ネパール内戦
ネパール Nepalese Civil War | |
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ネパール |
ネパール |
ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ シェール・バハドゥル・デウバ ギリジャー・プラサード・コイララ クリシュナ・プラサード・バッタライ ピャール・ジャンガ・タパ ルークマングド・カトワル クリシュナ・モハン・シュレシュタ |
プラチャンダ バーブラーム・バッタライ ナンダ・キショール・プン プラバカール アナンタ |
ネパール
この
経過 [編集 ]
- 1996
年 - 2
月 4日 、マオイストのバーブラーム・バッタライがシェール・バハドゥル・デウバ首相 に40か条 の要求 を突 きつけ、実施 しないと反 政府 活動 を開始 すると警告 したが、拒否 される。 - 2
月 13日 、ロルパ郡 ホレリ、ルクム郡 アトビスコット、シンドゥリ郡 シンドゥリガディの警察 詰 め所 を襲撃 、爆発 物 などを奪 う。またゴルカ郡 で銀行 を襲 う。人民 戦争 (ネパール内戦 )の始 まり。なおこのとき使用 したライフルはプラチャンダが自分 で購入 したもの。
- 2
- 1996
年 7月 、警察 と闘 う「スクアッド」(分隊 )を編成 。 - 1997
年 7月 、「プラトーン」(小隊 )を編成 。 - 1998
年 5月、ギリジャー・プラサード・コイララ内閣 、警察 によるマオイスト掃討 作戦 「キロ・セラ2」展開 。 - 1998
年 8月 、特殊 活動 部隊 を編成 。東 ネパールにも活動 を展開 。 - 2000
年 9月、ドルパ郡 郡 庁 所在地 ドゥナイ襲撃 。(初 めて郡 庁 所在地 を襲撃 )500人 の部隊 が警察 署 、刑務所 、銀行 を襲 う。 - 2000
年 12月、初 めての郡 単位 の人民 政府 、ルクム郡 で樹立 。 - 2001
年 - 2
月 、第 2回 党 総会 。人民 解放 軍 正式 発足 決定 。中央 人民 政府 樹立 。 - 5月、ロルパ
郡 人民 政府 樹立 。 - 6月1
日 、ネパール王族 殺害 事件 。ビレンドラ国王 、王 太子 ディペンドラらが死亡 し、6月4日 に王 弟 ギャネンドラが即位 。ギャネンドラのクーデターを論評 で示唆 したバーブラーム・バッタライ、国家 反逆 罪 に問 われる[6]。 - 7
月 12日 、ロルパホレリの警察 詰 め所 襲撃 、69人 の警官 拉致 。 - 7
月 21日 、バージュラ郡 の警察 詰 め所 襲撃 、17人 の警官 死亡 。 - 7
月 22日 、政府 とマオイスト停戦 合意 。この間 、党 組織 を全国 で拡大 。 - 8
月 、クレリ村 で党 大会 。人民 解放 軍 結成 。中央 人民 政府 として統一 革命 人民 評議 会 ネパール(バーブラーム・バッタライ議長 )発足 。 - 8
月 30日 、カトマンズ近郊 で政府 の担当 大臣 とマオイストの幹部 との初 会談 [7]。会談 は不調 に終 わる。 - 9月21
日 、和平 交渉 決裂 。 - 11月23
日 、停戦 破棄 。ダーン郡 ゴラヒ、シャンジャー郡 シャンジャーの軍兵 舎 襲撃 。23人 の警官 、14人 の兵士 殺害 。大量 の武器 弾薬 ・機関 銃 ・迫撃 砲 など奪取 。 - 11月24
日 、 プラチャンダ議長 、人民 解放 軍 結成 、自身 の最高 司令 官 就任 を発表 。 - 11月25
日 、ソルクンブー郡 郡 庁 所在地 で軍兵 舎 、警察 署 襲撃 。 - 11月26
日 、政府 、国家 非常 事態 宣言 、王室 ネパール軍 を全面 展開 。 - 12月、24
郡 で人民 政府 樹立 。
- 2
- 2002
年 - 1000
人 規模 の人民 兵士 からなるブリゲード(旅団 )を編成 。 - 2
月 16日 、セティ県 アチャーム郡 マンガルセンおよびサンフェバガル空港 警察 隊 同時 襲撃 。国軍 兵士 57人 、警官 75人 、民間 人 5人 、マオイスト35人 を含 む170人 死亡 。 - 5月ロルパ
郡 ガム村 の治安 部隊 キャンプ襲撃 。150人 死亡 。 - 9
月 10日 、アルガカンチー郡 サンディカルカ襲撃 。政府 側 69人 、マオイスト59人 死亡 。 - 10月4
日 、ギャネンドラ国王 、デウバ首相 ら全 閣僚 を解任 、直接 統治 を宣言 [8]。 - 10月11
日 、王 党派 のロケンドラ・バハドゥル・チャンダを首相 に任命 [8]。 国家 非常 事態 宣言 から10月 末 までに政府 側 4050人 のマオイストを殺害 したとするが、アムネスティーによると、半数 は民間 人 だという。
- 1000
- 2003
年 - 1
月 26日 、武装 警察 隊 トップ、クリシュナ・モハン・シュレシュタ長官 ら、襲撃 され死亡 [9]。 - 1
月 29日 、政府 とマオイストが停戦 に合意 [9]。7ヶ月 続 く。和平 交渉 不調 。 - 5月30
日 、ギャネンドラ国王 、チャンダ首相 を解任 [10]。 - 6月5
日 、ギャネンドラ国王 、王 党派 のスーリヤ・バハドゥル・タパを後任 の首相 に任命 [10]。 - 8
月 18日 、治安 部隊 がマオイストと衝突 、マオイスト側 17人 が死亡 [9]。 - 8
月 27日 、プラチャンダ、停戦 破棄 を宣言 [9]。停戦 期間 中 「師団 」を編成 。 - 8
月 27日 、カトマンズで政府 軍 幹部 2人 が襲撃 され、1人 が死亡 [9]。 - 10
月 10日 、バンケ郡 クスムの武装 警察 キャンプ襲撃 、失敗 。 - 10月12
日 、ダーン郡 バルワンの武装 警察 キャンプ襲撃 、失敗 。事前 に情報 漏 れる。 治安 部隊 、武器 を持 って投降 したマオイストに報復 。旅団 コマンダー、大隊 コマンダー投降 。拷問 も行 われた。- 11月、
東 ネパールに師団 を結成 。2師団 、7旅団 、19大隊 に成長 。
- 1
- 2004
年 - 2005
年 - 2006
年
戦後 処理 [編集 ]
出典 [編集 ]
- ^ “Arms Transfers Database”. ストックホルム
国際 平和 研究所 . 2019年 9月 17日 閲覧 。 - ^ “PEOPLE'S REPUBLIC OF CHINA: China: Secretive arms exports stoking conflict and repression”. アムネスティ. 2019
年 9月 17日 閲覧 。 - ^ “Chinese 'deliver arms to Nepal'”. BBC. (2005
年 11月25日 ) 2019年 9月 17日 閲覧 。 - ^ a b Ed Douglas. "Inside Nepal's Revolution..... (just to check..!!!)". National Geographic Magazine, p. 54, November 2005. Douglas lists the following figures: "Nepalis killed by Maoists from 1996 to 2005: 4,500. Nepalis killed by government in same period: 8,200."
- ^ 17,800 people died during conflict period, says Ministry of Peace
- ^
佐伯 『世界 歴史 叢書 ネパール全 史 』、p.681 - ^
佐伯 『世界 歴史 叢書 ネパール全 史 』、p.682 - ^ a b
佐伯 『世界 歴史 叢書 ネパール全 史 』、p.683 - ^ a b c d e
佐伯 『世界 歴史 叢書 ネパール全 史 』、p.684 - ^ a b
佐伯 『世界 歴史 叢書 ネパール全 史 』、p.685
参考 文献 [編集 ]
佐伯 和彦 『世界 歴史 叢書 ネパール全 史 』明石書店 、2003年 。ISBN 4750317888。- Hutt, Michael, Himalayan People’s War: Nepal’s Maoist Rebellion, (London: Hurst and Co., 2004).
- Karki, Arjun and David Seddon (eds.), The People’s War in Nepal: Left Perspectives, (New Delhi: Adroit, 2003).
- Thapa, Deepak, with Bandita Sijapati, A Kingdom Under Siege: Nepal’s Maoist Insurgency, 1996–2003, (Kathmandu: The Printhouse, 2003).
小倉 清子 『ネパール王制 解体 ―国王 と民衆 の確執 が生 んだマオイスト』日本 放送 出版 協会 、2007年 。ISBN 4140910755