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ベッチ・カルヴァーリョ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベッチ・カルヴァーリョ
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん 1946ねん5月5にち
ブラジルの旗 ブラジル
リオデジャネイロしゅうリオデジャネイロ
死没しぼつ 2019ねん4がつ30にち(2019-04-30)(72さいぼつ
ジャンル サンバ
職業しょくぎょう シンガー
担当たんとう楽器がっき ボーカル
活動かつどう期間きかん 1965ねん - 2019ねん
レーベル オデオン・レコードRCA

ベッチ・カルヴァーリョBp:Elizabeth Santos Leal de Carvalho - エリザベッチ・サントス・レアウ・ヂ・カルヴァーリョ1946ねん5月5にち - 2019ねん4がつ30にち)は、ブラジルリオデジャネイロ出身しゅっしんサンバ歌手かしゅ1人ひとり。なおベッチとはエリザベッチ(英語えいごみ:エリザベス)をりゃくした愛称あいしょう

人物じんぶつ・プロフィール

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ベッチは富裕ふゆうそう出身しゅっしん白人はくじん女性じょせいでありながら、まずしい黒人こくじんのサンバをひろめた人物じんぶつとしてられる。また80年代ねんだいにはFundo de Quintal(フンド・ジ・キンタル)や、そのメンバーだったJorge Aragão(ジョルジ・アラガゥン)、Almir Guineto(アルミール・ギネト)、Sombrinha(ソンブリーニャ)、Arlindo Cruz(アルリンド・クルス)などを人々ひとびと紹介しょうかいし、今日きょうのサンバ・パゴーヂをきずいた功労こうろうしゃである。

また、サンバといえばリオだけのもの、という固定こてい観念かんねんくつがえすかのごとく、90年代ねんだい以降いこうは、サンパウロのサンバ、さらに2007ねんにはバイーアのサンバなどもげて、そのフィールドで活躍かつやくするかくれたMusico(ムジコ、ミュージシャン)を発掘はっくつし、またおおくの人々ひとびと紹介しょうかいしている。したがって、いまもなおベッチの名前なまえはサンバかいにおける重要じゅうよう人物じんぶつ1人ひとりとしておおくの人々ひとびと尊敬そんけいあつめている。

ベッチはボタフォゴトルシーダとしてられ、またPDT(労働ろうどう民主党みんしゅとう)の支持しじしゃといわれる。

またベッチは、ブラジルだけでなく、リスボンやパリ、アテネ、ベルリン、そしてマイアミやサンフランシスコなどでも公演こうえんしている。彼女かのじょおおくのオリジナル・アルバムは、だれかにささげられたものであり、彼女かのじょのサインとともにそのことがしるされている。

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彼女かのじょは、ちち・João Francisco Leal de Carvalho(ジョアン・フランシスコ・レアゥ・ヂ・カルヴァーリョ)とはは・Maria Nair Santos Leal de Carvalho(マリア・ナイール・サントス・レアゥ・ヂ・カルヴァーリョ)のむすめとして、ゾナ・ノルチ(北部ほくぶ)のガンボア地区ちく産院さんいんまれ、ラランジェイラス地区ちくそだった。姉妹しまいにVânia Santos Leal de Carvalho(ヴァニア・サントス)がいる。また彼女かのじょ自身じしんには1人ひとりむすめであるLuana(ルアーナ)がいる。

ベッチがそだった家庭かていには音楽おんがくがいつもながれていた。彼女かのじょ祖母そぼRessú(レセウ)もバンドリンとヴィオラゥン(ナイロンつるクラシック・ギター)を演奏えんそうするほか、ははもクラシックのピアノを演奏えんそうしていた。また、ちち弁護士べんごしであったが、もとはボヘミアンであったことから、著名ちょめい歌手かしゅであるSílvio Caldas(シルヴィオ・カルダス)とは旧知きゅうちなか彼女かのじょ誕生たんじょうによくいえでショーをひらいていたという。またその関係かんけいから国民こくみんてきだい歌手かしゅElizeth Cardosoエリゼッチ・カルドーゾ)やAracy de Almeida(アラシ・ヂ・アルメイダ)などのうたいてそだち、またいになっていった。また父親ちちおやは、ウルカのおかにあるカザブランカやナイト・アンド・デイというクラブにも彼女かのじょれてったことから、それらのみせおんな主人しゅじんであるヴァヴァーおばさんともいになり、さまざまな歌手かしゅのショーをせてもらったという。また父親ちちおやは、彼女かのじょエスコーラ・ジ・サンバ以下いかエスコーラ)のエンサイオ(練習れんしゅう・リハーサル)によくれてった。

彼女かのじょはやくも7さいにしてラジオに出演しゅつえんしたというエピソードもつたえられている。また一方いっぽうでは、彼女かのじょははによりバレリーナとしてレッスンにかよったり、音楽おんがく学校がっこうかよってヴィオラゥン(ブラジルではギターをこうぶ)をならったりした。このころにはレコードをかけながらジョアン・ジルベルト物真似ものまねなどもやっていたという。

デビュー・活動かつどう開始かいし

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ベッチ・カルヴァーリョ

彼女かのじょは10代になると、学生がくせいあいだのコンサートなどで当時とうじ流行はやっていたボサノヴァうたうようになった。つまりベッチは当初とうしょサンバではなくボサノヴァの歌手かしゅとして活動かつどう開始かいしした。ただし、これはごく当然とうぜんきである。当時とうじ白人はくじんうたうサンバ・カンサゥンもあったが、サンバ自体じたいおお黒人こくじん由来ゆらい音楽おんがくであるのにたいし、ボサノヴァは中流ちゅうりゅう家庭かてい若者わかものによってつくられたものであったためである。

彼女かのじょ成長せいちょうすると、カトリック大学だいがくPUCに進学しんがくし、国際こくさい関係かんけいがく心理しんりがく専攻せんこうするかたわら、1965ねんにRCAレーベルから、マリオ・ジ・カストロ&アタイージさく“Namorinho”(ナモリーニョ)とホベルト・メネスカルホナルド・ボスコリさく“Por quem morreu de amor”(あいものによって)がカップリングされたデオダード編曲へんきょくによるシングルばんでデビューする。翌年よくねん1966ねんには、オス・ガトスの“Aquele som dos Gatos”にコーラスで参加さんか。またこの時期じきには、黒人こくじんけいのサンバにもかかわるようになりネルソン・サルジェントやノカ・ダ・ポルテーラといったエスコーラけいサンビスタのショーなどにも参加さんかするようになった。1967ねん、コンジュント3Dのアルバム“Muito na onda”に参加さんかした。これは彼女かのじょうたおおきくフィーチャーしたもので日本にっぽんばんさい発売はつばいされている。

1968ねんには、彼女かのじょはEMIオデオン専属せんぞくのソロ歌手かしゅとして独立どくりつし、その音楽おんがく活動かつどう決定的けっていてきなものとなった。同年どうねんではブラジルで次々つぎつぎ歌謡かようさいやフェスティバルがブラジルでおおひらかれた。当時とうじMúsica nossa(ムジカ・ノッサ、ぼくらの音楽おんがく)とばれるブラジル独自どくじのアコースティックサウンドに回帰かいきしようというムーブメントがジャーナリスト、アルマンド・エンヒッキによって提唱ていしょうされ、イパネマにあるサンタ・ホーザ劇場げきじょうで“Musica Nossa O Som e o Tempo”(ムジカ・ノッサ、おととテンポ)というショーがおこなわれたが、これが録音ろくおんされレコードで発売はつばいされた。またダニーロ・カイーミ&エヂムンド・ソウト&パウリーニョ・タパジョスどもさくきょく“Andança”(アンダンサ、あゆみ・軌跡きせき)をだい3かい国際こくさい歌謡かようさいでエントリーしてうたい、これが3獲得かくとく。これが観客かんきゃくけて、コーラスグループのゴールデン・ボーイズをゲストにむかえて録音ろくおんよく1969ねんどうタイトルのアルバムを発売はつばいし、TV Globo出演しゅつえん。そのもTV Excelsior、TV Record、TV Tupiといったテレビ局てれびきょく番組ばんぐみ出演しゅつえんし、黒人こくじんサンビスタのNelson Sargento(ネルソン・サルジェント)とも仕事しごとするようになった。

このころには家族かぞくでチジューカ地区ちくへとしたため、次第しだい黒人こくじんのサンバに傾倒けいとうしていく。なお、彼女かのじょ最初さいしょした69ねんのアルバムは、まだサンバはうたっていないが、1973ねんの“Canto Por Um Novo Dia”では、おおくの黒人こくじんサンビスタのきょくげ、すでに現在げんざいのサンバ歌手かしゅとしてのベッチを垣間見かいまみることができる。まずいえからちかかったSalgueiro(サルゲイロ)のコミュニティーを手始てはじめに、Estácio de Sá(エスタシオ)やMangueira(マンゲイラ)にも出入でいりするようになり、ネルソン・カヴァキーニョとしてサンバをおそわった。

そんななかに1976ねんにRCAに移籍いせきした“Mundo Melhor”(邦題ほうだい:すばらしき世界せかい)がだいヒット。黒人こくじんサンバがひろれられるようになった。この作品さくひんは、78ねん日本にっぽんでも発売はつばいされ、のちにCDでも再発さいはつされている。

80年代ねんだい以降いこうのパゴーヂ・ブーム

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また、Cacique de Ramos(カシーキ・ジ・ハモス、ハモスの酋長しゅうちょう)というブロコ・カルナヴァレスコにもあししげくかよい、一緒いっしょにカーニバルのパレードにたりしていた。このことから当時とうじカシーキ・ジ・ハモスにあったコンジュント、フンド・ジ・キンタルや、そのメンバーだったジョルジ・アラガゥンやアルミール・ギネトなどとう。

サンバには、リオのカーニバルのようなとし1ひらだい規模きぼなものと対照たいしょうてきに、庶民しょみんいえ裏庭うらにわでホームパーティーをひらいてうたわれるものがある。これはPagode(パゴーヂ)といい、カーニバルにたいして日常にちじょうてきなサンバであることから、“普段着ふだんぎのサンバ”などともいわれる。そして、このパゴーヂを演奏えんそうしていたグループがフンド・ジ・キンタルであった。ベッチは1978ねん、“De Pé No Chão”で、まだ無名むめいちかかったジョルジ・アラガゥンのきょくはじめて紹介しょうかい以降いこう作品さくひんでも、そうした新進しんしん気鋭きえいのサンビスタの作品さくひんうたうようになり、また彼女かのじょのショーのバックミュージシャンとしてかれらをおお起用きようし、なかひろ紹介しょうかいした。

しかし同年どうねんには、Funarte(フナルチ、ブラジル文部省もんぶしょう付属ふぞく芸術げいじゅつ振興しんこう基金ききん)のホールで、ネルソン・カヴァキーニョをたたえるコンサートがひらかれ、かれとも出演しゅつえんしている(これはのちに“ライブ・イン・マラニャゥン劇場げきじょう”として1995ねん日本にっぽん国内こくない発売はつばいされ、ベッチ自身じしんもコメントをせている)。したがって、ベッチは伝統でんとうてき古典こてんてきなサンバを根底こんていにしつつ、あたらしいサンバの息吹いぶきであったパゴーヂにもけていることは特筆とくひつすべきてんである。

90年代ねんだい以降いこう

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ベッチがサンバ・パゴーヂをひろめた功績こうせきははかりれないが、これによりおおくのうずもれた才能さいのうのあるサンビスタが次々つぎつぎとデビューし、またれるようになった。90年代ねんだいにはパゴーヂはホマンチコ(ロマンティック)なバラードなどをれるなど変化へんかおおくのパゴーヂ・バンドが登場とうじょうしたが、その源流げんりゅうはベッチにあるといっても過言かごんではない。またソンブリーニャやアルリンド・クルス、Zeca Pagodinho(ゼカ・パゴジーニョ)、Quinteto em Branco e Preto(キンテート・エン・ブランコ・イ・プレト)などをつねにサポートしている。

ベッチは長年ながねんマンゲイラをあいし、マンゲイラ主催しゅさいのショーでは毎回まいかい出演しゅつえん、リオのカルナヴァルでも、ほぼ毎回まいかい山車だしうえったり、いっしょにパレードするなど、蜜月みつげつつづいていた。しかし、2007ねんのカルナヴァルにおいて、マンゲイラの山車だしうえろうとしたところ、1人ひとりのディレクターから拒否きょひされてしまい、長年ながねんにわたって参加さんかしてきたカルナヴァルにられなくなるという事件じけんこった。ベッチがわ正式せいしき出場しゅつじょう要請ようせいけたと主張しゅちょうし、マンゲイラの役員やくいんたち謝罪しゃざい要求ようきゅう。これにたいしマンゲイラのプレジデンチ(そう代表だいひょう)であるペルシヴァル・ピレスは、「ベッチにしんからのキスをおくる。マンゲイラはあなたを敬愛けいあいしている。どうかマンゲイラと対立たいりつしないでください。マンゲイラは対立たいりつしたくない、ベッチに出演しゅつえん要請ようせいします」とのコメントを発表はっぴょうしたが、正式せいしき謝罪しゃざいについては拒否きょひした。このことはカルナヴァルのなま中継ちゅうけいでも放送ほうそうされ、メディアでもおおきく報道ほうどうされることになった。

このことから2008ねんのカルナヴァルでは、彼女かのじょカルトーラたたえる(なお、カルトーラはマンゲイラの創立そうりつしゃである)、Viradouro(ヴィラドゥロ)の要請ようせいけた。ベッチは「すべての人々ひとびとにとって素晴すばらしいカルナヴァルでありますように。またマンゲイラが優勝ゆうしょうして、ヴィラドウロが2になるよういのっている」とコメント、さらに「わたしはマンゲイラをったんじゃないわ。わたしぬまでマンゲイラよ。どんなによくしてもらってもパレードに参加さんかすることはないけれどもゆるしてほしい」とコメントし、ヴィラドゥロのパレードに出場しゅつじょうした。

2019ねん4がつ30にち敗血症はいけつしょうのためリオ・デ・ジャネイロ市内しない病院びょういん死去しきょ[1]

おもなショー

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  • 1968ねん - III Festival Internacional da Canção(だい3かい国際こくさい歌謡かようさい) - ヴォーカルグループGolden Boysとも出演しゅつえん - Maracanazinho, no Rio.
  • 1969ねん - Olimpíada da Canção - realizado na Grécia
  • 1969ねん - IV Festival Internacional da Canção - Maracanazinho, Rio de Janeiro.
  • 1979ねん - Show Beth Carvalho - no Cine Show Madureira, no Riode Janeiro
  • 1987ねん - Beth Carvalho ao vivo em Montreux
  • 1991ねん - Show de Beth Carvalho - na cidade de Olimpía, SP.
  • 1999ねん - Pagode de mesa - no Rio de Janeiro
  • 1999ねん - Esquina carioca com Walter Alfaiate, Moacyr Luz, Luiz Carlos da Vila, Nelson Sargento, Dona Ivone Lara - no Bar Pirajá, em São Paulo
  • 2000ねん - convidada para participar do Show de Jorge Aragão - no Olimpo, Rio de Janeiro
  • 2000ねん - Beth Carvalho e a bateria da Mangueira - no Olimpo, Rio de Janeiro.
  • 2000ねん - Pagode de mesa 2 - Tom Brasil, São Paulo
  • 2001ねん - Nome sagrado - Teatro Rival, Rio de Janeiro
  • 2003ねん - participação especial junto com Ademilde Fonseca no espetáculo "Alma feminina", de Eliane Faria - Teatro Rival
  • 2003ねん - Beth Carvalho e grupo "A fina flor do samba" - Centro Cultural Carioca - Rio de Janeiro
  • 2004ねん - Riação convida Beth Carvalho - Projeto da idade do Mundo - Centro Cultural Banco do Brasil - Brasília, DF
  • 2005ねん - Beth Carvalho e convidados - Almir Guinteto, Luiz Carlos da Vila, Zeca Pagodinho, Dudu Nobre, Dona Ivone Lara, Vó Maria e Jongo da Serrinha - Theatro Municipal do Rio de Janeiro, RJ
  • 2006ねん - Beth Carvalho - Theatro Municipal do Rio de Janeiro, RJ
  • 2006ねん - Beth Carvalho 60 anos - Canecão - Rio de Janeiro
  • 2006ねん - Beth Carvalho canta o samba da Bahia - Teatro Castro Alves - Salvador,BA
  • 2007ねん - Beth Carvalho canta o samba da Bahia - Canecão - Rio de Janeiro.

ディスコグラフィー

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  • Andança (Odeon - 1969)
  • Canto Por Um Novo Dia (Tapecar - 1973)
  • Pra Seu Governo (Tapecar - 1974)
  • Pandeiro e Viola (Tapecar - 1975)
  • Mundo Melhor (RCA - 1976、邦題ほうだい:すばらしき世界せかい
  • Nos Botequins da Vida (RCA - 1977、邦題ほうだい人生じんせい居酒屋いざかや
  • De Pé No Chão (RCA - 1978、邦題ほうだいわたしみち
  • Beth Carvalho no Pagode (RCA - 1979)
  • Sentimento Brasileiro (RCA - 1980)
  • Na fonte (RCA - 1981)
  • Traço de União (RCA - 1982)
  • Suor no Rosto (RCA - 1983)
  • Coração Feliz (RCA - 1984)
  • Das Bençãos Que Virão Com os Novos Amanhãs - RCA - 1985
  • Beth - RCA - 1986
  • Beth Carvalho Ao Vivo (Montreux) - RCA - 1987
  • Alma do Brasil (Polygram - 1988)
  • Saudades da Guanabara (Polygram - 1989)
  • Intérprete (Polygram - 1991)
  • Ao Vivo no Olympia (Som Livre - 1991)
  • Pérolas - 25 Anos de Samba (Som Livre - 1992)
  • Beth Carvalho Canta o Samba de São Paulo (Velas - 1993)
  • ライブ・イン・マラニャゥン劇場げきじょう日本にっぽんばんのみ、タッタルーガ - 1995)
  • Brasileira da Gema (Polygram – 1996)
  • Pérolas do Pagode (Globo / Polydor - 1998)
  • Pagode de Mesa Ao Vivo (Universal Music - 1999)
  • Pagode de Mesa Ao Vivo 2 (Universal Music - 2000)
  • Nome Sagrado - Beth Carvalho Canta Nelson Cavaquinho - Jam Music - 2001
  • Beth Carvalho Canta Cartola (BMG - 2003)
  • Beth Carvalho - A Madrinha do Samba - Ao Vivo (CD) (Indie - 2004)
  • Beth Carvalho - A Madrinha do Samba - Ao Vivo (DVD) (Indie - 2004)
  • Beth Carvalho - 40 anos de Carreira - Ao Vivo no Theatro Municipal (DVD) (Andança/Sony - BMG - 2006)
  • Beth Carvalho - 40 anos de Carreira - Ao Vivo no Theatro Municipal - Vol.2 (CD) (Andança/Sony - BMG - 2006)
  • Beth Carvalho - 40 anos de Carreira - Ao Vivo no Theatro Municipal - Vol.1 (CD) (Andança/Sony - BMG - 2006)

脚註きゃくちゅう

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  1. ^ Beth Carvalho morre aos 72 anosEstação Primeira de Mangueira 2019ねん4がつ30にち

外部がいぶリンク

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