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プロクター・ノット

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェイムズ・プロクター・ノット
だい29だい ケンタッキーしゅう知事ちじ
任期にんき
1883ねん9がつ5にち – 1887ねん8がつ30にち
ふく知事ちじジェイムズ・R・ハインドマン
前任ぜんにんしゃルーク・ブラックバーン
後任こうにんしゃサイモン・B・バックナー
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいん
ケンタッキーしゅうだい4選挙せんきょ選出せんしゅつ
任期にんき
1867ねん3がつ4にち – 1871ねん3がつ3にち
1875ねん3がつ4にち - 1883ねん3がつ3にち
ミズーリしゅう検事けんじ総長そうちょう
任期にんき
1858ねん – 1861ねん
前任ぜんにんしゃエフレイム・B・ユーイング
後任こうにんしゃエイクマン・ウェルチ
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたん (1830-08-29) 1830ねん8がつ29にち
ケンタッキーしゅうレイウィック
死没しぼつ1911ねん6月18にち(1911-06-18)(80さいぼつ
ケンタッキーしゅうレバノン
墓地ぼちライダー墓地ぼち
政党せいとう民主党みんしゅとう
配偶はいぐうしゃマリー・E・フォアマン
サラ・R・マッケルロイ
専業せんぎょう弁護べんご
宗教しゅうきょう長老ちょうろう教会きょうかい
署名しょめいJ. Proctor Knott

ジェイムズ・プロクター・ノットえい: J. Proctor Knott、1830ねん8がつ29にち - 1911ねん6がつ18にち)は、19世紀せいきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくケンタッキーしゅう出身しゅっしん弁護士べんごし政治せいじである。ケンタッキーしゅう選出せんしゅつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんつとめたのちだい29だいケンタッキーしゅう知事ちじを1883ねんから1887ねんまでつとめた。ケンタッキーしゅうまれだが、1850ねんミズーリしゅう移転いてんし、そこでせいれきはじまった。1859ねんから1861ねんまでミズーリしゅう検事けんじ総長そうちょうつとめたが、南北戦争なんぼくせんそう勃発ぼっぱつ直前ちょくぜんに、連邦れんぽう政府せいふへの忠誠ちゅうせいちかうことを躊躇ためら辞任じにんした。

ノットは忠誠ちゅうせいちかいを拒否きょひしたために弁護士べんごし資格しかく剥奪はくだつされ、短期間たんきかん投獄とうごくされた。1863ねんにケンタッキーしゅうもどり、戦後せんごアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんえらばれた。1871ねん鉄道てつどう西方せいほう延長えんちょう支援しえんする法案ほうあん揶揄やゆする著名ちょめい演説えんぜつおこなった。この演説えんぜつミネソタしゅうダルースという遠隔えんかくまち皮肉ひにくった。ダルース演説えんぜつはそのいくつかの出版しゅっぱんぶつ転載てんさいされ、ノットを全国ぜんこくてき有名人ゆうめいじんにした。1870ねん再選さいせんもとめて出馬しゅつばせず、しゅう知事ちじ選挙せんきょ出馬しゅつばしたが落選らくせんした。1875ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん復帰ふっきし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん司法しほう委員いいんかい委員いいんちょうつとめた。

1883ねん、ノットは議会ぎかいり、再度さいど知事ちじ選挙せんきょ挑戦ちょうせんして当選とうせんした。知事ちじとして教育きょういくおおきく改革かいかくしたが、税制ぜいせい改革かいかく追求ついきゅうして窮地きゅうちたされた。知事ちじ任期にんきけたのち、1891ねんにケンタッキーしゅう憲法けんぽう改定かいてい会議かいぎ代議員だいぎいんになった。1892ねん、ダンビルのセンター・カレッジ教授きょうじゅとなり、1894ねんにはカレッジのほう学校がっこう設立せつりつすることに貢献こうけんした。1902ねん病気びょうきのために引退いんたいするまでこのほう学校がっこう学部がくぶちょうつとめた。1911ねん6がつ18にち、ノットはケンタッキーしゅうレバノンの自宅じたくんだ。

初期しょき経歴けいれき[編集へんしゅう]

ジェイムズ・プロクター・ノットは1830ねん8がつ29にちに、ケンタッキーしゅうマリオンぐんレイウィックでまれた[1]ちちはジョセフ・パーシー・ノット、はははマリア・アービン(旧姓きゅうせいマッケルロイ)だった[2]おさなときからちち教育きょういくけ、のちにはマリオンぐんシェルビーぐん公立こうりつ学校がっこうまなんだ[3][4]。1846ねん法律ほうりつ勉強べんきょうはじめた[4]。1850ねん5がつ、ミズーリしゅうメンフィスに移転いてんし、そこで法廷ほうてい弁護士べんごしとしてみとめられ、1851ねん法律ほうりつ実務じつむはじめた[1]巡回じゅんかい裁判所さいばんしょ役職やくしょくぐん事務じむかんつとめた[4]

ノットは1852ねん11月17にちにメアリー・E・フォアマンと結婚けっこんした[4]。メアリーは1853ねん8がつ最初さいしょ出産しゅっさんしているときんだ[2][4]。1856ねん1がつ14にち、ノットは従妹じゅうまいのサラ・R・マッケルロイと再婚さいこんした[2]

せいれき[編集へんしゅう]

ノットのせいれきは1857ねんにミズーリしゅうスコットランドぐんからしゅう下院かいん議員ぎいん当選とうせんしたときにはじまった[4]司法しほう委員いいんかい議長ぎちょうとなり、アルバート・ジャクソン判事はんじたいする弾劾だんがい審問しんもん実施じっしした[4]。1858ねん8がつ、ミズーリしゅう知事ちじロバート・M・ステュワートからミズーリしゅう検事けんじ総長そうちょうのエフレイム・B・ユーイングののこっていた任期にんきめるために同職どうしょく指名しめいされ、これをれて議員ぎいん辞職じしょくした[4]。1860ねん検事けんじ総長そうちょうあたらしい任期にんき選挙せんきょえらばれた[2]

1861ねん1がつ、ミズーリしゅう奴隷どれい制度せいど擁護ようごしゅう同調どうちょうし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから脱退だったいするかを会議かいぎ招集しょうしゅうした[4]。ノットは南部なんぶがわ同調どうちょうてきだったが、脱退だったい提唱ていしょうする手段しゅだんには反対はんたいした[4]連邦れんぽう主義しゅぎしゃが8まんひょうという大差たいさ議会ぎかい支配しはいした[4]。ノットは連邦れんぽう政府せいふもとめるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへの忠誠ちゅうせいちかうよりも、検事けんじ総長そうちょうしょくするみちえらんだ。宣誓せんせいこばんだことで、ミズーリしゅうない法律ほうりつ実務じつむおこな資格しかくうしない、しばらくは投獄とうごくされた[4]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいん[編集へんしゅう]

1863ねん、ノットはケンタッキーしゅうもどり、レバノンで法律ほうりつ実務じつむ再開さいかいした[1]。1867ねん民主党みんしゅとうからアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんえらばれた[1]下院かいん議員ぎいんとしてのノットは、急進きゅうしん共和党きょうわとうレコンストラクション方策ほうさく反対はんたいし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう修正しゅうせいだい14じょうどうだい15じょう批准ひじゅんにも反対はんたいした[2][5]。ノットは下院かいん議員ぎいんの2にも再選さいせんされたが、3の1870ねんには出馬しゅつばしなかった[1]

下院かいん議員ぎいんとしてノットのもっとられた行動こうどうは2任期にんきまつちかくにきた。1871ねん1がつ27にち鉄道てつどう西部せいぶ延伸えんしんたいして57けん土地とち払下はらいさげをおこない、財政ざいせいてきにも特権とっけんみとめる法案ほうあん揶揄やゆする皮肉ひにくたっぷりの演説えんぜつおこなった[6]。この演説えんぜつでは、ベイフィールド・アンド・セントクロア鉄道てつどう提案ていあんするセントクロアかわからダルースまでの路線ろせん指摘してき対象たいしょうにした[6]。ダルースというまち遠隔えんかくさとそこまでの鉄道てつどう必要ひつようせい嘲笑ちょうしょうし、かえ地図ちずてダルースがどこにあるかをたずねた[6]。この鉄道てつどう法案ほうあん却下きゃっかされたのち議会ぎかい休会きゅうかいになった[6]

ノットの演説えんぜつは「ダルース!」あるいは「ダルースのかたられないよろこび」とばれ、全国ぜんこくてき評判ひょうばんとなり、そのうつしが再版さいはんされて販売はんばいされた[6]。ダルース住人じゅうにんはこの演説えんぜつ気分きぶんがいされてはおらず、ノットにまちおとずれてくれるよう提案ていあんした。ノットがそれにおうじたのは1891ねんだった[6]。1894ねん、ダルースにちか都市としが「プロクターノット」というめい法人ほうじんされた。1904ねん現在げんざいのプロクターに改名かいめいした[7]

1871ねん、ノットはケンタッキーしゅう知事ちじ候補こうほ指名しめいあらそいに出馬しゅつばしたが、民主党みんしゅとう指名しめい候補こうほプレストン・レスリーになった[8]。1875ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいん再度さいどえらばれ、連続れんぞく4つとめた[1]。そのはじめの3では下院かいん司法しほう委員いいんかい議長ぎちょうになった[1]。1876ねんもと陸軍りくぐん長官ちょうかんウィリアム・W・ベルナップ弾劾だんがい手続てつづきではマネジャーの1人ひとり指名しめいされた[1]

ケンタッキーしゅう知事ちじ[編集へんしゅう]

1883ねん民主党みんしゅとうしゅう知事ちじ候補こうほあらそいではノットもその1人ひとりになった。著名ちょめい候補者こうほしゃとしては、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんトマス・ローレンス・ジョーンズ、もとみなみぐん将軍しょうぐんサイモン・B・バックナー判事はんじのジョン・S・オウスリー、ルイビル市長しちょうのチャールズ・ドナルド・ジェイコブががっていた。投票とうひょうは1883ねん5がつ16にちはじまり、最初さいしょはジョーンズがリードしたが、過半数かはんすうれなかった。4かい投票とうひょうすすんだのちでジェイコブが撤退てったいし、ノットが首位しゅいった。翌日よくじつ、オウスリーが指名しめい辞退じたいし、ノットがリードをひろげた。バックナーは指名しめいあらそいにのこっていたが、事実じじつじょうジョーンズとノットのあらそいになった。そのオーエンぐん代議員だいぎいんがノット支持しじわり、ぐん代表だいひょうもそれにしたがった。ジョーンズが撤退てったいし、ノットが全会ぜんかい一致いっち指名しめいされた[9]

知事ちじ選挙せんきょ当日とうじつ共和党きょうわとう候補こうほのトマス・Z・モローを45,000ひょうちか大差たいさやぶった[2]知事ちじつとめるあいだしゅう議会ぎかいにはしゅう税制ぜいせい全的ぜんてき改革かいかくするようもとめたが、議会ぎかい反応はんのう課税かぜい評価ひょうか公正こうせいにする任務にんむがある平等びょうどう委員いいんかい創設そうせつしたにとどまった[2]議会ぎかい鉄道てつどう委員いいんかいにノットが要請ようせいしたぜん権限けんげんあたえることも拒否きょひした[2]

ノットがもっと指導しどうりょく発揮はっきして成功せいこうしたのは教育きょういく分野ぶんやだった。その指導しどうしゅうフランクフォートアフリカけいアメリカじんのための教員きょういん養成ようせい学校がっこう設立せつりつし、しゅうない教師きょうし組織そしき創設そうせつした[3]新法しんぽうでは教育きょういくしゃ監督かんとくしゃ教育きょういく委員いいんかい任務にんむ責任せきにん詳細しょうさいめ、そのおおくはしゅう歴史れきしはじめてのことだった[2]

ノットの配慮はいりょりなかった事項じこうおおきなものは犯罪はんざい抑止よくし分野ぶんやだった。ローワンぐんすう年間ねんかんつづいたものなど、しゅうないこうそうはげしくなりつづけていたにもかかわらず、ノットはその無法むほう状態じょうたい問題もんだいとしてみとめるのをこばんだ[2]刑務所けいむしょ過密かみつ状態じょうたいになり、恩赦おんしゃ権限けんげん自由じゆう使つかうことになった[10]議会ぎかいはエディビルにあたらしい州立しゅうりつ刑務所けいむしょ建設けんせつみとめたが、それを推進すいしんしたのは前任ぜんにん知事ちじルーク・ブラックバーンであり、その計画けいかく必要ひつようなお膳立ぜんだてはほとんどませていた[2]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

ノットは知事ちじ任期にんきけたのちに、フランクフォートで法律ほうりつ実務じつむつづけた[2]グロバー・クリーブランド大統領だいとうりょうから提案ていあんされた2けん役職やくしょく指名しめい辞退じたいした[3]最初さいしょけんハワイじゅんしゅうTerritory of Hawaii知事ちじに、つぎけんしゅうぎわ通商つうしょう委員いいんかい委員いいんたいする指名しめいだった[3]。ノットは1887ねん、1888ねん、および1891ねんにケンタッキーしゅう検事けんじ総長そうちょう特務とくむ補佐ほさかんつとめ、1891ねんにはケンタッキーしゅう憲法けんぽう改定かいてい会議かいぎ代議員だいぎいんえらばれた[2]

1892ねん、ノットはダンビルにあるセンター・カレッジの社会しゃかいがく経済けいざいがく教授きょうじゅになった[1]。1894ねん、カレッジの学長がくちょうウィリアム・C・ヤングとともにカレッジの法学部ほうがくぶ編成へんせいした。ノットはその初代しょだいがく部長ぶちょうになった[4]。1902ねん、ノットは病気びょうきのためにまなべ部長ぶちょうすることになった[2]。1911ねん6がつ18にち、ノットはケンタッキーしゅうレバノンの自宅じたくんだ。レバノンのライダー墓地ぼち埋葬まいそうされた[1]。1884ねん設立せつりつされたケンタッキーしゅうノットぐんは、ノットの栄誉えいよとなえて名付なづけられた[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j "J. Proctor Knott"
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n Harrison, p. 522
  3. ^ a b c d "Kentucky Governor James Proctor Knott"
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n Powell, p. 66
  5. ^ Tapp in Decades of Discord, p. 33
  6. ^ a b c d e f Harrison, p. 273
  7. ^ Upham, p. 533
  8. ^ Tapp in Decades of Discord, p. 37
  9. ^ Tapp in Decades of Discord, p. 213
  10. ^ Ireland, p. 117

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Harrison, Lowell H. (1992). Kleber, John E.. ed. The Kentucky Encyclopedia. Associate editors: Thomas D. Clark, Lowell H. Harrison, and James C. Klotter. Lexington, Kentucky: The University Press of Kentucky. ISBN 0-8131-1772-0 
  • United States Congress. "プロクター・ノット (id: K000290)". Biographical Directory of the United States Congress (英語えいご).
  • Ireland, Robert M. (2004). Lowell H. Harrison. ed. Kentucky's Governors. Lexington, Kentucky: The University Press of Kentucky. ISBN 0-8131-2326-7 
  • Kentucky Governor James Proctor Knott”. National Governors Association. 2012ねん4がつ4にち閲覧えつらん
  • Powell, Robert A. (1976). Kentucky Governors. Danville, Kentucky: Bluegrass Printing Company. OCLC 2690774 
  • Tapp, Hambleton; James C. Klotter (1977). Kentucky: Decades of Discord, 1865–1900. The University Press of Kentucky. ISBN 0-916968-05-7. https://books.google.co.jp/books?id=n7JIP_B_vQMC&redir_esc=y&hl=ja 2009ねん5がつ30にち閲覧えつらん 
  • Upham, Warren; Patricia C. Harpole (2001). Minnesota place names: a geographical encyclopedia. Minnesota Historical Society Press. ISBN 0-87351-396-7. https://books.google.co.jp/books?id=ho23eS5qjNgC&redir_esc=y&hl=ja 2009ねん6がつ9にち閲覧えつらん 

関連かんれん図書としょ[編集へんしゅう]

  • Tapp, Hambleton (April 1972). “James Proctor Knott and the Duluth Speech”. The Register of the Kentucky Historical Society 70: pp. 77–93. 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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