ロッテルダム の銀行 ぎんこう 家 か アーチボルド・ホープ の肖像 しょうぞう 、1737年 ねん
ルイジアナ買収 ばいしゅう の資金 しきん 調達 ちょうたつ のため、ホープ商会 しょうかい が1804年 ねん に発行 はっこう した株式 かぶしき
一 いち 世紀 せいき 以上 いじょう アムステルダム のカイゼルスグラハトに置 お かれた事務所 じむしょ (白 しろ い建物 たてもの )。左側 ひだりがわ の茶色 ちゃいろ い建物 たてもの はヘンリー・ホープ の私邸 してい 。1770年代 ねんだい 、これら建物 たてもの の鐘楼 しゅろう 屋根 やね が当時 とうじ の流行 りゅうこう で改築 かいちく され、ホープ家 か の盾 たて が中心 ちゅうしん に戴 いただ かれた。1970年 ねん 以降 いこう は国家 こっか 遺産 いさん (オランダ) に指定 してい 。
ホープ商会 しょうかい (ホープしょうかい、Hope & Co.)は、2世紀 せいき 半 はん にわたり活躍 かつやく した、オランダ の有名 ゆうめい な銀行 ぎんこう である。発起人 ほっきにん はスコットランド人 じん であるが、同行 どうこう はアムステルダム に開業 かいぎょう した。18世紀 せいき 末 まつ にはロンドン にも支店 してん を展開 てんかい した。
スコットランド商人 しょうにん のアーチボルド・ホープ (en , 1664–1743) がもった8人 にん の息子 むすこ のうち6人 にん [1] が貿易 ぼうえき 商 しょう を営 いとな んでいた。 彼 かれ らはアムステルダムとロッテルダム にて海運 かいうん 業 ぎょう 、倉庫 そうこ 業 ぎょう 、保険 ほけん 業 ぎょう 、金融 きんゆう 業 ぎょう で活躍 かつやく した。彼 かれ らは、ロンドンで泡沫 うたかた 会社 かいしゃ 禁止 きんし 法 ほう (Bubble Act,1720 )が作 つく られることになる1720年 ねん の南海 なんかい 泡沫 うたかた 事件 じけん をかろうじて生 い き延 の びた[2] 。ハリーと呼 よ ばれていた父 ちち アーチボルド1世 せい は、ディエップ (セーヌ=マリティーム県 けん ) の代理 だいり 引受 ひきうけ 業者 ぎょうしゃ でトーマス・ホープ (初代 しょだい 準 じゅん 男爵 だんしゃく ) (英語 えいご 版 ばん ) (1573-1646)の兄弟 きょうだい であるジェームズ・ホープの息子 むすこ だった。当時 とうじ はオランダで多 おお くの銀行 ぎんこう 家 か が破産 はさん し、息子 むすこ ヘンリーを含 ふく む多 おお くの者 もの が国 くに を去 さ った。この年 とし がオランダの銀行 ぎんこう 家 か にとって重要 じゅうよう な年 とし であったことは、20世紀 せいき にロッテルダムが新 あたら しい電話 でんわ 番号 ばんごう を発行 はっこう した時 とき に、ホープ商会 しょうかい が1720で終 お わる局番 きょくばん を手 て に入 い れてMees&Zn社 しゃ をびっくりさせた事実 じじつ からも示 しめ されている。
この黎明 れいめい 期 き にホープ兄弟 きょうだい たちは、ロッテルダムから出港 しゅっこう するクエーカー 教徒 きょうと 達 たち のための積荷 つみに (アーチボルドと息子 むすこ のイサク、ザカリーの指示 しじ の下 した )およびアムステルダムでの奴隷 どれい 貿易 ぼうえき (息子 むすこ トーマスとエイドリアンの指示 しじ の下 した )を組織 そしき してお金 かね を稼 かせ いだ。 ペンシルベニア州 しゅう へのクエーカー教徒 きょうと の輸送 ゆそう が最 もっと もあった年 とし は1738年 ねん 、1744年 ねん 、1753年 ねん 、1765年 ねん だった。クエーカーにはお金 かね がなく、難民 なんみん に関 かん して街 まち は何 なん らかの施 ほどこ しをする必要 ひつよう があったため、これらの輸送 ゆそう はロッテルダムの街 まち と地元 じもと のメノナイト 教会 きょうかい によって支払 しはら われた。最高 さいこう の年 とし でホープらはクエーカー1人 にん あたり60ギルダー を受 う け取 と り、少 すく ない年 とし にはクエーカー1人 にん あたり11ギルダーだった。この奴隷 どれい 貿易 ぼうえき はさほど儲 もう からなかったが、船上 せんじょう における奴隷 どれい たちへの施 ほどこ しはもっと非道 ひどう で、うち16%は船上 せんじょう で死亡 しぼう したとされる。 七 なな 年 ねん 戦争 せんそう (1756-1763)の間 あいだ に、ホープ兄弟 きょうだい は投機 とうき によって非常 ひじょう に裕福 ゆうふく になった。
甥 おい のジャン・ホープ とヘンリー・ホープ がこの会社 かいしゃ に加 くわ わった1762年 ねん に、名前 なまえ がホープ商会 しょうかい (Hope&Co)に変更 へんこう された。当時 とうじ 、英国 えいこく 人 じん のジョン・ウィリアムズとPierre Cesar Labouchere も合計 ごうけい 26人 にん の企業 きぎょう のパートナーであった[2] 。その年 とし 、彼 かれ らはアムステルダムの事務所 じむしょ を拡張 かくちょう し、カイゼルスグラハト(en ) 448番地 ばんち にヘンリーとジャンを住 す まわせた。トーマスは隣 となり のビル444-446番地 ばんち に住 す んでいた。ザカリーの息子 むすこ アーチボルド(1747- 1821)はオランダ国会 こっかい 議員 ぎいん になり、オランダ西 にし インド会社 かいしゃ (WIC)の摂政 せっしょう で、ハーグ にある元 もと 宮殿 きゅうでん のランゲ・フォールハウト(en )を所有 しょゆう していた。1796年 ねん にピエールがフランシス・ベアリング (初代 しょだい 準 じゅん 男爵 だんしゃく ) の3番目 ばんめ の娘 むすめ ドロシーと結婚 けっこん したのは、2つの会社 かいしゃ ベアリング とホープス間 あいだ の血縁 けつえん 固着 こちゃく だった[2] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。
重要 じゅうよう なアーカイブ[ 編集 へんしゅう ]
ホープ・アーカイブ(1725-1940)とは、18世紀 せいき における世界 せかい 貿易 ぼうえき の中心 ちゅうしん 地 ち としてのアムステルダムおよびオランダの歴史 れきし にとって重要 じゅうよう な資料 しりょう である。1977年 ねん にこのアーカイブはアムステルダム市 し の公文 こうぶん 保管 ほかん 所 しょ に渡 わた され、現在 げんざい は公開 こうかい されている[3] 。
ホープ商会 しょうかい のアーカイブはオランダ東 ひがし インド会社 かいしゃ (VOC)のアーカイブと混同 こんどう される[要 よう 出典 しゅってん ] 、というのも1752年 ねん にホープ兄弟 きょうだい を創設 そうせつ する一人 ひとり トーマス・ホープ (銀行 ぎんこう 家 か 1704年生 ねんせい ) (英語 えいご 版 ばん ) がVOCの管理 かんり 者 しゃ 「Lords XVII」の一員 いちいん となったためである。4年 ねん 後 ご に彼 かれ はVOCの摂政 せっしょう 長 ちょう (head regent)となり、そして1766年 ねん に彼 かれ はウィレム5世 せい (オラニエ公 こう ) の広報 こうほう 担当 たんとう 官 かん かつ正式 せいしき なVOCの理事 りじ 長 ちょう になった。1770年 ねん にトーマスは引退 いんたい して息子 むすこ のジョンにその責務 せきむ を移 うつ し、彼 かれ は死 し ぬまでVOCとホープ商会 しょうかい に残 のこ った[2] 。
Pierre Labouchereはフランスとの交渉 こうしょう において重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たし、オランダに向 む けたオランダとの資金 しきん 調達 ちょうたつ の大半 たいはん を担当 たんとう した。エイドリアンはオランダ議会 ぎかい とアムステルダム市議会 しぎかい のメンバーだった。現在 げんざい の銀行 ぎんこう とは異 こと なり、ホープ商会 しょうかい のパートナーは自分 じぶん たちの個人 こじん 事業 じぎょう と公共 こうきょう 事業 じぎょう および銀行 ぎんこう のビジネスを混同 こんどう していた。アーカイブにある手紙 てがみ は一 いち 度 ど に多 おお くの主題 しゅだい に触 ふ れている。 最初 さいしょ 期 き の手紙 てがみ は1720年代 ねんだい にさかのぼり、トーマスとエイドリアン・ホープに宛 あ てたものである。アーカイブの特 とく に豊富 ほうふ な部分 ぶぶん は、ヘンリー・ホープがオランダを離 はな れざるを得 え なくなり、ロンドンに事務所 じむしょ を設置 せっち した1795-1815年 ねん の間 あいだ の通信 つうしん である。アムステルダムとロンドン支店 してん 間 あいだ の定期 ていき 連絡 れんらく は、当時 とうじ の貿易 ぼうえき 交渉 こうしょう やそれらがどのように行 おこな われたかに関 かん する重要 じゅうよう な見識 けんしき を与 あた えるものとなっている。
当時 とうじ のホープ商会 しょうかい が行 おこな う日々 ひび の運営 うんえい はトーマスのアメリカの甥 おい ヘンリー・ホープ の手中 しゅちゅう にあり、スウェーデン、ポーランド、ロシア、ポルトガル、スペイン、フランス、アメリカなど様々 さまざま な国 くに と取引 とりひき をしていた[2] 。ヘンリー・ホープとフランシス・ベアリング (初代 しょだい 準 じゅん 男爵 だんしゃく ) の交渉 こうしょう の結果 けっか 、1804年 ねん にホープ商会 しょうかい はルイジアナ買収 ばいしゅう の資金 しきん 調達 ちょうたつ をするため株式 かぶしき を発行 はっこう した[4] 。
美術 びじゅつ 品 ひん 蒐集 しゅうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
活動 かつどう 開始 かいし からの貿易 ぼうえき 取引 とりひき に主 おも な関心 かんしん がありながらも、ホープ兄弟 きょうだい は土地 とち および芸術 げいじゅつ への長期 ちょうき 投資 とうし にもその触手 しょくしゅ を広 ひろ げた。18世紀 せいき の間 あいだ にホープ商会 しょうかい は、ライバルのクリフォード家 か (銀行 ぎんこう 家 か ) で1772年 ねん に起 お きた事案 じあん のようなメンバー1人 にん の不 ふ 注意 ちゅうい による会社 かいしゃ 全体 ぜんたい の破産 はさん リスクを減 へ らすため、パートナーに対 たい して利益 りえき 分配 ぶんぱい 協定 きょうてい を設定 せってい した[2] 。メンバーは利益 りえき 分配 ぶんぱい 計画 けいかく のパートナーになるために、クリフォードの破産 はさん 申請 しんせい を補助 ほじょ したエイドリアン・ホープにより開発 かいはつ された特別 とくべつ なホープ商会 しょうかい 簿記 ぼき の方法 ほうほう を学 まな ばなければならなかった。個人 こじん 的 てき 投資 とうし によると、美術 びじゅつ 品 ひん の所有 しょゆう 権 けん (およびその他 た の投資 とうし ポートフォリオ)は均等 きんとう に広 ひろ がっていた。したがって、1つのアートコレクションが数 すう 人 にん の男性 だんせい によって共同 きょうどう 所有 しょゆう されていた。ジョン・ホープの息子 むすこ トーマス・ホープ (銀行 ぎんこう 家 か 1769年生 ねんせい ) はこの共同 きょうどう コレクションの構築 こうちく を手伝 てつだ い、後 のち に彼 かれ の父親 ちちおや と祖父 そふ によって築 きず かれた所有 しょゆう 権 けん のためにその大 だい 部分 ぶぶん を相続 そうぞく した。自分 じぶん の息子 むすこ が銀行 ぎんこう 業 ぎょう を継 つ がないことが明 あき らかになったことで、ヘンリー・ホープの死後 しご 、彼 かれ はついに自分 じぶん の相続 そうぞく 取 と り分 ぶん を残 のこ りから分 わ けた。ヘンリー・ホープの取 と り分 ぶん は彼 かれ の姉妹 しまい の家族 かぞく と彼 かれ のアメリカの従兄弟 いとこ の間 あいだ で分 わ けられた。彼 かれ は1811年 ねん に子供 こども がいないまま死去 しきょ した。
ヘンリー・ホープの死去 しきょ で、フランスの仕事 しごと でずっと商会 しょうかい と共 とも に活動 かつどう し1814年 ねん にホープ商会 しょうかい の全面 ぜんめん パートナーになったアドリアーン・ファン・デル・フープ (1778-1854年 ねん )が、アムステルダムにいる仲間 なかま のパートナーであるアレクサンダー・ベアリング (初代 しょだい アシュバートン男爵 だんしゃく ) と共 とも に、投資 とうし のアムステルダム部分 ぶぶん を受 う け継 つ ぎ、彼 かれ はそこで芸術 げいじゅつ よりも土地 とち を選 えら んでアメリカに移 うつ った。アドリアーン・ファン・デル・フープが死去 しきょ した時 とき 、彼 かれ には500万 まん ギルダーの資産 しさん 価値 かち があった。彼 かれ の死後 しご 、そのアートコレクションはアムステルダムの街 まち に渡 わた り、その収集 しゅうしゅう 品 ひん を収容 しゅうよう するための博物館 はくぶつかん が造 つく られた。このコレクションにある17、18世紀 せいき の250作品 さくひん の中 なか には、レンブラント の『ユダヤの花嫁 はなよめ 』、フェルメール の『手紙 てがみ を読 よ む青 あお 衣 ころも の女 おんな 』、ピーテル・デ・ホーホ の『母親 ははおや の義務 ぎむ 』、ヤーコプ・ファン・ロイスダール の『ワイク・バイ・ドゥールステーデの風車 かざぐるま 』がある。
19世紀 せいき に、ホープ商会 しょうかい はアメリカおよびロシアでの鉄道 てつどう 投資 とうし に特 とく 化 か していた。20世紀 せいき には、国際 こくさい 輸送 ゆそう からオランダへの投資 とうし に重点 じゅうてん を移 うつ した。
1937年 ねん 、ホープ商会 しょうかい は以前 いぜん のWed. Borski ことヴァン・ルーン商会 しょうかい (Van Loon&Co.)を買収 ばいしゅう した。1966年 ねん 、ホープ商会 しょうかい はR. Mees&Zoonenと合併 がっぺい して、ミーズ&ホープ銀行 ぎんこう (Mees & Hope, Bankiers)を設立 せつりつ 。この会社 かいしゃ は1969年 ねん にオランダ海外 かいがい 銀行 ぎんこう と合併 がっぺい した。最終 さいしゅう 的 てき には、1975年 ねん にABN 銀行 ぎんこう によって買収 ばいしゅう された。ABNアムロ銀行 ぎんこう 設立 せつりつ のためABN銀行 ぎんこう とアムロ銀行 ぎんこう が合併 がっぺい した後 のち 、1992年 ねん 11月にミーズ&ホープ銀行 ぎんこう はピアソン(Pierson, Heldering & Pierson、当時 とうじ はアムロ銀行 ぎんこう が完全 かんぜん 所有 しょゆう )と合併 がっぺい してミーズピアソン (MeesPierson)になり、その後 ご にフォルティスグループ へと売却 ばいきゃく された。 フォルティスが業務 ぎょうむ 不振 ふしん でその後 ご は再 ふたた びABNアムロの一部 いちぶ となり、フォルティスのオランダ事業 じぎょう はABNアムロとして再 さい 設立 せつりつ された。
多 おお くの歴史 れきし 的 てき 文書 ぶんしょ で、この銀行 ぎんこう は単 たん に「ホープス(Hopes)」と記 しる されており、たまに「ロッテルダムのホープス」や「アムステルダムのホープス」と言及 げんきゅう されたりもする。 ホープ家 か のリストは次 つぎ のとおり。
注釈 ちゅうしゃく
^ 現代 げんだい では契約 けいやく 書 しょ による業務 ぎょうむ 提携 ていけい で済 す むが、当時 とうじ は企業 きぎょう 間 あいだ で深 ふか い結 むす びつきを得 え るため、血縁 けつえん という絆 きずな を作 つく った。
^ アムステルダムの歴史 れきし における重要 じゅうよう な出来事 できごと や発展 はってん を伴 ともな う史跡 しせき 等 とう を50個 こ 挙 あ げたもので、各々 おのおの には「vensters(窓 まど )」の番号 ばんごう 名 めい が振 ふ られている。
出典 しゅってん
^ Archibald Jr. (1698–1734), Isaac, Zachary, Henry, Thomas (1704–1779), and Adrian (1709–1781).後段 こうだん にあるホープ家 か の表 ひょう を参照 さんしょう 。
^ a b c d e f g Buist, Marten Gerbertus (1974). At spes non fracta: Hope & Co. 1770-1815. Merchant bankers and diplomats at work . The Hague: Martinus Nijhoff. ISBN 90-247-1629-2
^ “Archive of the company Hope & Co. ”. City archive Amsterdam. 2012年 ねん 12月20日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2015年 ねん 11月18日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Louisiana Purchase ”. City archive Amsterdam. 2011年 ねん 10月 がつ 1日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2015年 ねん 11月18日 にち 閲覧 えつらん 。