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フラニーとゾーイー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フラニーとゾーイー
Franny and Zooey
作者さくしゃ J・D・サリンジャー
くに アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
言語げんご 英語えいご
ジャンル 青春せいしゅん小説しょうせつ
シリーズ グラース
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ 「フラニー」1955ねん
「ゾーイー」1957ねん
刊本かんぽん情報じょうほう
出版しゅっぱんもと リトル・ブラウンしゃ
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1961ねん
日本語にほんごやく
訳者やくしゃ 野崎のさきたかし1976ねん
村上むらかみ春樹はるき2014ねん
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
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フラニーとゾーイー[1]』(えい: Franny and Zooey)は、J・D・サリンジャー1955ねん1がつ29にちに『ザ・ニューヨーカー』に発表はっぴょうした『フラニー』(Franny)と、1957ねん5月4にち同誌どうし発表はっぴょうした『ゾーイー』(Zooey)の連作れんさくへん小説しょうせつを1つにまとめたもので、『ライ麦らいむぎはたけでつかまえて』にならぶ、代表だいひょうさくのひとつ。1961ねん9月14にち刊行かんこう

グラースすえである女子大じょしだいせいのフラニーと、そのすぐうえあに俳優はいゆうのゾーイーをめぐる、1955ねん11がつのある土曜日どようび午前ごぜんちゅうから、翌週よくしゅう月曜日げつようびにかけての物語ものがたりである。

内容ないよう

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「フラニー」

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晩秋ばんしゅうえきのプラットホームで、女子大じょしだいせいであり自慢じまんのガールフレンドであるフラニーの到着とうちゃく大学生だいがくせいのレーン。ふたりは大学だいがく対校たいこうのフットボールの試合しあい観戦かんせんしたのちに、この週末しゅうまつ一緒いっしょごす計画けいかくてる。ふたりはさっそくいたレストランで昼食ちゅうしょくるが、自己じこ顕示けんじスノッブてき振舞ふるまいになん疑問ぎもんたないエリートのレーンにたいし、青年せいねんらしい潔癖けっぺきさと、みずからの過剰かじょう自意識じいしきなやみ、演劇えんげきをやめようとさえしているフラニーとの会話かいわ次第しだいにすれちがいをみせはじめる。やがて、フラニーはえきれずにテーブルをはなれ、みせのトイレにみ、しばらくいたのち、バッグからちいさなほんし、きをもどす。彼女かのじょがテーブルにもどると、レーンは彼女かのじょほんについてたずねる。それは『巡礼じゅんれいみち[2]』というだいで、ロシアの放浪ほうろうしゃが「えずいのる」能力のうりょく習得しゅうとくするはなしだと彼女かのじょ説明せつめいする。イエスへのいのは、ぜん公案こうあん作法さほうで、「しゅイエス・キリストさまわたしあわれみを」といういのりを無意識むいしきでほとんど鼓動こどうのようになるまで内在ないざいする。レーンはそのはなしよりパーティとフットボールの試合しあい予定よていにしているが、フラニーが失神しっしんしたとき彼女かのじょ介抱かいほうし、週末しゅうまつ計画けいかく延期えんきする。彼女かのじょ意識いしきもどしたのちかれ彼女かのじょ宿泊しゅくはくさきおくるためタクシーをびにき、フラニーをひとりにする。彼女かのじょえずいの練習れんしゅうをしている。

「ゾーイー」

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週末しゅうまつ出来事できごとからにち月曜日げつようびあさ週末しゅうまつ一緒いっしょごすこともなくニューヨークの自宅じたくもどったフラニーは、そのまま居間いま椅子いす寝込ねこんでしまう。おさなころからシーモアとバディという二人ふたりあにからけられた求道きゅうどうてき宗教しゅうきょう哲学てつがく東洋とうよう思想しそうと、相反あいはんするエゴはばかせる現実げんじつ世界せかい板挟いたばさみにうフラニーは「巡礼じゅんれいみち」というほんてくる宗教しゅうきょうてきいのりによってすくいをもとめようとする。心配しんぱいした母親ははおやのベシーは、5さい年上としうえあにであるゾーイーにたすけをもとめる。みずからもあにたちの影響えいきょうつよけているゾーイーは全身全霊ぜんしんぜんれいをかけて説得せっとくこころみるが、「言葉ことば曲芸きょくげい飛行ひこう」であるかれ饒舌じょうぜつさはとき脱線だっせんかえし、ますますフラニーを混乱こんらんさせてしまう。おわりいにはんだあにのシーモアにいたいといいだすフラニーにたいし、一旦いったんはなしげたゾーイーは部屋へやると、以前いぜん二人ふたりあに使つかっていた書斎しょさいあしれ、ドアの背面はいめんかれた哲学てつがくてき引用いんようむ。熟考じゅっこうしたのち、ゾーイはバディをよそおってフラニーに電話でんわをする。やがてフラニーに見抜みぬかれるが、ゾーイは会話かいわつづける。ゾーイはシーモアから以前いぜんもらったおしえを共有きょうゆうし、前向まえむきにあいとともにきるべきだ、だれづかなくてもイエスにはわかると示唆しさする。ゾーイが電話でんわったのち、フラニーは両親りょうしんのベッドによこたわり、天井てんじょういて微笑ほほえむ。

解説かいせつ

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『フラニーとゾーイー』は、これまでサリンジャーが個別こべつ発表はっぴょうしていたいくつかの短編たんぺんが、じつは「グラース物語ものがたり」というべき長大ちょうだいサーガ一部いちぶであり、一家いっか次男じなん小説しょうせつのバディ・グラースがつづけている「散文さんぶんかれた一家いっか記録きろく映画えいが」であることがかされた最初さいしょ作品さくひんである(グラース血縁けつえん関係かんけいあきらかになるのは『大工だいくよ、屋根やねはりたかげよ』(1955)が最初さいしょ)。

『ゾーイー』の冒頭ぼうとうでバディがかたるように、グラースの7兄妹きょうだいともに「これは神童しんどう」というクイズのラジオ番組ばんぐみ出演しゅつえん経験けいけんしており、兄弟きょうだい全員ぜんいん異常いじょう早熟そうじゅく天才てんさいとしてえがかれている。また、フラニーとゾーイーはにんあにから、「教育きょういく知識ちしき追求ついきゅうではなく、ぜんのいう「無心むしん」の追求ついきゅうからはじめることが最良さいりょう」というかんがえからおさなころよりイエス釈迦しゃか老子ろうしシャンカラチャーリヤとしのうシュリ・ラーマクリシュナ等々とうとう宗教しゅうきょう哲学てつがく東洋とうよう思想しそうおしまれている。そのことは『大工だいくよ、屋根やねはりたかげよ』のなかでも、シーモアが生後せいごじゅうヶ月かげつのフラニーに道教どうきょうのある説話せつわはなしてかせる場面ばめんとしてもえがかれているが、それは、恋人こいびとのレーンとはおよそかけはなれた異質いしつ教育きょういくけてきたということであり、結果けっかとしてフラニーは理想りそうとするかた現実げんじつ世界せかいとのギャップに苦悩くのうすることとなる。

『フラニーとゾーイー』では宗教しゅうきょうとくキリスト教きりすときょうたいするサリンジャーなりの解釈かいしゃく東洋とうよう思想しそうとの関係かんけいせいなどもかたられるが、思春期ししゅんき青年せいねんならだれもが直面ちょくめんする理想りそう現実げんじつ社会しゃかいとのいのかたや、さらには、みずからの自意識じいしきとどうえばよいのかという普遍ふへんてきなテーマをあつかっている。

ほんさくについて言及げんきゅうしている著名ちょめいじん

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太田おおたひかり漫才まんざい、おわらいタレント)
TV番組ばんぐみ爆笑ばくしょう問題もんだいのススメ』の最終さいしゅうかいわたし人生じんせいえたほん3さくの2さつとして『フラニーとゾーイー』をげており、番組ばんぐみなか学生がくせい時代じだいみずからの自意識じいしきなやまされていた太田おおた本書ほんしょによって「みな人間にんげんってのは未熟みじゅくだった。だからわたしだってじゅくでいいじゃん」とおもえるようになり、すくわれたとかたっている。また、大学だいがく2年生ねんせいとき演劇えんげきとして『フラニーとゾーイー』を主演しゅえん演出えんしゅつしている。
池澤いけざわ夏樹なつき作家さっか
『アメリカ青春せいしゅん小説しょうせつしゅう』(小説しょうせつ新潮しんちょう3がつ臨時りんじ増刊ぞうかん新潮社しんちょうしゃ。1989ねん)の「アメリカ青春せいしゅん小説しょうせついちさつえらんでください」のなかで「ゾーイー」をげ、「青春せいしゅん小説しょうせつくには特別とくべつ資質ししつ必要ひつようで、それがサリンジャーにはある」とかたっている。

日本語にほんごやく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 原田はらだ敬一けいいちやくでは題名だいめいを『フラニー/ーイー』とし、2014ねん村上むらかみ春樹はるきやくでは『フラニーとズーイ』としている。
  2. ^ 柴田しばた元幸もとゆき/すえが「こたえ」を必要ひつようとするとき|J・D・サリンジャー 村上むらかみ春樹はるきやく『フラニーとズーイ』(新潮社しんちょうしゃなみ」2014ねん3がつごう)によると、『巡礼じゅんれいみち』は実在じつざいする書物しょもつで、邦訳ほうやくだい無名むめい順礼じゅんれいしゃ あるロシアじん順礼じゅんれいしゃ手記しゅき』としるされている。

外部がいぶリンク

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  • [1]『こんなに面白おもしろはなしだったんだ!』村上むらかみ春樹はるき 特別とくべつエッセイ
  • [2]すえが「こたえ」を必要ひつようとするとき』柴田しばた元幸もとゆき