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プルートがわたたか

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プルートがわたたか
Map of the Prut campaign
りょうぐん進路しんろあかはロシアぐんみどりはオスマン帝国ていこくぐんくろはロシアぐん退却たいきゃく
戦争せんそうだい北方ほっぽう戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1711ねん7がつ18にち - 7がつ21にち
場所ばしょモルダヴィアプルトかわ河岸かわぎし
結果けっか:オスマン帝国ていこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
オスマン帝国ていこく ロシア・ツァーリこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
バルタジ・メフメト・パシャ ピョートル1せい
戦力せんりょく
100,000にん 80,000にん
損害そんがい
8,900にん 4,800にん

プルートがわたたか(プルートがわのたたかい)は、1711ねん7がつモルダヴィアプルトかわ河岸かわぎしにおいておこなわれたオスマン帝国ていこくロシア・ツァーリこくとのたたかだい北方ほっぽう戦争せんそう一部いちぶである戦争せんそうちゅうこり、オスマン帝国ていこくぐんピョートル1せいひきいるロシアぐん交戦こうせんし、オスマン帝国ていこくぐん勝利しょうりした。このたたかいののち両国りょうこくプルト条約じょうやく締結ていけつし、オスマン帝国ていこくおよスウェーデンクリミア・ハンこくはロシアとのたたかいに勝利しょうりし、戦争せんそう終結しゅうけつした。

経過けいか

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開戦かいせん背景はいけい

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だい北方ほっぽう戦争せんそうでスウェーデンぐんとロシアぐん決戦けっせんはい直前ちょくぜん1708ねんから両国りょうこくはオスマン帝国ていこくとその属国ぞっこくのクリミア・ハンこく接触せっしょく、スウェーデンおうカール12せいはロシアの背後はいごおびやかすことを希望きぼうした。しかしロシアのツァーリ・ピョートル1せいは1708ねんから1709ねんにかけてオスマン帝国ていこく交渉こうしょうおこない、オスマン帝国ていこくがどちらにも味方みかたしない中立ちゅうりつ姿勢しせいりクリミア・ハンこくにも同様どうよう指示しじあたえたことで、カール12せい目論もくろみは失敗しっぱいわった。

ところが、ロシアが1709ねんポルタヴァのたたかでスウェーデンぐんやぶったのち一転いってんしてオスマン帝国ていこくはんロシアにかたむいた。原因げんいんはオスマン帝国ていこくりょうベンデル逃亡とうぼうした寡兵かへいのスウェーデンぐんをオスマン帝国ていこくむかれたことにあり、スウェーデンぐんったピョートル1せいはオスマン帝国ていこくにカール12せいおよびスウェーデンぐん引渡ひきわたしを要求ようきゅうしたが、帝国ていこく拒否きょひしたためロシアぐんとオスマン帝国ていこくあいだ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。

ポルタヴァのたたかいにやぶ負傷ふしょうしたカール12せいは、側近そっきんポーランド・リトアニア共和きょうわこく軍人ぐんじんスタニスワフ・ポニャトフスキフランスのオスマン帝国ていこく駐在ちゅうざい大使たいし援助えんじょもあって、ポルタヴァからオスマン帝国ていこくスルタンアフメト3せい宮廷きゅうてい亡命ぼうめいした。そしてカール12せい1710ねん11月20にち、ロシアに宣戦せんせん布告ふこくするようアフメト3せい説得せっとく開戦かいせんわせてイスタンブールのロシア大使たいし投獄とうごくされた。このカール12せい工作こうさく宮廷きゅうてい主戦しゅせんろんしゃ開戦かいせん主張しゅちょうしたことが戦争せんそう原因げんいんつながった。ピョートル1せいはアフメト3せい親書しんしょおく開戦かいせんける努力どりょくをしていたが、戦争せんそうけられなくなると1711ねん2がつ22にちにオスマン帝国ていこく宣戦せんせん布告ふこくした[1]

1711ねん戦闘せんとう

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オスマン帝国ていこく参戦さんせんでピョートル1せい攻撃こうげき目標もくひょう西にしのスウェーデンりょうドイツからみなみのオスマン帝国ていこく変更へんこう、オスマン帝国ていこく属国ぞっこくであるモルダヴィアおおやけディミトリエ・カンテミールワラキアおおやけコンスタンティン・ブルンコヴェアヌを嗾けて反乱はんらん・ロシアの援助えんじょけた。しかし、ポーランドやスウェーデンりょうポメラニアからもどしたロシアぐんドニエストルがわ右岸うがんソロキの配置はいち編成へんせい順調じゅんちょうすすまず、6がつにやっとソロキを出発しゅっぱつしたが、猛暑もうしょ行軍こうぐん兵士へいし士気しき低下ていか、モルダヴィアの食糧しょくりょう徴発ちょうはつ上手うまくいかずワラキアからの連絡れんらくかった。モルダヴィアのヤッシーひらかれた作戦さくせん会議かいぎ前途ぜんとあやぶむこえがり撤退てったい沙汰ざたされたが、ピョートル1せいはモルダヴィアの支援しえんてにして前進ぜんしんつづけた。

戦争せんそうでのおも軍事ぐんじ衝突しょうとつは、1711ねん準備じゅんび不足ふそくのままおこなわれたプルトがわでの戦闘せんとうだった。その最中さいちゅうのスタニレシティのたたかい(7がつ18にち-)において、ピョートル1せいボリス・シェレメーテフ指揮しきのロシアぐんは、ディミトリエ・カンテミールにモルダヴィアを侵略しんりゃくさせようとしたが、オスマンぐん包囲ほういされてしまい、だい宰相さいしょうバルタジ・メフメト・パシャひきいるオスマンぐんによってやぶられた。しかし、ロシアぐん別働隊べつどうたいはヤッシーから本隊ほんたいかれて迂回うかい7がつ14にちにオスマン帝国ていこくぐん食糧しょくりょう貯蔵庫ちょぞうこであるブライラ占拠せんきょしたほか7がつ19にちにロシアぐん本隊ほんたいがオスマン帝国ていこくぐん集中しゅうちゅう砲火ほうかびせて7000にん以上いじょうだい損害そんがいあたえ、反撃はんげきひるんだイェニチェリ戦闘せんとうひか和睦わぼく主張しゅちょうするようになると、オスマン帝国ていこく主戦しゅせんのポニャトフスキらの反対はんたいりロシアと和睦わぼくむすんだ。

カール12せいはオスマン帝国ていこくがロシアをさらたたくことをのぞんだが、その期待きたい7がつ21にちのプルト条約じょうやく締結ていけつによって失望しつぼうわった。ロシアぐん別働隊べつどうたい補給ほきゅうおさえられていたため、オスマン帝国ていこくとしては一刻いっこくはや和睦わぼくむす必要ひつようせいせまられていたのである。勝敗しょうはいかぎにぎっていた占拠せんきょ報告ほうこくさきにオスマン帝国ていこくさえられ、アゾフ奪還だっかんおよびクリミア・ハンこくとロシア国境こっきょう要塞ようさい破壊はかい目的もくてきとして積極せっきょくてきたたか意志いしがないオスマン帝国ていこくは、戦闘せんとう継続けいぞくより外交がいこう解決かいけつするみちえらびロシアとの交渉こうしょううごいた。

条約じょうやく内容ないようは、オスマン帝国ていこくへのアゾフの返還へんかんタガンログをはじめとするロシアの要塞ようさい破棄はき、カール12せいのスウェーデン帰還きかん妨害ぼうがいしないこと、イスタンブールのロシア大使たいし廃止はいし、ロシアのポーランドへの内政ないせい不干渉ふかんしょうなどであった。ピョートル1せい条約じょうやく締結ていけつすぐにきたげ、ブライラを占拠せんきょしていた別働隊べつどうたいもピョートル1せい命令めいれいり、ブライラをオスマン帝国ていこく返還へんかんして戦場せんじょうのちにした。りょうぐん損害そんがいはロシアぐんは4800にん、オスマン帝国ていこくぐんは8900にんとされている[2]

和睦わぼく

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トルコ歴史れきしいたるは、メフメト・パシャはロシアにとって比較的ひかくてき容易ようい条件じょうけん条約じょうやく調印ちょういんするというおおきな戦略せんりゃくてきミスをおかしたとかねてから主張しゅちょうしている。ピョートル1せい自身じしんがロシアぐん指揮しきしていたため、もしメフメト・パシャがピョートル1せい和平わへい提案ていあんれず、ピョートル1せいらえようとさら追撃ついげきしていれば歴史れきしわっていたかもしれない。ピョートル1せいがいなければ、ロシアは帝国ていこくになりえなかったかもしれないし、バルカン半島ばるかんはんとう黒海こっかい沿岸えんがんカフカースなどをめぐってオスマン帝国ていこく将来しょうらい宿敵しゅくてきになることもなかったかもしれないのである。

イスタンブールでは勝利しょうりのニュースがつたえられたとき最初さいしょ歓迎かんげいされたが、結果けっか不満ふまん主戦しゅせん論者ろんしゃたちおおくはメフメト・パシャにたいして敵意てきいいだき、メフメト・パシャはピョートル1せいから賄賂わいろったとして非難ひなんされた。のちにメフメト・パシャはだい宰相さいしょうしょく解任かいにんされている。

カール12せい主戦しゅせん同盟どうめいこく(クリミア・ハンこくデヴレト・ギレイ2せい)は、スルタンにさらなる戦争せんそうをさせるために開戦かいせん工作こうさくつづけた。翌年よくねんはるには、ロシアの講和こうわ条件じょうけん遂行すいこうおくれを理由りゆう戦争せんそうまであといちという状態じょうたいにはなったものの、戦争せんそう外交がいこうによってけられ、だい2の条約じょうやく1712ねん4がつ17にち調印ちょういんされた。この1ねん開戦かいせん工作こうさく成功せいこう今度こんどはロシアぐんのポーランドからの退却たいきゃくおくれを理由りゆう戦端せんたんひらかれた。しかしアフメト3せい1713ねん4がつ30にち宣戦せんせん布告ふこくをしたものの、実際じっさい戦火せんかまじえることはなく、講和こうわがすぐに協議きょうぎされた。

アフメト3せい主戦しゅせん論者ろんしゃたちなやまされた結果けっか、カール12せい宮廷きゅうていからとおざけ帰国きこく支援しえんすることにした。また、デヴレト・ギレイ2せいはカール12せい囚人しゅうじんだとみなしてその命令めいれい無視むししたため、アフメト3せいはデヴレト・ギレイ2せいをクリミア・ハンこくからオスマン帝国ていこくりょうロドスとう追放ついほうした。立場たちば悪化あっかしたカール12せい1714ねんザクセンデンマークプロイセンとロシアの同盟どうめいぐんによって包囲ほういされていたスウェーデンりょうポメラニアとシュトラールズントすくうため、最終さいしゅうてきにオスマン帝国ていこくった。しかし、5年間ねんかん不在ふざいでスウェーデンりょうドイツは同盟どうめいぐんすべうばわれ戦局せんきょくはスウェーデン不利ふりになり、められたスウェーデンは同盟どうめいこくからとおざけられたロシアとの和睦わぼく交渉こうしょうはじめた[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 阿部あべ(1966)P140 - P147、土肥どい、P82 - P85、阿部あべ(1996)、P99 - P105、P109 - P113、武田たけだ、P82 - P83。
  2. ^ 阿部あべ(1966)P147 - P152、土肥どい、P85 - P86、阿部あべ(1996)、P113 - P116。
  3. ^ 阿部あべ(1966)P152 - P164、土肥どい、P86 - P89、阿部あべ(1996)、P135 - P147、武田たけだ、P83 - P85。

参考さんこう文献ぶんけん

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