(Translated by https://www.hiragana.jp/)
フィンランド国立バレエ団 - Wikipedia コンテンツにスキップ

フィンランド国立こくりつバレエだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

フィンランド国立こくりつバレエだん: Suomen Kansallisbalettiえい: Finnish National Ballet)は、フィンランドヘルシンキ拠点きょてんとするバレエだんである[1]。フィンランド唯一ゆいいつ国立こくりつバレエだんで、独立どくりつ5ねんにあたる1922ねん創設そうせつされ、ロシア・バレエつよ影響えいきょうけながらも独自どくじみちあゆんできた[1][2][3]。レパートリーは『白鳥はくちょうみずうみ』、『ジゼル』などのクラシック・バレエやロマンティック・バレエのしょ作品さくひんから、ウィリアム・フォーサイス、カロリン・カールソン(en:Carolyn Carlson)などの現代げんだい振付ふりつけ作品さくひんまで多岐たきにわたる[1][2]。2015ねんトーベ・ヤンソンの『ムーミン・シリーズ』を世界せかいはじめてバレエ作品さくひんとして上演じょうえんした[1][4]。この作品さくひん好評こうひょうけて、2017ねん4がつにムーミン・バレエだい2さくとなる『たのしいムーミン一家いっか〜ムーミンと魔法使まほうつかいの帽子ぼうし』の世界せかい初演しょえん日本にっぽんおこなっている[1][5][4]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

フィンランドにおけるバレエ歴史れきしは、デンマークスウェーデンにくらべると比較的ひかくてきみじか[1]。デンマークとスウェーデンの両国りょうこくではふるくから王政おうせいかれていたため、18世紀せいきには国立こくりつバレエだん創設そうせつし、19世紀せいきには当時とうじのバレエ先進せんしんこくフランスのロマンティック・バレエの影響えいきょうつよけていたのにたいして、フィンランドでは他国たこくによる支配しはい長期間ちょうきかんつづいたことで、バレエやオペラの庇護ひごしゃとなるべき宮廷きゅうてい文化ぶんかかげうすかった[1]

フィンランドでのバレエのはじまりは1879ねん、ヘルシンキにアレグザンダー劇場げきじょう開設かいせつされたこととされる[2]。この劇場げきじょうでオペラやバレエを上演じょうえんするためにダンサーたちが雇用こようされ、そのうちソリストクラスのダンサーはロシアから招聘しょうへいされていた[1][2]。ロシアの支配しはいでフィンランドではジャン・シベリウス交響こうきょうフィンランディア』(1899ねん)に代表だいひょうされる愛国あいこく主義しゅぎもしくは民族みんぞく主義しゅぎてき芸術げいじゅつ運動うんどうたかまりをせていた[1]自国じこく文化ぶんかてきアイデンティティの確認かくにん民族みんぞく伝統でんとうたたえる思想しそう共有きょうゆうとして、舞台ぶたい芸術げいじゅつたす役割やくわりおおきいものがあった[1]

フィンランドは1917ねんにロシアからの独立どくりつたし、バレエだん創設そうせつはその5ねんにあたる1922ねんであった[1]創設そうせつ助力じょりょくしたのはエドヴァルド・ファツェルで、セルゲイ・ディアギレフ先駆さきがけてロシアのバレエダンサーをヨーロッパ各国かっこく紹介しょうかいした実績じっせき人物じんぶつであった[1][2]。ファツェルは同時どうじにロシア・バレエのフィンランドへの移入いにゅうにも尽力じんりょくし、バレエ・マスターとしてサンクトペテルブルクからジョージ・ゲー(ゲオルゲ・ゲー、fi:George Gé)を招聘しょうへいした[1][2][6]

ゲーはサンクトペテルブルクのまれで、ニコライ・レガート(en:Nikolai Legat)に師事しじしてバレエをまなんでいた[6]。1922ねん旗揚はたあ公演こうえんは『白鳥はくちょうみずうみ』であったが、これが西にしヨーロッパのバレエだんによる『白鳥はくちょうみずうみ』のはつ上演じょうえんとなった[注釈ちゅうしゃく 1][1][6]当時とうじはロシアから革命かくめいのがれてきたおおくのバレエダンサーがフィンランドに新天地しんてんちもとめていたため、このとき『白鳥はくちょうみずうみ』で主演しゅえんつとめたのはロシアでバレエ教育きょういくけたマリー・ペシェフ(fi:Mary Paischeff)というバレエダンサーであった[1]。この公演こうえんはソリスト9にんコール・ド・バレエじゅうすうにんという小規模しょうきぼ編成へんせいであったものの、ぜんまく上演じょうえんたしてバレエだん存在そんざいをアピールすることに成功せいこうした[1]

マリー・ペシェフとジョージ・ゲー(1922ねん

ゲーは1935ねんまでバレエだんひきいて19世紀せいきのクラシック・バレエ、ロマンティック・バレエやミハイル・フォーキン振付ふりつけ作品さくひんなどおおくの作品さくひん上演じょうえんし、そのフランスにうつってバレエ・リュス・ド・モンテカルロなどでバレエ指導しどうしゃ振付ふりつけとしての活動かつどうつづけた[1][2][6]。ゲーの退任たいにんもロシア・バレエの導入どうにゅう集中しゅうちゅうてきつづき、『ねむれるもり美女びじょ』や『ジゼル』などのクラシック・バレエやロマンティック・バレエが上演じょうえんされた[1]。ゲーは1939ねんから1945ねんまでスウェーデン王立おうりつバレエだんバレエ・マスターつとめたのち、1955ねんにヘルシンキにもどってふたたびバレエだんでバレエ・マスターとなり、1962ねん死去しきょするまでそのにんにあった[1][6]。ゲーの死後しごは、ニコラス・ベリオゾフが後任こうにんとなり、1964ねんまでの任期にんきちゅう新版しんぱん『エスメラルダ』、『ねむれるもり美女びじょ』、『はる祭典さいてん』を上演じょうえんした[2][7]

クラシックやロマンティック作品さくひん上演じょうえんつづけながらも、バレエだんは1970年代ねんだい中盤ちゅうばんあたらしい方向ほうこうせいもとはじめた[1]。バレエだんは1976ねんに、振付ふりつけのカロリン・カールソンを招聘しょうへいした[1]。カールソンはフィンランドけいアメリカじんで、パリ・オペラ現代げんだい舞踊ぶよう研究けんきゅうグループGRTOP(fr:Groupe de recherche chorégraphique de l'Opéra de Paris)を設立せつりつし、フランスのコンテンポラリーダンス育成いくせい尽力じんりょくしていた[1]。カールソンはフィンランドのバレエのレパートリーと表現ひょうげんはばひろげることに意欲いよくてきんだ[1]

1984ねんから1992ねんあいだは、バレエだんのプリマ・バレリーナとして長年ながねんにわたって活躍かつやくしたドリス・レイン(ドリス・ライネ、fi:Doris Laine)が芸術げいじゅつ監督かんとくつとめた[1][8]。1993ねん国立こくりつオペラ劇場げきじょう開場かいじょうに、ヨルマ・ウォティネン(en:Jorma Uotinen)がレインののちいで芸術げいじゅつ監督かんとく就任しゅうにんした[1][3]。ウォティネンはGRTOPでカールソンに師事しじした舞踊ぶようで、すでにフィンランドを代表だいひょうする振付ふりつけとしての評価ひょうかていた[1][3]。ウォティネンはフランス時代じだい人脈じんみゃくかして、パリ・オペラバレエだんから優秀ゆうしゅう指導しどうしゃまねくことでバレエだん技術ぎじゅつ向上こうじょう企図きとした[1]。さらにかれ古典こてんのレパートリー上演じょうえんとはべつに、自作じさくふくめた現代げんだいてき作品さくひん積極せっきょくてき上演じょうえんするというしん機軸きじくし、若手わかて振付ふりつけにも作品さくひん発表はっぴょう機会きかいあたえた[1][3]。ウォティネンの挑戦ちょうせん観客かんきゃくのバレエにたいする固定こてい観念かんねんえ、フィンランドにおいてバレエとコンテンポラリーダンスのボーダーラインは希薄きはくになり、バレエのシーズンちゅうには8つのプログラム構成こうせいによる100公演こうえんおこなうまでになった[1][3]

2001ねん、デンマークまれでデンマーク王立おうりつバレエだん活躍かつやくしたディナ・ビョルン(ディンナ・ビョーン、en:Dinna Bjørn)が芸術げいじゅつ監督かんとくについた[1][3][9]。ビョルンはオーギュスト・ブルノンヴィルのメソッドについての権威けんいであり、作品さくひん上演じょうえん指導しどう各国かっこくおこなっていた[9]彼女かのじょ指導しどうによって、ブルノンヴィル作品さくひんがバレエだんのレパートリーにくわえられた[1][9]

2008ねん、ビョルンとおなじくデンマーク出身しゅっしんのケネス・グレーヴ(fi:Kenneth Greve)が芸術げいじゅつ監督かんとく就任しゅうにんした[1][4]。グレーヴはデンマーク王立おうりつバレエ学校がっこうやスクール・オヴ・アメリカン・バレエでバレエの訓練くんれんけたダンサーで、ニューヨーク・シティ・バレエだんアメリカン・バレエ・シアターパリ・オペラバレエだん、シュトゥットガルト・バレエだんなど、世界せかい各地かくちのバレエだんでスターダンサーとして活躍かつやくしていた人物じんぶつであった[1][4]。グレーヴは「世界せかい舞台ぶたいかがやくバレエだん」を目標もくひょうとして、それまで平等びょうどう主義しゅぎ浸透しんとうしていたバレエだんあらためて階級かいきゅうせい導入どうにゅうしたり実力じつりょく主義しゅぎ徹底てっていさせたりと強力きょうりょくなリーダーシップを発揮はっきしている[1]。グレーヴの芸術げいじゅつ監督かんとくとしての任期にんきは2018ねん満了まんりょうむかえる予定よていで、かれ自身じしんもこの地位ちいから退しりぞくことを明言めいげんしている[1]

バレエだん構成こうせい[編集へんしゅう]

バレエだん拠点きょてん、フィンランド国立こくりつオペラ・ハウス(2008ねん

フィンランド国立こくりつバレエだんは、同国どうこく唯一ゆいいつ国立こくりつバレエだんである[3]。かつての所属しょぞくダンサーは、オペラ・ハウス付属ふぞくのバレエ学校がっこう出身しゅっしんしゃ多数たすうめていた[3]。2017ねん時点じてんにおいて団員だんいん総数そうすうは80めい以上いじょうおよび、フィンランドじんダンサーはやく半数はんすうである[1]団員だんいん出身しゅっしんこくは23かこくにおよび、ダンスの国際こくさい対応たいおうした構成こうせいとなっている[1]

フィンランドでは平等びょうどう主義しゅぎ浸透しんとうしているため、ウォティネンやビョルンが芸術げいじゅつ監督かんとくつとめていた時代じだいにはダンサーの階級かいきゅうせい存在そんざいしていなかった[3]当時とうじおどえんじる役柄やくがらごとに「ポイント」を配分はいぶんし、月間げっかん獲得かくとくしたポイントによってギャラの支払しはらいがくめるというシステムが採用さいようされていた[3]。このシステムにおいては、わかいダンサーでもソリストに起用きようされるチャンスがあたえられていた[3]

グレーヴが芸術げいじゅつ監督かんとく就任しゅうにんしたのち、バレエだん実力じつりょくアップを目指めざして4かいきゅうからなるダンサーの階級かいきゅうせい導入どうにゅうした[1]。「才能さいのう能力のうりょく健全けんぜん競争きょうそうのもとでみがかれてこそちからになる」というのがグレーヴの主張しゅちょうであった[1]階級かいきゅうせい導入どうにゅう当初とうしょはバレエだん内部ないぶだけでなく外部がいぶからも「アンシャン・レジームへの逆行ぎゃっこうである」などと抵抗ていこうがあったというが、よい意味いみにおいての実力じつりょく主義しゅぎ徹底てっていによる成果せいかがバレエだんのみならずグレーヴの評価ひょうかをもたかめた[1]。バレエだん構成こうせいは2017ねん時点じてんでエトワール8にんプリンシパル5にん、ソリスト12にん、ダンサー(コール・ド・バレエ)55にん、そしてユース・カンパニーに所属しょぞくするダンサーが14にんである[1]

レパートリーと特色とくしょく[編集へんしゅう]

歴史れきしふしすでべたとおり、フィンランド国立こくりつバレエだん初期しょきレパートリーはロシア・バレエのつよ影響えいきょうけていた[1]。『白鳥はくちょうみずうみ』、『くるみ人形にんぎょう』、『ねむれるもり美女びじょ』、『ジゼル』などが初期しょきにあたる50ねんあまりの期間きかん集中しゅうちゅうてき上演じょうえんされ、レパートリーとして定着ていちゃくした[1]。その一方いっぽうで、北欧ほくおう国々くにぐににあるバレエだん必須ひっす作品さくひんといえるブルノンヴィル作品さくひんがレパートリーに定着ていちゃくしたのは、21世紀せいきはいってからであった[1]

白鳥はくちょうみずうみ』は以前いぜんはウラジーミル・ブルメイステル振付ふりつけばん採用さいようしていたが、そのマリウス・プティパレフ・イワーノフはんもとづくグレーヴ改訂かいていばん上演じょうえんしている[1]ナタリア・マカロワはんラ・バヤデール』、ルドルフ・ヌレエフはんねむれるもり美女びじょ』、ウェイン・イーグリングはん『くるみ人形にんぎょうとねずみの王様おうさま』、パトリス・バールばん『ドン・キホーテ』などが古典こてん作品さくひんおもなレパートリーである[1]。1998ねんシルヴィ・ギエム独自どくじ解釈かいしゃく演出えんしゅつによって『ジゼル』をけ、好評こうひょう[3][10]。2001ねん1がつおこなわれたはつのパリ公演こうえんで、バレエだんはこの作品さくひん上演じょうえんして成功せいこうおさめた[3][10]

現代げんだい作品さくひんでは、ウィリアム・フォーサイス、オハッド・ナハリン、イリ・キリアンアンジュラン・プレルジョカージュなどの作品さくひんをレパートリーにち、フィンランドの振付ふりつけ手掛てがけた作品さくひんもそのなかくわわっている[1][2]。バレエだんからはテロ・サーリネン(en:Tero Saarinen)やヨルマ・エロ(en:Jorma Elo)などの才能さいのうある振付ふりつけ次々つぎつぎ登場とうじょうして、フィンランドの国外こくがいでもたか評価ひょうかている[1]

バレエだんは2015ねん、トーベ・ヤンソンの『ムーミン』をバレエした『ムーミンだに彗星すいせい』をヘルシンキで初演しょえんした[1][4]世界せかいはつの『ムーミン・バレエ』となったこの作品さくひん好評こうひょうってむかえられ、すべての公演こうえんがソールド・アウトとなった[1][4]。バレエだんは2017ねん4がつに、フィンランド独立どくりつ100周年しゅうねん祝賀しゅくがイベントの一環いっかんとしてはつ日本にっぽん公演こうえん東京とうきょう大阪おおさかおこなった[1][4][5][11]。この公演こうえんでは4がつ22にちに、『ムーミン・バレエ』のだい2さく『たのしいムーミン一家いっか-ムーミンと魔法使まほうつかいの帽子ぼうし-』が東京とうきょう初演しょえんされた[1][4][5]。こちらは芸術げいじゅつ監督かんとくのグレーヴ自身じしん振付ふりつけによるもので、日本にっぽんでの上演じょうえん想定そうていして大人おとな観客かんきゃくけの作品さくひん仕上しあげたという[1][4][5][11]。なお、フィンランドでの初演しょえんは2018ねん1がつ予定よていである[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ フィンランド国立こくりつバレエだん 2017ねん日本にっぽん公演こうえんプログラムによれば、フィンランドはロシア、チェコつづいて『白鳥はくちょうみずうみ』の上演じょうえんたした3番目ばんめくにである[1]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc フィンランド国立こくりつバレエだん 2017ねん日本にっぽん公演こうえんプログラム
  2. ^ a b c d e f g h i 『オックスフォード バレエダンス事典じてん』、pp.432-433.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『ダンスマガジン』2001ねん10がつごう、pp.60-67.
  4. ^ a b c d e f g h i Pen+『増補ぞうほ決定けっていばん 名作めいさくあいされる理由りゆうさぐる、ムーミン完全かんぜん読本とくほん』、pp.86-87.
  5. ^ a b c d 『ダンスマガジン』2017ねん7がつごう、pp.8-13.
  6. ^ a b c d e 『オックスフォード バレエダンス事典じてん』、p.166.
  7. ^ 『オックスフォード バレエダンス事典じてん』、p.486.
  8. ^ 『オックスフォード バレエダンス事典じてん』、p.592.
  9. ^ a b c 『オックスフォード バレエダンス事典じてん』、p.422.
  10. ^ a b 『バレエ』隔月かくげつかんvol.19(2001ねん5がつ1にち)、pp.82-83.
  11. ^ a b 『ダンスマガジン』2017ねん1がつごう、p.37.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典じてん鈴木すずきあきら監訳かんやく赤尾あかおつよしじん海野うみのさとし長野ながの由紀ゆきやく平凡社へいぼんしゃ、2010ねんISBN 978-4-582-12522-1
  • フィンランド国立こくりつバレエだん 2017ねん日本にっぽん公演こうえんプログラム、Bunkamura、2017ねん
  • ダンスマガジン 2001ねん10がつごうだい11かんだい10ごう)、新書しんしょかん、2001ねん
  • ダンスマガジン 2017ねん1がつごうだい27かんだい1ごう)、新書しんしょかん、2017ねん
  • ダンスマガジン 2017ねん7がつごうだい27かんだい7ごう)、新書しんしょかん、2017ねん
  • バレエ 隔月かくげつかんvol.19 2001ねん5がつ1にちだい10かんだい3ごう)、音楽之友社おんがくのともしゃ、2001ねん
  • Pen+増補ぞうほ決定けっていばん 名作めいさくあいされる理由りゆうさぐる、ムーミン完全かんぜん読本とくほん』CCCメディアハウス、2017ねん6がつ29にち発行はっこうISBN 978-4-484-14725-3

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]