ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん Boston Massacre 『
血 ち まみれの
虐殺 ぎゃくさつ (The Bloody Massacre)』と
題 だい された
ポール・リビア による1770
年 ねん の
版画 はんが (クリスチャン・レミックによる
手 て 彩色 さいしき 版 ばん )。
日時 にちじ 1770年 ねん 3月 がつ 5日 にち 場所 ばしょ ボストン 原因 げんいん タウンゼンド諸法 しょほう イギリス軍 ぐん のボストン駐屯 ちゅうとん クリストファー・サイダー殺害 さつがい と犯人 はんにん への恩赦 おんしゃ 結果 けっか 植民 しょくみん 地 ち 人 じん 5名 めい を殺害 さつがい 被告 ひこく 有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた人 ひと モンゴメリー、キルロイ 罪状 ざいじょう 殺人 さつじん 罪 ざい 評決 ひょうけつ モンゴメリーとキルロイの2名 めい については故殺 こさつ 罪 ざい で有罪 ゆうざい とし、残 のこ りの者 もの については無罪 むざい 判決 はんけつ モンゴメリーとキルロイの2名 めい に対 たい して親指 おやゆび への烙印 らくいん 参加 さんか 集団 しゅうだん
第 だい 29連隊 れんたい
植民 しょくみん 地 ち 人 じん の暴徒 ぼうと
指導 しどう 者 しゃ 人数 にんずう 死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう
軽傷 けいしょう
11名 めい 負傷 ふしょう (うち5名 めい 死亡 しぼう )
ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん (ボストンぎゃくさつじけん、英 えい :Boston Massacre)は、1770年 ねん 3月 がつ 5日 にち にイギリス領 りょう マサチューセッツ湾 わん 直轄 ちょっかつ 植民 しょくみん 地 ち (現 げん アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく マサチューセッツ州 しゅう )のボストン においてイギリス駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん の部隊 ぶたい 8名 めい と、約 やく 300名 めい から400名 めい になる市民 しみん が衝突 しょうとつ し、群衆 ぐんしゅう 側 がわ の投石 とうせき などに対 たい してイギリス兵 へい が発砲 はっぽう して市民 しみん 5名 めい を射殺 しゃさつ した事件 じけん 。この一 いち 件 けん をポール・リビア やサミュエル・アダムズ といった植民 しょくみん 地 ち の自治 じち 権 けん を求 もと める者 もの たち(パトリオット )が「虐殺 ぎゃくさつ (massacre)」と呼称 こしょう して大 おお きく報 ほう じたため、この名前 なまえ で呼 よ ばれる。イギリス側 がわ は事件 じけん が発生 はっせい した地名 ちめい からキング・ストリート事件 じけん (キング・ストリートじけん、英 えい :Incident on King Street)と呼 よ ぶ[1] 。
1767年 ねん にイギリス本国 ほんごく 議会 ぎかい (グレートブリテン議会 ぎかい (英語 えいご 版 ばん ) )で制定 せいてい されたタウンゼンド諸法 しょほう はアメリカ植民 しょくみん 地 ち で自治 じち 権 けん を侵害 しんがい するものとして強 つよ い反発 はんぱつ を招 まね き、これに対 たい してイギリスは1768年 ねん よりマサチューセッツ湾 わん 直轄 ちょっかつ 植民 しょくみん 地 ち に王室 おうしつ から任命 にんめい された政府 せいふ 役人 やくにん の警護 けいご や、同 どう 法 ほう の執行 しっこう 支援 しえん のため、イギリス軍 ぐん を駐屯 ちゅうとん させていた。このため市民 しみん と駐屯 ちゅうとん 兵 へい の関係 かんけい が緊迫 きんぱく する中 なか で、些細 ささい な諍 いさか いをきっかけに、暴徒 ぼうと 化 か した群衆 ぐんしゅう が数 すう 人 にん の兵士 へいし を取 と り囲 かこ み、罵倒 ばとう したり、石 いし や氷塊 ひょうかい を投 な げつけた。トマス・プレストン大尉 たいい 率 ひき いる6名 めい の兵士 へいし が救援 きゅうえん にかけつけたが、事態 じたい は収拾 しゅうしゅう せず、そのうち、1名 めい の兵士 へいし による不意 ふい の発砲 はっぽう により、プレストンの発砲 はっぽう 命令 めいれい なく他 ほか の兵士 へいし たちも次々 つぎつぎ に群衆 ぐんしゅう に発砲 はっぽう した。この銃撃 じゅうげき で3名 めい が即死 そくし 、8名 めい が負傷 ふしょう し、うち2人 にん がその後 ご 亡 な くなった。
代理 だいり 総督 そうとく のトマス・ハッチンソン が捜査 そうさ を約束 やくそく したことで群衆 ぐんしゅう は解散 かいさん し、翌朝 よくあさ にはプレストンと8名 めい の兵士 へいし が逮捕 たいほ されたが反 はん イギリス感情 かんじょう の高 たか まりから、最終 さいしゅう 的 てき に軍 ぐん はキャッスル島 とう に退避 たいひ せざるを得 え なかった。その後 ご 、プレストンら9名 めい と民間 みんかん 人 じん 4名 めい が殺人 さつじん 罪 ざい で起訴 きそ されたが、裁判 さいばん は時間 じかん による沈静 ちんせい 化 か を狙 ねら ったハッチンソンにより、半年 はんとし 以上 いじょう 経 た ってから行 おこな われた。この裁判 さいばん では後 ご の合衆国 がっしゅうこく 大統領 だいとうりょう ジョン・アダムズ が被告人 ひこくにん の弁護 べんご を担 にな い、プレストンと兵士 へいし 6名 めい は無罪 むざい 、兵士 へいし 2名 めい は故殺 こさつ 罪 ざい (英語 えいご 版 ばん ) で有罪 ゆうざい となった。また、有罪 ゆうざい となった2名 めい は本来 ほんらい は死刑 しけい であったが、当時 とうじ の法 ほう 慣習 かんしゅう によって減刑 げんけい され、親指 おやゆび への烙印 らくいん の罰 ばち となった。
この事件 じけん は自治 じち 独立 どくりつ を志向 しこう する著名 ちょめい な愛国 あいこく 派 は (パトリオット)が、「虐殺 ぎゃくさつ (massacre)」という言葉 ことば を用 もち いるなど、時 とき に誇張 こちょう も伴 ともな って植民 しょくみん 地 ち 社会 しゃかい に喧伝 けんでん され、イギリス本国 ほんごく と13植民 しょくみん 地 ち 全体 ぜんたい との緊張 きんちょう を高 たか めた。特 とく にリビアが制作 せいさく した色刷 いろず りの版画 はんが が知 し られる。事件 じけん の結果 けっか 、タウンゼンド諸法 しょほう が一部 いちぶ 撤廃 てっぱい されるなどしたが、本国 ほんごく と植民 しょくみん 地 ち の溝 みぞ は埋 うず まらず、その後 ご もガスピー号 ごう 事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) やボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん などが起 お こり、最終 さいしゅう 的 てき に1775年 ねん のアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう に至 いた ることになる。
イギリス領 りょう マサチューセッツ湾 わん 直轄 ちょっかつ 植民 しょくみん 地 ち の首都 しゅと であるボストン は、アメリカ植民 しょくみん 地 ち (13植民 しょくみん 地 ち )における重要 じゅうよう な海運 かいうん 都市 とし であると同時 どうじ に、1760年代 ねんだい にはイギリス本国 ほんごく 議会 ぎかい による課税 かぜい に対 たい する抵抗 ていこう 運動 うんどう (代表 だいひょう なくして課税 かぜい なし )の中心 ちゅうしん 地 ち でもあった。
1768年 ねん 、イギリス本国 ほんごく 議会 ぎかい はイギリスからアメリカ植民 しょくみん 地 ち に輸入 ゆにゅう される様々 さまざま な物品 ぶっぴん に対 たい して関税 かんぜい を掛 か けるタウンゼンド諸法 しょほう を可決 かけつ した。これに対 たい し、植民 しょくみん 地 ち 人 じん たちは、イギリス臣民 しんみん としての自然 しぜん 権 けん 、植民 しょくみん 地 ち 憲章 けんしょう 、憲法 けんぽう 上 じょう の権利 けんり を侵害 しんがい するものとして反発 はんぱつ した[2] 。
マサチューセッツ植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい は、国王 こくおう ジョージ3世 せい にタウンゼンド諸法 しょほう の1つである歳入 さいにゅう 法 ほう の停止 ていし を求 もと める請願 せいがん 書 しょ を送付 そうふ し、反対 はんたい 運動 うんどう を開始 かいし した。また議会 ぎかい は他 た の植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい にも「マサチューセッツ回状 かいじょう (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる書簡 しょかん を送 おく って抗議 こうぎ 活動 かつどう への参加 さんか を求 もと め[2] 、特 とく に対象 たいしょう 輸入 ゆにゅう 品 ひん を扱 あつか う輸入 ゆにゅう 商 しょう のボイコットを呼 よ びかけた[3] 。
新設 しんせつ されたばかりの植民 しょくみん 地 ち 大臣 だいじん に任用 にんよう されたヒルズバラ伯爵 はくしゃく は、マサチューセッツの行動 こうどう を危険 きけん 視 し した。1768年 ねん 4月 がつ 、彼 かれ はアメリカの植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく らに手紙 てがみ を送 おく り、マサチューセッツ回状 かいじょう に応 おう じた植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい を解散 かいさん させるよう指示 しじ した。また、マサチューセッツ植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく のフランシス・バーナード には、議会 ぎかい に回状 かいじょう の撤回 てっかい を命 めい じるよう指示 しじ した。しかし議会 ぎかい はこれに応 おう じることを拒否 きょひ した[4] 。
ボストン税関 ぜいかん 長 ちょう のチャールズ・パクストンは「印紙 いんし 法 ほう の時 とき と同様 どうよう に政府 せいふ は国民 こくみん の手 て に委 ゆだ ねられている」として、ヒルズバラ卿 きょう に軍事 ぐんじ 支援 しえん を求 もと める手紙 てがみ を出 だ した[5] 。
サミュエル・フッド 提督 ていとく は、50門 もん の大砲 たいほう を備 そな えた軍艦 ぐんかん ロムニー号 ごう を派遣 はけん し、これは1768年 ねん 5月 がつ にボストン港 こう に到着 とうちゃく してパクストンの要請 ようせい に応 こた えた[6] 。
6月10日 にち 、税関 ぜいかん は、密輸 みつゆ に関与 かんよ していたとして、ボストンの有力 ゆうりょく 商人 しょうにん ジョン・ハンコック が所有 しょゆう していたスループ船 せん リバティ号 ごう を押収 おうしゅう した。元 もと よりロムニー号 ごう の艦長 かんちょう が地元 じもと の船員 せんいん たちを抑圧 よくあつ していたことも手伝 てつだ って、ボストン市民 しみん の怒 いか りは限界 げんかい に達 たっ して暴動 ぼうどう が起 お こり[7] 、税関 ぜいかん 職員 しょくいん はマサチューセッツ湾 わん 上 じょう にあるキャッスル島 とう の要塞 ようさい キャッスル・ウィリアム に避難 ひなん した[8] 。
こうしたマサチューセッツの情勢 じょうせい 不安 ふあん に対 たい し、ヒルズバラ卿 きょう は北 きた アメリカ最高 さいこう 司令 しれい 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) トマス・ゲイジ 将軍 しょうぐん に「ボストンに必要 ひつよう と思 おも われる軍隊 ぐんたい 」を送 おく るよう指示 しじ して4個 こ 連隊 れんたい が派遣 はけん されることが決定 けってい し[9] 、その最初 さいしょ の部隊 ぶたい は1768年 ねん 10月 がつ 1日 にち にボストンに到着 とうちゃく した[10] 。
1769年 ねん に2個 こ 連隊 れんたい はボストンから撤兵 てっぺい したが、第 だい 14連隊 れんたい と第 だい 29連隊 れんたい はそのまま駐屯 ちゅうとん することとなった[11] 。
『ジャーナル・オブ・アカーランス (英語 えいご 版 ばん ) 』は、ボストン市民 しみん と兵士 へいし の衝突 しょうとつ を記録 きろく した一連 いちれん の新聞 しんぶん の匿名 とくめい 記事 きじ において、時 とき に誇張 こちょう された内容 ないよう で緊張 きんちょう を煽 あお ったが、1770年 ねん 2月 がつ 22日 にち に発生 はっせい した「約 やく 11歳 さい の若者 わかもの 」クリストファー・サイダー (英語 えいご 版 ばん ) が税関 ぜいかん 職員 しょくいん に殺 ころ されたという報道 ほうどう の後 のち は、さらに顕著 けんちょ に緊張 きんちょう が高 たか まった[11] 。
サイダーの死 し は『ボストン・ガゼット (英語 えいご 版 ばん ) 』紙 し で取 と り上 あ げられ、彼 かれ の葬儀 そうぎ は、ボストンで当時 とうじ 最大 さいだい 規模 きぼ で行 おこな われたとある。この事件 じけん とその後 ご の報道 ほうどう は緊張 きんちょう を煽 あお り、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 者 しゃ は嫌 いや がらせ目的 もくてき で兵士 へいし を探 さが し、兵士 へいし の方 ほう も対立 たいりつ を求 もと めていた[12] 。
1713年 ねん から1776年 ねん まで使用 しよう されていた旧 きゅう マサチューセッツ州 しゅう 会 かい 議事堂 ぎじどう の正面 しょうめん 写真 しゃしん 。手前 てまえ 下 か の円形 えんけい の石畳 いしだたみ 部分 ぶぶん には「ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん 跡地 あとち 」と書 か かれているが、実際 じっさい に事件 じけん が起 お きたのは、この近 ちか くの通 とお りである。
3月5日 にち の晩 ばん 、キング・ストリート(現在 げんざい のステート・ストリート)にあるボストン税関 ぜいかん (英語 えいご 版 ばん ) で、屋外 おくがい 警備 けいび にあたっていたジョン・ゴールドフィンチ大尉 たいい とヒュー・ホワイト一等 いっとう 兵 へい は、エドワード・ギャリック (英語 えいご 版 ばん ) という名 な の13歳 さい のかつら屋 や の見習 みなら い少年 しょうねん からちょっかいを掛 か けられた。それはゴールドフィンチがギャリックが雇 やと われている店 みせ への代金 だいきん を踏 ふ み倒 たお そうとしているという批難 ひなん であったが[13] 、実際 じっさい には前日 ぜんじつ に支払 しはら いを済 す ませており、ゴールドフィンチはこの侮辱 ぶじょく を無視 むし した[14] 。
見 み かねたホワイトがギャリックに将校 しょうこう にはもっと敬意 けいい を払 はら うべきだと呼 よ びかけたところ、2人 ふたり は互 たが いに侮辱 ぶじょく しあって口論 こうろん となった。そしてギャリックは指 ゆび でゴールドフィンチの胸 むね を突 つ き始 はじ めた。ここでホワイトは持 も ち場 ば を離 はな れると少年 しょうねん を挑発 ちょうはつ し、マスケット銃 じゅう で彼 かれ の側 がわ 頭部 とうぶ を殴打 おうだ した。ギャリックが痛 いた みに叫 さけ び声 ごえ を挙 あ げると、彼 かれ の仲間 なかま バーソロミュー・ブローダーズが介入 かいにゅう し、ホワイトと口論 こうろん となってますます群衆 ぐんしゅう の注目 ちゅうもく を集 あつ めた[15] 。
現場 げんば に出 で くわした当時 とうじ 19歳 さい の書店 しょてん 員 いん ヘンリー・ノックス (後 ご の独立 どくりつ 戦争 せんそう で将軍 しょうぐん として活躍 かつやく し、初代 しょだい 合衆国 がっしゅうこく 陸軍 りくぐん 長官 ちょうかん を務 つと めた)は、ホワイトに「もし発砲 はっぽう すれば、お前 まえ は死 し ぬぞ」と警告 けいこく した[14] 。
夜 よる が更 ふ けるにつれ、ホワイトの周 まわ りに集 あつ まる群衆 ぐんしゅう の数 かず は増 ふ え、騒 さわ がしくなっていった。通常 つうじょう 、火事 かじ の発生 はっせい を意味 いみ する教会 きょうかい の鐘 かね が鳴 な り響 ひび き、さらに多 おお くの人々 ひとびと を集 あつ めた。クリスパス・アタックス (英語 えいご 版 ばん ) という名 な の混血 こんけつ の元 もと 奴隷 どれい (自由 じゆう ムラート )を筆頭 ひっとう に、50人 にん 以上 いじょう のボストン市民 しみん がホワイトに押 お しかけ、物 もの を投 な げつけたり、銃 じゅう を撃 う つように挑発 ちょうはつ した。ホワイトは、税関 ぜいかん の階段 かいだん というやや安全 あんぜん な場所 ばしょ を確保 かくほ すると救援 きゅうえん を求 もと めた。税関 ぜいかん 職員 しょくいん は近 ちか くにあった兵舎 へいしゃ の当直 とうちょく 士官 しかん であったトマス・プレストン (英語 えいご 版 ばん ) 大尉 たいい に助 たす けを求 もと めた[16] [17] 。
彼 かれ の報告 ほうこく によれば、フット第 だい 29連隊 れんたい の擲弾兵 へい 中隊 ちゅうたい から下士官 かしかん 1名 めい と一等 いっとう 兵 へい 6名 めい を抽出 ちゅうしゅつ し、固定 こてい 式 しき 銃剣 じゅうけん を携帯 けいたい していたホワイトの下 した へ駆 か けつけたという[18] [19] 。
この部下 ぶか たちの名 な はそれぞれ、ウィリアム・ウェムズ伍長 ごちょう 以下 いか 、ヒュー・モンゴメリー 、ジョン・キャロル、ウィリアム・マッコーリー、ウィリアム・ウォーレン、マシュー・キルロイ (英語 えいご 版 ばん ) である。彼 かれ らが群衆 ぐんしゅう を分 わ け入 はい って進 すす む中 なか で、ノックスはプレストンのコートを掴 つか むと彼 かれ に「どうか頼 たの むから(For God's sake)、部下 ぶか には注意 ちゅうい しろよ。もし彼 かれ らが撃 う ってみろ、あんたは死 し ぬからな」と警告 けいこく した[20] [要 よう 説明 せつめい ] 。
これにプレストンは「わかっている」と答 こた えた[21] 。
税関 ぜいかん の階段 かいだん の所 ところ にいたホワイトの下 した に辿 たど り着 つ くと兵士 へいし たちはマスケット銃 じゅう を装填 そうてん して半円 はんえん 形状 けいじょう に整列 せいれつ した。そして、プレストンは300から400人 にん はいると推定 すいてい される群衆 ぐんしゅう に向 む かって解散 かいさん するように叫 さけ んだ[22] 。
群衆 ぐんしゅう は兵士 へいし の周 まわ りに押 お し寄 よ せて「撃 う ってみろ!」と叫 さけ んだり、ツバを吐 は きつけたり、雪 ゆき 玉 だま やその他 た 、小 ちい さな物 もの を投 な げつけて彼 かれ らを挑発 ちょうはつ し続 つづ けた[23] 。
宿屋 やどや の主人 しゅじん リチャード・パルメスは棍棒 こんぼう を手 て にした状態 じょうたい でプレストンに近 ちか づき、彼 かれ に兵士 へいし たちの武器 ぶき に弾 たま が込 こ められているか確認 かくにん した。プレストンは装填 そうてん はされているが、自分 じぶん の許可 きょか なしには発砲 はっぽう しないと断言 だんげん した。後 ご の彼 かれ の証言 しょうげん によれば、自分 じぶん が部下 ぶか たちの前 まえ に立 た っていたがために、発砲 はっぽう する可能 かのう 性 せい は低 ひく かったとしている。その後 ご 、投擲 とうてき 物 ぶつ が直撃 ちょくげき したモンゴメリ一等 いっとう 兵 へい が倒 たお れ、マスケット銃 じゅう を落 お とした。怒 おこ った彼 かれ は銃 じゅう を拾 ひろ い直 なお すと「ちくしょうめ、撃 う ってやる!」と叫 さけ び、未 いま だ発砲 はっぽう 許可 きょか がない中 なか で群衆 ぐんしゅう に向 む かって発砲 はっぽう した。パルメスは、まずモンゴメリに棍棒 こんぼう を振 ふ り下 お ろして、その腕 うで を打 う ち、次 つぎ にプレストンに振 ふ り下 お ろした。棍棒 こんぼう はプレストンの頭部 とうぶ をかろうじてかすめ、代 か わりに腕 うで に命中 めいちゅう した[23] 。
その後 ご 、正確 せいかく な時間 じかん は不明 ふめい だが一時 いちじ 小康 しょうこう 状態 じょうたい になった後 のち (目撃 もくげき 者 しゃ の推定 すいてい では、数 すう 秒 びょう から2分 ふん )、兵士 へいし が群衆 ぐんしゅう に向 む かって発砲 はっぽう した。プレストンの命令 めいれい によるものではなかったため、それは統制 とうせい の取 と れたものではなかった。不規則 ふきそく な連射 れんしゃ の末 すえ に11名 めい の男性 だんせい が被弾 ひだん した[24] [25] 。
この内 うち 、3名 めい のアメリカ人 じん 、クリスパス・アタックス、ロープ職人 しょくにん のサミュエル・グレイ、船員 せんいん のジェームズ・コールドウェルが即死 そくし した[26] 。
17歳 さい の象牙 ぞうげ 加工 かこう 職人 しょくにん 見習 みなら いのサミュエル・マーヴェリックは、群衆 ぐんしゅう の後方 こうほう にいたが跳 とべ 弾 だん を受 う けて翌朝 よくあさ 未明 みめい に亡 な くなった[27] 。腹部 ふくぶ に命中 めいちゅう したアイルランド移民 いみん のパトリック・カーは、当時 とうじ の医療 いりょう 技術 ぎじゅつ では致命傷 ちめいしょう であり、2週間 しゅうかん 後 ご に死亡 しぼう した[26] 。
見習 みなら い職人 しょくにん のクリストファー・モンクは重傷 じゅうしょう を負 お い、不具 ふぐ 者 しゃ となった[28] 。彼 かれ は1780年 ねん に亡 な くなったが、死因 しいん は10年 ねん 前 まえ に負 お った、この時 とき の傷 きず が原因 げんいん とされる[29] [30] 。
群衆 ぐんしゅう は税関 ぜいかん の建物 たてもの からは離 はな れたが、通 とお りには人 ひと が増 ふ え続 つづ けた[31] 。
プレストンは直 ただ ちに第 だい 29連隊 れんたい の大 だい 部分 ぶぶん を召集 しょうしゅう し、議事堂 ぎじどう 前 まえ に防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を敷 し いた[32] 。
現場 げんば に駆 か けつけた代理 だいり 総督 そうとく のトマス・ハッチンソン は群衆 ぐんしゅう に圧迫 あっぱく され、議事堂 ぎじどう 内 ない に入 はい らざるを得 え なかった。そのバルコニーより、彼 かれ は最小限 さいしょうげん の秩序 ちつじょ を回復 かいふく し、群衆 ぐんしゅう が解散 かいさん すれば、発砲 はっぽう に対 たい する公正 こうせい な捜査 そうさ を行 おこな うと約束 やくそく した[33] 。
ダニエル・カルフェ(Daniel Calfe)による説明 せつめい 。3月3日 にち 土曜日 どようび の夕方 ゆうがた 、第 だい 29軍 ぐん の擲弾兵 へい ジェイムス・マクディードの妻 つま である野営 やえい 婦 ふ (camp-woman)が、父 ちち の店 みせ を訪 おとず れた。人々 ひとびと が縄 なわ 製造 せいぞう 場 じょう での騒動 そうどう について会話 かいわ し、兵士 へいし が関与 かんよ したことについて非難 ひなん していると、その女性 じょせい は「兵士 へいし たちは正 ただ しい」と言 い い、「火曜日 かようび か水曜日 すいようび の夜 よる までに、彼 かれ らの剣 けん や銃剣 じゅうけん はニューイングランド人 じん の血 ち で濡 ぬ れるだろう」と付 つ け加 くわ えたという。
『A Short Narrative(短 みじか い物語 ものがたり )』に掲載 けいさい されている、兵士 へいし たちが植民 しょくみん 地 ち 人 じん に対 たい して暴力 ぼうりょく を振 ふ るうことを厭 いと わなかったことを示 しめ す記述 きじゅつ を抜粋 ばっすい [35] 。
ジョン・ギレスピー氏 し の宣誓 せんせい 供述 きょうじゅつ 書 しょ (第 だい 104号 ごう )によれば、彼 かれ は友人 ゆうじん たちとパブで会 あ うため町 まち の南端 なんたん に向 む かった際 さい 、通 とお りで、彼 かれ の見立 みた てでは40人 にん から50人 にん の集団 しゅうだん に出会 であ った。そして彼 かれ が友人 ゆうじん とそこに座 すわ り、別 べつ の知人 ちじん 何 なん 人 にん かがばらばらにやってくる間 あいだ 、先述 せんじゅつ のように通 とお りで見 み かけた人 ひと たちが(棍棒 こんぼう で)武装 ぶそう していることに気 き がついた・・・。8時 じ 30分 ふん 過 す ぎに鐘 かね が鳴 な り、ギレスピー氏 し と彼 かれ の仲間 なかま たちは火事 かじ だと思 おも った。しかし、パプの主人 しゅじん から、これは暴徒 ぼうと を集 あつ めるためのものだと言 い われた。ギレスピー氏 し は帰宅 きたく を決意 けつい し、その帰路 きろ で、多 おお くの人々 ひとびと が棍棒 こんぼう や棒 ぼう 、あるいは別 べつ の武器 ぶき を持 も って走 はし っていく人 ひと たちと出会 であ った。同時 どうじ に町 まち で火事 かじ があったかのように、2台 だい の消防車 しょうぼうしゃ もすれ違 ちが って行 い った。しかし、すぐに火事 かじ ではなく、民衆 みんしゅう が兵隊 へいたい と戦 たたか おうとしていることを告 つ げられ、彼 かれ らは消防車 しょうぼうしゃ を止 と めて助 たす けに向 む かうことを決 き めた。この出来事 できごと はすべて税関 ぜいかん 近 ちか くの兵士 へいし たちがマスケット銃 じゅう を発砲 はっぽう する前 まえ の話 はなし で、9時 じ 30分 ふん 過 す ぎのことだった。このことは住民 じゅうみん たちがその晩 ばん に兵士 へいし たちを襲撃 しゅうげき する計画 けいかく を立 た て、その実行 じっこう の準備 じゅんび をしていたことを示 しめ している。
『A Fair Account(公正 こうせい な説明 せつめい )』に掲載 けいさい されている、植民 しょくみん 地 ち の急進 きゅうしん 派 は が兵士 へいし への攻撃 こうげき を意図 いと していたことを示唆 しさ する記述 きじゅつ を抜粋 ばっすい [36] 。
容疑 ようぎ 者 しゃ の逮捕 たいほ ・起訴 きそ とイギリス軍 ぐん への退去 たいきょ 命令 めいれい [ 編集 へんしゅう ]
ハッチンソンは直 ただ ちに事件 じけん の捜査 そうさ を開始 かいし し、翌朝 よくあさ にはプレストンと8人 にん の兵士 へいし が逮捕 たいほ された[37] 。
ボストン議会 ぎかい は軍隊 ぐんたい をキャッスル島 とう にある要塞 ようさい キャッスル・ウィリアム に撤退 てったい させるようハッチンソンに命 めい じ[33] 、植民 しょくみん 地 ち 人 じん たちはファニエル・ホール で市民 しみん 会議 かいぎ を開 ひら き、この事件 じけん を議論 ぎろん した。
総督 そうとく 評議 ひょうぎ 会 かい は当初 とうしょ 、軍隊 ぐんたい の撤退 てったい 命令 めいれい に反対 はんたい し、ハッチンソンには軍 ぐん に対 たい する移動 いどう 命令 めいれい の権限 けんげん はないと説明 せつめい した。部隊 ぶたい の指揮 しき 官 かん はウィリアム・ダルリンプル (英語 えいご 版 ばん ) 中佐 ちゅうさ であったが、彼 かれ は部隊 ぶたい を移動 いどう させることを申 もう し出 で なかった[38] 。
これを知 し った市民 しみん 会議 かいぎ はさらに反発 はんぱつ を強 つよ め、彼 かれ らは立場 たちば を変 か えて全会 ぜんかい 一致 いっち で(ハッチンソンの報告 ほうこく 書 しょ によれば「強要 きょうよう されて」)軍隊 ぐんたい の撤収 てっしゅう を要請 ようせい することが可決 かけつ された[39] 。
総務 そうむ 長官 ちょうかん アンドリュー・オリバー (英語 えいご 版 ばん ) は部隊 ぶたい を撤収 てっしゅう させなかった場合 ばあい について「おそらく民衆 みんしゅう により壊滅 かいめつ させられていただろう―― それが反乱 はんらん と呼 よ ばれるべきか、我々 われわれ は憲章 けんしょう を失 うしな うことになるだろうか、その結果 けっか がなんであれ」と報告 ほうこく している[40] 。
約 やく 1週間 しゅうかん 後 ご に、第 だい 14連隊 れんたい は何事 なにごと もなくキャッスル島 とう に移動 いどう し、第 だい 29連隊 れんたい もその直後 ちょくご に移動 いどう したが[41] 、総督 そうとく が町 まち を統治 とうち する有効 ゆうこう な手段 しゅだん を失 うしな った[40] 。
犠牲 ぎせい 者 しゃ のうち、先 さき に亡 な くなった4名 めい は3月 がつ 8日 にち にボストン最古 さいこ の埋葬 まいそう 地 ち の1つであるグラナリー墓地 ぼち に式典 しきてん を伴 ともな って埋葬 まいそう された。その後 ご 、3月14日 にち に亡 な くなった5人 にん 目 め の犠牲 ぎせい 者 しゃ パトリック・カーは、3月17日 にち に彼 かれ らと同 おな じ場所 ばしょ に埋葬 まいそう された[42] 。
3月27日 にち に、プレストン大尉 たいい と8名 めい の兵士 へいし 、また4名 めい の民間 みんかん 人 じん が殺人 さつじん 罪 ざい で起訴 きそ された。この4人 にん の民間 みんかん 人 じん は税関 ぜいかん にいた者 しゃ たちであり、彼 かれ らも発砲 はっぽう したとされていた[43] 。
ボストンの市民 しみん たちは軍隊 ぐんたい とその家族 かぞく に対 たい し、敵愾心 てきがいしん を持 も ち続 つづ けた。ゲイジ将軍 しょうぐん は軍 ぐん の駐屯 ちゅうとん について現状 げんじょう は利 り より害 がい が勝 まさ るとして、5月に第 だい 29連隊 れんたい のマサチューセッツ植民 しょくみん 地 ち からの撤退 てったい を命 めい じた[44] 。
ハッチンソンは、現状 げんじょう の緊張 きんちょう 状態 じょうたい を利用 りよう して、裁判 さいばん を(年内 ねんない の間 あいだ で)なるべく遅 おく らせようと画策 かくさく した[45] 。
事件 じけん 発生 はっせい から数 すう 週間 しゅうかん 、ボストンの愛国 あいこく 派 は (パトリオット )と忠誠 ちゅうせい 派 は (ロイヤリスト )の間 あいだ でプロパガンダ合戦 かっせん が繰 く り広 ひろ げられた。両者 りょうしゃ は双方 そうほう で全 まった く異 こと なる内容 ないよう の小 しょう 冊子 さっし を発行 はっこう し、これは主 おも にロンドン で出版 しゅっぱん され、ロンドンの世論 せろん に影響 えいきょう を及 およ ぼそうと試 こころ みられたものであった。
特 とく に急進 きゅうしん 的 てき な愛国 あいこく 派 は は、これを「虐殺 ぎゃくさつ (massacre)」と呼称 こしょう した[46] [47] [48] 。
例 たと えば、『ボストン・ガゼット』誌 し は、この虐殺 ぎゃくさつ は「自由 じゆう の精神 せいしん を鎮圧 ちんあつ するため」に現在 げんざい 進行 しんこう 中 ちゅう の計画 けいかく の一部 いちぶ であると述 の べ、市内 しない に軍隊 ぐんたい を駐屯 ちゅうとん させることへのネガティブな結果 けっか について強調 きょうちょう した[49] 。
ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん を描 えが いた版画 はんが でよく知 し られるものに銀 ぎん 細工 ざいく 師 し で版画 はんが 家 か のポール・リビア による作品 さくひん がある(正確 せいかく には著名 ちょめい な肖像 しょうぞう 画家 がか ジョン・シングルトン・コプリー の異母 いぼ 兄弟 きょうだい で、自身 じしん は彫 ほ 版 ばん 工 こう であったヘンリー・ペラム (英語 えいご 版 ばん ) の版画 はんが を、リビアが忠実 ちゅうじつ に模写 もしゃ した作品 さくひん であるが、今日 きょう においてはリビアがオリジナルの作者 さくしゃ と思 おも われている)。この版画 はんが は、いくつか軍 ぐん に批判 ひはん 的 てき な内容 ないよう が含 ふく まれている。プレストン大尉 たいい は部下 ぶか に一斉 いっせい 射撃 しゃげき を命 めい じており、彼 かれ らの背後 はいご の税関 ぜいかん の窓 まど には「Butcher's Hall(ブッチャーズ・ホール)」(注 ちゅう :ブッチャーは肉屋 にくや の意味 いみ で転 てん じて虐殺 ぎゃくさつ 者 しゃ を意味 いみ する)と書 か かれている[50] 。
画家 がか のクリスチャン・レミックはいくつかのバージョンに手 て 彩色 さいしき を施 ほどこ した[51] 。
これら版画 はんが のいくつかのバージョンにはアタックスの描写 びょうしゃ と一致 いっち する、胸 むね に2つの傷 きず がある浅黒 あさぐろ い顔 かお の男 おとこ が描 えが かれているが、一般 いっぱん には黒人 こくじん の犠牲 ぎせい 者 しゃ は示 しめ されていなかった。この絵 え は『ボストン・ガゼット』に掲載 けいさい されて広 ひろ く知 し られ、効果 こうか 的 てき な反 はん イギリスの声明 せいめい となった。真 ま っ赤 か な「ロブスターの背中 せなか 」の絵 え と、赤 あか い血 ち を流 なが した負傷 ふしょう 者 しゃ の絵 え はニューイングランド中 ちゅう の農家 のうか に掲 かか げられた[52] 。
また、この事件 じけん を様々 さまざま な視点 してん から説明 せつめい した匿名 とくめい の小 しょう 冊子 さっし も出版 しゅっぱん された。『A Short Narrative of the Horrid Massacre(恐 おそ ろしい虐殺 ぎゃくさつ についての短 みじか い物語 ものがたり )』はボストン市議会 しぎかい の後援 こうえん を受 う けて出版 しゅっぱん されたものであり、主 おも に総督 そうとく 評議 ひょうぎ 会 かい のメンバーで、イギリスの植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく を声高 こわだか に批判 ひはん するジェイムズ・ボーディン がサミュエル・ペンバートンやジョセフ・ウォレンとともに執筆 しっぴつ した[53] 。
この小 しょう 冊子 さっし は、発砲 はっぽう 事件 じけん と、他 た にその前日 ぜんじつ に起 お こった小 ちい さな事件 じけん を、平和 へいわ で法律 ほうりつ を守 まも っている住民 じゅうみん に対 たい する謂 いわ れのない攻撃 こうげき とし、歴史 れきし 家 か のニール・ラングレー・ヨークによれば、おそらくこの出来事 できごと について説明 せつめい した最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく のある文章 ぶんしょう であった[54] 。
それら説明 せつめい は事件 じけん 後 ご に行 おこな われた90以上 いじょう の供述 きょうじゅつ 書 しょ が基 もと になっており、この中 なか にはプレストン大尉 たいい が、危害 きがい を加 くわ える意図 いと を持 も って部下 ぶか を配備 はいび したという非難 ひなん も含 ふく んでいた[55] 。
市 し の指導 しどう 者 しゃ たちは、陪審 ばいしん 員 いん 団 だん への影響 えいきょう を最小限 さいしょうげん にするために地元 じもと への小 しょう 冊子 さっし の配布 はいふ は差 さ し控 ひか えていたが、他 た の植民 しょくみん 地 ち や、あるいはハッチンソンがロンドンに供述 きょうじゅつ 書 しょ を送 おく ろうと画策 かくさく していることを察知 さっち して、同地 どうち には先 さき んじてコピーを送 おく っていた[56] 。
『Additional Observations on the Short Narrative(短 みじか い物語 ものがたり についての追加 ついか 見解 けんかい )』と題 だい された2つめの小 しょう 冊子 さっし では、税関 ぜいかん 職員 しょくいん が危険 きけん のため職務 しょくむ を行 おこな えないという名目 めいもく で職場 しょくば 放棄 ほうき していると主張 しゅちょう し、王室 おうしつ の役人 やくにん への攻撃 こうげき をさらに助長 じょちょう した。
ある税関 ぜいかん 職員 しょくいん は、ハッチンソンの集 あつ めた供述 きょうじゅつ 書 しょ をロンドンに運 はこ ぶためボストンを出発 しゅっぱつ した[57] 。
ハッチンソンの証言 しょうげん は、主 おも に兵士 へいし たちの証言 しょうげん が収 おさ められた『A Fair Account of the Late Unhappy Disturbance in Boston(ボストンにおける最近 さいきん 起 お こった不幸 ふこう な騒動 そうどう についての公正 こうせい な説明 せつめい )』と題 だい する小 しょう 冊子 さっし に掲載 けいさい された[58] 。
その内容 ないよう はボストン市民 しみん が議会 ぎかい 法 ほう の正当 せいとう 性 せい を否定 ひてい していることを非難 ひなん するものであった。また、この騒動 そうどう に先立 さきだ つ無法 むほう 状態 じょうたい をボストン市民 しみん の責任 せきにん とし、彼 かれ らが兵士 へいし を付 つ け狙 ねら っていたと主張 しゅちょう していた[59] 。
ただ、この小 しょう 冊子 さっし が発行 はっこう されたのは最初 さいしょ の小 しょう 冊子 さっし がロンドンに到着 とうちゃく したよりも、かなり後 ご のことであったため、ロンドン世論 せろん に与 あた えた影響 えいきょう はかなり小 ちい さかった[58] 。
兵士 へいし らの弁護 べんご を担当 たんとう したジョン・アダムズ 。
葬儀 そうぎ の4日 にち 後 ご にあたる1770年 ねん 3月 がつ 12日 にち 付 づけ のボストン・ガゼット紙 し の報道 ほうどう 。イラストは4人 にん の犠牲 ぎせい 者 しゃ の棺 かん を表 あらわ し、それぞれのイニシャルが入 はい っている。
プレストン大尉 たいい と兵士 へいし らを守 まも るために行 い った行動 こうどう は、私 わたし に対 たい する不安 ふあん と非難 ひなん をもたらした。しかし、それは私 わたし の人生 じんせい の中 なか でも最 もっと も勇敢 ゆうかん で、寛容 かんよう で、男 おとこ らしく、無私 むし の行動 こうどう であり、国 くに に行 い った最高 さいこう の奉仕 ほうし の1つであった。彼 かれ ら兵士 へいし たちに対 たい する死 し の判決 はんけつ は、かつてのクエーカー教徒 きょうと や魔女 まじょ に対 たい する処刑 しょけい と同様 どうよう に[注釈 ちゅうしゃく 1] 、この国 くに の汚点 おてん となっただろう。証拠 しょうこ がある以上 いじょう は、陪審 ばいしん 員 いん の評決 ひょうけつ はまさに正 ただ しかったのだ。しかし、このことは、この町 まち があの夜 よる の出来事 できごと を虐殺 ぎゃくさつ と呼称 こしょう すべきでない理由 りゆう にはならないし、また、彼 かれ らをここに送 おく り込 こ んだ総督 そうとく や大臣 だいじん を支持 しじ する論拠 ろんきょ にもならない。常備 じょうび 軍 ぐん の危険 きけん 性 せい を示 しめ す最 もっと も強力 きょうりょく な証拠 しょうこ であるのだ。
— ジョン・アダムズ、虐殺 ぎゃくさつ の3周年 しゅうねん にあたって[60]
植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ は、イギリス本国 ほんごく からの報復 ほうふく の因縁 いんねん とならないように、また穏健 おんけん 派 は が愛国 あいこく 派 は らから疎外 そがい されないように、兵士 へいし たちに公正 こうせい な裁判 さいばん を受 う けさせることを決 き めた。ここで政府 せいふ はジョン・アダムズ にプレストンの弁護 べんご を依頼 いらい した。アダムズはすでに有力 ゆうりょく な愛国 あいこく 派 は として知 し られ、公職 こうしょく への立候補 りっこうほ も考 かんが えていたが、公正 こうせい な裁判 さいばん を確保 かくほ するという主旨 しゅし に同意 どうい し、許諾 きょだく した[61] 。
また愛国 あいこく 派 は の中 なか でも急進 きゅうしん 派 は である「自由 じゆう の息子 むすこ 達 たち 」が任命 にんめい に反対 はんたい しないと保証 ほしょう された後 のち 、ジョサイア・クインシー2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) と、ロイヤリストのロバート・オークムティも参加 さんか することが決 き まった[62] 。
彼 かれ らは、陪審 ばいしん 員 いん 団 だん を調査 ちょうさ することを主 おも な任務 にんむ とするサンプソン・ソルター・ブロワーズ (英語 えいご 版 ばん ) と、裁判 さいばん で用 もち いられる詳細 しょうさい な遺体 いたい 図 ず を描 えが いたポール・リビアの支援 しえん を受 う けた[63] [64]
。
またボストン市 し は、マサチューセッツ植民 しょくみん 地 ち 司法 しほう 長官 ちょうかん サミュエル・クインシーと私選 しせん 弁護士 べんごし ロバート・トリート・ペイン を検察 けんさつ 役 やく として任命 にんめい した[65] 。
1770年 ねん 10月 がつ 下旬 げじゅん にプレストンの裁判 さいばん が先 さき んじて行 おこな われ、彼 かれ の発砲 はっぽう 命令 めいれい はなかったと陪審 ばいしん 員 いん たちは判断 はんだん したため、無罪 むざい 判決 はんけつ が下 くだ った[66] 。
8名 めい の兵士 へいし に対 たい する裁判 さいばん は1770年 ねん 11月27日 にち に開廷 かいてい した[67] 。
アダムズは陪審 ばいしん 員 いん たちに、兵士 へいし たちがイギリス人 じん であるという事実 じじつ の先 さき を見 み るように求 もと めた。また彼 かれ は兵士 へいし らを挑発 ちょうはつ した群衆 ぐんしゅう を「生意気 なまいき な小僧 こぞう 、ニグロ 、ムラート 、アイルランドのティーグ、ジャック・ターからなる雑多 ざった な暴徒 ぼうと 共 ども (rabble)」[注釈 ちゅうしゃく 2] と呼 よ んでいた[68] 。そして「なぜ、そのような者共 ものども の一団 いちだん を暴徒 ぼうと (mob)と呼 よ ぶことを躊躇 ちゅうちょ しなければならないのか、その呼 よ び名 な が彼 かれ らにとってあまりにも立派 りっぱ ならともかく、私 わたし には想像 そうぞう がつかない。3月5日 にち に暴徒 ぼうと らが兵士 へいし らを襲 おそ った(と認 みと めた)からといって、太陽 たいよう が止 と まったり消 き えたり、川 かわ が干上 ひあ がることはない」と続 つづ けた[69] 。
アダムズは「おそらく、あの夜 よる の恐 おそ ろしい惨事 さんじ の主 おも な原因 げんいん 」は元 もと 奴隷 どれい のクリスパス・アタックスの外見 がいけん や挙動 きょどう にあったとし、「彼 かれ の外見 がいけん そのものが、何人 なんにん をも恐怖 きょうふ させるに十分 じゅうぶん 」であり、「片手 かたて で銃剣 じゅうけん を掴 つか み、もう片方 かたがた の手 て で相手 あいて を打 う ち倒 たお した」と陳述 ちんじゅつ した[70] 。その上 うえ で、兵士 へいし らは暴徒 ぼうと に反撃 はんげき する法的 ほうてき 権利 けんり を持 も ち、したがって無実 むじつ であると主張 しゅちょう した。また、もし仮 かり に挑発 ちょうはつ はされたが危険 きけん には晒 さら されていなかったとしても、その場合 ばあい でもせいぜいが故殺 こさつ 罪 ざい (英語 えいご 版 ばん ) が適切 てきせつ だと指摘 してき した[71] 。
しかし、この中 なか の銃剣 じゅうけん を掴 つか んだという発言 はつげん は証人 しょうにん 2人 にん の証言 しょうげん と矛盾 むじゅん しており、兵士 へいし が発砲 はっぽう し始 はじ めたとき、アタックスは12–15フィート (3.7–4.6 m)離 はな れており、銃剣 じゅうけん を手 て に取 と るには遠 とお すぎた[69] 。
『The American Scholar』の著者 ちょしゃ ファラ・ピーターソンは、裁判 さいばん におけるアダムズのスピーチは、彼 かれ の法廷 ほうてい 戦略 せんりゃく が「被告人 ひこくにん が黒人 こくじん とその取 と り巻 ま きを殺 ころ したに過 す ぎず、それゆえに絞首刑 こうしゅけい には値 あたい しないと陪審 ばいしん 員 いん を納得 なっとく させることにあった」と指摘 してき している[69] 。
陪審 ばいしん 員 いん はアダムズの主張 しゅちょう に同意 どうい し、2時 じ 間 あいだ 半 はん にわたる審議 しんぎ の末 すえ 、兵士 へいし のうち6名 めい を無罪 むざい とし、残 のこ り2名 めい を故殺 こさつ 罪 ざい で有罪 ゆうざい とした。この2名 めい には彼 かれ らが群衆 ぐんしゅう に向 む かって直接 ちょくせつ 発砲 はっぽう したという明白 めいはく な証拠 しょうこ があったためであった。この陪審 ばいしん 員 いん らの決定 けってい は、兵士 へいし が群衆 ぐんしゅう に脅威 きょうい を感 かん じていたとしても、発砲 はっぽう の判断 はんだん は遅 おく らせるべきであったと考 かんが えていたことを示唆 しさ している[72] 。
また、有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた兵士 へいし は聖職 せいしょく 者 しゃ の特権 とっけん (英語 えいご 版 ばん ) [注釈 ちゅうしゃく 3] を訴 うった えることによって減刑 げんけい され、死刑 しけい 判決 はんけつ から公開 こうかい の場 ば での親指 おやゆび への烙印 らくいん となった[73] 。
パトリック・カーの死 し の床 ゆか での証言 しょうげん も、8人 にん の兵士 へいし の殺人 さつじん 容疑 ようぎ を晴 は らすのに一役 ひとやく 買 か った。以下 いか は、彼 かれ を看取 みと った医師 いし ジョン・ジェフリーズ に対 たい する法廷 ほうてい での尋問 じんもん 内容 ないよう である[74] 。
Q:あなたはパトリック・カーを担当 たんとう した医者 いしゃ ですか?
A:そうです。
Q:彼 かれ (カー)は危険 きけん を感 かん じていましたか?
A:彼 かれ が言 い うには、彼 かれ はアイルランド出身 しゅっしん で、暴動 ぼうどう が起 お きる様 よう や、それを鎮圧 ちんあつ するために兵士 へいし が出動 しゅつどう する様 よう を頻繁 ひんぱん に見 み ていたそうです―― アイルランドでは兵士 へいし が民衆 みんしゅう に向 む かって発砲 はっぽう するのをよく見 み たが、(今回 こんかい のような)発砲 はっぽう までにここまで耐 た えたことは見 み たことがなかったそうです。
Q:彼 かれ と最後 さいご に会話 かいわ をしたのはいつでしたか?
A:午後 ごご 4時 じ 頃 ごろ です、その夜 よる に彼 かれ は亡 な くなりました。そこで彼 かれ は次 つぎ のようなことを話 はな しました。自分 じぶん を撃 う った男 おとこ が誰 だれ であれ、そいつを許 ゆる す。彼 かれ に悪意 あくい はなく、自分 じぶん を守 まも るために撃 う ったんだと納得 なっとく している。
エドマンド・トローブリッジ (英語 えいご 版 ばん ) とピーター・オリバー (英語 えいご 版 ばん ) の両 りょう 判事 はんじ は陪審 ばいしん 員 いん らを指導 しどう し、特 とく にオリバーは「カーの証言 しょうげん が宣誓 せんせい に基 もと づいていないのは事実 じじつ だが、永遠 えいえん の眠 ねむ りについて間 あいだ もない男 おとこ の、しかも彼 かれ が命 いのち を落 お とす原因 げんいん となった男 おとこ たちに有利 ゆうり な証言 しょうげん を信 しん じるべきかどうかを、あなた方 かた は判断 はんだん せねばならないのだ」と言及 げんきゅう した。このカーの証言 しょうげん はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の法 ほう 規範 きはん における伝聞 でんぶん 証拠 しょうこ 禁止 きんし の原則 げんそく における死亡 しぼう 宣告 せんこく 時 じ の例外 れいがい (英語 えいご 版 ばん ) について最初 さいしょ 期 き に記録 きろく された事例 じれい の1つである[75] 。
4人 にん の民間 みんかん 人 じん は12月13日 にち に裁判 さいばん にかけられた[76] 。
主 おも な検察 けんさつ 側 がわ 証人 しょうにん は被告人 ひこくにん の1人 ひとり が雇 やと っていた使用人 しようにん であったが、彼 かれ は弁護 べんご 側 がわ 証人 しょうにん によって容易 ようい に反証 はんしょう される供述 きょうじゅつ をした。被告人 ひこくにん は全員 ぜんいん が無罪 むざい となり、また検察 けんさつ 側 がわ 証人 しょうにん であった使用人 しようにん は偽証罪 ぎしょうざい で有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う け、鞭打 むちう ちとマサチューセッツ植民 しょくみん 地 ち からの追放 ついほう 刑 けい を受 う けた[77] 。
ボストンコモン に建 た てられたボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん 記念 きねん 碑 ひ (英語 えいご 版 ばん ) (1889年 ねん 、アドルフ・ロバート・クラウス (英語 えいご 版 ばん ) 作 さく )。
グラナリー墓地 ぼち にある事件 じけん の被害 ひがい 者 しゃ 5名 めい の墓標 ぼひょう 。1888年 ねん に現在 げんざい の場所 ばしょ へ改葬 かいそう された。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう への発展 はってん [ 編集 へんしゅう ]
ボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん は国王 こくおう ジョージ3世 せい とイギリス議会 ぎかい の権威 けんい に対 たい する植民 しょくみん 地 ち の感情 かんじょう を変 か えた最 もっと も重要 じゅうよう な出来事 できごと の1つと考 かんが えられている。ジョン・アダムズは、1770年 ねん 3月 がつ 5日 にち に「アメリカ独立 どくりつ の基礎 きそ が築 きず かれた」と書 か き、サミュエル・アダムズや他 た の愛国 あいこく 派 は は毎年 まいとし の記念 きねん 行事 ぎょうじ (虐殺 ぎゃくさつ の日 ひ (英語 えいご 版 ばん ) )を利用 りよう して、独立 どくりつ への大衆 たいしゅう の感情 かんじょう を煽 あお った[78] 。
この事件 じけん で重傷 じゅうしょう を負 お い、1780年 ねん に死亡 しぼう した当時 とうじ 少年 しょうねん のクリストファー・モンクは、イギリスへの敵意 てきい を忘 わす れさせないものとして称 とな えられた[30] 。
後 のち に起 お こるガスピー号 ごう 事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) やボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん は、イギリスとその植民 しょくみん 地 ち との間 あいだ に生 う まれた溝 みぞ を、さらにさらけ出 だ すものであった。ニール・ヨークは独立 どくりつ 戦争 せんそう の発生 はっせい までに5年 ねん の月日 つきひ があり、両者 りょうしゃ の関係 かんけい 性 せい はやや弱 よわ いと示唆 しさ しているものの、本 ほん 事件 じけん が後 こう の暴力 ぼうりょく を伴 ともな う反乱 はんらん に繋 つな がっていった重要 じゅうよう な出来事 できごと と広 ひろ く認識 にんしき されている[79] [80] 。
ハワード・ジン は、ボストンには「社会 しゃかい 階級 かいきゅう の怒 いか り」が満 み ちていたと論 ろん じている。彼 かれ は、『ボストン・ガゼット』が1763年 ねん に報 ほう じたものに、「少数 しょうすう の権力 けんりょく 者 しゃ 」が「人々 ひとびと を謙虚 けんきょ にさせるため、彼 かれ らを貧 まず しい状態 じょうたい に維持 いじ する」政治 せいじ プロジェクトを推進 すいしん している、とするものがあったと紹介 しょうかい している[81] 。
この虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん は、1858年 ねん にウィリアム・クーパー・ネル (英語 えいご 版 ばん ) が主催 しゅさい した記念 きねん 式典 しきてん で追悼 ついとう されるようになった。ネルは黒人 こくじん 奴隷 どれい 解放 かいほう 運動 うんどう 家 か であり、独立 どくりつ 戦争 せんそう におけるアフリカ系 けい アメリカ人 じん の役割 やくわり を示 しめ す機会 きかい としてクリスパス・アタックスの死 し を引用 いんよう した[82] 。
また、同 どう 事件 じけん を記念 きねん して、犠牲 ぎせい 者 しゃ の肌 はだ の色 いろ を黒 くろ に変 か えてアタックスの死 し を強調 きょうちょう する芸術 げいじゅつ 作品 さくひん も制作 せいさく された[83] 。
1888年 ねん 、ボストンコモン に同 どう 事件 じけん の犠牲 ぎせい 者 しゃ を追悼 ついとう するためのボストン虐殺 ぎゃくさつ 事件 じけん 記念 きねん 碑 ひ (英語 えいご 版 ばん ) が建 た てられ、また犠牲 ぎせい 者 しゃ の5名 めい はグラナリー墓地 ぼち の目立 めだ つ墓 はか へと改葬 かいそう された[84] 。
毎年 まいとし 3月 がつ 5日 にち [85] 、ボストン協会 きょうかい の後援 こうえん による同 どう 事件 じけん の再現 さいげん 劇 げき が行 おこな われている[86] [87] 。
旧 きゅう 議事堂 ぎじどう 、事件 じけん 現場 げんば 、グラナリー墓地 ぼち はボストンのフリーダムトレイル の経路 けいろ 上 じょう にあり、街 まち の歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう な場所 ばしょ を結 むす んでいる[84] 。
^ これはそれぞれボストン殉教者 じゅんきょうしゃ (英語 えいご 版 ばん ) とセイラム魔女 まじょ 裁判 さいばん を指 さ している。
^ ここで用 もち いられている語 かたり はすべて侮蔑 ぶべつ 語 ご であり、それぞれ「ニグロ(negro)」は黒人 こくじん 、「ムラート(mulatto)は白人 はくじん と黒人 こくじん の混血 こんけつ 、「ティーグ(teague)」はアイルランド人 じん 、「ジャック・ター(jack tar)」は水夫 すいふ を指 さ している。
^ 従犯 じゅうはん の場合 ばあい に減刑 げんけい を認 みと めるというローマ時代 じだい 由来 ゆらい の法 ほう 規定 きてい のこと。元 もと はキリスト教 きりすときょう 司祭 しさい が世俗 せぞく の裁判所 さいばんしょ の対象 たいしょう にならないという権利 けんり を与 あた えるものであったため、この名前 なまえ で呼 よ ばれるが、当時 とうじ は既 すで に形骸 けいがい 化 か しており、聖職 せいしょく 者 しゃ に関係 かんけい はない。
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