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ポン=ラベ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Pont-l'Abbé

行政ぎょうせい
くに フランスの旗 フランス
地域ちいきけん (Région) ブルターニュ地域ちいきけん
けん (département) フィニステールけん
ぐん (arrondissement) カンペールぐん
小郡おごおり (canton) 小郡おごおりちょう所在地しょざいち
INSEEコード 29220
郵便ゆうびん番号ばんごう 29120
市長しちょう任期にんき ダニエル・クイック
2008ねん - 2014ねん
自治体じちたいあいだ連合れんごう (fr) fr:Communauté de communes du Pays Bigouden Sud
人口じんこう動態どうたい
人口じんこう 8322にん
2010ねん
人口じんこう密度みつど 457にん/km2
住民じゅうみん呼称こしょう Pont-l'Abbiste
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4752ふん05びょう 西経せいけい413ふん19びょう / 北緯ほくい47.868056 西経せいけい4.221944 / 47.868056; -4.221944座標ざひょう: 北緯ほくい4752ふん05びょう 西経せいけい413ふん19びょう / 北緯ほくい47.868056 西経せいけい4.221944 / 47.868056; -4.221944
標高ひょうこう 平均へいきん:m
最低さいてい:0m
最高さいこう:37m
面積めんせき 18.21km2
Pont-l'Abbéの位置(フランス内)
Pont-l'Abbé
Pont-l'Abbé
公式こうしきサイト Site de la commune
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ポン=ラベPont-l'Abbéブルトン:Pont-'n-Abad)は、フランスブルターニュ地域ちいきけんフィニステールけんコミューン。ビグダン地方ちほう中心ちゅうしんである。

地理ちり

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ポン=ラベ。ひだりはサン・ローラン埠頭ふとう
ポン=ラベがわ右岸うがんにある、みずにつかったメンヒル

ポン=ラベは、ポン=ラベがわ(Rivière de Pont-l'Abbé)とばれる、三角州さんかくすというよりむしろリアス式海岸りあすしきかいがんおく位置いちする。ブルターニュのランデルノーシャトーランカンペールカンペルレおなじように、沿岸えんがん河川かせんもっと下流かりゅうにあるはし場所ばしょ誕生たんじょうしたまちである。しお影響えいきょうける限界げんかいにあり、満潮まんちょうみなと埠頭ふとうまで航行こうこうできる限界げんかい一致いっちする。1385ねんローマ教皇きょうこうクレメンス7せいは、Ponte Abbatiのうみみなとについて言及げんきゅうした[1]。このはポン=ラベじょう防衛ぼうえいされており、ポン=ラベがわせきめる水車みずぐるまが、かわ上流じょうりゅうしめしていた。下流かりゅう一部いちぶうみからの影響えいきょうけた。

ポン=ラベがわはケリフォレ近郊きんこうまれる。そこはまち西南せいなん西にしランデュデックプロガステル=サン=ジェルマンとの境界きょうかいにあたるところである。当初とうしょ南東なんとうかってながれ、西にしのプメリとプロネウール=ランヴェルン、そしてひがしのトレメオックのあいだ通過つうかしたら、そのみなみきになる。このながれはプラン・デュ・ムーラン・ヌフ(Plan du Moulin Neuf)というダムでせきめられる。下流かりゅう海岸かいがん沿いのちいさなかわみなみながれてポン=ラベがわとなる。かつてはながれに沿っておおくの水車みずぐるまならんでいた。

海上かいじょうにおけるポン=ラベがわは、左岸さがんにあるポン=ラベのランブール地区ちく右岸うがんロクテュディ分離ぶんりするリアス式海岸りあすしきかいがんである。右岸うがんにはコンブリ=サント=マリーヌイル=テュディがある。河口かこうには小島こじま点在てんざいする。左岸さがんのボディヨ半島はんとう自然しぜん保護ほごとなっている。

由来ゆらい

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ポン=ラベとはラテン語らてんごめいPonte Abbatiに由来ゆらいする。これは1224ねんにロクテュディのサン・テュディ修道しゅうどう院長いんちょう建設けんせつさせたはしから派生はせいしている。修道院しゅうどういんちょうはし所有しょゆうしゃでもあった。

歴史れきし

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廃墟はいきょのままであるランブールのサン・ジャック教会きょうかい
ふる絵葉書えはがきえがかれたポン=ラベの刺繍ししゅう職人しょくにん

11世紀せいき、ポンの最初さいしょ領主りょうしゅは、ポン=ラベがわ横断おうだんするはし先頭せんとう封建ほうけん時代じだいモット建設けんせつした。その場所ばしょはロクテュディ修道院しゅうどういん敷地しきちないであったが、9世紀せいきのノルマンじん襲来しゅうらい以降いこう放棄ほうきされていた。

何人なんにんかの歴史れきしは、最初さいしょ領主りょうしゅはジュエル・デュ・ポンであったとみている。かれドル包囲ほういせんさいにイングランドおう捕虜ほりょとなった。ヘンリー2せいとのあいだむすんだ条約じょうやくによる身代金みのしろきん支払しはらって、1174ねん保釈ほしゃくされた。しかしかれがポン=ラベの家門かもんぞくしていたとはかんがえにくい。

はじめてしるされたのは、1220年代ねんだいかれたカンペールだい聖堂せいどう特許とっきょじょう台帳だいちょうにおいてである。このとき名称めいしょうはエルヴェ(Hervé)であった。それは、ラテン語らてんごで『サン=テュディ修道しゅうどう院長いんちょう』を意味いみするAbbas Tudiとして、世俗せぞくてき世襲せしゅうとしてつづいた可能かのうせいがある。このAbbas Tudiは、12世紀せいきのランデヴェネック修道院しゅうどういんやカンペルレ修道院しゅうどういん特許とっきょじょう台帳だいちょうにおいて、公的こうてき行為こういおこな世俗せぞくてきあかしであったと言及げんきゅうされている。

16世紀せいき、ポン=ラベ男爵だんしゃく一部いちぶものたちはユグノーであったため、かれらの一部いちぶは1572ねんにパリで発生はっせいしたせいバルテルミーの虐殺ぎゃくさつにおいて、建物たてものまどからそととされた。

ランブールのしょうきょう区民くみんたちは、1675ねんきたビグダン地方ちほうでの印紙いんしぜい一揆いっき積極せっきょくてき参加さんかした。ルイ14せいにおいてショルヌ公爵こうしゃく指揮しきした弾圧だんあつにより、暴動ぼうどうこすため人々ひとびとかねらしてらせたからという理由りゆうで、ランブールのサン・ジャック教会きょうかいとうひくくされ、再建さいけんされることはなかった。教会きょうかいは13世紀せいき後半こうはんてられ、16世紀せいき再建さいけんされている。19世紀せいき後半こうはんにはもはや建物たてもの維持いじされておらず、保存ほぞん修復しゅうふくんだものの、教会きょうかいは1983ねん以降いこう廃墟はいきょとなっている。

ランブールのしょう教区きょうくはコンブリト教区きょうく依存いぞんしており、かつてはシュヴァリエとうにサン・ジルダス礼拝れいはいどう存在そんざいした。サン・セルヴェ礼拝れいはいどうおなめいむらにあり、ジュスティス礼拝れいはいどうばれていたが、フランス革命かくめいなか国民こくみん資産しさんとして売却ばいきゃくされた。ランブールは1790ねん一時期いちじき教区きょうくであったが、ポン=ラベに併合へいごうされた。革命かくめいあいだまちはポン=マラー(Pont-Marat)と改名かいめいさせられていた。

1937ねん、ポン=ラベのなつ観光かんこう客数きゃくすうは、ホテル宿泊しゅくはくしゃ滞在たいざいしゃふく概算がいさんで1000にんたっしていた[2]

人口じんこう統計とうけい

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1962ねん 1968ねん 1975ねん 1982ねん 1990ねん 1999ねん 2006ねん 2010ねん
6396 6791 7325 7266 7374 7849 8132 8322

参照さんしょうもと:1999ねんまでEHESS[3]、2000ねん以降いこうINSEE[4][5]

ブルトン

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2008ねん、コミューン議会ぎかいYa d'ar brezhoneg憲章けんしょう批准ひじゅん可決かけつした。2007ねんしん学期がっきにおいて、コミューンの児童じどう5.2%が言語げんご教育きょういくおこな学校がっこう在籍ざいせきしていた[6]

文化ぶんか

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刺繍ししゅうかごみが伝統でんとう工芸こうげいとしてつたわる。7がつだい2しゅう週末しゅうまつには刺繍ししゅうまつりがひらかれ、ブルトン音楽おんがく楽団がくだんであるバガドがあるく。豊富ほうふ刺繍ししゅうほどこされた衣服いふく注文ちゅうもんけてつく刺繍ししゅう職人しょくにんは、職人しょくにん兄弟きょうだいかい組織そしきをつくっていた。9月のだい4日曜日にちようびにはトレミウのパルドンまつ、7がつ最後さいご日曜日にちようびにはランブールのパルドンまつりがおこなわれる。

姉妹しまい都市とし

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著名ちょめい関係かんけいしゃ

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脚注きゃくちゅう

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