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フィリベルト2せい・ディ・サヴォイア

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリベルト2せい
Filiberto II
サヴォイアこう
在位ざいい 1497ねん - 1504ねん

出生しゅっしょう (1480-04-10) 1480ねん4がつ10日とおか
ポン・ダン
死去しきょ (1504-09-10) 1504ねん9がつ10日とおか(24さいぼつ
ポン・ダン
埋葬まいそう ブール=カン=ブレス
配偶はいぐうしゃ ヨランダ・ルドヴィーカ・ディ・サヴォイア
  マルグリット・ドートリッシュ
家名かめい サヴォイア
父親ちちおや フィリッポ2せい
母親ははおや マルグリット・ド・ブルボン
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ブール=カン=ブレスのブルー修道院しゅうどういんにあるフィリベルト2せいぞう

フィリベルト2せい・ディ・サヴォイア(Filiberto II di Savoia, 1480ねん4がつ10日とおか - 1504ねん9がつ10日とおか)は、サヴォイアこうピエモンテこうアオスタはくモーリエンヌはくニースはくキプロスおうエルサレムおう在位ざいい1497ねん - 1504ねん)。フランス語ふらんすごめいフィリベール2せい・ド・サヴォワ(Philibert II de Savoie)。イル・ベッロ(il Bello:美男びなんフランス語ふらんすごではル・ボー(le Beau))の異名いみょうち、ハンサムで武芸ぶげいひいでた人物じんぶつであったという。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

フィリッポ2せい最初さいしょつまマルグリット・ド・ブルボンブルボンおおやけシャルル1せいむすめ)の同母どうぼあねフランスおうフランソワ1せいははルイーズ・ド・サヴォワがいる。

幼少ようしょうは、母方ははかた伯父おじブルボンおおやけピエール2せいつまで、父方ちちかた従姉じゅうしたるフランスおうルイ11せいむすめアンヌ・ド・ボージューした、アンヌのおとうとシャルル8せいらとともに教育きょういくける。

ちちおおやけいだ1496ねん従兄じゅうけいカルロ1せいむすめ早世そうせいした先代せんだいおおやけカルロ2せいあねであるヨランダ結婚けっこんし、よく1497ねんちちによりおおやけいだ。ヨランダとは1499ねん死別しべつし、神聖しんせいローマ皇帝こうていマクシミリアン1せい長女ちょうじょ一時いちじシャルル8せいとなっていたマルゲリータ(マルグリット)と1501ねん12月2にち再婚さいこんした。

フィリベルト2せい自身じしん政治せいじにあまり関心かんしんがなかったが、つまマルゲリータが政治せいじ介入かいにゅうし、暴政ぼうせいおこなっていたフィリベルトの庶出しょしゅつあにルネ・バタール(フランス語ふらんすごめい:イタリアめいレナート・イル・バスタルド - 「バタール」「バスタルド」は庶子しょし意味いみ)を法的ほうてき根拠こんきょもとづいて即刻そっこく解任かいにんし、国外こくがい追放ついほうした。そして小規模しょうきぼながらもくに経済けいざい回復かいふくさせ、サヴォイア公国こうこく苦境くきょうからすくった。夫婦ふうふなかきわめてかったが、結婚けっこん3ねんの1504ねん、フィリベルトは狩猟しゅりょう大会たいかいりにんだ生水なまみずにあたって死亡しぼうした。2人ふたりのどちらとのあいだにも子供こどもがなく、おおやけ異母弟いぼていカルロ3せいいだ。

フィリベルト2せいはマルゲリータが建設けんせつさせたブール=カン=ブレス霊廟れいびょう埋葬まいそうされた。3にんおっとであったフィリベルト2せいうしなったのち、マルゲリータはぬまで独身どくしんつらぬいた。