マーダブ・クマール・ネパール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーダブ・クマール・ネパール
माधव कुमार नेपाल
マーダブ・クマール・ネパール
生年月日せいねんがっぴ (1953-03-12) 1953ねん3月12にち(71さい
出生しゅっしょう ラウタハットぐん、ガウル
出身しゅっしんこう トリブバン大学だいがく
所属しょぞく政党せいとう ネパール共産党きょうさんとう (統一とういつ社会しゃかい主義しゅぎ)
配偶はいぐうしゃ ガヤトリ・アーチャリヤ

内閣ないかく ネパールないかく
選挙せんきょ  内閣ないかく指名しめい
在任ざいにん期間きかん 2009ねん5月25にち - 2011ねん2がつ6にち
大統領だいとうりょう ラーム・バラン・ヤーダブ

選挙せんきょ 内閣ないかく指名しめい

ネパール共産党きょうさんとう書記しょきちょう
統一とういつマルクス・レーニン主義しゅぎ
在任ざいにん期間きかん 1993ねん - 2008ねん
テンプレートを表示ひょうじ

マーダブ・クマール・ネパール(ネパール: माधव कुमार नेपाल, Madhav Kumar Nepal, 1953ねん3月12にち - )は、ネパール政治せいじ首相しゅしょう在任ざいにん2009ねん5月25にち - 2011ねん2がつ6にち)。

もとふく首相しゅしょうネパール統一とういつ共産党きょうさんとう(ネパール共産党きょうさんとう統一とういつマルクス・レーニン主義しゅぎもと書記しょきちょう1993ねん - 2008ねん)。制憲せいけん議会ぎかい議員ぎいん内閣ないかく指名しめい)。略称りゃくしょうマクネ」のしたしまれている。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

ネパール南部なんぶ、ラウタハットぐんガウルのバラモン階級かいきゅういえまれる。祖先そせんは200ねん以上いじょうまえインドビハールしゅうから移住いじゅうしてきた。ネパール母語ぼごであるが、英語えいごヒンディーマイティリボージュプリーにもつうじている[1]本来ほんらいせいは「ウパディヤイ」であったが、バラモン階級かいきゅうであることがかるせいなので、カースト制度せいど反対はんたいする意味いみ改名かいめいした。

インドビハールしゅう留学りゅうがくするが、病気びょうきのため帰国きこく1973ねんトリブバン大学だいがく商学部しょうがくぶそつ銀行ぎんこういん公務員こうむいんなどをつとめる。

政治せいじ活動かつどう[編集へんしゅう]

1969ねん以来いらい共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう参加さんか、「スボード」「スニル」「ラジャン」「ビベク」などの偽名ぎめい地下ちか活動かつどうおこなう。

1971ねん、ネパール革命かくめい機構きこう(マルクス・レーニン主義しゅぎ)の地区ちく委員いいんかいのメンバーとなる。

1975ねん6月7にちから翌日よくじつにかけてビラートナガルひらかれたぜんネパール共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい調整ちょうせい委員いいんかい(マルクス・レーニン主義しゅぎ)の大会たいかい書記しょききょくいん選出せんしゅつされる。

1976ねん政治せいじはんとして2年間ねんかん投獄とうごくされる。

1978ねんネパール共産党きょうさんとうマルクス・レーニン主義しゅぎ通称つうしょうマレ)の設立せつりつ参画さんかくし、政治せいじきょくいんとなる。

1990ねん民主みんしゅ運動うんどうジャナ・アンドラン)では指導しどうてき役割やくわりたした一人ひとりである[2]

1991ねんネパール共産党きょうさんとうマルクス主義まるくすしゅぎネパール共産党きょうさんとうマルクス・レーニン主義しゅぎ合同ごうどうによる、いわゆる統一とういつ共産党きょうさんとうネパール共産党きょうさんとう統一とういつマルクス・レーニン主義しゅぎ略称りゃくしょうUML 通称つうしょうエマレ)の結成けっせい参加さんか

1993ねん初代しょだい書記しょきちょうだったマダン・クマール・バンダリなぞ自動車じどうしゃ衝突しょうとつ死亡しぼうして以後いご、15ねんにわたり、統一とういつ共産党きょうさんとう書記しょきちょうつとめてきた(マン・モハン・アディカリはそのうえ議長ぎちょうだった)[3]

統一とういつ共産党きょうさんとう少数しょうすう与党よとうによるアディカリ内閣ないかく1994ねん11月30にち-1995ねん9月11にち)ではふく首相しゅしょうけん外相がいしょうけん国防こくぼうしょうつとめた[4][5]1999ねんにアディカリが死去しきょしたのち書記しょきちょう身分みぶん統一とういつ共産党きょうさんとう党首とうしゅつとめた。

かれによる内戦ないせんぐんによる弾圧だんあつによるのではなく、はないで解決かいけつするべきであると主張しゅちょうした[4]

2001ねんネパール王族おうぞく殺害さつがい事件じけんのちギリジャー・プラサード・コイララ首相しゅしょう辞任じにん要求ようきゅう[4]はん政府せいふ抗議こうぎ活動かつどうたいする弾圧だんあつなか逮捕たいほされる。

2006ねん民主みんしゅ運動うんどうロクタントラ・アンドラン)では7とう連合れんごう一員いちいんとして活動かつどうし、ギャネンドラ国王こくおう独裁どくさい政権せいけんたおした。

2008ねん4がつ12にちネパール制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょではカトマンズだい2選挙せんきょおよびラウタハットだい6選挙せんきょ重複じゅうふく立候補りっこうほりょう選挙せんきょ落選らくせんした。ネパールは統一とういつ共産党きょうさんとう敗北はいぼく責任せきにんをとって書記しょきちょう辞任じにんし、とう国際こくさい局長きょくちょうつとめた。後任こうにん書記しょきちょうにはジャラ・ナト・カナル就任しゅうにんした[6]統一とういつ共産党きょうさんとうはネパールを一時いちじ初代しょだい大統領だいとうりょう候補こうほげたが、協力きょうりょくられずりやめた。

2009ねん1がつ13にちプラチャンダ内閣ないかく指名しめいにより、制憲せいけん議会ぎかい議員ぎいんとなり、憲法けんぽう制定せいてい委員いいんかい議長ぎちょう就任しゅうにんした[7]

2009ねん2がつ統一とういつ共産党きょうさんとうだい8かいとう大会たいかいでは一旦いったん議長ぎちょう立候補りっこうほ表明ひょうめいしたが、のちK.P.シャルマ・オリ支持しじまわった。結果けっかてきにオリはジャラ・ナート・カナールやぶれた[8]

首相しゅしょう就任しゅうにん[編集へんしゅう]

2009ねん5月4にち国軍こくぐん参謀さんぼう総長そうちょう解任かいにんをめぐる紛争ふんそうプラチャンダ首相しゅしょう辞任じにんしたあと、5月23にち統一とういつ共産党きょうさんとうネパール会議かいぎされ、さらに態度たいど保留ほりゅうしてきたマデシ人権じんけんフォーラム支持しじまわり、22とう推薦すいせん投票とうひょう首相しゅしょう選出せんしゅつされた。など3とう投票とうひょうをボイコットした[9][10]

2010ねん6がつ辞任じにん表明ひょうめいしたが制憲せいけん議会ぎかいにおける首班しゅはん指名しめい選挙せんきょにて過半数かはんすう獲得かくとくする候補者こうほしゃあらわれず、同年どうねん9がつまで8かい選挙せんきょかえしているがいまだに後任こうにんまらない状況じょうきょうにあった[11]

日本にっぽんとの交流こうりゅう[編集へんしゅう]

首相しゅしょう就任しゅうにんまえ2008ねん8がつ中旬ちゅうじゅん来日らいにち。18にち国際こくさい協力きょうりょく機構きこう(JICA)で上田うえだ善久よしひさ理事りじ意見いけん交換こうかんした。同日どうじつ日本にっぽん共産党きょうさんとう本部ほんぶとう国際こくさい部長ぶちょう会談かいだん同日どうじつ夕方ゆうがた外務省がいむしょう訪問ほうもんし、御法川みのりかわ信英のぶひで大臣だいじん政務せいむかん表敬ひょうけいし、意見いけん交換こうかんおこなっている[12]よる日本にっぽんネパール協会きょうかい主催しゅさい都内とないのレストランで講演こうえんした。また19にち日本にっぽんネパール友好ゆうこう議員ぎいん連盟れんめいのメンバーと意見いけん交換こうかんした[13]。 ネパールのポカラ姉妹しまい都市とし関係かんけいにある長野ながのけん駒ヶ根こまがね親善しんぜん訪問ほうもんしている[14]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 佐伯さえき和彦かずひこ世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん明石書店あかししょてん、2003ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
プラチャンダ
ネパールの旗 ネパール連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわこく首相しゅしょう
だい3だい:2009ねん - 2011ねん
次代じだい
ジャラ・ナート・カナール
とうしょく
先代せんだい
マダン・クマール・バンダリ
ネパール共産党きょうさんとう書記しょきちょう
統一とういつマルクス・レーニン主義しゅぎ

1993ねん - 2008ねん
次代じだい
ジャラ・ナート・カナール