(Translated by https://www.hiragana.jp/)
マクペラの洞窟虐殺事件 - Wikipedia コンテンツにスキップ

マクペラの洞窟どうくつ虐殺ぎゃくさつ事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

マクペラの洞窟どうくつ虐殺ぎゃくさつ事件じけん(マクペラのどうくつぎゃくさつじけん)は、1994ねん2がつ25にちヨルダン川よるだんがわ西岸せいがん地区ちく南部なんぶ都市としヘブロン発生はっせいした大量たいりょう殺人さつじん事件じけんアブラハムのモスク虐殺ぎゃくさつ事件じけんヘブロン虐殺ぎゃくさつ事件じけんプリム虐殺ぎゃくさつ事件じけんなどともばれる。

マクペラの洞窟どうくつヘブライ: מערת המכפלה‎, マ字まじ転写てんしゃ: maarat ha-makhpelah)とは、ヘブロン市内しないにある洞窟どうくつで、旧約きゅうやく聖書せいしょしるされている最初さいしょ人間にんげんアダムとイヴや、族長ぞくちょうたち(アブラハムイサクヤコブ)とそのつまたちのはかがあるとされる。洞窟どうくつには「アブラハムのモスク」が併設へいせつされ、ユダヤ教徒きょうと、イスラム教徒きょうと双方そうほうにとっての聖地せいちとなっている。

事件じけんユダヤ教徒きょうとプリムムスリムラマダーンという双方そうほう祭日さいじつが、丁度ちょうどかさなっている時期じき発生はっせいした。襲撃しゅうげき実行じっこうしたのは、バールーフ・ゴールドシュテインというアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出身しゅっしんで、ユダヤじん入植にゅうしょくキルヤット・アルバ英語えいごばん医師いしだった。ゴールドシュテインはまたイスラエル国防こくぼうぐん予備よびやくへいで、ユダヤじん極右きょくう思想しそうであるカハネ主義しゅぎ活動かつどうでもあった[1]パレスチナじんのムスリム29めい殺害さつがいされ、125めい負傷ふしょうし、ゴールドシュテイン自身じしんもそのころされた。事件じけん中東ちゅうとう各地かくち暴力ぼうりょくてき抗議こうぎ活動かつどう発生はっせいし、衝突しょうとつ襲撃しゅうげきなどでイスラエルひとパレスチナひと双方そうほう多数たすう死者ししゃた。

虐殺ぎゃくさつ

[編集へんしゅう]

マクペラの洞窟どうくつ併設へいせつされている建造けんぞうぶつは、かべにより2つの区画くかくけられており、1つはユダヤ教徒きょうとが、もう1つはムスリムが礼拝れいはい使用しようするとなっている。ユダヤ教徒きょうとよう区画くかくは、ユダヤきょう割礼かつれい儀式ぎしきであるブリット・ミラー英語えいごばん会場かいじょうである「アブラハムのホール」や、「ヤコブのホール」、イェシーバー (ユダヤ教学きょうがくいん) などからなっており、毎日まいにちおおくのユダヤきょう宗教しゅうきょう行事ぎょうじおこなわれていた。一方いっぽう、ムスリムよう区画くかくは、ユダヤ教徒きょうと区画くかくよりはるかにひろく、「イサクのホール」とばれている。ユダヤ教徒きょうと、ムスリムの双方そうほうに、1ねんうち10日間にちかんずつが、洞窟どうくつ施設しせつ占有せんゆうして使用しようする期間きかんとしてられている。

2がつ25にち午前ごぜん5:00、800めいものムスリムのパレスチナじんが、1にち5かい礼拝れいはい最初さいしょいのり (Fajr) をささげるため、建物たてものひがしもんから入場にゅうじょうした[2]陸軍りくぐん制服せいふく着用ちゃくようIMI ガリル(イスラエルせいアサルトライフル)と35はつりの弾倉だんそう4携行けいこうしたゴールドシュテインは、ムスリムのあつまっている「イサクのホール」に侵入しんにゅうした。ゴールドシュテインは警備けいびおこなっていたイスラエルぐん兵士へいしめられずに侵入しんにゅうできた。これはゴールドシュテインが、「イサクのホール」のとなりのユダヤ教徒きょうと区画くかく礼拝れいはいをしに兵士へいしおもわれたためである。

ゴールドシュテインは洞窟どうくつからの唯一ゆいいつ出入口でいりぐちまえ礼拝れいはいおこなうムスリムたち背後はいご位置いちしライフルを乱射らんしゃ、29めい殺害さつがいし、125めい負傷ふしょうさせた。ゴールドシュテインは、そののこっていたものたちさえられ、消火しょうかささえの鉄柱てっちゅうなどで暴行ぼうこうくわえられて死亡しぼうした[3][4][5][6]

事件じけん報道ほうどう内容ないようにはおおくの混乱こんらんられた。とくに、襲撃しゅうげきはゴールドシュテイン単独たんどく犯行はんこうか、共犯きょうはんしゃがいたのかについてはあやまった情報じょうほうながれた。たとえば、目撃もくげきしゃ証言しょうげんとして、「ぐん制服せいふくたもう1人ひとりおとこがゴールドシュテインに弾薬だんやく手渡てわたした」というはなしほうじられたこともある[7]。また、ゴールドシュテインがムスリムたち手榴弾しゅりゅうだんげつけたとほうじられたこともあった。パレスチナじん指導しどうしゃヤーセル・アラファートは、襲撃しゅうげきはイスラエルの予備よびやくへい部隊ぶたいふくむ12めいにより実行じっこうされたと主張しゅちょうした。しかし、イスラエルぐんのち設置せっちされた調査ちょうさ委員いいんかいによる調査ちょうさにより、洞窟どうくつ警備けいびあたっていたイスラエルぐんかれ援護えんごしたり、故意こい犯行はんこう黙認もくにんしたことはなく、ゴールドシュテインは単独たんどく襲撃しゅうげき実行じっこうしたこと、また、手榴弾しゅりゅうだん使用しようされなかったことがあきらかになった。しかしながら、複数ふくすう犯行はんこうせつ主張しゅちょうした被害ひがいしゃたちは、別々べつべつ病院びょういん手当てあてをけており、口裏くちうらわせは不可能ふかのうという報道ほうどうもあった[8]

事件じけんたいする反応はんのう

[編集へんしゅう]

イスラエル

[編集へんしゅう]

イスラエルの政府せいふおもだった政党せいとう、そして多数たすう市民しみんは、ゴールドシュテインの犯行はんこうただちに非難ひなんした。さらにユダヤきょう各派かくは団体だんたいのスポークスマンたちは、この犯行はんこう不道徳ふどうとくテロ行為こういであると非難ひなんした。ゴールドシュテインの所属しょぞくしていたカハネ主義しゅぎ政党せいとうの「カハ (Kach)」はテロ組織そしきとして非合法ひごうほうされた。極右きょくう活動かつどうたちなかには武器ぶき没収ぼっしゅうされ、当局とうきょく身柄みがら拘束こうそくされたものもいた。

イスラエルの議会ぎかいクネセト」では、イツハク・ラビン首相しゅしょうが、アメリカ出身しゅっしんのゴールドシュテインを「外国がいこくから移植いしょくされた」「正道せいどうからはずれた雑草ざっそう」とんで非難ひなんした。またラビン首相しゅしょうは「このおそれるべきおとこかれのようなものたちにこういたい。あなたたちシオニズム運動うんどうはじであり、ユダヤきょうたいする邪魔じゃましゃだ」ともべた。また、右派うは政党せいとうリクード党首とうしゅベンヤミン・ネタニヤフは、「これは卑劣ひれつ犯罪はんざいだ。明確めいかく非難ひなん表明ひょうめいする」とする声明せいめい公表こうひょうした[9]

一方いっぽう、ゴールドシュテインの犯行はんこう支持しじする主張しゅちょうられた。エルサレムのある高校こうこうでは、過半数かはんすう生徒せいと犯行はんこう支持しじした。また教育きょういくしょうでは、全国ぜんこく教師きょうしあつめて会議かいぎひらき、席上せきじょうでゴールドマン教育きょういくふく大臣だいじん虐殺ぎゃくさつ批判ひはんした。すると、犯行はんこう支持しじする教師きょうしたちによってゴールドマンはいしげられ、会場かいじょうからしたという[10]

シャムガール委員いいんかい

[編集へんしゅう]

イスラエル政府せいふは、独立どくりつして事件じけん調査ちょうさすべく、イスラエルの最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじメイル・シャムガール英語えいごばんちょうとする公式こうしき委員いいんかい設置せっちした。委員いいんかい調査ちょうさによってあきらかにされたのは以下いかてんである。

  • ゴールドシュテインは単独たんどくはんで、襲撃しゅうげき計画けいかくから実行じっこうまで、周囲しゅういだれにもけることなくかれ一人ひとりによっておこなわれた[11]
  • 洞窟どうくつ警備けいびおこなっていたイスラエル国防こくぼうぐん地元じもと警察けいさつ行政ぎょうせい機関きかんとの連携れんけい問題もんだいがあった。
  • ユダヤじんテロリスト監視かんしするイスラエルそう保安庁ほあんちょうはゴールドシュテインの犯行はんこう予期よきしていなかった。
  • 生存せいぞんしゃ証言しょうげんにあるイスラエルぐん関与かんよや、手榴弾しゅりゅうだんによる爆発ばくはつのこされた証拠しょうこ矛盾むじゅんする。調査ちょうさあたった委員いいんたち手榴弾しゅりゅうだん破片はへんひとつもつけることが出来できなかった[11]

イスラエル国外こくがいのユダヤじん社会しゃかい

[編集へんしゅう]

イギリス主席しゅせきラビジョナサン・サックス英語えいごばん博士はかせは、その声明せいめいなかで「このようないは、ユダヤてき価値かちかんちがえた行為こういで、ユダヤてき価値かちかんけがすものだ。せいなる祭日さいじつに、いのりの場所ばしょ礼拝れいはいしゃたいしておこなわれた犯行はんこうかみへの冒涜ぼうとくひとしい」とべた。またその声明せいめいなかかれはさらに、「暴力ぼうりょく邪悪じゃあくである。かみかたっておこなわれる暴力ぼうりょくは、そのわかさらに邪悪じゃあくである。まして、かみいのっている人々ひとびとたいしてくわえられる暴力ぼうりょく邪悪じゃあくさは言語道断ごんごどうだんである。」ともべている[12]

イギリスで発行はっこうされているユダヤじん新聞しんぶんジューイッシュ・クロニクル」の論評ろんぴょうで、ユダヤじんコラムニストのハイム・バーマント英語えいごばんは、ゴールドシュテインの所属しょぞくしていた「カハ」を「ネオナチ」、「アメリカによってされ、アメリカの資金しきん活動かつどうする、アメリカのじゅう文化ぶんか産物さんぶつ」とんで批判ひはんした[13]。また、おな紙面しめんには、イギリスのいくつかの進歩しんぽてきシナゴーグで、この襲撃しゅうげき被害ひがいしゃのための寄付きふきん活動かつどうおこなわれたこともほうじている[14]

抗議こうぎ活動かつどう

[編集へんしゅう]

事件じけんおこった群衆ぐんしゅう各地かくち暴動ぼうどうこし、これにより26めいのパレスチナじんと9めいのイスラエルじん死亡しぼうした。ヨルダンアンマンでは、77さいのイギリスじん旅行りょこうきゃくが、抗議こうぎ活動かつどうをしていたアラブじんされた。犯人はんにんのアラブじん2めい逮捕たいほされ、ヨルダン内務省ないむしょう国民こくみんたいし、冷静れいせいになり抗議こうぎ行動こうどう自省じせいするようびかけた[15]

その

[編集へんしゅう]

ゴールドシュテインがこのような行動こうどうをとった動機どうき不明ふめいである。しかし事件じけんからあいだもないころ、「カハ」から分離ぶんりしたニューヨークのカハネ主義しゅぎ団体だんたいカハネ・ハイ (Kach and Kahane Chai)」のスポークスマンは、ゴールドシュテインのしたしい友人ゆうじんはなしとして「かれイスラエルとパレスチナの和平わへいプロセス阻止そししたかったのだ。かれにとって襲撃しゅうげき実行じっこうは、ユダヤじん勝利しょうり記念きねんした祭日さいじつ「プリム」以外いがいになかった。」とべている (プリムは、古代こだいバビロニアで、あるユダヤじん女性じょせい勇気ゆうきふるって陰謀いんぼうくわだてるおう重臣じゅうしん告発こくはつし、ユダヤじん虐殺ぎゃくさつからすくったという旧約きゅうやく聖書せいしょなかの『エステル』の故事こじちなんだ祭日さいじつ)[16]

キルヤット・アルバのラビは、ゴールドシュテインへの弔辞ちょうじとしてつぎのようにべた「かれ医師いしとしてあまりにもおおくのことをすぎて、それらにえられなくなったのだ。それでかれがふれてしまったのだろう。」[17]

500めいのイスラエルの成人せいじん対象たいしょうに、国際こくさい中東ちゅうとう平和へいわセンター (the International Centre for Peace in the Middle East) が実施じっしした世論せろん調査ちょうさでは、78.8パーセントのひとはこの虐殺ぎゃくさつ非難ひなんしているが、3.6パーセントのひとはゴールドシュテインを賞賛しょうさんしているとの結果けっか[18]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ GENERAL YATOM PRESS CONFERENCE-27-Feb-94” (英語えいご). 外務省がいむしょう (イスラエル). 2006ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  2. ^ Report of Shamgar Commission p. 15; Timetable of Events, Exhibit 14, (ISA 7645/1-1/gimmel)
  3. ^ Evidence of Al-Mutlab Natshe, Cave of Machpelah, 25 February 1994, Exhibit 245, (Israel State Archives 7645/1-7/gimmel); Exhibit 824, op. cit.
  4. ^ Evidence of Al-Mutlab Natshe, Hebron Police Station, 31 October 1994, (Frishtik file)
  5. ^ Minutes of Shamgar Commission p. 2109
  6. ^ Pathologist's Report, 27 February 1994, Exhibit 1094, (Israel State Archives 7647/3-25/gimmel); see also Exhibit 162, p.2, op. cit.
  7. ^ "Hebron Massacre: Hell comes to a holy place", The Independent (London), 27 February 1994
  8. ^ ヘブロンのマクペラ洞窟どうくつで、悲劇ひげきおもいをはせながら… 2010ねん8がつ5にち1931ふん - 『朝日新聞あさひしんぶん』 金子かねこ貴一きいち
  9. ^ The Jewish Chronicle からの引用いんよう (London) 1994ねん3がつ4にちづけ, 1-2ぺーじ
  10. ^ こうかわ隆一りゅういち 『パレスチナ新版しんぱん』 p143-144
  11. ^ a b Commission of Inquiry Into the Massacre at the Tomb of the Patriarchs in Hebron - Excerpts from the Report” (英語えいご). 外務省がいむしょう (イスラエル). 2006ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  12. ^ The Jewish Chronicle からの引用いんよう (London) 1994ねん3がつ4にちづけ1,23ぺーじ
  13. ^ Chaim Bermant The Jewish Chronicle (London) 1994ねん3がつ4にちづけのコラム Has one settler settled the settlers future?
  14. ^ The Jewish Chronicle (London) 1994ねん3がつ4にちづけ
  15. ^ Barsky, Yehudit (2000ねん11月). “The Brooklyn Bridge Shooting: An Independent Report and Assessment” (英語えいご). The American Jewish Committee. http://www.ajc.org/site/apps/nl/content3.asp?c=ijITI2PHKoG&b=846739&ct=1044053 2006ねん6がつ12にち閲覧えつらん 
  16. ^ Geoffrey Paul (New York) and Jenni Frazer (Jerusalem) The Jewish Chronicle (London), 1994ねん3がつ4にちづけ記事きじ From Brooklyn to Kirya Arba
  17. ^ Ilana Baum and Tzvi Singer in Yediot Aharonot, 1994ねん2がつ28にちづけ
  18. ^ The Jewish Chronicle からの引用いんよう (London) 1994ねん3がつ4にちづけ, 2ぺーじ

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい3131ふん14びょう 東経とうけい356ふん51びょう / 北緯ほくい31.52056 東経とうけい35.11417 / 31.52056; 35.11417