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パリ改造かいぞう

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パリ改造かいぞう計画けいかく

パリ改造かいぞう(パリかいぞう)は、だい帝政ていせいどきの19世紀せいきセーヌけん知事ちじジョルジュ・オスマンんだフランス最大さいだい都市とし整備せいび事業じぎょうである。

ジョルジュ・オスマンのをとり、「travaux haussmanniens」ともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

背景はいけい[編集へんしゅう]

19世紀せいきなかばすぎのパリのシテとうHôtel-Dieu de Paris付近ふきん様子ようすみちがかなりせまく、みち両側りょうがわには多層たそう建物たてものち、中層ちゅうそう以下いかには太陽たいようひかり直接ちょくせつはほとんどたらず、風通かぜとおしがわるく、くそ汚物おぶつにおいがたちこめていた。みち中央ちゅうおうあたりに一応いちおうちいさなみぞつくってあるのがえるが、みぞほそくてあさいものなので、くそ汚物おぶつなどが容易よういまってまってしまったり、周囲しゅうい道路どうろまであふれてしまい、歩行ほこうしゃくつあしにまでそれがき、くさくて住民じゅうみんなやませ、(くそ汚物おぶつ細菌さいきんふくみ)非常ひじょう不衛生ふえいせいで、病気びょうき疫病えきびょう原因げんいんとなった。

19世紀せいきなかごろまでのパリは生活せいかつ環境かんきょう都市とし衛生えいせいきわめて劣悪れつあくだった。くらく、風通かぜとおしがわるく、非常ひじょう不衛生ふえいせいで、病気びょうき疫病えきびょう蔓延まんえんするまちだった。

当時とうじのパリは建物たてもの建物たてもの間隔かんかくせまく、ほそみちばかりで、そのほそみち両側りょうがわ多層たそうかい建物たてものてられているので中層ちゅうそうから低層ていそうにかけてはひかりたらず、風通かぜとおしがわるく、悪臭あくしゅうめていた。ほそみちは、一応いちおうパヴェフランス語ふらんすごPavé石畳いしだたみ)で舗装ほそうがなされているものもおおかったが、当時とうじのパリではぶたはないにされている状態じょうたいであったし、住民じゅうみん日々ひび生活せいかつなまごみ汚物おぶつとおりにてるため、みちの(中央ちゅうおうの)くぼみやみぞ屋根やねった雨水あまみずみちちたものをながすためにつくられたもの)には、実際じっさいには、雨水あまみずだけでなく、動物どうぶつくそ廃棄はいきぶつ汚物おぶつなどがながまり、うまくながれてもみぞつたってひくいほうへと汚物おぶつまちちゅうながれてセーヌがわへとながみ、セーヌのみず汚染おせんした。また、パリの住民じゅうみんはそのかわみず飲料いんりょうすいなどに使用しようしていた。そして、19世紀せいきなかばのパリでは急激きゅうげき人口じんこう増加ぞうかがあった。19世紀せいき当時とうじ工業こうぎょう都市とし仕事しごともとめていくことが一般いっぱんてきであったが、産業さんぎょう革命かくめいなどのうごきが本格ほんかくてきになっていた政治せいじ中心ちゅうしん都市としのパリにもフランス国内こくないから仕事しごともとめて移住いじゅうするひと急激きゅうげきえた。人口じんこうえると同時どうじ人口じんこう密度みつどたかまっていった。そのため、一人ひとりたりの居住きょじゅう面積めんせきは10㎡にもたない状況じょうきょうであった。また、科学かがくてき一人ひとりたり12㎡から14㎡の空気くうき健康けんこうてき生活せいかつおくるために必要ひつようとされていたが、当時とうじのパリはせいぜい3㎡から4㎡の空気くうきなからしていた。このような人口じんこう増加ぞうか人口じんこう密度みつどたかまりにくわえて、パリの街並まちなみの不衛生ふえいせい環境かんきょうかさなったことによりパリちゅう疫病えきびょう(コレラ)がひろがった。このコレラ襲撃しゅうげきにより多数たすう死者ししゃてしまい、王政おうせい都市とし計画けいかく本腰ほんごしれることとなった。

対策たいさく[編集へんしゅう]

オスマンは1853ねんから1870ねんまで17ねんにわたってセーヌ県知事けんちじつとめたわけだが、ナポレオン3せい構想こうそう沿ってだい規模きぼ都市とし改造かいぞうくわだてた。改造かいぞうでは、パリの衛生えいせい状態じょうたいくすること、またそのためにひかりかぜれることも目的もくてきとしてかかげられた。オスマンは街路がいろ計画けいかくするとき3つの原則げんそくかかげた。

  • ふる街路がいろ拡幅かくふくし、直線ちょくせんはかる。
  • 幹線かんせん道路どうろ複線ふくせんによって交通こうつう循環じゅんかん容易よういにする。
  • 重要じゅうよう拠点きょてんはす交路によって接合せつごうする。

そして、セーヌがわ平行へいこうまたは垂直すいちょく基盤きばん模様もよう街路がいろ同心円どうしんえんじょうのバイパスとをつなげ、都市としからしんまちびていくはす交路をかさねることによって、パリの街並まちなみとして有名ゆうめいなエトワール広場ひろばから外側そとがわ同心円どうしんえんじょう道路どうろはしり、そこから12ほんみちがほぼ同一どういつ角度かくど放射状ほうしゃじょうているかたち出来上できあがった。

また、オスマンは都市とし景観けいかんへのこだわりがあり、それを象徴しょうちょうするのがシュリーきょうである。このはしはナポレオン3せいとのあいだおおきく意見いけん相違そういがあったところである。ナポレオン3せいはサン・ルイとう左岸さがんむすはしについてセーヌがわたいして垂直すいちょく整備せいびするかんがえをっていたのにたいして、オスマンはセーヌがわたいしてななめにかるはしきがわるいとし、そのはしはサン・ジェルマンどおりとアンリ4せいどおりの延長えんちょうじょう整備せいびすべきであるとのかんがえをっていた。そうすることによって、バステイーユ広場ひろばの7がつとうとパンテオンのドームが一直線いっちょくせんじょうることができ、都市とし景観けいかん統一とういつせいたもたれることになった。また、計画けいかく街路がいろめんしている建築けんちくぶつたいしてもいろかたち統一とういつせいはかられた。そして、まち内側うちがわ中庭なかにわもうけて緑化りょくかおこない、開放かいほうてき衛生えいせいてきまち整備せいびした。それを実現じつげんするためにスクラップアンドビルドという手法しゅほうれ、計画けいかくにある建物たてもの強制きょうせいてきこわした。

都市とし整備せいびにより経済けいざい活性かっせいするとともに、迷宮めいきゅうのようなスラムこわし、そこに人々ひとびと退かせてしまおう、という目的もくてきじつはあった。これは産業さんぎょう革命かくめい経済けいざいかい要請ようせいにも沿うものであった。パリ改造かいぞう近代きんだい都市とし計画けいかく建築けんちく活動かつどうおおきな影響えいきょうあたえ、近代きんだい都市としのモデルとして做された。

詳細しょうさい[編集へんしゅう]

オスマンによるパリ改造かいぞう成果せいかれいオペラどおとおりの幅員ふくいん大胆だいたんひろげられ、ひかり歩道ほどうまでとどき、さわやかなかぜけるようになった。
エトワール凱旋がいせんもん界隈かいわいひろ直線ちょくせんてき大通おおどお

エトワール凱旋がいせんもんから放射状ほうしゃじょう並木なみきはいされたアヴェニューばれるひろい12ほんブールヴァール大通おおどおり)をつくり、中世ちゅうせい以来いらい複雑ふくざつ路地ろじ整理せいりした。オスマンの計画けいかくによって破壊はかいされたパリの路地ろじうら面積めんせきじつに7ぶんの3にのぼったという。このようにして交通こうつうもうととのえたことで、パリ市内しない物流ぶつりゅう機能きのう大幅おおはば改善かいぜんされた。また、がつ革命かくめいはん政府せいふ勢力せいりょくたすけた複雑ふくざつ路地ろじがオスマンの都市とし改造かいぞうによって大方おおかたなくなったため、反乱はんらんこりにくくなった。現在げんざいでは観光かんこう名所めいしょとして名高なだかノートルダムだい聖堂せいどうなどがあるセーヌがわ中州なかす位置いちするシテとうは、19世紀せいき当時とうじにおいては貧民ひんみんそうあつまっていたが、ここもオスマンによって改善かいぜんされ、パリの清潔せいけつ空間くうかん一部いちぶとなった。

また、上下水道じょうげすいどう施設しせつし、学校がっこう病院びょういんなどの公共こうきょう施設しせつなどの拡充かくじゅうはかった。上下水道じょうげすいどう施設しせつや、学校がっこうにおける教育きょういくにより、衛生えいせいめんでの大幅おおはば改善かいぜんがみられ、当時とうじ流行りゅうこうしていたコレラ発生はっせいをかなりの程度ていどおさえることになった。

パリ改造かいぞうとおして市街地しがいちがシンメトリーで統一とういつてき都市とし景観けいかんになるよう、様々さまざま手法しゅほうった。たとえば、(道路どうろ幅員ふくいんおうじて)街路がいろめんする建造けんぞうぶつたかさをさだめ、のきだか連続れんぞくするようにしたほか、屋根やね形態けいたい外壁がいへき石材せきざいについても指定していした。さらに当時とうじめいせた建築けんちく登用とうようしてルーヴルみやオペラ(1874ねん竣工しゅんこう)などの文化ぶんか施設しせつ建設けんせつすすめた。大通おおどおりになら街灯がいとうかずやされ、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかいおとずれた日本人にっぽんじんもその風景ふうけいをたたえている。

超過ちょうか収用しゅうよう[編集へんしゅう]

街路がいろ整備せいびにあたって超過ちょうか収用しゅうよう手法しゅほうられた。当時とうじ法令ほうれいによれば、道路どうろ建設けんせつ土地とち収用しゅうよう公共こうきょう事業じぎょう必要ひつよう土地とちを、補償ほしょうおこなったうえで強制きょうせいてき公有こうゆうすること)がみとめられるのは、道路どうろ必要ひつよう部分ぶぶんのみであるが、パリ改造かいぞうでは道路どうろくわえ、(条件じょうけんきではあるが)その沿道えんどう土地とち収用しゅうようできる規定きてい適用てきようした。そして街路がいろ区画くかく整備せいびしたのち資産しさん価値かちがった沿道えんどう土地とち売却ばいきゃくし、事業じぎょう資金しきんてた。これは開発かいはつ利益りえき還元かんげんする手法しゅほうである。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

こうした一連いちれん改造かいぞうHaussmannisation(オスマニザシオン=オスマン)」ともしょうされた。整備せいびされたパリのまちは「世界せかい首都しゅと」とばれるようになり、フランス国内こくないにとどまらず各国かっこくにおける都市とし建設けんせつ手本てほんとされた。首都しゅとだい規模きぼ改造かいぞうは、ナポレオン3せい威光いこうたかめることにつながり、当時とうじ政権せいけん寿命じゅみょうばしたといえる。

パリ改造かいぞう混乱こんらんした社会しゃかい状況じょうきょうけ、それにたいしてきわめて合理ごうりてきにその解決かいけつおこなったとかんがえれば、まさに近代きんだいてき都市とし計画けいかく出発しゅっぱつてんぶに相応ふさわしいものだと評価ひょうかできる。一方いっぽう、スイスの建築けんちくジークフリート・ギーディオンはその著書ちょしょ空間くうかん時間じかん建築けんちく』のなかで、改造かいぞうのパリのまちを「まるで衣装いしょうだなのように、画一かくいつてき大通おおどおりの裏側うらがわにあまりにもひどい乱雑らんざつさがかくされている」と批判ひはんしている。

このだい規模きぼ都市とし改造かいぞう反面はんめん都市としとしての防御ぼうぎょりょくをなくしてしまうことになり、ひろしふつ戦争せんそうではパリを防衛ぼうえいすることが出来できなくなり敗戦はいせんする原因げんいんとなった。スラムを一掃いっそうしたことは下町したまち自治じち共同きょうどうたい解体かいたいすることにもなり、パリ市民しみん現代げんだいのようにとなり住民じゅうみんかおらないような住民じゅうみんばかりになり、おおくのコミュニティが破壊はかいされた。さらに、オノレ・ド・バルザックアレクサンドル・デュマ・ペールヴィクトル・ユーゴーらの文学ぶんがくしゃ作品さくひんにおいて描写びょうしゃした当時とうじのパリの街並まちなみがうしなわれたことから、これらの作品さくひん内容ないよう理解りかいすることがむずかしくなった[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 鹿島かしましげるうしなわれたパリの復元ふくげんだい1かい芸術げいじゅつ新潮しんちょう2012ねん1がつごう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 安藤あんどう忠雄ただお ちょ建築けんちくゆめた』 日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、2002ねん4がつ ISBN 4-14-084149-4
  • S.ギーディオン ちょ太田おおたみのる わけ空間くうかん時間じかん建築けんちく1 新版しんぱんISBN 4-621-04829-5
  • 柴田しばた三千雄みちお ちょ 『フランス10こう岩波書店いわなみしょてん 2006ねん5がつ ISBN 4-00-431016-4
  • 河田かわた浩樹ひろき ちょまれわったパリ〜19世紀せいきパリの密集みっしゅう市街地しがいち整備せいび財団ざいだん法人ほうじん 建設けんせつ経済けいざい研究所けんきゅうじょ 2008ねん3がつ
  • 松井まつい道昭みちあき ちょ 『フランスだい帝政ていせいのパリ都市とし改造かいぞう日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ 1997ねん3がつ21にち

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]