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ボンヌ・ド・ベリー

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ボンヌ・ド・ベリー
Bonne de Berry

出生しゅっしょう 1367ねん
フランス王国おうこく、メアン=シュル=イェーヴルじょう[1]
死去しきょ 1435ねん12月30にち
フランス王国おうこくカルラしろ
埋葬まいそう フランス王国おうこくロデーズ、コルドリエ修道院しゅうどういん
配偶はいぐうしゃ サヴォイアはくアメデーオ7せい
  アルマニャックはくベルナール7せい
子女しじょ 本文ほんぶん参照さんしょう
家名かめい ヴァロワ
父親ちちおや ベリーこうジャン1せい
母親ははおや ジャンヌ・ダルマニャック
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ボンヌ・ド・ベリーBonne de Berry, 1367ねん - 1435ねん12月30にち)は、フランス貴族きぞく女性じょせい。フランス王族おうぞくベリーこうジャン1せい最初さいしょジャンヌ・ダルマニャック(アルマニャックはくジャン1せいむすめ)の長女ちょうじょ[2]。モンパンシエはくジャン2せい・ド・ベリーあにマリー・ド・ベリーいもうと。イタリアめいボナ・ディ・ベッリBona di Berry)。

最初さいしょおっとサヴォイアはくアメデーオ7せい死後しご、1391ねんから1393ねんにかけて息子むすこ幼少ようしょうであったとき義母ぎぼボンヌ・ド・ブルボンたいして摂政せっしょうけん主張しゅちょうしたが失敗しっぱいした。フランスおうシャルル5せいめいとして、フランス王国おうこく同盟どうめい強化きょうかすることを目的もくてきとした外交がいこう工作こうさくにおいて重要じゅうよう役割やくわりたした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

サヴォイアはくとの結婚けっこん[編集へんしゅう]

ボンヌは1372ねん5がつ7にち伯父おじシャルル5せいから提供ていきょうされた10まんフランの持参じさんきんにより、サヴォイアはくアメデーオ7せい婚約こんやくした[1]結婚けっこんは1377ねん1がつ18にちにフランスおう立会たちあいのもとおこなわれたが、ボンヌがおっとらすためにサヴォイアにうつったのは1381ねん3がつ、14さいときであった[1]

1391ねんにアメデーオ7せい破傷風はしょうふうくなったのち幼少ようしょう息子むすこアメデーオ8せい摂政せっしょうめぐってあらそいがこり、アメデーオ7せいははボンヌ・ド・ブルボンあらたな摂政せっしょうとなった。その結果けっか、アメデーオ8せいははボンヌ・ド・ベリーはモンメリアンで支持しじしゃとともに勢力せいりょく確立かくりつし、祖母そぼボンヌ・オブ・ブルボンはシャンベリで支持しじしゃとともに勢力せいりょく確立かくりつした。この対立たいりつ内戦ないせん発展はってんする危険きけんがあったが、1393ねん5がつ8にち署名しょめいされた合意ごういにより解決かいけつされることになった。この合意ごういはフランスおう介入かいにゅうにより交渉こうしょうおこなわれた。この合意ごういしたがって、ボンヌ・ド・ブルボンはフォーシニーの領主りょうしゅけんをボンヌ・ド・ベリーにゆずることとなった。その、ボンヌ・ド・ベリーは子供こどもたちをサヴォイアにのこしてフランスのベリーにもどり、母親ははおや一緒いっしょらした。

アルマニャックはくとの再婚さいこん[編集へんしゅう]

ボンヌは従兄弟いとこにあたるアルマニャックはくベルナール7せい再婚さいこんした。結婚けっこん契約けいやくは1393ねん12月2にちむすばれた[3]

ベルナール7せいは、ボンヌおよび、むすめのボンヌのおっとであるオルレアンこうシャルルかいしたフランス王家おうけとの姻戚いんせき関係かんけいもあり、アルマニャック・ブルゴーニュ内戦ないせん英語えいごばんにおけるアルマニャック形成けいせい多大ただい影響えいきょうりょくった[4]

ブルゴーニュアルマニャック系図けいず


ジャン2せい善良ぜんりょうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5せい賢明けんめいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
ベリーこう
ジャン1せい
 
 
 
 
 
ブルゴーニュこう
フィリップ2せい豪胆ごうたんこう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6せい狂気きょうきおう
 
イザボー
 
オルレアンこう
ルイ
ボンヌ
 
(アルマニャックはく
ベルナール7せい
 
ジャン1せいこわおおやけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7せい勝利しょうりおう
 
 
 
シャルル
 
 
ボンヌ
 
 
 
フィリップ3せい善良ぜんりょうこう
 
 

1415ねん婿むこのオルレアンこうシャルルがアジャンクールのたたか捕虜ほりょとなり幽閉ゆうへいされた。またおっとのベルナール7せいは、1418ねんにパリではいした。

子女しじょ[編集へんしゅう]

サヴォイアはくアメデーオ7せいとの子女しじょ

アルマニャックはくベルナール7せいとの子女しじょ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c Autrand 2000, Chapter 17.
  2. ^ a b Samaran 1905, pp. 246–247.
  3. ^ Schnerb 2005, p. 105.
  4. ^ カルメット 2023, p. 193.
  5. ^ Vaughan 2002, p. 53.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • カルメット, ジョゼフ ちょ田辺たなべたもつ わけ国書刊行会こくしょかんこうかい、2000ねん5がつ1にちISBN 978-4-3360-4239-2 
  • Autrand, Françoise (2000-10-18) (French). Jean de Berry. Fayard. ISBN 978-2-213-64815-6. https://books.google.com/books?id=YwcKYTa6KCwC&q=bonne , Chapter 17.
  • Samaran, Charles (1905). “De quelques manuscrits ayant appartenu à Jean d'Armagnac”. Bibliothèque de l'École des Chartes Année 66 (1). http://www.persee.fr/docAsPDF/bec_0373-6237_1905_num_66_1_448237.pdf. 
  • Schnerb, Bertrand (2005). “Un Seigneur Auvergnat a la Cour de Bourgogne: Renaud II, Vicomte de Murat (1405-1420)”. Annuaire-Bulletin de la Société de l'Histoire de France Nuaire-Bulletin de la Société de l'Histoire de France. 
  • Vaughan, Richard (2002). Philip the Bold: The Formation of the Burgundian State. Boydell Press