ボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん

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ボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん
Boston Massacre
まみれの虐殺ぎゃくさつ(The Bloody Massacre)』とだいされたポール・リビアによる1770ねん版画はんが(クリスチャン・レミックによる彩色さいしきばん)。
日時にちじ1770ねん3がつ5にち
場所ばしょボストン
原因げんいん
  • タウンゼンド諸法しょほう
  • イギリスぐんのボストン駐屯ちゅうとん
  • クリストファー・サイダー殺害さつがい犯人はんにんへの恩赦おんしゃ
結果けっか植民しょくみんじん5めい殺害さつがい
被告ひこく
有罪ゆうざい判決はんけつ
けたひと
モンゴメリー、キルロイ
罪状ざいじょう殺人さつじんざい
評決ひょうけつモンゴメリーとキルロイの2めいについては故殺こさつざい有罪ゆうざいとし、のこりのものについては無罪むざい
判決はんけつモンゴメリーとキルロイの2めいたいして親指おやゆびへの烙印らくいん
参加さんか集団しゅうだん
だい29連隊れんたい
植民しょくみんじん暴徒ぼうと
指導しどうしゃ
トマス・プレストン大尉たいい
なし
人数にんずう
8にん
300-400にん
死傷ししょうしゃすう
軽傷けいしょう
11めい負傷ふしょう(うち5めい死亡しぼう

ボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん(ボストンぎゃくさつじけん、えい:Boston Massacre)は、1770ねん3がつ5にちイギリスりょうマサチューセッツわん直轄ちょっかつ植民しょくみんげんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくマサチューセッツしゅう)のボストンにおいてイギリス駐屯ちゅうとんぐん部隊ぶたい8めいと、やく300めいから400めいになる市民しみん衝突しょうとつし、群衆ぐんしゅうがわ投石とうせきなどにたいしてイギリスへい発砲はっぽうして市民しみん5めい射殺しゃさつした事件じけん。このいちけんポール・リビアサミュエル・アダムズといった植民しょくみん自治じちけんもとめるものたち(パトリオット)が「虐殺ぎゃくさつ(massacre)」と呼称こしょうしておおきくほうじたため、この名前なまえばれる。イギリスがわ事件じけん発生はっせいした地名ちめいからキング・ストリート事件じけん(キング・ストリートじけん、えい:Incident on King Street)と[1]

1767ねんイギリス本国ほんごく議会ぎかいグレートブリテン議会ぎかい英語えいごばん)で制定せいていされたタウンゼンド諸法しょほうはアメリカ植民しょくみん自治じちけん侵害しんがいするものとしてつよ反発はんぱつまねき、これにたいしてイギリスは1768ねんよりマサチューセッツわん直轄ちょっかつ植民しょくみん王室おうしつから任命にんめいされた政府せいふ役人やくにん警護けいごや、どうほう執行しっこう支援しえんのため、イギリスぐん駐屯ちゅうとんさせていた。このため市民しみん駐屯ちゅうとんへい関係かんけい緊迫きんぱくするなかで、些細ささいいさかいをきっかけに、暴徒ぼうとした群衆ぐんしゅうすうにん兵士へいしかこみ、罵倒ばとうしたり、いし氷塊ひょうかいげつけた。トマス・プレストン大尉たいいひきいる6めい兵士へいし救援きゅうえんにかけつけたが、事態じたい収拾しゅうしゅうせず、そのうち、1めい兵士へいしによる不意ふい発砲はっぽうにより、プレストンの発砲はっぽう命令めいれいなくほか兵士へいしたちも次々つぎつぎ群衆ぐんしゅう発砲はっぽうした。この銃撃じゅうげきで3めい即死そくし、8めい負傷ふしょうし、うち2にんがそのくなった。

代理だいり総督そうとくトマス・ハッチンソン捜査そうさ約束やくそくしたことで群衆ぐんしゅう解散かいさんし、翌朝よくあさにはプレストンと8めい兵士へいし逮捕たいほされたがはんイギリス感情かんじょうたかまりから、最終さいしゅうてきぐんキャッスルとう退避たいひせざるをなかった。その、プレストンら9めい民間みんかんじん4めい殺人さつじんざい起訴きそされたが、裁判さいばん時間じかんによる沈静ちんせいねらったハッチンソンにより、半年はんとし以上いじょうってからおこなわれた。この裁判さいばんでは合衆国がっしゅうこく大統領だいとうりょうジョン・アダムズ被告人ひこくにん弁護べんごにない、プレストンと兵士へいし6めい無罪むざい兵士へいし2めい故殺こさつざい英語えいごばん有罪ゆうざいとなった。また、有罪ゆうざいとなった2めい本来ほんらい死刑しけいであったが、当時とうじほう慣習かんしゅうによって減刑げんけいされ、親指おやゆびへの烙印らくいんばちとなった。

この事件じけん自治じち独立どくりつ志向しこうする著名ちょめい愛国あいこく(パトリオット)が、「虐殺ぎゃくさつ(massacre)」という言葉ことばもちいるなど、とき誇張こちょうともなって植民しょくみん社会しゃかい喧伝けんでんされ、イギリス本国ほんごく13植民しょくみん全体ぜんたいとの緊張きんちょうたかめた。とくにリビアが制作せいさくした色刷いろずりの版画はんがられる。事件じけん結果けっか、タウンゼンド諸法しょほう一部いちぶ撤廃てっぱいされるなどしたが、本国ほんごく植民しょくみんみぞうずまらず、そのガスピーごう事件じけん英語えいごばんボストン茶会ちゃかい事件じけんなどがこり、最終さいしゅうてきに1775ねんアメリカ独立どくりつ戦争せんそういたることになる。

背景はいけい[編集へんしゅう]

イギリスりょうマサチューセッツわん直轄ちょっかつ植民しょくみん首都しゅとであるボストンは、アメリカ植民しょくみん13植民しょくみん)における重要じゅうよう海運かいうん都市としであると同時どうじに、1760年代ねんだいにはイギリス本国ほんごく議会ぎかいによる課税かぜいたいする抵抗ていこう運動うんどう代表だいひょうなくして課税かぜいなし)の中心ちゅうしんでもあった。 1768ねん、イギリス本国ほんごく議会ぎかいはイギリスからアメリカ植民しょくみん輸入ゆにゅうされる様々さまざま物品ぶっぴんたいして関税かんぜいけるタウンゼンド諸法しょほう可決かけつした。これにたいし、植民しょくみんじんたちは、イギリス臣民しんみんとしての自然しぜんけん植民しょくみん憲章けんしょう憲法けんぽうじょう権利けんり侵害しんがいするものとして反発はんぱつした[2]。 マサチューセッツ植民しょくみん議会ぎかいは、国王こくおうジョージ3せいにタウンゼンド諸法しょほうの1つである歳入さいにゅうほう停止ていしもとめる請願せいがんしょ送付そうふし、反対はんたい運動うんどう開始かいしした。また議会ぎかい植民しょくみん議会ぎかいにも「マサチューセッツ回状かいじょう英語えいごばん」とばれる書簡しょかんおくって抗議こうぎ活動かつどうへの参加さんかもと[2]とく対象たいしょう輸入ゆにゅうひんあつか輸入ゆにゅうしょうのボイコットをびかけた[3]

新設しんせつされたばかりの植民しょくみん大臣だいじん任用にんようされたヒルズバラ伯爵はくしゃくは、マサチューセッツの行動こうどう危険きけんした。1768ねん4がつかれはアメリカの植民しょくみん総督そうとくらに手紙てがみおくり、マサチューセッツ回状かいじょうおうじた植民しょくみん議会ぎかい解散かいさんさせるよう指示しじした。また、マサチューセッツ植民しょくみん総督そうとくフランシス・バーナードには、議会ぎかい回状かいじょう撤回てっかいめいじるよう指示しじした。しかし議会ぎかいはこれにおうじることを拒否きょひした[4]

ボストン税関ぜいかんちょうのチャールズ・パクストンは「印紙いんしほうとき同様どうよう政府せいふ国民こくみんゆだねられている」として、ヒルズバラきょう軍事ぐんじ支援しえんもとめる手紙てがみした[5]サミュエル・フッド提督ていとくは、50もん大砲たいほうそなえた軍艦ぐんかんロムニーごう派遣はけんし、これは1768ねん5がつにボストンこう到着とうちゃくしてパクストンの要請ようせいこたえた[6]。 6月10にち税関ぜいかんは、密輸みつゆ関与かんよしていたとして、ボストンの有力ゆうりょく商人しょうにんジョン・ハンコック所有しょゆうしていたスループせんリバティごう押収おうしゅうした。もとよりロムニーごう艦長かんちょう地元じもと船員せんいんたちを抑圧よくあつしていたことも手伝てつだって、ボストン市民しみんいかりは限界げんかいたっして暴動ぼうどうこり[7]税関ぜいかん職員しょくいんはマサチューセッツわんじょうにあるキャッスルとう要塞ようさいキャッスル・ウィリアム避難ひなんした[8]

こうしたマサチューセッツの情勢じょうせい不安ふあんたいし、ヒルズバラきょうきたアメリカ最高さいこう司令しれいかん英語えいごばんトマス・ゲイジ将軍しょうぐんに「ボストンに必要ひつようおもわれる軍隊ぐんたい」をおくるよう指示しじして4連隊れんたい派遣はけんされることが決定けってい[9]、その最初さいしょ部隊ぶたいは1768ねん10がつ1にちにボストンに到着とうちゃくした[10]。 1769ねんに2連隊れんたいはボストンから撤兵てっぺいしたが、だい14連隊れんたいだい29連隊れんたいはそのまま駐屯ちゅうとんすることとなった[11]

ジャーナル・オブ・アカーランス英語えいごばん』は、ボストン市民しみん兵士へいし衝突しょうとつ記録きろくした一連いちれん新聞しんぶん匿名とくめい記事きじにおいて、とき誇張こちょうされた内容ないよう緊張きんちょうあおったが、1770ねん2がつ22にち発生はっせいした「やく11さい若者わかものクリストファー・サイダー英語えいごばん税関ぜいかん職員しょくいんころされたという報道ほうどうのちは、さらに顕著けんちょ緊張きんちょうたかまった[11]。 サイダーのは『ボストン・ガゼット英語えいごばんげられ、かれ葬儀そうぎは、ボストンで当時とうじ最大さいだい規模きぼおこなわれたとある。この事件じけんとその報道ほうどう緊張きんちょうあおり、植民しょくみん主義しゅぎしゃいやがらせ目的もくてき兵士へいしさがし、兵士へいしほう対立たいりつもとめていた[12]

事件じけん[編集へんしゅう]

1713ねんから1776ねんまで使用しようされていたきゅうマサチューセッツしゅうかい議事堂ぎじどう正面しょうめん写真しゃしん手前てまえ円形えんけい石畳いしだたみ部分ぶぶんには「ボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん跡地あとち」とかれているが、実際じっさい事件じけんきたのは、このちかくのとおりである。

3月5にちばん、キング・ストリート(現在げんざいのステート・ストリート)にあるボストン税関ぜいかん英語えいごばんで、屋外おくがい警備けいびにあたっていたジョン・ゴールドフィンチ大尉たいいとヒュー・ホワイト一等いっとうへいは、エドワード・ギャリック英語えいごばんというの13さいのかつら見習みなら少年しょうねんからちょっかいをけられた。それはゴールドフィンチがギャリックがやとわれているみせへの代金だいきんたおそうとしているという批難ひなんであったが[13]実際じっさいには前日ぜんじつ支払しはらいをませており、ゴールドフィンチはこの侮辱ぶじょく無視むしした[14]かねたホワイトがギャリックに将校しょうこうにはもっと敬意けいいはらうべきだとびかけたところ、2人ふたりたがいに侮辱ぶじょくしあって口論こうろんとなった。そしてギャリックはゆびでゴールドフィンチのむねはじめた。ここでホワイトははなれると少年しょうねん挑発ちょうはつし、マスケットじゅうかれがわ頭部とうぶ殴打おうだした。ギャリックがいたみにさけごえげると、かれ仲間なかまバーソロミュー・ブローダーズが介入かいにゅうし、ホワイトと口論こうろんとなってますます群衆ぐんしゅう注目ちゅうもくあつめた[15]現場げんばくわした当時とうじ19さい書店しょてんいんヘンリー・ノックス独立どくりつ戦争せんそう将軍しょうぐんとして活躍かつやくし、初代しょだい合衆国がっしゅうこく陸軍りくぐん長官ちょうかんつとめた)は、ホワイトに「もし発砲はっぽうすれば、おまえぬぞ」と警告けいこくした[14]

よるけるにつれ、ホワイトのまわりにあつまる群衆ぐんしゅうかずえ、さわがしくなっていった。通常つうじょう火事かじ発生はっせい意味いみする教会きょうかいかねひびき、さらにおおくの人々ひとびとあつめた。クリスパス・アタックス英語えいごばんという混血こんけつもと奴隷どれい自由じゆうムラート)を筆頭ひっとうに、50にん以上いじょうのボストン市民しみんがホワイトにしかけ、ものげつけたり、じゅうつように挑発ちょうはつした。ホワイトは、税関ぜいかん階段かいだんというやや安全あんぜん場所ばしょ確保かくほすると救援きゅうえんもとめた。税関ぜいかん職員しょくいんちかくにあった兵舎へいしゃ当直とうちょく士官しかんであったトマス・プレストン英語えいごばん大尉たいいたすけをもとめた[16][17]かれ報告ほうこくによれば、フットだい29連隊れんたいの擲弾へい中隊ちゅうたいから下士官かしかん1めい一等いっとうへい6めい抽出ちゅうしゅつし、固定こていしき銃剣じゅうけん携帯けいたいしていたホワイトのしたけつけたという[18][19]。 この部下ぶかたちのはそれぞれ、ウィリアム・ウェムズ伍長ごちょう以下いかヒュー・モンゴメリー、ジョン・キャロル、ウィリアム・マッコーリー、ウィリアム・ウォーレン、マシュー・キルロイ英語えいごばんである。かれらが群衆ぐんしゅうはいってすすなかで、ノックスはプレストンのコートをつかむとかれに「どうかたのむから(For God's sake)、部下ぶかには注意ちゅういしろよ。もしかれらがってみろ、あんたはぬからな」と警告けいこくした[20][よう説明せつめい]。 これにプレストンは「わかっている」とこたえた[21]税関ぜいかん階段かいだんところにいたホワイトのした辿たどくと兵士へいしたちはマスケットじゅう装填そうてんして半円はんえん形状けいじょう整列せいれつした。そして、プレストンは300から400にんはいると推定すいていされる群衆ぐんしゅうかって解散かいさんするようにさけんだ[22]

群衆ぐんしゅう兵士へいしまわりにせて「ってみろ!」とさけんだり、ツバをきつけたり、ゆきだまやそのちいさなものげつけてかれらを挑発ちょうはつつづけた[23]宿屋やどや主人しゅじんリチャード・パルメスは棍棒こんぼうにした状態じょうたいでプレストンにちかづき、かれ兵士へいしたちの武器ぶきたまめられているか確認かくにんした。プレストンは装填そうてんはされているが、自分じぶん許可きょかなしには発砲はっぽうしないと断言だんげんした。かれ証言しょうげんによれば、自分じぶん部下ぶかたちのまえっていたがために、発砲はっぽうする可能かのうせいひくかったとしている。その投擲とうてきぶつ直撃ちょくげきしたモンゴメリ一等いっとうへいたおれ、マスケットじゅうとした。おこったかれじゅうひろなおすと「ちくしょうめ、ってやる!」とさけび、いま発砲はっぽう許可きょかがないなか群衆ぐんしゅうかって発砲はっぽうした。パルメスは、まずモンゴメリに棍棒こんぼうろして、そのうでち、つぎにプレストンにろした。棍棒こんぼうはプレストンの頭部とうぶをかろうじてかすめ、わりにうで命中めいちゅうした[23]

その正確せいかく時間じかん不明ふめいだが一時いちじ小康しょうこう状態じょうたいになったのち目撃もくげきしゃ推定すいていでは、すうびょうから2ふん)、兵士へいし群衆ぐんしゅうかって発砲はっぽうした。プレストンの命令めいれいによるものではなかったため、それは統制とうせいれたものではなかった。不規則ふきそく連射れんしゃすえに11めい男性だんせい被弾ひだんした[24][25]。 このうち、3めいのアメリカじん、クリスパス・アタックス、ロープ職人しょくにんのサミュエル・グレイ、船員せんいんのジェームズ・コールドウェルが即死そくしした[26]。 17さい象牙ぞうげ加工かこう職人しょくにん見習みならいのサミュエル・マーヴェリックは、群衆ぐんしゅう後方こうほうにいたがとべだんけて翌朝よくあさ未明みめいくなった[27]腹部ふくぶ命中めいちゅうしたアイルランド移民いみんのパトリック・カーは、当時とうじ医療いりょう技術ぎじゅつでは致命傷ちめいしょうであり、2週間しゅうかん死亡しぼうした[26]見習みなら職人しょくにんのクリストファー・モンクは重傷じゅうしょうい、不具ふぐしゃとなった[28]かれは1780ねんくなったが、死因しいんは10ねんまえった、このとききず原因げんいんとされる[29][30]

群衆ぐんしゅう税関ぜいかん建物たてものからははなれたが、とおりにはひとつづけた[31]。 プレストンはただちにだい29連隊れんたいだい部分ぶぶん召集しょうしゅうし、議事堂ぎじどうまえ防御ぼうぎょ陣地じんちいた[32]現場げんばけつけた代理だいり総督そうとくトマス・ハッチンソン群衆ぐんしゅう圧迫あっぱくされ、議事堂ぎじどうないはいらざるをなかった。そのバルコニーより、かれ最小限さいしょうげん秩序ちつじょ回復かいふくし、群衆ぐんしゅう解散かいさんすれば、発砲はっぽうたいする公正こうせい捜査そうさおこなうと約束やくそくした[33]

事件じけん[編集へんしゅう]

ダニエル・カルフェ(Daniel Calfe)による説明せつめい。3月3にち土曜日どようび夕方ゆうがただい29ぐんの擲弾へいジェイムス・マクディードのつまである野営やえい(camp-woman)が、ちちみせおとずれた。人々ひとびとなわ製造せいぞうじょうでの騒動そうどうについて会話かいわし、兵士へいし関与かんよしたことについて非難ひなんしていると、その女性じょせいは「兵士へいしたちはただしい」とい、「火曜日かようび水曜日すいようびよるまでに、かれらのけん銃剣じゅうけんはニューイングランドじんれるだろう」とくわえたという。
『A Short Narrative(みじか物語ものがたり)』に掲載けいさいされている、兵士へいしたちが植民しょくみんじんたいして暴力ぼうりょくるうことをいとわなかったことをしめ記述きじゅつ抜粋ばっすい[35]
ジョン・ギレスピー宣誓せんせい供述きょうじゅつしょだい104ごう)によれば、かれ友人ゆうじんたちとパブでうためまち南端なんたんかったさいとおりで、かれ見立みたてでは40にんから50にん集団しゅうだん出会であった。そしてかれ友人ゆうじんとそこにすわり、べつ知人ちじんなんにんかがばらばらにやってくるあいだ先述せんじゅつのようにとおりでかけたひとたちが(棍棒こんぼうで)武装ぶそうしていることにがついた・・・。830ふんぎにかねり、ギレスピーかれ仲間なかまたちは火事かじだとおもった。しかし、パプの主人しゅじんから、これは暴徒ぼうとあつめるためのものだとわれた。ギレスピー帰宅きたく決意けついし、その帰路きろで、おおくの人々ひとびと棍棒こんぼうぼう、あるいはべつ武器ぶきってはしっていくひとたちと出会であった。同時どうじまち火事かじがあったかのように、2だい消防車しょうぼうしゃもすれちがってった。しかし、すぐに火事かじではなく、民衆みんしゅう兵隊へいたいたたかおうとしていることをげられ、かれらは消防車しょうぼうしゃめてたすけにかうことをめた。この出来事できごとはすべて税関ぜいかんちかくの兵士へいしたちがマスケットじゅう発砲はっぽうするまえはなしで、930ふんぎのことだった。このことは住民じゅうみんたちがそのばん兵士へいしたちを襲撃しゅうげきする計画けいかくて、その実行じっこう準備じゅんびをしていたことをしめしている。
『A Fair Account(公正こうせい説明せつめい)』に掲載けいさいされている、植民しょくみん急進きゅうしん兵士へいしへの攻撃こうげき意図いとしていたことを示唆しさする記述きじゅつ抜粋ばっすい[36]

容疑ようぎしゃ逮捕たいほ起訴きそとイギリスぐんへの退去たいきょ命令めいれい[編集へんしゅう]

ハッチンソンはただちに事件じけん捜査そうさ開始かいしし、翌朝よくあさにはプレストンと8にん兵士へいし逮捕たいほされた[37]。 ボストン議会ぎかい軍隊ぐんたいキャッスルとうにある要塞ようさいキャッスル・ウィリアム撤退てったいさせるようハッチンソンにめい[33]植民しょくみんじんたちはファニエル・ホール市民しみん会議かいぎひらき、この事件じけん議論ぎろんした。 総督そうとく評議ひょうぎかい当初とうしょ軍隊ぐんたい撤退てったい命令めいれい反対はんたいし、ハッチンソンにはぐんたいする移動いどう命令めいれい権限けんげんはないと説明せつめいした。部隊ぶたい指揮しきかんウィリアム・ダルリンプル英語えいごばん中佐ちゅうさであったが、かれ部隊ぶたい移動いどうさせることをもうなかった[38]。 これをった市民しみん会議かいぎはさらに反発はんぱつつよめ、かれらは立場たちばえて全会ぜんかい一致いっちで(ハッチンソンの報告ほうこくしょによれば「強要きょうようされて」)軍隊ぐんたい撤収てっしゅう要請ようせいすることが可決かけつされた[39]総務そうむ長官ちょうかんアンドリュー・オリバー英語えいごばん部隊ぶたい撤収てっしゅうさせなかった場合ばあいについて「おそらく民衆みんしゅうにより壊滅かいめつさせられていただろう―― それが反乱はんらんばれるべきか、我々われわれ憲章けんしょううしなうことになるだろうか、その結果けっかがなんであれ」と報告ほうこくしている[40]やく1週間しゅうかんに、だい14連隊れんたい何事なにごともなくキャッスルとう移動いどうし、だい29連隊れんたいもその直後ちょくご移動いどうしたが[41]総督そうとくまち統治とうちする有効ゆうこう手段しゅだんうしなった[40]犠牲ぎせいしゃのうち、さきくなった4めいは3がつ8にちにボストン最古さいこ埋葬まいそうの1つであるグラナリー墓地ぼち式典しきてんともなって埋葬まいそうされた。その、3月14にちくなった5にん犠牲ぎせいしゃパトリック・カーは、3月17にちかれらとおな場所ばしょ埋葬まいそうされた[42]

3月27にちに、プレストン大尉たいいと8めい兵士へいし、また4めい民間みんかんじん殺人さつじんざい起訴きそされた。この4にん民間みんかんじん税関ぜいかんにいたしゃたちであり、かれらも発砲はっぽうしたとされていた[43]。 ボストンの市民しみんたちは軍隊ぐんたいとその家族かぞくたいし、敵愾心てきがいしんつづけた。ゲイジ将軍しょうぐんぐん駐屯ちゅうとんについて現状げんじょうよりがいまさるとして、5月にだい29連隊れんたいのマサチューセッツ植民しょくみんからの撤退てったいめいじた[44]。 ハッチンソンは、現状げんじょう緊張きんちょう状態じょうたい利用りようして、裁判さいばんを(年内ねんないあいだで)なるべくおくらせようと画策かくさくした[45]

プロパガンダ合戦かっせん[編集へんしゅう]

事件じけん発生はっせいからすう週間しゅうかん、ボストンの愛国あいこくパトリオット)と忠誠ちゅうせいロイヤリスト)のあいだでプロパガンダ合戦かっせんひろげられた。両者りょうしゃ双方そうほうまったことなる内容ないようしょう冊子さっし発行はっこうし、これはおもロンドン出版しゅっぱんされ、ロンドンの世論せろん影響えいきょうおよぼそうとこころみられたものであった。 とく急進きゅうしんてき愛国あいこくは、これを「虐殺ぎゃくさつ(massacre)」と呼称こしょうした[46][47][48]たとえば、『ボストン・ガゼット』は、この虐殺ぎゃくさつは「自由じゆう精神せいしん鎮圧ちんあつするため」に現在げんざい進行しんこうちゅう計画けいかく一部いちぶであるとべ、市内しない軍隊ぐんたい駐屯ちゅうとんさせることへのネガティブな結果けっかについて強調きょうちょうした[49]

ボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけんえがいた版画はんがでよくられるものにぎん細工ざいく版画はんがポール・リビアによる作品さくひんがある(正確せいかくには著名ちょめい肖像しょうぞう画家がかジョン・シングルトン・コプリー異母いぼ兄弟きょうだいで、自身じしんばんこうであったヘンリー・ペラム英語えいごばん版画はんがを、リビアが忠実ちゅうじつ模写もしゃした作品さくひんであるが、今日きょうにおいてはリビアがオリジナルの作者さくしゃおもわれている)。この版画はんがは、いくつかぐん批判ひはんてき内容ないようふくまれている。プレストン大尉たいい部下ぶか一斉いっせい射撃しゃげきめいじており、かれらの背後はいご税関ぜいかんまどには「Butcher's Hall(ブッチャーズ・ホール)」(ちゅう:ブッチャーは肉屋にくや意味いみてんじて虐殺ぎゃくさつしゃ意味いみする)とかれている[50]画家がかのクリスチャン・レミックはいくつかのバージョンに彩色さいしきほどこした[51]。 これら版画はんがのいくつかのバージョンにはアタックスの描写びょうしゃ一致いっちする、むねに2つのきずがある浅黒あさぐろかおおとこえがかれているが、一般いっぱんには黒人こくじん犠牲ぎせいしゃしめされていなかった。このは『ボストン・ガゼット』に掲載けいさいされてひろられ、効果こうかてきはんイギリスの声明せいめいとなった。な「ロブスターの背中せなか」のと、あかながした負傷ふしょうしゃはニューイングランドちゅう農家のうかかかげられた[52]

また、この事件じけん様々さまざま視点してんから説明せつめいした匿名とくめいしょう冊子さっし出版しゅっぱんされた。『A Short Narrative of the Horrid Massacre(おそろしい虐殺ぎゃくさつについてのみじか物語ものがたり)』はボストン市議会しぎかい後援こうえんけて出版しゅっぱんされたものであり、おも総督そうとく評議ひょうぎかいのメンバーで、イギリスの植民しょくみん政策せいさく声高こわだか批判ひはんするジェイムズ・ボーディンがサミュエル・ペンバートンやジョセフ・ウォレンとともに執筆しっぴつした[53]。 このしょう冊子さっしは、発砲はっぽう事件じけんと、にその前日ぜんじつこったちいさな事件じけんを、平和へいわ法律ほうりつまもっている住民じゅうみんたいするいわれのない攻撃こうげきとし、歴史れきしのニール・ラングレー・ヨークによれば、おそらくこの出来事できごとについて説明せつめいしたもっと影響えいきょうりょくのある文章ぶんしょうであった[54]。 それら説明せつめい事件じけんおこなわれた90以上いじょう供述きょうじゅつしょもとになっており、このなかにはプレストン大尉たいいが、危害きがいくわえる意図いとって部下ぶか配備はいびしたという非難ひなんふくんでいた[55]指導しどうしゃたちは、陪審ばいしんいんだんへの影響えいきょう最小限さいしょうげんにするために地元じもとへのしょう冊子さっし配布はいふひかえていたが、植民しょくみんや、あるいはハッチンソンがロンドンに供述きょうじゅつしょおくろうと画策かくさくしていることを察知さっちして、同地どうちにはさきんじてコピーをおくっていた[56]。 『Additional Observations on the Short Narrative(みじか物語ものがたりについての追加ついか見解けんかい)』とだいされた2つめのしょう冊子さっしでは、税関ぜいかん職員しょくいん危険きけんのため職務しょくむおこなえないという名目めいもく職場しょくば放棄ほうきしていると主張しゅちょうし、王室おうしつ役人やくにんへの攻撃こうげきをさらに助長じょちょうした。 ある税関ぜいかん職員しょくいんは、ハッチンソンのあつめた供述きょうじゅつしょをロンドンにはこぶためボストンを出発しゅっぱつした[57]

ハッチンソンの証言しょうげんは、おも兵士へいしたちの証言しょうげんおさめられた『A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance in Boston(ボストンにおける最近さいきんこった不幸ふこう騒動そうどうについての公正こうせい説明せつめい)』とだいするしょう冊子さっし掲載けいさいされた[58]。 その内容ないようはボストン市民しみん議会ぎかいほう正当せいとうせい否定ひていしていることを非難ひなんするものであった。また、この騒動そうどう先立さきだ無法むほう状態じょうたいをボストン市民しみん責任せきにんとし、かれらが兵士へいしねらっていたと主張しゅちょうしていた[59]。 ただ、このしょう冊子さっし発行はっこうされたのは最初さいしょしょう冊子さっしがロンドンに到着とうちゃくしたよりも、かなりのことであったため、ロンドン世論せろんあたえた影響えいきょうはかなりちいさかった[58]

裁判さいばん[編集へんしゅう]

兵士へいしらの弁護べんご担当たんとうしたジョン・アダムズ
葬儀そうぎの4にちにあたる1770ねん3がつ12にちづけのボストン・ガゼット報道ほうどう。イラストは4にん犠牲ぎせいしゃかんあらわし、それぞれのイニシャルがはいっている。

プレストン大尉たいい兵士へいしらをまもるためにった行動こうどうは、わたしたいする不安ふあん非難ひなんをもたらした。しかし、それはわたし人生じんせいなかでももっと勇敢ゆうかんで、寛容かんようで、おとこらしく、無私むし行動こうどうであり、くにった最高さいこう奉仕ほうしの1つであった。かれ兵士へいしたちにたいする判決はんけつは、かつてのクエーカー教徒きょうと魔女まじょたいする処刑しょけい同様どうよう[注釈ちゅうしゃく 1]、このくに汚点おてんとなっただろう。証拠しょうこがある以上いじょうは、陪審ばいしんいん評決ひょうけつはまさにただしかったのだ。しかし、このことは、このまちがあのよる出来事できごと虐殺ぎゃくさつ呼称こしょうすべきでない理由りゆうにはならないし、また、かれらをここにおくんだ総督そうとく大臣だいじん支持しじする論拠ろんきょにもならない。常備じょうびぐん危険きけんせいしめもっと強力きょうりょく証拠しょうこであるのだ。

— ジョン・アダムズ、虐殺ぎゃくさつの3周年しゅうねんにあたって[60]

植民しょくみん政府せいふは、イギリス本国ほんごくからの報復ほうふく因縁いんねんとならないように、また穏健おんけん愛国あいこくらから疎外そがいされないように、兵士へいしたちに公正こうせい裁判さいばんけさせることをめた。ここで政府せいふジョン・アダムズにプレストンの弁護べんご依頼いらいした。アダムズはすでに有力ゆうりょく愛国あいこくとしてられ、公職こうしょくへの立候補りっこうほかんがえていたが、公正こうせい裁判さいばん確保かくほするという主旨しゅし同意どういし、許諾きょだくした[61]。 また愛国あいこくなかでも急進きゅうしんである「自由じゆう息子むすこたち」が任命にんめい反対はんたいしないと保証ほしょうされたのちジョサイア・クインシー2せい英語えいごばんと、ロイヤリストのロバート・オークムティも参加さんかすることがまった[62]かれらは、陪審ばいしんいんだん調査ちょうさすることをおも任務にんむとするサンプソン・ソルター・ブロワーズ英語えいごばんと、裁判さいばんもちいられる詳細しょうさい遺体いたいえがいたポール・リビアの支援しえんけた[63][64] 。 またボストンは、マサチューセッツ植民しょくみん司法しほう長官ちょうかんサミュエル・クインシーと私選しせん弁護士べんごしロバート・トリート・ペイン検察けんさつやくとして任命にんめいした[65]。 1770ねん10がつ下旬げじゅんにプレストンの裁判さいばんさきんじておこなわれ、かれ発砲はっぽう命令めいれいはなかったと陪審ばいしんいんたちは判断はんだんしたため、無罪むざい判決はんけつくだった[66]

8めい兵士へいしたいする裁判さいばんは1770ねん11月27にち開廷かいていした[67]。 アダムズは陪審ばいしんいんたちに、兵士へいしたちがイギリスじんであるという事実じじつさきるようにもとめた。またかれ兵士へいしらを挑発ちょうはつした群衆ぐんしゅうを「生意気なまいき小僧こぞうニグロムラート、アイルランドのティーグ、ジャック・ターからなる雑多ざった暴徒ぼうとども(rabble)」[注釈ちゅうしゃく 2]んでいた[68]。そして「なぜ、そのような者共ものども一団いちだん暴徒ぼうと(mob)とぶことを躊躇ちゅうちょしなければならないのか、そのかれらにとってあまりにも立派りっぱならともかく、わたしには想像そうぞうがつかない。3月5にち暴徒ぼうとらが兵士へいしらをおそった(とみとめた)からといって、太陽たいようまったりえたり、かわ干上ひあがることはない」とつづけた[69]

アダムズは「おそらく、あのよるおそろしい惨事さんじおも原因げんいん」はもと奴隷どれいのクリスパス・アタックスの外見がいけん挙動きょどうにあったとし、「かれ外見がいけんそのものが、何人なんにんをも恐怖きょうふさせるに十分じゅうぶん」であり、「片手かたて銃剣じゅうけんつかみ、もう片方かたがた相手あいてたおした」と陳述ちんじゅつした[70]。そのうえで、兵士へいしらは暴徒ぼうと反撃はんげきする法的ほうてき権利けんりち、したがって無実むじつであると主張しゅちょうした。また、もしかり挑発ちょうはつはされたが危険きけんにはさらされていなかったとしても、その場合ばあいでもせいぜいが故殺こさつざい英語えいごばん適切てきせつだと指摘してきした[71]。 しかし、このなか銃剣じゅうけんつかんだという発言はつげん証人しょうにん2にん証言しょうげん矛盾むじゅんしており、兵士へいし発砲はっぽうはじめたとき、アタックスは12–15フィート (3.7–4.6 m)はなれており、銃剣じゅうけんるにはとおすぎた[69]。 『The American Scholar』の著者ちょしゃファラ・ピーターソンは、裁判さいばんにおけるアダムズのスピーチは、かれ法廷ほうてい戦略せんりゃくが「被告人ひこくにん黒人こくじんとそのきをころしたにぎず、それゆえに絞首刑こうしゅけいにはあたいしないと陪審ばいしんいん納得なっとくさせることにあった」と指摘してきしている[69]

陪審ばいしんいんはアダムズの主張しゅちょう同意どういし、2あいだはんにわたる審議しんぎすえ兵士へいしのうち6めい無罪むざいとし、のこり2めい故殺こさつざい有罪ゆうざいとした。この2めいにはかれらが群衆ぐんしゅうかって直接ちょくせつ発砲はっぽうしたという明白めいはく証拠しょうこがあったためであった。この陪審ばいしんいんらの決定けっていは、兵士へいし群衆ぐんしゅう脅威きょういかんじていたとしても、発砲はっぽう判断はんだんおくらせるべきであったとかんがえていたことを示唆しさしている[72]。 また、有罪ゆうざい判決はんけつけた兵士へいし聖職せいしょくしゃ特権とっけん英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 3]うったえることによって減刑げんけいされ、死刑しけい判決はんけつから公開こうかいでの親指おやゆびへの烙印らくいんとなった[73]

パトリック・カーのゆかでの証言しょうげんも、8にん兵士へいし殺人さつじん容疑ようぎらすのに一役ひとやくった。以下いかは、かれ看取みとった医師いしジョン・ジェフリーズたいする法廷ほうていでの尋問じんもん内容ないようである[74]

Q:あなたはパトリック・カーを担当たんとうした医者いしゃですか?
A:そうです。
Q:かれ(カー)は危険きけんかんじていましたか?
A:かれうには、かれはアイルランド出身しゅっしんで、暴動ぼうどうきるようや、それを鎮圧ちんあつするために兵士へいし出動しゅつどうするよう頻繁ひんぱんていたそうです―― アイルランドでは兵士へいし民衆みんしゅうかって発砲はっぽうするのをよくたが、(今回こんかいのような)発砲はっぽうまでにここまでえたことはたことがなかったそうです。
Q:かれ最後さいご会話かいわをしたのはいつでしたか?
A:午後ごご4ごろです、そのよるかれくなりました。そこでかれつぎのようなことをはなしました。自分じぶんったおとこだれであれ、そいつをゆるす。かれ悪意あくいはなく、自分じぶんまもるためにったんだと納得なっとくしている。

エドマンド・トローブリッジ英語えいごばんピーター・オリバー英語えいごばんりょう判事はんじ陪審ばいしんいんらを指導しどうし、とくにオリバーは「カーの証言しょうげん宣誓せんせいもとづいていないのは事実じじつだが、永遠えいえんねむりについてあいだもないおとこの、しかもかれいのちとす原因げんいんとなったおとこたちに有利ゆうり証言しょうげんしんじるべきかどうかを、あなたかた判断はんだんせねばならないのだ」と言及げんきゅうした。このカーの証言しょうげんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくほう規範きはんにおける伝聞でんぶん証拠しょうこ禁止きんし原則げんそくにおける死亡しぼう宣告せんこく例外れいがい英語えいごばんについて最初さいしょ記録きろくされた事例じれいの1つである[75]

4にん民間みんかんじんは12月13にち裁判さいばんにかけられた[76]おも検察けんさつがわ証人しょうにん被告人ひこくにん1人ひとりやとっていた使用人しようにんであったが、かれ弁護べんごがわ証人しょうにんによって容易ようい反証はんしょうされる供述きょうじゅつをした。被告人ひこくにん全員ぜんいん無罪むざいとなり、また検察けんさつがわ証人しょうにんであった使用人しようにん偽証罪ぎしょうざい有罪ゆうざい判決はんけつけ、鞭打むちうちとマサチューセッツ植民しょくみんからの追放ついほうけいけた[77]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

ボストンコモンてられたボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん記念きねん英語えいごばん(1889ねんアドルフ・ロバート・クラウス英語えいごばんさく)。
グラナリー墓地ぼちにある事件じけん被害ひがいしゃ5めい墓標ぼひょう。1888ねん現在げんざい場所ばしょ改葬かいそうされた。

アメリカ独立どくりつ戦争せんそうへの発展はってん[編集へんしゅう]

ボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん国王こくおうジョージ3せいとイギリス議会ぎかい権威けんいたいする植民しょくみん感情かんじょうえたもっと重要じゅうよう出来事できごとの1つとかんがえられている。ジョン・アダムズは、1770ねん3がつ5にちに「アメリカ独立どくりつ基礎きそきずかれた」とき、サミュエル・アダムズや愛国あいこく毎年まいとし記念きねん行事ぎょうじ虐殺ぎゃくさつ英語えいごばん)を利用りようして、独立どくりつへの大衆たいしゅう感情かんじょうあおった[78]。 この事件じけん重傷じゅうしょうい、1780ねん死亡しぼうした当時とうじ少年しょうねんのクリストファー・モンクは、イギリスへの敵意てきいわすれさせないものとしてとなえられた[30]

のちこるガスピーごう事件じけん英語えいごばんボストン茶会ちゃかい事件じけんは、イギリスとその植民しょくみんとのあいだまれたみぞを、さらにさらけすものであった。ニール・ヨークは独立どくりつ戦争せんそう発生はっせいまでに5ねん月日つきひがあり、両者りょうしゃ関係かんけいせいはややよわいと示唆しさしているものの、ほん事件じけんこう暴力ぼうりょくともな反乱はんらんつながっていった重要じゅうよう出来事できごとひろ認識にんしきされている[79][80]ハワード・ジンは、ボストンには「社会しゃかい階級かいきゅういかり」がちていたとろんじている。かれは、『ボストン・ガゼット』が1763ねんほうじたものに、「少数しょうすう権力けんりょくしゃ」が「人々ひとびと謙虚けんきょにさせるため、かれらをまずしい状態じょうたい維持いじする」政治せいじプロジェクトを推進すいしんしている、とするものがあったと紹介しょうかいしている[81]

記念きねん式典しきてん[編集へんしゅう]

この虐殺ぎゃくさつ事件じけんは、1858ねんウィリアム・クーパー・ネル英語えいごばん主催しゅさいした記念きねん式典しきてん追悼ついとうされるようになった。ネルは黒人こくじん奴隷どれい解放かいほう運動うんどうであり、独立どくりつ戦争せんそうにおけるアフリカけいアメリカじん役割やくわりしめ機会きかいとしてクリスパス・アタックスの引用いんようした[82]。 また、どう事件じけん記念きねんして、犠牲ぎせいしゃはだいろくろえてアタックスの強調きょうちょうする芸術げいじゅつ作品さくひん制作せいさくされた[83]。 1888ねんボストンコモンどう事件じけん犠牲ぎせいしゃ追悼ついとうするためのボストン虐殺ぎゃくさつ事件じけん記念きねん英語えいごばんてられ、また犠牲ぎせいしゃの5めいグラナリー墓地ぼち目立めだはかへと改葬かいそうされた[84]

毎年まいとし3がつ5にち[85]、ボストン協会きょうかい後援こうえんによるどう事件じけん再現さいげんげきおこなわれている[86][87]きゅう議事堂ぎじどう事件じけん現場げんば、グラナリー墓地ぼちはボストンのフリーダムトレイル経路けいろじょうにあり、まち歴史れきしじょう重要じゅうよう場所ばしょむすんでいる[84]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ これはそれぞれボストン殉教者じゅんきょうしゃ英語えいごばんセイラム魔女まじょ裁判さいばんしている。
  2. ^ ここでもちいられているかたりはすべて侮蔑ぶべつであり、それぞれ「ニグロ(negro)」は黒人こくじん、「ムラート(mulatto)は白人はくじん黒人こくじん混血こんけつ、「ティーグ(teague)」はアイルランドじん、「ジャック・ター(jack tar)」は水夫すいふしている。
  3. ^ 従犯じゅうはん場合ばあい減刑げんけいみとめるというローマ時代じだい由来ゆらいほう規定きていのこと。もとキリスト教きりすときょう司祭しさい世俗せぞく裁判所さいばんしょ対象たいしょうにならないという権利けんりあたえるものであったため、この名前なまえばれるが、当時とうじすで形骸けいがいしており、聖職せいしょくしゃ関係かんけいはない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]