ネパール内戦ないせん

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ネパール内戦ないせん
Nepalese Civil War

内戦ないせんにより封鎖ふうさされ検問けんもんかれている道路どうろ
戦争せんそう:11年間ねんかんにわたりネパール政府せいふぐんネパール共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ(マオイスト)のあいだひろげられた内戦ないせん
年月日ねんがっぴ:1996ねん2がつ13にち - 2006ねん11月21にち
場所ばしょネパール
結果けっか包括ほうかつてき和平わへい合意ごうい締結ていけつ
交戦こうせん勢力せいりょく
武装ぶそう警察けいさつ
ネパールぐん

援助えんじょこく:
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく[1][2][3]

ネパール人民じんみん解放かいほうぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
ネパールの旗ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ
ネパールの旗シェール・バハドゥル・デウバ
ネパールの旗ギリジャー・プラサード・コイララ
ネパールの旗クリシュナ・プラサード・バッタライ
ピャール・ジャンガ・タパ
ルークマングド・カトワル
クリシュナ・モハン・シュレシュタ
プラチャンダ
バーブラーム・バッタライ
ナンダ・キショール・プン
プラバカール
アナンタ
損害そんがい
戦死せんししゃ4,500[4] 戦死せんししゃ8,200[4]

ネパール内戦ないせん(ネパールないせん)は、1996ねんから2006ねんにかけて、やく11年間ねんかんにわたるネパール政府せいふぐんネパール共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ(マオイスト)のあいだひろげられた内戦ないせん。マオイストがわ人民じんみん戦争せんそう呼称こしょうしている。マオイストは「人民じんみん解放かいほうぐん」を組織そしきし、山間さんかん農村のうそん中心ちゅうしんゲリラせん展開てんかい国土こくどのかなりの部分ぶぶん一説いっせつに8わり)を実効じっこう支配しはいしていた。

この内戦ないせんは「ネパール人民じんみん共和きょうわこく」の樹立じゅりつをめざすマオイストにより1996ねん2がつ13にち開始かいしされ、2006ねん11月21にち包括ほうかつてき和平わへい合意ごういにより終結しゅうけつした。終結しゅうけつ国際こくさい連合れんごうネパール支援しえんだん(UNMIN)により停戦ていせん監視かんし実施じっしされた(2011ねん1がつ15にち活動かつどう終了しゅうりょう)。

経過けいか[編集へんしゅう]

  • 1996ねん
    • 2がつ4にち、マオイストのバーブラーム・バッタライシェール・バハドゥル・デウバ首相しゅしょうに40かじょう要求ようきゅうきつけ、実施じっししないとはん政府せいふ活動かつどう開始かいしすると警告けいこくしたが、拒否きょひされる。
    • 2がつ13にちロルパぐんホレリ、ルクムぐんアトビスコット、シンドゥリぐんシンドゥリガディの警察けいさつしょ襲撃しゅうげき爆発ばくはつぶつなどをうばう。またゴルカぐん銀行ぎんこうおそう。人民じんみん戦争せんそう(ネパール内戦ないせん)のはじまり。なおこのとき使用しようしたライフルはプラチャンダが自分じぶん購入こうにゅうしたもの。
  • 1996ねん7がつ警察けいさつたたかう「スクアッド」(分隊ぶんたい)を編成へんせい
  • 1997ねん7がつ、「プラトーン」(小隊しょうたい)を編成へんせい
  • 1998ねん5月、ギリジャー・プラサード・コイララ内閣ないかく警察けいさつによるマオイスト掃討そうとう作戦さくせん「キロ・セラ2」展開てんかい
  • 1998ねん8がつ特殊とくしゅ活動かつどう部隊ぶたい編成へんせいひがしネパールにも活動かつどう展開てんかい
  • 2000ねん9月、ドルパぐんぐんちょう所在地しょざいちドゥナイ襲撃しゅうげき。(はじめてぐんちょう所在地しょざいち襲撃しゅうげき)500にん部隊ぶたい警察けいさつしょ刑務所けいむしょ銀行ぎんこうおそう。
  • 2000ねん12月、はじめてのぐん単位たんい人民じんみん政府せいふ、ルクムぐん樹立じゅりつ
  • 2001ねん
    • 2がつだい2かいとう総会そうかい人民じんみん解放かいほうぐん正式せいしき発足ほっそく決定けってい中央ちゅうおう人民じんみん政府せいふ樹立じゅりつ
    • 5月、ロルパぐん人民じんみん政府せいふ樹立じゅりつ
    • 6月1にちネパール王族おうぞく殺害さつがい事件じけんビレンドラ国王こくおうおう太子たいしディペンドラらが死亡しぼうし、6月4にちおうおとうとギャネンドラ即位そくい。ギャネンドラのクーデター論評ろんぴょう示唆しさしたバーブラーム・バッタライ、国家こっか反逆はんぎゃくざいわれる[6]
    • 7がつ12にち、ロルパホレリの警察けいさつしょ襲撃しゅうげき、69にん警官けいかん拉致らち
    • 7がつ21にち、バージュラぐん警察けいさつしょ襲撃しゅうげき、17にん警官けいかん死亡しぼう
    • 7がつ22にち政府せいふとマオイスト停戦ていせん合意ごうい。このあいだとう組織そしき全国ぜんこく拡大かくだい
    • 8がつ、クレリむらとう大会たいかい人民じんみん解放かいほうぐん結成けっせい中央ちゅうおう人民じんみん政府せいふとして統一とういつ革命かくめい人民じんみん評議ひょうぎかいネパール(バーブラーム・バッタライ議長ぎちょう発足ほっそく
    • 8がつ30にち、カトマンズ近郊きんこう政府せいふ担当たんとう大臣だいじんとマオイストの幹部かんぶとのはつ会談かいだん[7]会談かいだん不調ふちょうわる。
    • 9月21にち和平わへい交渉こうしょう決裂けつれつ
    • 11月23にち停戦ていせん破棄はき。ダーンぐんゴラヒ、シャンジャーぐんシャンジャーの軍兵ぐんびょうしゃ襲撃しゅうげき。23にん警官けいかん、14にん兵士へいし殺害さつがい大量たいりょう武器ぶき弾薬だんやく機関きかんじゅう迫撃はくげきほうなど奪取だっしゅ
    • 11月24にちプラチャンダ議長ぎちょう人民じんみん解放かいほうぐん結成けっせい自身じしん最高さいこう司令しれいかん就任しゅうにん発表はっぴょう
    • 11月25にち、ソルクンブーぐんぐんちょう所在地しょざいち軍兵ぐんびょうしゃ警察けいさつしょ襲撃しゅうげき
    • 11月26にち政府せいふ国家こっか非常ひじょう事態じたい宣言せんげん王室おうしつネパールぐん全面ぜんめん展開てんかい
    • 12月、24ぐん人民じんみん政府せいふ樹立じゅりつ
  • 2002ねん
    •   1000にん規模きぼ人民じんみん兵士へいしからなるブリゲード(旅団りょだん)を編成へんせい
    • 2がつ16にち、セティけんアチャームぐんマンガルセンおよびサンフェバガル空港くうこう警察けいさつたい同時どうじ襲撃しゅうげき国軍こくぐん兵士へいし57にん警官けいかん75にん民間みんかんじん5にん、マオイスト35にんふくむ170にん死亡しぼう
    • 5月ロルパぐんガムむら治安ちあん部隊ぶたいキャンプ襲撃しゅうげき。150にん死亡しぼう
    • 9がつ10日とおか、アルガカンチーぐんサンディカルカ襲撃しゅうげき政府せいふがわ69にん、マオイスト59にん死亡しぼう
    • 10月4にち、ギャネンドラ国王こくおう、デウバ首相しゅしょうぜん閣僚かくりょう解任かいにん直接ちょくせつ統治とうち宣言せんげん[8]
    • 10月11にちおう党派とうはロケンドラ・バハドゥル・チャンダ首相しゅしょう任命にんめい[8]
    • 国家こっか非常ひじょう事態じたい宣言せんげんから10がつまつまでに政府せいふがわ4050にんのマオイストを殺害さつがいしたとするが、アムネスティーによると、半数はんすう民間みんかんじんだという。
  • 2003ねん
    • 1がつ26にち武装ぶそう警察けいさつたいトップ、クリシュナ・モハン・シュレシュタ長官ちょうかんら、襲撃しゅうげきされ死亡しぼう[9]
    • 1がつ29にち政府せいふとマオイストが停戦ていせん合意ごうい[9]。7ヶ月かげつつづく。和平わへい交渉こうしょう不調ふちょう
    • 5月30にち、ギャネンドラ国王こくおう、チャンダ首相しゅしょう解任かいにん[10]
    • 6月5にち、ギャネンドラ国王こくおうおう党派とうはスーリヤ・バハドゥル・タパ後任こうにん首相しゅしょう任命にんめい[10]
    • 8がつ18にち治安ちあん部隊ぶたいがマオイストと衝突しょうとつ、マオイストがわ17にん死亡しぼう[9]
    • 8がつ27にち、プラチャンダ、停戦ていせん破棄はき宣言せんげん[9]停戦ていせん期間きかんちゅう師団しだん」を編成へんせい
    • 8がつ27にち、カトマンズで政府せいふぐん幹部かんぶ2にん襲撃しゅうげきされ、1人ひとり死亡しぼう[9]
    • 10がつ10日とおか、バンケぐんクスムの武装ぶそう警察けいさつキャンプ襲撃しゅうげき失敗しっぱい
    • 10月12にち、ダーンぐんバルワンの武装ぶそう警察けいさつキャンプ襲撃しゅうげき失敗しっぱい事前じぜん情報じょうほうれる。
    • 治安ちあん部隊ぶたい武器ぶきって投降とうこうしたマオイストに報復ほうふく旅団りょだんコマンダー、大隊だいたいコマンダー投降とうこう拷問ごうもんおこなわれた。
    • 11月、ひがしネパールに師団しだん結成けっせい。2師団しだん、7旅団りょだん、19大隊だいたい成長せいちょう
  • 2004ねん
    • 1がつ、3週間しゅうかんあいだに8自治じち人民じんみん政府せいふ樹立じゅりつ
    • 3月2にち、コシけんポージブルぐんぐんちょう所在地しょざいち襲撃しゅうげきひがしネパール最初さいしょだい規模きぼ襲撃しゅうげき
    • 3がつ20日はつか、ミャグディぐんベニで最大さいだい規模きぼ襲撃しゅうげき武装ぶそうマオイスト2600にんふくむ4500にんが11あいだ占拠せんきょ軍兵ぐんびょうしゃ警察けいさつしょ刑務所けいむしょ攻撃こうげき警官けいかん13にん兵士へいし2にん殺害さつがい全員ぜんいん降伏ごうぶく軍兵ぐんびょうしゃ占拠せんきょ断念だんねん政府せいふがわ40にん死亡しぼう民間みんかんじん19にん死亡しぼう
    • 6月4にち、ギャネンドラ国王こくおう、タパ首相しゅしょう解任かいにんし、デウバもと首相しゅしょう再任さいにん
  • 2005ねん
    • 7師団しだん整備せいび。4にんふく司令しれいかんく。
    • 2がつ1にち、ギャネンドラ国王こくおう、2度目どめのクーデターでぜん閣僚かくりょう解任かいにんふたた直接ちょくせつ統治とうち宣言せんげん
    • 4がつ、マオイスト、ゼネストびかけ。
    • 9月3にち、マオイスト、一方いっぽうてきに3ヶ月かげつ停戦ていせん宣言せんげん
    • 11月17にち7とう連合れんごうとマオイスト、ニューデリーで会合かいごう国王こくおう親政しんせい終結しゅうけつ制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょもとめるなど、12項目こうもく合意ごうい成立せいりつ
  • 2006ねん
    • 1がつ2にち、ロルパで治安ちあん部隊ぶたい掃討そうとう作戦さくせん。マオイスト、停戦ていせん破棄はき
    • 2がつ8にち統一とういつ地方ちほうせん。7とうとマオイストはボイコット。投票とうひょうりつ21%。
    • 3月14にち、マオイスト、カトマンズ期限きげん交通こうつう遮断しゃだん宣言せんげん
    • 4がつ3にち、マオイスト、期限きげん全国ぜんこく政治せいじスト。
    • 4がつ6にち、7とう連合れんごうのゼネスト開始かいし
    • 4がつ24にち国王こくおう主権しゅけん国民こくみん返還へんかんし、下院かいん再開さいかいすることを約束やくそく
    • 4がつ25にち、コイララもと首相しゅしょう首相しゅしょう再任さいにん
    • 4がつ26にち、マオイスト、3ヶ月かげつ停戦ていせん宣言せんげん
    • 6月16にち、プラチャンダ議長ぎちょうと7とう連合れんごう首脳しゅのう会談かいだん。プラチャンダ、はじめて記者きしゃだんまえ姿すがたせる。
    • 11月21にち政府せいふとのあいだで「包括ほうかつてき和平わへい合意ごうい成立せいりつ。ネパール内戦ないせん終結しゅうけつ

戦後せんご処理しょり[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Arms Transfers Database”. ストックホルム国際こくさい平和へいわ研究所けんきゅうじょ. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ PEOPLE'S REPUBLIC OF CHINA: China: Secretive arms exports stoking conflict and repression”. アムネスティ. 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  3. ^ “Chinese 'deliver arms to Nepal'”. BBC. (2005ねん11月25にち). http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4469508.stm 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん 
  4. ^ a b Ed Douglas. "Inside Nepal's Revolution..... (just to check..!!!)". National Geographic Magazine, p. 54, November 2005. Douglas lists the following figures: "Nepalis killed by Maoists from 1996 to 2005: 4,500. Nepalis killed by government in same period: 8,200."
  5. ^ 17,800 people died during conflict period, says Ministry of Peace
  6. ^ 佐伯さえき世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん』、p.681
  7. ^ 佐伯さえき世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん』、p.682
  8. ^ a b 佐伯さえき世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん』、p.683
  9. ^ a b c d e 佐伯さえき世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん』、p.684
  10. ^ a b 佐伯さえき世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん』、p.685

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 佐伯さえき和彦かずひこ世界せかい歴史れきし叢書そうしょ ネパールぜん明石書店あかししょてん、2003ねんISBN 4750317888 
  • Hutt, Michael, Himalayan People’s War: Nepal’s Maoist Rebellion, (London: Hurst and Co., 2004).
  • Karki, Arjun and David Seddon (eds.), The People’s War in Nepal: Left Perspectives, (New Delhi: Adroit, 2003).
  • Thapa, Deepak, with Bandita Sijapati, A Kingdom Under Siege: Nepal’s Maoist Insurgency, 1996–2003, (Kathmandu: The Printhouse, 2003).
  • 小倉おぐら清子きよこ『ネパール王制おうせい解体かいたい国王こくおう民衆みんしゅう確執かくしつんだマオイスト』日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、2007ねんISBN 4140910755

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]