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マリア (マルタの妹) - Wikipedia コンテンツにスキップ

マリア (マルタのいもうと)

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ベタニアのせいマリア
イエスの接待せったいはたらあねマルタと説教せっきょうにききいるマリア(フェルメール
崇敬すうけいする教派きょうは 正教会せいきょうかい
カルゲドン
カトリック教会きょうかい
せい公会こうかい
記念きねん 7がつ29にち
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マリアベタニアのマリア)は、新約しんやく聖書せいしょ登場とうじょうする女性じょせいイスラエルエルサレム近郊きんこうベタニアおとうとラザロあねマルタともらし、イエス・キリストしたしかった。

2021ねん、カトリック教会きょうかいはマルタの記念きねんである7がつ29にちにマリア、ラザロをくわえることを発表はっぴょう施行しこうした[1]

マリアとマルタ

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イエスが彼女かのじょらのいえおとずれたときむかえたあねマルタが接待せったいのことでいそがしくしていたのにたいし、いもうとマリアはイエスのかた言葉ことばにききいっていた。この姉妹しまい態度たいどちが[2]は、伝統でんとうてきに「活動かつどうてき生活せいかつ」(vita activa)と「観想かんそうてき生活せいかつ」(vita contemplativa)をあらわすものであるとかんがえられてきた。教会きょうかい、とくに修道しゅうどう伝統でんとうのなかでは観想かんそうてき生活せいかつ重視じゅうしする論述ろんじゅつがなされるが、マイスター・エックハルトは、その説教せっきょうのなかで、活動かつどうてき生活せいかつとおしてかみ奉仕ほうしするマルタの態度たいどをキリストはよりよいものとしてよしみしたとする独自どくじ解釈かいしゃく提出ていしゅつしている(詳細しょうさい以下いかふし参照さんしょう)。また東方とうほう教会きょうかいにおいては、「観想かんそうてき生活せいかつ」と「活動かつどうてき生活せいかつ」はそれ自体じたいにおいて優劣ゆうれつをもたないが、マルタはマリアにたいする不平ふへいべたてんあやまりをおかしたとする理解りかいもみられる。

香油こうゆそそ

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またあるとき、マリアはイエスのあし香油こうゆそそぎ、そのあしみずからのかみぬぐった[3]。このはなし類似るいじのエピソード[4]合成ごうせいによるものかもしれない。この行為こういはイエスがキリストメシアあぶらそそがれししゃ)として祝福しゅくふくされること、あるいはちかたるべきそう暗示あんじする。実際じっさいのイエスのそうにはマグダラのマリア香油こうゆ用意よういした[5]ことから、ベタニアのマリアとマグダラのマリアはしばしば混同こんどうもしくは同一どういつされる。

マグダラのマリアとのどういち

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591ねんグレゴリウス1せいは、ベタニアのマリアとマグダラのマリア、またルカによる福音ふくいんしょ登場とうじょうする「つみおんな[6]どう一人物いちじんぶつとした。この理解りかい西方せいほう教会きょうかいカトリックでのみ支持しじされ、プロテスタント、せい公会こうかいおよ東方とうほう教会きょうかいぜん宗派しゅうはではれられずにわった。

マイスター・エックハルトの説教せっきょうにおけるげられかた

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文献ぶんけん情報じょうほう

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このマリアとマルタのはなし解釈かいしゃくした説教せっきょうは、田島たじま照久てるひさへんやく『エックハルト説教せっきょうしゅう[7]では説教せっきょうはちじゅうろく紹介しょうかいされている。この参照さんしょう番号ばんごうはQuintによる現代げんだいドイツ語どいつごやく全集ぜんしゅうおなじである。一方いっぽう、Pfeifferでは説教せっきょうきゅうとなる。冒頭ぼうとうラテン語らてんごでIntravit Iesus in quoddam castellum etc.というルカによる福音ふくいんしょ10:38-42からの引用いんようかかげられている。以下いか記述きじゅつはすべてこの田島たじまやく準拠じゅんきょする。

マルタの発言はつげん意図いと解釈かいしゃくした記述きじゅつ

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マイスター・エックハルトは、マルタの「おもよ、彼女かのじょわたし手伝てつだいをするようにめいじてください」という言葉ことばを、マルタが不機嫌ふきげんになってそういったのではなく、むしろあいから好意こういにかられて、いわばあい叱責しっせきとしてそうった、と解釈かいしゃくする。すなわち、マリアがイエスのもとにすわってなぐさめにたされていると、自分じぶんのぞむことならなにでもできるかのようにおもいこんでいるが、実際じっさいにそうであるかをマリアにさとらせてやってください、という意味いみとする。またおな説教せっきょうべつ個所かしょでは、マルタはマリアが歓喜かんき甘美かんびさのうちにまるのではないかと心配しんぱいし、そうならないようにねがった、と解釈かいしゃくしている。またべつ個所かしょでは、マリアがただ歓喜かんきってそこにすわってばかりいないで、それを本質ほんしつてきみずからのものとするために、きることをまなんでほしい、そうしてマリアが完全かんぜんなものになるようにてとめいじてくださいと、マルタがイエスにおねがいしたのだと解釈かいしゃくしている。そのようなマルタのねがいは、彼女かのじょ円熟えんじゅくしたたましい奥底おくそこからたものであった。それゆえにイエスは、「必要ひつようなことはただひとつだけである」とこたえたのである。

マルタの評価ひょうか

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マイスター・エックハルトはこの説教せっきょうなかで、マルタをマリアより成熟せいじゅくした女性じょせいとしてよりたか評価ひょうかあたえている。マルタが円熟えんじゅくした年齢ねんれいと「極限きょくげんにまできたかれた(たましいの)根底こんてい」をっていたとし、ながきることはもっと高貴こうき認識にんしきおくってくれるとたたえている。また、イエスが「マルタ、マルタ」とかい名前なまえんだ意味いみについて、いち度目どめには時間じかんてきはたらきのうちにあるマルタの完全かんぜんせいしめし、度目どめには永遠えいえんなる浄福じょうふくのためにマルタが必要ひつようなものすべてをっていることをしめしたとする。すなわち、マルタが時間じかんてきぜん永遠えいえんなるぜんすべて、つまりいち造物ぞうぶつ所有しょゆうできる一切いっさいのものをことごとくそなえていた、と完全かんぜんちか評価ひょうかあたえている。また、「マリアがマリアとなるまえに、マリアはまずマルタであった、なぜならおも足元あしもとすわったとき、マリアはマリアではなかった」という一文いちぶんてくる。これは意味いみとおらないが、田島たじまやくでは直後ちょくごに(マルタのようにならなければならなかった)という解釈かいしゃく挿入そうにゅうしている。この解釈かいしゃくは、こののちろん展開てんかいでマリアが学校がっこういち年生ねんせいたとえられているのにたいし、マルタはすでに完全かんぜん本質ほんしつてきかたっていたという対比たいひ、また「きたえられた身体しんたいち、賢明けんめいおしえに従順じゅうじゅんになってこそ、はじめてわたしはこれをマリアと名付なづける」といった記述きじゅつからその妥当だとうせい評価ひょうかできる。このように、マリアは未熟みじゅくであり、マルタは成熟せいじゅくしている、といった構図こうず評価ひょうかかえされているてんに、マイスター・エックハルト意図いとるべきであろう。最後さいごに、イエスがマルタにたいして「あなたはおもなやんでいる」とったのは、あなたはおおくの事物じぶつのかたわらにっているが、けっしてそれらの事物じぶつがあなたのうちにあるのではない、という意味いみであったと解釈かいしゃくし、とくおもなやみの「なか」と「かたわら」につことの差異さいとく注意ちゅういうながし、詳細しょうさい議論ぎろん展開てんかいする。結論けつろんとして、おもなやみの「かたわら」につとは、マルタがマリアのように精神せいしんてき陶酔とうすいうち自分じぶんあまやかすことなく、たましい下位かいしょちからもちいて苦労くろうとわずらわしさとのおお仕事しごとをもってたったことをしている、とまとめている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 一般いっぱんローマれき:7がつ29にちにマルタ、マリア、ラザロのさん聖人せいじん記念きねん. Vatican News. (2021ねん2がつ2にち). https://www.vaticannews.va/ja/church/news/2021-02/calendario-romano-memoria-santi-marta-maria-lazzaro.html 
  2. ^ ルカによる福音ふくいんしょ10:38-42
  3. ^ ヨハネによる福音ふくいんしょ12:1-8
  4. ^ マタイによる福音ふくいんしょ26:6-13, マルコによる福音ふくいんしょ14:3-9, ルカによる福音ふくいんしょ7:36-50
  5. ^ マルコ16:1, ルカ24:1
  6. ^ ルカ7:36-50
  7. ^ 『エックハルト説教せっきょうしゅう田島たじま照久てるひさへんやく岩波いわなみ文庫ぶんこ、1990ねん、306ぺーじISBN 978-4-00-338161-8 

関連かんれん項目こうもく

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