この項目 こうもく では、オランダ人 じん の踊 おど り子 こ について説明 せつめい しています。日本 にっぽん のアミューズメント施設 しせつ の運営 うんえい 企業 きぎょう については「マタハリー 」を、その他 た の用法 ようほう については「マタ・ハリ (曖昧 あいまい さ回避 かいひ ) 」をご覧 らん ください。
マタ・ハリ (Mata Hari)ことマルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ (Margaretha Geertruida Zelle、1876年 ねん 8月 がつ 7日 にち - 1917年 ねん 10月15日 にち )は、フランス のパリ を中心 ちゅうしん に活躍 かつやく したオランダ のダンサー 、ストリッパー 。
マタ・ハリは元 もと はダンサーとしての芸名 げいめい だったが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にスパイ 容疑 ようぎ でフランス軍 ぐん に捕 と らえられ、有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けて処刑 しょけい された[1] ことで、後世 こうせい に女 おんな スパイの代名詞 だいめいし 的 てき 存在 そんざい となった[2] 。ただし、彼女 かのじょ のスパイとしての活動 かつどう については不 ふ 明確 めいかく な部分 ぶぶん が多 おお い。
オランダ フリースラント州 しゅう ・レーワルデン にて、アムステルダム 生 う まれのアーダム・ゼレ (1840年 ねん 10月2日 にち - 1910年 ねん 3月 がつ 10日 とおか )と、フリースラント 出身 しゅっしん の母 はは アンチェ・ファン・デル・ムーレン の間 あいだ にて、4人 にん 兄弟 きょうだい の長女 ちょうじょ として生 う まれる[3] 。後世 こうせい に知 し られる東洋 とうよう 風 ふう の芸名 げいめい である「マタ・ハリ」とは裏腹 うらはら に、マレー系 けい などの東洋 とうよう 系 けい の血 ち を引 ひ く祖先 そせん はいないとされている。父 ちち が石油 せきゆ 産業 さんぎょう への投資 とうし の成功 せいこう や人気 にんき 帽子 ぼうし 店 てん を経営 けいえい していたことにより、一家 いっか は贅沢 ぜいたく な暮 く らしができるほど裕福 ゆうふく であった[4] 。唯一 ゆいいつ の娘 むすめ ということもありマルハレータは父 ちち から溺愛 できあい され、何 なに 不自由 ふじゆう 無 な い生活 せいかつ を送 おく り、13歳 さい まで上級 じょうきゅう 学校 がっこう に通 かよ えた[5] 。
しかし、マルハレータの父 ちち が石油 せきゆ 株 かぶ 投資 とうし に失敗 しっぱい すると事態 じたい は一変 いっぺん する。損失 そんしつ を借金 しゃっきん で補填 ほてん すると、その借金 しゃっきん は雪 ゆき だるま式 しき に増 ふ えていき、1889年 ねん ついに破産 はさん 。その後 ご 両親 りょうしん は離婚 りこん し、マルハレータを含 ふく め子供 こども 達 たち はそれぞれ別 べつ の親戚 しんせき の元 もと へ引 ひ き取 と られる。母 はは は1891年 ねん に亡 な くなった[4] [5] 。父 ちち はアムステルダムにて、1893年 ねん 2月 がつ 9日 にち にスサンナ・カタリーナ(Susanna Catharina ten Hoove, 1844年 ねん 3月11日 にち - 1913年 ねん 12月1日 にち )と再婚 さいこん した。
一家 いっか は離散 りさん し、マルハレータは自分 じぶん の後見人 こうけんにん であるHeer Visserを頼 たよ ってライデン に移住 いじゅう する。経済 けいざい 的 てき 独立 どくりつ に迫 せま られ、同地 どうち にて幼稚園 ようちえん の教諭 きょうゆ になるために勉強 べんきょう するも、学長 がくちょう が彼女 かのじょ と露骨 ろこつ に戯 ざ れるようになった。これにより気分 きぶん を害 がい した後見人 こうけんにん の意見 いけん を学長 がくちょう がき入 きい れ、学長 がくちょう も自身 じしん の保身 ほしん からマルハレータを退学 たいがく 処分 しょぶん とする[4] [5] [6] 。わずか数 すう か月 げつ 後 ご 、彼女 かのじょ は叔父 おじ の家 いえ があるデン・ハーグ に逃 のが れている[6] 。
19歳 さい の時 とき 、新聞 しんぶん に掲載 けいさい された結婚 けっこん 相手 あいて 募集 ぼしゅう の広告 こうこく に応募 おうぼ し、21歳 さい 年上 としうえ のオランダ軍 ぐん 将校 しょうこう ルドルフ・ジョン・マクラウド Campbell Rudolph (John) MacLeod (1856–1928)大尉 たいい と結婚 けっこん する。出会 であ いから僅 わず か100日 にち のことだった。結婚 けっこん 後 ご は夫 おっと の仕事 しごと に伴 ともな い、駐留 ちゅうりゅう 先 さき のボルネオ 、スマトラ 、ジャワ へ帯同 たいどう し、一男 かずお 一女 いちじょ を儲 もう ける。しかし、元々 もともと 愛 あい のある結婚 けっこん ではなく、若 わか く派手 はで 好 す きなマルハレータとの価値 かち 観 かん の不一致 ふいっち に加 くわ えて夫 おっと の女癖 おんなぐせ の悪 わる さから、夫 おっと から暴力 ぼうりょく を日常 にちじょう 的 てき に受 う けるようになる。そして息子 むすこ が亡 な くなったことで、夫婦 ふうふ 仲 なか は決裂 けつれつ し、結婚 けっこん から7年 ねん 後 ご の1902年 ねん に、夫 おっと から一方 いっぽう 的 てき に離婚 りこん をい渡 いわた される。娘 むすめ は夫 おっと が引 ひ き取 と り、生涯 しょうがい 再会 さいかい することはなかった。元 もと 夫 おっと は別 べつ の女性 じょせい と再婚 さいこん した。
離婚 りこん したマルハレータはオランダへ帰国 きこく し、間 ま もなく職 しょく を求 もと めフランスのパリ へ渡 わた る。だが、なかなか恵 めぐ まれた仕事 しごと に就 つ く事 こと が出来 でき ず生活 せいかつ は困窮 こんきゅう していく。ある日 ひ 、友人 ゆうじん のパーティーの余興 よきょう で見 み よう見 み まねのジャワ舞踊 ぶよう を披露 ひろう するとそれが受 う け、ダンサーの話 はなし が持 も ちかけられる。1905年 ねん 、エキゾチックな容姿 ようし を活 い かし、「インドネシア ・ジャワ島 じゃわとう からやって来 き た王女 おうじょ 」ないしは「インド 寺院 じいん の踊 おど り巫女 ふじょ 」という触 ふ れ込 こ みでダンサーとしてデビュー。「オリエンタル・スタイル」の舞踊 ぶよう を演 えん じた。ショーは好評 こうひょう を博 はく し、興行 こうぎょう 的 てき にも成功 せいこう を収 おさ めた。この成功 せいこう を機 き にマルハレータの踊 おど りは話題 わだい となっていく。最初 さいしょ は小 ちい さなサロンで少 しょう 人数 にんずう の客 きゃく を相手 あいて に踊 おど りを披露 ひろう する程度 ていど であったが、やがて活動 かつどう の場 ば は欧州 おうしゅう 全土 ぜんど に広 ひろ がり、遂 つい にはイタリアのミラノ ・スカラ座 すからざ で公演 こうえん を果 は たすなど、一躍 いちやく 人気 にんき ダンサーとなった。この頃 ころ から、より観客 かんきゃく に受 う けるよう東洋 とうよう 的 てき な「マタ・ハリ」の芸名 げいめい を名乗 なの り始 はじ める。なお「マタ・ハリ」とは、「太陽 たいよう 」あるいは「日 にち の眼 め 」を意味 いみ するムラユ語 ご (マレー語 ご またはインドネシア語 ご )に由来 ゆらい する。
宝石 ほうせき とブラジャーを身 み に付 つ けたマタ・ハリ(1906年 ねん )
頭部 とうぶ に宝石 ほうせき を身 み に付 つ けたマタ・ハリ(1910年 ねん )
彼女 かのじょ はまた、多 おお くの高級 こうきゅう 士官 しかん あるいは政治 せいじ 家 か を相手 あいて とする高級 こうきゅう 娼婦 しょうふ でもあった。「マタ・ハリ」ことマルハレータは、数 かず 知 し れないほど多数 たすう のフランス軍 ぐん 将校 しょうこう あるいはドイツ軍 ぐん 将校 しょうこう とベッドを共 とも にしたとされ、国際 こくさい 的 てき な陰謀 いんぼう の道具 どうぐ となっていった。
1917年 ねん 2月 がつ 、彼女 かのじょ はフランスにおいて二 に 重 じゅう スパイとして第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で多 おお くのドイツ人 じん 、およびフランス人 じん 兵士 へいし を死 し に至 いた らしめたとの容疑 ようぎ で起訴 きそ された。その逮捕 たいほ は、ドイツの在 ざい スペイン 駐在 ちゅうざい 武官 ぶかん がマタ・ハリを暗号 あんごう 名 めい 「H-21」なるドイツのスパイとした通信 つうしん がフランスによって解読 かいどく されたことからなされた。しかし、2017年 ねん に公開 こうかい された情報 じょうほう によれば、マタ・ハリがフランス軍 ぐん およびドイツ軍 ぐん の諜報 ちょうほう 要員 よういん であったことは判明 はんめい したが、彼女 かのじょ の諜報 ちょうほう 活動 かつどう は非常 ひじょう に低質 ていしつ なものであり、フランス・ドイツのいずれの陣営 じんえい に対 たい しても有意義 ゆういぎ な情報 じょうほう をもたらしたという証拠 しょうこ は一 ひと つも見 み つからなかった。また、彼女 かのじょ の諜報 ちょうほう 活動 かつどう が具体 ぐたい 的 てき にどのようなものであったかについても、報酬 ほうしゅう 欲 ほ しさに功 こう を奏 そう しようとしたものが多 おお く、具体 ぐたい 性 せい 及 およ び実効 じっこう 性 せい は低 ひく かったことが判明 はんめい している。
当時 とうじ 、戦況 せんきょう はフランスにとって不利 ふり であり、政府 せいふ は戦争 せんそう による甚大 じんだい な被害 ひがい の責任 せきにん の所在 しょざい を追及 ついきゅう されていた。前年 ぜんねん のソンムの戦 たたか い でも、膨大 ぼうだい な損害 そんがい を出 だ しており、政府 せいふ に対 たい する国民 こくみん の不満 ふまん は頂点 ちょうてん に達 たっ していた。そのため、フランス政府 せいふ にとって全 すべ ての軍事 ぐんじ 上 じょう の失敗 しっぱい をマタ・ハリの責 せめ に帰 き することは大変 たいへん 好都合 こうつごう であり、輸送 ゆそう 船 せん がUボート に沈 しず められたのも彼女 かのじょ の働 はたら きにされた。マスコミもフランス軍 ぐん の作戦 さくせん 失敗 しっぱい 及 およ び大敗 たいはい の原因 げんいん をマタ・ハリに押 お し付 つ けるように報 ほう じ、彼女 かのじょ をかばうことはなかった。フランス・ドイツの両 りょう 国民 こくみん も、かつてのスターだったマタ・ハリを売国奴 ばいこくど として非難 ひなん した。
大戦 たいせん 中 ちゅう の1917年 ねん 7月 がつ 24日 にち 、彼女 かのじょ は有罪 ゆうざい となり死刑 しけい 判決 はんけつ が下 くだ された。同年 どうねん 10月15日 にち 、サンラザール刑務所 けいむしょ にて銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ せられた。処刑 しょけい 前 まえ 、マタ・ハリは泰然 たいぜん 自若 じじゃく としており、気付 きつ けのラム酒 しゅ 一口 ひとくち は受 う けたものの、目隠 めかく しならびに木 き にくくりつけられることは拒絶 きょぜつ したといわれている。
裁判 さいばん や処刑 しょけい については、さまざまな逸話 いつわ がある。よく知 し られたものは、裁判 さいばん の際 さい は処刑 しょけい を免 まぬか れるため支援 しえん 者 しゃ より妊娠 にんしん していると申告 しんこく するよう勧 すす められたが本人 ほんにん が拒否 きょひ したというものである。他 た には、処刑 しょけい の際 さい に銃殺 じゅうさつ 隊 たい はマタ・ハリの美貌 びぼう に惑 まど わされないよう目隠 めかく しをしなければならなかった、銃殺 じゅうさつ の前 ぜん 兵士 へいし たちにキスを投 な げた、あるいは銃殺 じゅうさつ 寸前 すんぜん にロング・コートをはだけられ、全裸 ぜんら で銃殺 じゅうさつ された、などの話 はなし もあるが、いずれも信憑 しんぴょう 性 せい には疑問 ぎもん が残 のこ る。また、ピエール・ド・モリサックなる青年 せいねん が銃殺 じゅうさつ 隊 たい に賄賂 わいろ を送 おく って銃 じゅう には空砲 くうほう が込 こ められるように図 はか られていたのに、実際 じっさい には実弾 じつだん が発射 はっしゃ されてしまい、彼 かれ の企 たくら みは失敗 しっぱい したというものもあるが、実際 じっさい にはありえないもので、プッチーニ のオペラ『トスカ 』にヒントを得 え た作 つく り話 ばなし と見 み られる。
『ブリタニカ百科 ひゃっか 事典 じてん 』によれば、マタ・ハリはしばしばマルハレータ・ヘールトロイダ・マクラウド とも名乗 なの り、舞台 ぶたい でも「レディー・マクラウド」と名乗 なの っていたこともあったという。
マタ・ハリの生家 せいか は美容 びよう 院 いん として使用 しよう されていたが、2013年 ねん 10月 がつ 19日 にち に火災 かさい で焼失 しょうしつ した[7] 。
マタ・ハリを題材 だいざい にしたフィクション作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
オランダにあるマタ・ハリの像 ぞう
^ “Mata Hari” . Encyclopædia Britannica . http://www.britannica.com/women/article-9051346 2007年 ねん 8月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん . "The daughter of a prosperous hatter, she attended a teachers' college in Leiden. In 1895 she married an officer of Scottish origin, Captain Campbell MacLeod, in the Dutch colonial army, and from 1897 to 1902 they lived in Java and Sumatra. The couple returned to Europe but later separated, and she began to dance professionally in Paris in 1905 under the name of Lady MacLeod. She soon called herself Mata Hari, said to be a Malay expression for the sun (literally, “eye of the day”). Tall, extremely attractive, superficially acquainted with East Indian dances, and willing to appear virtually nude in public, she was an instant success in Paris and other large cities."
^ 時事 じじ ドットコム:美人 びじん スパイの素顔 すがお 写真 しゃしん 特集 とくしゅう 時事通信 じじつうしん
^ www.praamsma.org - Mata Hari
^ a b c Article of the About.com Internet site. [1]
^ a b c Out of World of Biography Internet site. [2]
^ a b Mata Hari
^ 美人 びじん 女 おんな スパイ、マタ・ハリの生家 せいか 焼失 しょうしつ オランダ - AFPBB News 、2013年 ねん 10月 がつ 21日 にち
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