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カルトーラ

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カルトーラ
Cartola
1977ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Angenor de Oliveira
生誕せいたん 1908ねん10月11にち
出身しゅっしん ブラジルの旗 ブラジル
リオデジャネイロしゅう
リオデジャネイロ
死没しぼつ (1980-11-30) 1980ねん11月30にち(72さいぼつ
ブラジルの旗 ブラジル
リオデジャネイロしゅう
リオデジャネイロ
ジャンル サンバ
ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ
職業しょくぎょう シンガーソングライター
担当たんとう楽器がっき うたクラシック・ギター
カヴァキーニョ
活動かつどう期間きかん 1927ねん1980ねん
レーベル RCA
共同きょうどう作業さぎょうしゃ マルクス・ペレイラ
ネルソン・カヴァキーニョ

カルトーラBp:Cartola、本名ほんみょう:Angenor de Oliveira - アンジェノール・ヂ・オリヴェイラ、1908ねん10月11にち - 1980ねん11月30にち)は、ブラジルリオデジャネイロにおけるサンバ作曲さっきょく歌手かしゅブラジル音楽おんがくやサンバをかたじょうはずせない“さい重要じゅうよう人物じんぶつ”の1人ひとり

人物じんぶつ・プロフィール

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カルトーラは、ブラジル音楽おんがく歴史れきしにおいて燦然さんぜんかがやく、まさにそのとおりCartola(重要じゅうよう人物じんぶつ)である。

また、カルトーラはアペリード・愛称あいしょうであるが、これは左官さかんとしてはたらいたときに、うえからセメントがちてきてかみにつくとれなくなるのがいやで、いつもCartola(山高やまたかぼう)をこうむっていたことからばれるようになった。またかれは、自分じぶん本名ほんみょうをAgenor(アジェノール)だとおもんでいたが、結婚けっこんすることになって出生しゅっしょう証明しょうめい取得しゅとくしたさいにAngenor(アンジェノール)だとはじめてったというエピソードものこっている。

かれエスコーラ・ジ・サンバMangueira(マンゲイラ)の創立そうりつしゃ1人ひとりで、マンゲイラと命名めいめいし、またチームカラーのVerde e Rosa(みどりとバラ=ピンク)をかんがえたことでられる。

“As Rosas não Falam”(沈黙ちんもくのバラ)や“O sol Nascerá”(のぼる)などは、ベッチ・カルヴァーリョやアルシオーネ、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ、シコ・ブアルキ、レニー・アンドラージ、カズーザ、マリーザ・モンチなど、かぞえきれないほどおおくの歌手かしゅやミュージシャンによってうたわれた。

経歴けいれき生涯しょうがい

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かれは、カテテ地区ちくフェレイラ・ヴィアナ74番地ばんちにおいて、ちち:Sebastião Joaquim de Oliveira(セバスチアゥン・ジョアキン)、はは:Aída Gomes de Oliveira(アイダ・ゴメス)の7にん兄弟きょうだいの4番目ばんめとしてまれた。幼少ようしょうから音楽おんがくせっしてそだち、地域ちいきのコルダゥン(チーム)に出入でいりしてパレードに参加さんかしていた。しかし11さいころかれ家計かけいささえていた祖父そふくなると、マンゲイラのおかであるキンタ・ダ・ボア・ヴィスタ付近ふきんうつんだ。しかし15さい母親ははおや死別しべつ。17さいときかれ父親ちちおやから自活じかつするようにいいわたされ、いえされた。当初とうしょかれ印刷いんさつ就職しゅうしょくしたがうたうたえず口笛くちぶえけないので辞職じしょく左官さかんとして建設けんせつ現場げんばはたらくようになった。前述ぜんじゅつとおり、かれ愛称あいしょうめいはこのときにつけられたものである。

かれんでいた地域ちいきでは、Bloco dos Arengueiros(ブロコ・ドス・アレングェイロス、現在げんざいのマンゲイラの前身ぜんしん)が発足ほっそく。Mestre Candinho(メストリ・カンヂーニョ)が近所きんじょあらくれた若者わかものをまとめていたが、カルトーラもこのブロコに参加さんかし、Chico Porrão(シコ・ポハォン)や、きょくづくりの盟友めいゆうであるCarlos Cachaça(カルロス・カシャーサ)たちとともにカンヂーニョを支援しえんしていた。よく1928ねんにブロコはエスコーラへと発展はってんしマンゲイラを結成けっせいした。前述ぜんじゅつとおり、カルトーラは“Mangueira”と命名めいめいし、チームーカラーをみどりとバラとさだめ、またかれ自身じしんもその音楽おんがくめんでのリーダーとしてカルロス・カシャーサと一緒いっしょきょくつくった。

かれ有名ゆうめいになったのは1929ねんころである。このとき、カルナヴァルのサンバコンテストでマンゲイラが優勝ゆうしょうした。このことでかれ一躍いちやく有名ゆうめいになった。また当時とうじだいスターであった歌手かしゅMário Reis(マリオ・ヘイス)がカルトーラのうわさたずねてきて、かれ自作じさくきょく“Que Infeliz Sorte”を300ミウ・ヘイスでった。マリオはFrancisco Alves(フランシスコ - 略称りゃくしょう:シコ・アルヴィス)とデュエットでこのきょくうたかれ名前なまえることになった。カルトーラはこれにくして、シコ・アルヴィスと同様どうよう契約けいやくして“Divina Dama”や“Tenho Um Novo Amor”などおおくの自作じさくきょくった。当時とうじはカルトーラにかぎらずおおくの黒人こくじんサンビスタ生活せいかつため自作じさくしたきょくっていた。

しかし、作曲さっきょくのサンバは単純たんじゅんだれでもがおぼえやすいものがおおなかかれきょく独特どくとくだったためか、音楽おんがく関係かんけいしゃあいだでは有名ゆうめいになったが、大衆たいしゅうひろられるまでにはいたらなかった。

また、シコと契約けいやくしたといっても黒人こくじん作曲さっきょく同様どうよう、いつもかねはいってくるわけではない。そこでNoel Rosa(ノエル・ホーザ)と一緒いっしょに、シコに前借まえがりをねがたりしたが、シコがケチだったので1きょく交換こうかんなにらかとしてのかね支払しはらうことになった。そこでかれらはちかくの居酒屋いざかやで“Qual foi o mal que te fiz?”(なにわるいことをしたか? - 1932ねん)をつくったという。これは当時とうじカリオカのミュージシャンにおけるうわさばなしとしてつたえられるはなしである。また、ノエル・ホーザは親友しんゆうとしてカルトーラのきょくがコンテストに入選にゅうせんしなかったことをると猛烈もうれつ抗議こうぎしたというはなしもある。

1940ねん、USAコロムビア・レコードの企画きかくで、レオポルド・ストコフスキーひきいるアメリカ青年せいねん交響こうきょう楽団がくだんがブラジルで録音ろくおんするさいヴィラ・ロボスがカルトーラを紹介しょうかいした。かれはカシャーサと“Quem me ve Sorrindo”(わらってているのはだれ?)を演奏えんそう録音ろくおんした。しかしこれらはつねにある仕事しごとではないため、結局けっきょく左官さかんつづけることにわりなかった。そして、これ以降いこう10ねん以上いじょうかれ目立めだった活動かつどうがなくなってしまう。

とく1949ねん、カシャーサとのきょう作曲さっきょく複雑ふくざつでみんながうたえないという理由りゆうから、ヂレトール(音楽おんがく監督かんとく)と対立たいりつしマンゲイラをはなれることになった。当時とうじマンゲイラはじめおおくのエスコーラが肥大ひだいし、このころからおおくのエスコーラのコミュニティーが賭博とばく元締もとじめによって仕切しきられるようになるなどの背景はいけいにあるとされる。ちなみにカンデイアなどもエスコーラの内紛ないふんからポルテーラをはなれている。またカルトーラの場合ばあいは、当時とうじ一緒いっしょらしていたデオリンダという女性じょせいくなったことも精神せいしんてきにショックだったという。

また、かれずいまくえんにかかり、3日間にちかんものあいだたきりで、当時とうじ同棲どうせいしていた女性じょせいかれをニロポリスにはこび、そこで回復かいふくするまでに1ねん以上いじょうもかかり、つえをついてあるくほどになったこともあったという。足下あしもとがふらつきときたまにめまいもこしていたので、左官さかん仕事しごともできなくなり、イパネマで夜警やけい洗車せんしゃ仕事しごとをするようになっていた。しかしこのあいだ作曲さっきょくつづけていた。ジャーナリストのセルジオ・ポルトは偶然ぐうぜんったかれにこれらのはなしくと、ラジオに出演しゅつえんさせるかわりに、洗車せんしゃ仕事しごとめて作曲さっきょくつづけるようすすめ、かれもその助言じょげんれた。

かれ1952ねんにはマンゲイラのおかもどり、次第しだい体調たいちょう回復かいふくして官庁かんちょうつとめることで定職ていしょくた。そしてDona Zica(ドナ・ジカ、本名ほんみょう:エウゼビア・シゥヴァ・ド・ナシメント)とう。かれは“Arrepiados”、ジカは“Bloco do Seu Júlio”というブロコにそれぞれ参加さんかし、おなどうをパレードしていたことがえんで、一緒いっしょらすようになる。なお2人ふたりってから12ねん1964ねん結婚けっこん

そしてまた転機てんきおとずれる。1959ねん映画えいがくろいオルフェ撮影さつえいさい、カルトーラとジカは雑用ざつようやとわれたが、たまたま映画えいがの1シーンに出演しゅつえんすることになった。映画えいが世界せかいてきだいヒット。いわゆる“リオのカーニバル”がわたったことで観光かんこうきょくがバックアップした。

これによりかれとジカのいえでは毎週まいしゅう金曜日きんようびにサンバを演奏えんそうするようになり、Zé Keti(ゼー・ケチ)やNelson Sargento(ネルソン・サルジェント)、ネルソン・カヴァキーニョなど、おおくのサンビスタが演奏えんそうするためにあつまった。

またジカのつく料理りょうり評判ひょうばんび、周囲しゅうい助言じょげんから1963ねんに、ZiCartola(ジカルトーラ)というみせひらいた。みせ自体じたい1965ねん閉店へいてんしてしまうが、サンビスタにかぎらず、ジャーナリストや知識ちしきじん、そして国民こくみんてきだい歌手かしゅエリゼッチ・カルドーゾ、またトム・ジョビンナラ・レオンカルロス・リラなどのボサノヴァのアーチストなども出入でいりし、ときには即興そっきょう出演しゅつえんすることもおおかった。

とくに、Elton Medeiros(エルトン・メディロス)とPaulinho da Viola(パウリーニョ・ダ・ヴィオラ)はジカルトーラでい、以後いごコンビですうおおくのサンバをしたことでられる。

またボサノヴァのアーチストとしてられるナラ・レオンは、すでにこの当時とうじにボサノヴァと決別けつべつし、彼女かのじょのファーストアルバムにおいてカルトーラの"O sol Nascerá"(のぼる)を録音ろくおんし、これがヒットした。このときかね長年ながねんおおきくれていたはな手術しゅじゅつおこなったというエピソードがのこっている。

しかし、景気けいき左右さゆうされジカルトーラが閉店へいてん。ベント・ヒベイロ地区ちくにあったカルトーラの父親ちちおやいえらすようになる。カルトーラには自分じぶんどもはいなかったが、最初さいしょつま・フチ、ジカの・ヘジーナとその2人ふたり、ジカの養子ようし・ホナウド、また友人ゆうじんアマデウのむすめ・クレウーザなどをかかえてやしなっていたためにいつも生活せいかつ苦慮くりょしていた。

そんななかさらに転機てんきおとずれる。1970ねんに“カルトーラはまねく”というショーを開催かいさいし、リオやサンパウロ学生がくせい支持しじのち1974ねんにマルクス・ペレイラのプロデュースでカルトーラが65さいにしてはつのアルバム“Cartola”を録音ろくおん、サンパウロではふたたびジカルトーラを開店かいてんした。また1976ねんには続編ぞくへんとなる2まいのアルバム“Cartola”を録音ろくおんよく1977ねんには3まい“Verde Que Te Quero Rosa”、そして1978ねんには、70さいむかえたカルトーラのアルバム“Cartola 70 Anos”を発売はつばい。リオで70さいいわうミサがひらかれ、ギリェルミ・ジ・ブリートなどの友人ゆうじんおおくのファンがあつまって“沈黙ちんもくのバラ”をだい合唱がっしょうしたという。

しかし、1980ねん11月30にちがんのためリオの病院びょういん死去しきょ翌日よくじつ新聞しんぶんにはかれ追悼ついとうする記事きじせた。かれ毀誉きよ褒貶ほうへんはげしい人生じんせいであったが、いわゆる大器晩成たいきばんせいで、最後さいごすうねんに4まいのLPを録音ろくおんしブラジル音楽おんがくかたじょうはずすことのできないとひょうされる不朽ふきゅう名作めいさくのこした。

ディスコグラフィー

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スタジオ録音ろくおん

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ショー・ライブ

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日本にっぽんばん

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  • 人生じんせい風車かざぐるま沈黙ちんもくのバラ(74・76ねんばん完全かんぜん収録しゅうろく 1989ねん テイクオフ TKF-3801 廃盤はいばん
  • あいするマンゲイラ〜詩人しじんなみだ(77・78ねん完全かんぜん収録しゅうろく 1990ねん テイクオフ TKF-3803 廃盤はいばん
  • カルトーラ・ライブ(82ねんどう内容ないよう RUI MIFUNE / ディスク・ユニオン REMMI-1774 完全かんぜん限定げんていばん
  • Verde Que Te Quero Rosa: あいするマンゲイラ(BMG 2001ねん BVCM37260)
  • Verde Que Te Quero Rosa: あいするマンゲイラ(BMG 2008ねん BVCM35324)
  • 70 Anos(BMG 2008ねん BVCM35325)

外部がいぶリンク

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