスバルド、トッティにPKを譲らず失敗 「貢献したかった」”. 朝日新聞デジタル (2013年2月11日). 2023年10月9日閲覧。
- ^ ローマFWオスヴァルド、監督侮辱と表彰式欠席理由で伊代表から追放 Sokker King 2013年5月29日
- ^ オスバルドの新天地はサウサンプトンに Goal 2013年8月19日
- ^ ユヴェントスがオスバルド獲得を発表 Goal 2014年2月1日
- ^ インテル、オスバルドとタイデルの移籍を正式発表 Goal 2014年8月7日
- ^ “イタリア代表FWオスバルドが生まれ故郷の名門ボカへ「私の人生における最大の夢」”. サッカーキング (2015年2月13日). 2023年10月9日閲覧。
- ^ “Dani Osvaldo to be sacked by Boca after reportedly smoking in dressing room!”. Goal.com (2016年5月13日). 2016年9月30日閲覧。
- ^ “元イタリア代表FWオスバルドが30歳で現役引退! 屈指の問題児は音楽業界に殴り込みへ”. 超ワールドサッカー (2016年9月2日). 2016年9月30日閲覧。
- ^ “元イタリア代表FWオスバルドが3年半ぶり現役復帰。アルゼンチン1部クラブと契約”. フットボールチャンネル (2020年1月3日). 2023年10月9日閲覧。
- ^ 2ゴールのオスバルド 「引き分けは妥当」 Goal.com 2012年9月8日
- ^ 17 オスヴァルド PERICO NIPPON|PENYA ESPANYOLISTA NIPPON
- ^ オスバルド:「イタリアで価値を証明してみせる」