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ブリツ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブリツ(Blic)
種別しゅべつ日刊にっかん
はんがたタブロイド判たぶろいどばん
所有しょゆうしゃRingier
編集へんしゅうしゃヴェセリン・シモノヴィッチ
設立せつりつ1996ねん9がつ16にち
本社ほんしゃ所在地しょざいちセルビアの旗ベオグラード
ウェブサイトwww.blic.rs

ブリツセルビア:Блиц / Blic、「稲妻いなづま」)は、リンギヤーRingier)グループが保有ほゆうするセルビア日刊にっかんである。

1996ねん創刊そうかんされ、2000年代ねんだいなかばには内容ないようてき深化しんかしたものの、そのかみめいのとおり、基本きほんてきには単純たんじゅん大衆たいしゅう関心かんしんをひきつける紙面しめん構成こうせいとなっている。最大さいだいには25まん発行はっこうされた。

保有ほゆうしゃ[編集へんしゅう]

本紙ほんしリンギヤーざいセルビア子会社こがいしゃであるリンギエル有限ゆうげん会社かいしゃ(Ringier d.o.o.、旧称きゅうしょう:Blic Press d.o.o.)が発行はっこうしている[1]。2008ねん7がつイェレナ・ドラクリッチ=ペトロヴィッチJelena Drakulić-Petrović)がリンギエル有限ゆうげん会社かいしゃ最高さいこう経営けいえい責任せきにんしゃ就任しゅうにんした[2]

以前いぜんはウィーン・キャピタル・パートナーズ(Vienna Capital Partners)が株式かぶしき保有ほゆうしていた[3]

関連かんれん[編集へんしゅう]

ブリツは創刊そうかん以来いらい、ブリツ・ヨーロッパ(Blic-Europa、2006ねん5がつ31にち廃刊はいかん)、ブリツ・ジェナ(Blic Žena)、ブリツ・プルス(Blic Puls)、エウロ・ブリツ(Euro Blic、スルプスカ共和きょうわこく発行はっこう)など、様々さまざま関連かんれん発行はっこうしてきた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

1996ねんに、ペーター・ケルベル(Peter Kelbel)やアレクサンダル・ルプシッチAleksandar Lupšić)などのオーストリア実業じつぎょうらによって創刊そうかんされた。かれらは、どう時期じきスロヴァキア日刊にっかんノヴィー・チャスNový čas)を取得しゅとくしている。ルプシッチは、当時とうじセルビア共和国せるびあきょうわこく大統領だいとうりょうスロボダン・ミロシェヴィッチつまミリャナ・マルコヴィッチやマルコヴィッチひきいるユーゴスラヴィア左翼さよくとうYugoslav Left)とふかいつながりをっていた。ブリツの創刊そうかんごうは1996ねん9がつ16にち発行はっこうされ、当時とうじユーゴスラヴィア連邦れんぽう共和きょうわこくでは10番目ばんめ発行はっこう部数ぶすう記録きろくした。これより発行はっこう部数ぶすうおおかった上位じょうい9は、ポリティカボルバBorba)、ドネヴニクDnevnik)は、ポビェダPobjeda)、ナロドネ・ノヴィネNarodne novine)、ヴェチェルニェ・ノヴォスティVečernje novosti)、ポリティカ・エクスプレスPolitika ekspres)、ナシャ・ボルバ(Naša borba)、ドネヴニ・テレグラフDnevni telegraf)である。

ブリツの創刊そうかんしゃたちは、これに先立さきだってプラハ日刊にっかん買収ばいしゅうして新聞しんぶんしゃ経営けいえいのノウハウをたくわえ、経営けいえい拡大かくだい意欲いよくっていた。かれらはセルビアでの事業じぎょうのために、マノイロ・ヴコティッチ・“マニョ”(Manojlo "Manjo" Vukotić)を編集へんしゅうちょうえた。

1990年代ねんだい以降いこうほかのセルビアのマスメディア同様どうように、ブリツの経営けいえいじん不透明ふとうめいなものであった。ブリツは、1996ねん3がつベオグラード登録とうろくされた有限ゆうげん会社かいしゃ・ブリツ・プルス有限ゆうげん会社かいしゃ(Blic Press d.o.o.)によって発行はっこうされていた。ブリツ・プルス有限ゆうげん会社かいしゃ登記とうきじょう保有ほゆうしゃは、ベオグラード在住ざいじゅうのミロラド・ペロヴィッチ(Milorad Perovic)が51%、リヒテンシュタイン拠点きょてんくMitsui Securities Eastern Europe Fund AGが49%とされ、Mitsuiの保有ほゆうしゃについては記載きさいされていない[4]

当初とうしょ、ブリツの報道ほうどう姿勢しせいは、はなし単純たんじゅんみじかかりやすくまとめ、また多数たすうのエンターテインメント要素ようそあつかう、典型てんけいてきタブロイド・ジャーナリズムであった。創刊そうかん当時とうじは11ディナルで、5まん流通りゅうつうした。また、フォルクスワーゲン・ポロや3まんドイツ・マルクなどを景品けいひんとしたとみくじ掲載けいさいし、創刊そうかんから2週間しゅうかん売上うりあげは30%上昇じょうしょうした[4]

1996ねん - 1997ねん: セルビアでの抗議こうぎ運動うんどう[編集へんしゅう]

1996ねん11月、セルビアのすべての市町村しちょうそん(オプシュティナ)で統一とういつ地方ちほう選挙せんきょおこなわれた。選挙せんきょでは民主党みんしゅとうセルビア再生さいせい運動うんどうなどの野党やとう躍進やくしんしたが、スロボダン・ミロシェヴィッチはこの選挙せんきょ結果けっかれを拒否きょひし、抗議こうぎ運動うんどう1996–1997 protests in Serbia)に発展はってんした。ブリツはすぐに選挙せんきょ結果けっか支持しじする立場たちばをとり、流通りゅうつう部数ぶすうは20まんにまでびたが、同時どうじにミロシェヴィッチ政権せいけん反感はんかんうこととなった。

国営こくえいメディアは抗議こうぎ運動うんどうについてほぼまったあつかわず、独立どくりつメディアのいている内容ないようあやまりだとほうじているなか、ブリツは毎日まいにち抗議こうぎ運動うんどう紙面しめんおおきくつづけた。ミロシェヴィッチ政権せいけんによる報復ほうふく素早すばやく、ブリツの印刷いんさつ販売はんばいしょ使用しよう制限せいげんし、国営こくえい印刷所いんさつしょは8まん以上いじょう印刷いんさつ拒否きょひした。1996ねんの11月29にちユーゴスラビア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽう共和きょうわこく建国けんこく記念きねん)、国営こくえいボルバ印刷所いんさつしょはブリツの編集へんしゅうたいし、「技術ぎじゅつてき理由りゆうにより」ブリツがわ要求ようきゅうする23まん5せん印刷いんさつできないとつたえ、その3ぶんの1程度ていど印刷いんさつ部数ぶすう上限じょうげんとした。このため、国営こくえいのぼるば印刷所いんさつしょほかに、民営みんえいのABCプロドゥクトが印刷いんさつしたものが市中しちゅう販売はんばいしょ出回でまわるようになった。しかし、抗議こうぎ運動うんどう大胆だいたんあつかったブリツのしん方針ほうしん撤回てっかいされ、従来じゅうらいのエンターテインメントと軽々かるがるしいニュース報道ほうどうもどされた。ブリツが雇用こようする43にんのジャーナリストはこの問題もんだいけ、編集へんしゅうちょうのマニョ・ヴコティッチとふく編集へんしゅうちょうのツヴィエティン・ミリヴォイェヴィッチ(Cvijetin Milivojević)はどう問題もんだい抗議こうぎして辞任じにんした。とく問題もんだい中心ちゅうしんとなったのは、「我々われわれ暴力ぼうりょく推奨すいしょうしない」とだいされる記事きじ政権せいけんりの内容ないようで、ブリツの保有ほゆうしゃ代表だいひょうしてペーター・ケルベルがいたとされている。この記事きじでケルベルは抗議こうぎ運動うんどう非難ひなんし、体制たいせい支持しじするようびかけ、「ユーゴスラヴィアは生産せいさんてき人々ひとびともとめており、れになってりをするオオカミ(vuk)をもとめてはない」とき、あん野党やとう指導しどうしゃヴク・ドラシュコヴィッチVuk Drašković)を非難ひなんしている(「ヴク(vuk)」はセルビアで「オオカミ」を意味いみする)。これ以降いこう、ブリツは抗議こうぎ運動うんどう紙面しめんであまりげなくなり、発行はっこう部数ぶすう減少げんしょうした。ブリツは政権せいけんからの圧力あつりょくくっしたかたちとなり、大幅おおはば政治せいじ報道ほうどうらした[4]

体制たいせいくっしたことで、ブリツの保有ほゆうしゃ自社じしゃのジャーナリストや編集へんしゅうしゃたち、セルビアの野党やとうからの非難ひなんびることとなった。1996ねん12月、ブリツのジャーナリストや編集へんしゅうしゃたちは、野党やとう民主党みんしゅとう支持しじけて独自どくじ新聞しんぶん「デモクラツィヤ(Demokratija)」をげた[5]。ブリツの転向てんこう嫌気いやけして一時いちじいていたヴコティッチらブリツのスタッフのなかには、のち復帰ふっきしてきたものすくなくなかったが、ブリツの発行はっこう部数ぶすうは6まんほどにまでんだ。

そのブリツはあらたに民営みんえい印刷所いんさつしょ契約けいやくし、発行はっこう部数ぶすうは16まんちかくまで回復かいふくした[6]

グラス・ヤヴノスティ[編集へんしゅう]

1998ねん4がつ編集へんしゅうちょうのマニョ・ヴコティッチは、ブリツ保有ほゆうしゃのひとりアレクサンダル・ルプシッチとの対立たいりつにより編集へんしゅうちょう地位ちいりる。ブリツのスタッフの半数はんすう以上いじょうがヴコティッチとみちともにした。当時とうじ、ブリツを印刷いんさつしていた民営みんえい印刷所いんさつしょABCプロドゥクトの保有ほゆうしゃ・ラディスラヴ・ロディッチ(Radisav Rodić)とわたりをつけたかれらは、ロディッチの資金しきん援助えんじょのもと、あらたにグラス・ヤヴノスティGlas javnosti創刊そうかん当初とうしょは「ノヴィ・ブリツ」と名乗なのっていた)を創刊そうかんした。ロディッチはこれによって新聞しんぶんしゃ経営けいえいすこととなった。

リンギヤーによる買収ばいしゅう[編集へんしゅう]

2004ねん、ルプシッチらのグループはブリツをスイスのマスメディア企業きぎょうリンギヤーRingier)に売却ばいきゃくした。ルプシッチら創業そうぎょうしゃグループは、売却ばいきゃくによって創刊そうかん投資とうしがくの2ばい資金しきんにした。

デヤン・シミッチ問題もんだい[編集へんしゅう]

2006ねん1がつ11にちに、セルビア国立こくりつ銀行ぎんこうNational Bank of Serbiaふく総裁そうさいが、セルビア社会党しゃかいとうヴラディミル・ザグラジャニンVladimir Zagrađanin)から10まんユーロ賄賂わいろった現行げんこうはん逮捕たいほされた事件じけんかんして、ブリツは2がつ4にち記事きじちゅう警察けいさつやセルビア政府せいふまったことなる背景はいけい主張しゅちょうした。ブリツの記事きじは、セルビア国立こくりつ銀行ぎんこう職員しょくいん・ドゥシャン・ラリッチ(Dušan Lalić)と、当時とうじふく首相しゅしょうミロリュブ・ラブスMiroljub Labus)のむすめ婿むこが、賄賂わいろ事件じけん黒幕くろまく主張しゅちょうした。さらに、ふく首相しゅしょうミロリュブ・ラブスが、むすめ婿むこ起訴きそしないように1ばんちゅうかけて首相しゅしょうヴォイスラヴ・コシュトニツァ説得せっとくしたのではないかと主張しゅちょうした。そして、警察けいさつによる捜査そうさ上層じょうそうへと拡大かくだいしたのを中止ちゅうしさせ、国立こくりつ銀行ぎんこう総裁そうさいラドヴァン・イェラシッチRadovan Jelašić)やドゥシャン・ラリッチらの逮捕たいほ阻止そししたとして、内務ないむ大臣だいじんドラガン・ヨチッチDragan Jočić)をも非難ひなん対象たいしょうとした。ブリツの主張しゅちょうによると、セルビア社会党しゃかいとうイヴィツァ・ダチッチ英語えいごばんは、警察けいさつによる強制きょうせい捜査そうさをほんのすうふんまえのところでまぬかれたとしている。ブリツは、連立れんりつ与党よとう一角いっかくとして5議席ぎせきでキャスティングヴォートをにぎ少数しょうすう政党せいとうを、政権せいけんないめておくために捜査そうさ恣意しいてき中止ちゅうしがされたと強調きょうちょうしている[7]

嫌疑けんぎけた人物じんぶつらは疑惑ぎわくつよ否定ひていし、ラブスはブリツにたいする訴訟そしょうをすると表明ひょうめいした。

ラトコ・クネジェヴィッチのインタビュー[編集へんしゅう]

2009ねん7がつ27にちもとワシントンD.C.駐在ちゅうざいモンテネグロ通商つうしょう代表だいひょうで、同国どうこく首相しゅしょうミロ・ジュカノヴィッチふかいつながりをラトコ・クネジェヴィッチRatko Knežević)へのインタビューを掲載けいさいした。クネジェヴィッチは、モンテネグロの日刊にっかんヴィイェスティVijesti)のインタビューにたいして、クロアチアのジャーナリストイヴォ・プカニッチIvo Pukanić)が2008ねん10がつ殺害さつがいされた事件じけん背景はいけいにはジュカノヴィッチやその盟友めいゆうスタンコ・スボティッチStanko Subotić)がいるとして糾弾きゅうだんする発言はつげんをしており、ブリツはその2にちにクネジェヴィッチへのインタビューをおこなった。クネジェヴィッチはまた、じゅうねん単位たんいつづいているタバコの密輸みつゆにジュカノヴィッチが関与かんよしているとし、事細ことこまかにその内容ないようかたった。

ブリツのインタビューは、ジャーナリストのネナド・ヤチモヴィッチ(Nenad Jaćimović)が主導しゅどうし、1990年代ねんだいからセルビアでおこなわれてきたタバコの密輸みつゆ焦点しょうてんをあてた。インタビューのなかでクネジェヴィッチは、ジュカノヴィッチやスボティッチがひきいる「タバコ密輸みつゆ組織そしき」は、スロボダン・ミロシェヴィッチ右腕うわんであったヨヴィツァ・スタニシッチ協力きょうりょくけて活動かつどうしており、それによってセルビアは本来ほんらいられるべき税収ぜいしゅう3おくユーロ相当そうとう損害そんがいけているとしている[8]。クネジェヴィッチはさらに、ブルドーザー革命かくめいBulldozer Revolution)でジュカノヴィッチは、自身じしんにとって「友好ゆうこうてきな」政権せいけんをベオグラードに樹立じゅりつすることを目指めざしており、セルビア大統領だいとうりょうボリス・タディッチ接近せっきんするためにあらんかぎりの努力どりょくくしているとしている。ジュカノヴィッチらがタディッチへの接近せっきん失敗しっぱいすると、タディッチに対抗たいこうするセルビアの野党やとう指導しどうしゃトミスラヴ・ニコリッチアレクサンダル・ヴチッチAleksandar Vučić)への関心かんしんつよめ、パリオテル・リッツで2007ねん10がつにジュカノヴィッチらはヴチッチにっている。クネジェヴィッチによると、ジュカノヴィッチやスボティッチはフランス対外たいがい治安ちあん総局そうきょくもと職員しょくいんアルノー・ダンジャン(Arnaud Danjean)の支援しえんけていたとされた。さらに、タバコ密輸みつゆ組織そしきはボリス・タディッチの安全あんぜんたいする脅迫きょうはく使つかい、2009ねん4がつ25にちソフィアにてクロアチア大統領だいとうりょうスティエパン・メシッチい、タディッチにかんする文書ぶんしょしめしてタディッチに危害きがいくわえる用意よういがあるとおどした[9]

弁護士べんごしつうじ、スボティッチは名誉めいよ毀損きそんでブリツをうったえるとし[10]発表はっぴょうされたプレスリリースのなかでクネジェヴィッチとブリツの編集へんしゅうちょうヴェセリン・シモノヴィッチの職業しょくぎょうてき道徳どうとくてき信頼しんらいせいへの疑問ぎもん表明ひょうめいした[11]。クネジェヴィッチはこれ反論はんろんし、ヴィイェスティ、ブリツおよびNINかれた自身じしん言葉ことばひとつひとつすべてに確信かくしんっているとした。またこのなかでクネジェヴィッチは、ラドヴァン・ストイチッチ(Radovan Stojičić)やユスフ・ブリッチ(Jusuf "Jusa" Bulić)、ヴァニャ・ボカン(Vanja Bokan)、ゴラン・ジュギッチGoran Žugić)、ダルコ・ラスポポヴィッチ(Darko "Beli" Raspopović)、ブラゴタ・セクリッチ(Blagota "Baja" Sekulić)などのして、これらはタバコ密輸みつゆ関与かんよした人物じんぶつで、スタニシッチ、スボティッチおよびジュカノヴィッチからの直接ちょくせつ依頼いらいにより殺害さつがいされたとはなした[12]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]