プラチャンダ

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プラチャンダ
प्रचण्ड
プシュパ・カマル・ダハル(プラチャンダ)
生年月日せいねんがっぴ (1954-12-11) 1954ねん12月11にち(69さい
出生しゅっしょう カスキぐんディクルポカリむら
出身しゅっしんこう トリブバン大学だいがく農学のうがく動物どうぶつがく研究所けんきゅうじょ
ぜんしょく 農学のうがくしゃ教師きょうし
現職げんしょく 政治せいじ
所属しょぞく政党せいとう ネパール共産党きょうさんとう統一とういつ毛沢東もうたくとう主義しゅぎ
配偶はいぐうしゃ シータ・ポウデル(2023ねん死去しきょ

内閣ないかく だい3プラチャンダないかく
在任ざいにん期間きかん 2022ねん12月26にち -
大統領だいとうりょう ビドヤ・デビ・バンダリ
ラム・チャンドラ・パウデル

内閣ないかく だい2プラチャンダないかく
在任ざいにん期間きかん 2016ねん8がつ4にち - 2017ねん6月7にち
大統領だいとうりょう ビドヤ・デビ・バンダリ

内閣ないかく だい1プラチャンダないかく
在任ざいにん期間きかん 2008ねん8がつ18にち - 2009ねん5月25にち
大統領だいとうりょう ラーム・バラン・ヤーダブ

選挙せんきょ カトマンズだい10しょう選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 2008ねん5月28にち -

在任ざいにん期間きかん 1994ねん -
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プラチャンダネパール: प्रचण्ड, 英語えいご: Prachanda)ことプシュパ・カマル・ダハルネパール: पुष्प कमल दहल, 英語えいご: Pushpa Kamal Dahal, 1954ねん12月11にち - )は、ネパール政治せいじ革命かくめいもと軍人ぐんじんゲリラ)。現在げんざい同国どうこく首相しゅしょう(3)。

2016ねん8がつ3にちから2017ねん5月24にち2008ねん8がつ15にちから2009ねん5月4にちにも首相しゅしょうつとめた。ネパール共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ(マオイスト)議長ぎちょうネパール人民じんみん解放かいほうぐん最高さいこう司令しれいかんて、ネパール共産党きょうさんとう統一とういつ毛沢東もうたくとう主義しゅぎ(2009ねん1がつ12にち成立せいりつ議長ぎちょう。2008ねんより制憲せいけん議会ぎかい議員ぎいん

概要がいよう[編集へんしゅう]

演説えんぜつがうまく、党内とうない絶大ぜつだい指導しどうりょくっていたが、首相しゅしょうになってから党内とうないでの指導しどうりょく急速きゅうそく低下ていかした。11ねんにわたり政府せいふとのあいだ内戦ないせん(「人民じんみん戦争せんそう」)をおこなってきたが2006ねん停戦ていせん。「プラチャンダ」は「獰猛どうもうなやつ」という意味いみ変名へんめいである。

本名ほんみょうプシュパ・カマル・ダハルPushpa Kamal Dahal ネパール:पुष्प कमल दहल)。日本にっぽんでは、ネパール人名じんめい英語えいご表記ひょうきからじゅう翻訳ほんやくで「プシュパ・カマル・ダハル」、「プシュパ・カマール・ダハル」などと表記ひょうきされることが一般いっぱんてき[1]

親中しんちゅう做されている[2]

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ネパール西部せいぶカスキぐんポカラ近郊きんこうのディクルポカリむらバフンバラモン相当そうとうするネパールのカースト)の家庭かていまれた。民族みんぞくまとにはネパール最大さいだい民族みんぞくパルバテ・ヒンドゥーぞくする。ちちはムクティ・ラーム・ダハル、はははバワニ・ダハル。最初さいしょ名前なまえは「チャビラール・ダハル」。8にん兄弟きょうだい長男ちょうなんで、1人ひとりおとうとと、6にんいもうとがいた。

バフン階級かいきゅう出身しゅっしんだったがいえ小作こさくじんまずしかった。マヘンドラ国王こくおう国策こくさくにより、政府せいふ反抗はんこうてき南部なんぶのテライ平原へいげんマデス)をおもどおりに統治とうちするため、山岳さんがく丘陵きゅうりょう住民じゅうみん移住いじゅう政策せいさくがとられ、チャビラルが6さいのときダハル南部なんぶチトワンぐん移住いじゅうした。しかし、チトワンでの生活せいかつは、相変あいかわらずきびしいものであった。しかしこうした窮状きゅうじょうなかかれちち自給自足じきゅうじそくてき農業のうぎょうだい家族かぞくささえようとした。ちちかれによい教育きょういくけさせ、成人せいじんして「大人おとなぶつ」になることをのぞんだ。

少年しょうねん時代じだい友人ゆうじん近所きんじょ人々ひとびと記憶きおくによれば、かれしんやさしく、不正ふせい我慢がまんできない少年しょうねんだったという。バフンの家庭かていまれながらダリット(不可ふかさわみん)ともまじわった。

かれ寛大かんだい性格せいかくとハンサムな風貌ふうぼうから学校がっこう教師きょうしたちはその名前なまえを「プシュパ・カマル」(はちすはな)とづけた。これが現在げんざい本名ほんみょうである。シヴァナガルのナラヤニ・バイディア・マンディル高校こうこう卒業そつぎょう試験しけん合格ごうかくすると、かれパタン・キャンパスで科学かがくなかあいだ課程かてい修了しゅうりょうした。このとき共産きょうさん主義しゅぎつよ影響えいきょうける。

その故郷こきょうのチトワンぐんもどり、バラトプル郊外こうがいのラムプルにあるアメリカの出資しゅっしつくられた農業のうぎょう動物どうぶつがく大学だいがく進学しんがくする。ここで農学のうがく称号しょうごうる。

1976ねん大学だいがく卒業そつぎょうすると、ゴルカぐんのアルガットで学校がっこう教師きょうしとなり、生徒せいと保護ほごしゃからおおきな尊敬そんけいける。そこで2ねんはんすごした。生徒せいとおしえるだけでなく、毎週まいしゅういちかい文盲もんもう成人せいじんのための教室きょうしつひらき、あたらしい農業のうぎょう技術ぎじゅつおしえるとともに、マルクス主義まるくすしゅぎ思想しそうおしえた。

教職きょうしょくったのち、ジャジャルットで短期間たんきかんアメリカの出資しゅっしする農業のうぎょう開発かいはつプロジェクト(USAID)に参加さんかする。その革命かくめい運動うんどう専従せんじゅうすることになる。

政治せいじ活動かつどう[編集へんしゅう]

毛沢東もうたくとう主義しゅぎ結成けっせいまで[編集へんしゅう]

1971ねんネパール共産党きょうさんとう(プシュパ・ラル)に入党にゅうとう当初とうしょより武装ぶそう闘争とうそう必要ひつようせいかんじていた[3]。ネパール共産党きょうさんとう創立そうりつしゃ当時とうじ毛沢東もうたくとう影響えいきょうけていたプシュパ・ラル・シュレスタ影響えいきょうける。

1979ねん、ネパール共産党きょうさんとうチトワンぐん委員いいんかい委員いいん選出せんしゅつ1981ねんネパール共産党きょうさんとうだいよん会議かいぎ(Chautho Mahadhibeshan)専従せんじゅう党員とういんとなる。同年どうねんぜんネパール青年せいねん委員いいんかいぐん書記しょき局員きょくいん1983ねんぜんネパール青年せいねん委員いいんかい中央ちゅうおう委員いいんかい会長かいちょう

1984ねんネパール共産党きょうさんとうマシャル急進きゅうしんてき地下ちか政党せいとう)の中央ちゅうおう委員いいんかい委員いいんとなり、1985ねんには同派どうは政治せいじ局員きょくいんとなる[4]

1989ねん、モハン・バイディヤ(キラン)が武装ぶそう闘争とうそう失敗しっぱいでマシャルそう書記しょき辞任じにんしたため、プラチャンダは後任こうにんのマシャルそう書記しょき就任しゅうにん。このとき同志どうしにはキランのほか、チャンドラ・プラサッド・ガジュレルデヴ・グルンクリシュナ・バハドゥル・マハラなど現在げんざい毛沢東もうたくとう主義しゅぎ幹部かんぶになっているものもいた。マシャルは「ネパール共産党きょうさんとうだいよん会議かいぎ」と合同ごうどうし、「ネパール共産党きょうさんとう統一とういつセンター」(エカタ・ケンドラとも。これも地下ちか政党せいとう)を設立せつりつ。しかし1991ねん統一とういつセンター武装ぶそう闘争とうそう消極しょうきょくてきニルマル・ラマ積極せっきょくてきなプラチャンダ同名どうめいふたつの組織そしき分裂ぶんれつした。統一とういつセンター公然こうぜん組織そしき統一とういつ人民戦線じんみんせんせんネパールも分裂ぶんれつし、プラチャンダ公然こうぜん組織そしき議長ぎちょうには「ネパール共産党きょうさんとうマサル」を離脱りだつして「統一とういつセンター」に参加さんかしたバーブラーム・バッタライ就任しゅうにんする。バッタライはのち毛沢東もうたくとう主義しゅぎのNo.2となる。

1995ねん3月、プラチャンダはの「統一とういつセンター」をネパール共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ(いわゆるマオイスト)に改称かいしょうし、そう書記しょき就任しゅうにんする。

人民じんみん戦争せんそう[編集へんしゅう]

バーブラーム・バッタライ公然こうぜん組織そしき統一とういつ人民戦線じんみんせんせんネパールのデウバ首相しゅしょうに40かじょう要求ようきゅうをつきつけ、拒否きょひされると、プラチャンダの指揮しきのもと1996ねん2がつ13にちロルパルクムシンドゥリゴルカの4ぐん警察けいさつしょなどをおそい、武装ぶそう蜂起ほうきこす。これによりどうとうはネパール政府せいふとのあいだで11年間ねんかんにわたる「人民じんみん戦争せんそう」(ネパール内戦ないせん)を開始かいしした。この戦争せんそうで、13,000にん以上いじょう死亡しぼうしたとされる。

当初とうしょマオイスト軍備ぐんびきわめて粗末そまつなもので、猟銃りょうじゅうピストル警察官けいさつかん使つかうようなライフル、それにククリばれるナイフだった。グルカへいのシンボルになっているナイフである。ライフルはプラチャンダ自身じしんいにいったものであった。警察けいさつしょ次々つぎつぎおそい、最初さいしょいちねんはんで50にん殺害さつがいした。そうした実戦じっせん経験けいけんなか次第しだい武力ぶりょく増強ぞうきょうしていった。資金しきん獲得かくとくのため銀行ぎんこうおそった。一方いっぽう1998ねん政府せいふ警察けいさつによる本格ほんかくてき掃討そうとう作戦さくせん開始かいしし、両者りょうしゃ死者ししゃすうはエスカレートしていく。2000ねん9月はじめてぐんちょう所在地しょざいち襲撃しゅうげき2000ねん12月はじめてぐんレベルの人民じんみん政府せいふ確立かくりつ

2001ねん2がつインドパンジャーブしゅうひらかれただい2かいとう総会そうかいどうとう議長ぎちょう就任しゅうにん、「プラチャンダのみち」(プラチャンダ・パト)といわれる運動うんどう方針ほうしん採択さいたくした。これは、「農村のうそんから都市とし包囲ほういする」という毛沢東もうたくとう理論りろんだけでは不十分ふじゅうぶんだとかんがえ、農村のうそんゲリラと都市としプロパガンダを合体がったいさせるべきだというかんがかたである。これはペルー共産党きょうさんとうセンデロ・ルミノソ=「かがやけるみち」)の影響えいきょうけたといわれる。また、この大会たいかいネパール人民じんみん解放かいほうぐん正式せいしき結成けっせいまる。

2001ねんすえまでに24のぐん人民じんみん政府せいふ樹立じゅりつされた。

同年どうねん11月25にち国家こっか非常ひじょう事態じたい宣言せんげんされ、王室おうしつネパールぐん本格ほんかくてきにマオイスト掃討そうとうす。一方いっぽう、マオイストがわだい規模きぼぐん施設しせつ襲撃しゅうげきなどを頻発ひんぱつさせる。

農村のうそん地域ちいき中心ちゅうしん実効じっこう支配しはいすすめ、2003ねん、マオイスト実効じっこう支配しはい地域ちいき国土こくどの7わりから8わりめたと主張しゅちょうした。

和平わへい王制おうせい打倒だとう[編集へんしゅう]

演説えんぜつするプラチャンダ(ひだり)、2007ねん

2005ねん2がつ1にちギャネンドラ国王こくおう全権ぜんけん掌握しょうあくし、王政おうせい復古ふっこ絶対ぜったい君主くんしゅせい回帰かいきして親政しんせい開始かいししたことでアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリスインドから軍事ぐんじ援助えんじょ中止ちゅうしされ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくから武器ぶき支援しえん獲得かくとくした[5]同年どうねん、マオイスト国会こっかい勢力せいりょくっていた7とう連合れんごうとインドで会談かいだんし、じゅうじょう合意ごうい達成たっせい、ともに国王こくおう専制せんせい政治せいじたたかうことで合意ごうい

2006ねん4がつ国王こくおう独裁どくさい抗議こうぎする民主みんしゅ運動うんどうロクタントラ・アンドラン)がたかまり、マオイストカトマンズ中心ちゅうしん抗議こうぎ行動こうどうおこなう。この運動うんどうにより国王こくおう独裁どくさいせい放棄ほうきし、国王こくおうとしてのあらゆる特権とっけんうしなった。元首げんしゅ首相しゅしょう兼任けんにんすることになった。「王国おうこく」という国号こくごう廃止はいしされ、王制おうせいかたちだけのものとなった。

11月21にち、マオイスト政府せいふとのあいだ期限きげん停戦ていせん和平わへいちか包括ほうかつ和平わへい協定きょうてい調印ちょういん人民じんみん戦争せんそう終結しゅうけつした。りょうぐん国連こくれん停戦ていせん監視かんしのもとにかれている。このとき政府せいふとのあいだに「制憲せいけん議会ぎかい」をもうける約束やくそく締結ていけつされた。

2008ねん4がつ10日とおか制憲せいけん議会ぎかい選挙せんきょどうとうは220議席ぎせき獲得かくとくだいいちとうとなった(のち内閣ないかく指名しめい議席ぎせきくわわり、229議席ぎせきになった。)。プラチャンダ自身じしんカトマンズだい10しょう選挙せんきょ立候補りっこうほし、当選とうせんしている。しかし、とうとして過半数かはんすう議席ぎせき確保かくほできなかったのでとうとの連立れんりつ模索もさくせざるをなかった。

5月28にち制憲せいけん議会ぎかい宿願しゅくがん王制おうせい廃止はいし連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわせい採択さいたく議決ぎけつされる[6]。また、制憲せいけん議会ぎかいでの議論ぎろん結果けっか元首げんしゅである大統領だいとうりょう地位ちい象徴しょうちょうてきなものとし、首相しゅしょう政治せいじ実権じっけん集中しゅうちゅうすることがめられた。

5月31にち、「たいするメディアの批判ひはんゆるさない」という趣旨しゅし発言はつげんをして物議ぶつぎをかもした[7]主要しゅようメディアは呼称こしょうを「プラチャンダ」から本名ほんみょう「プシュパ・カマル・ダハル」にえて抵抗ていこうあらわした[8]

首相しゅしょう(1[編集へんしゅう]

2008ねん7がつ21にち執行しっこうされた大統領だいとうりょう選挙せんきょ決選けっせん投票とうひょうでは共和きょうわせい活動かつどうラム・ラジャ・プラサド・シン落選らくせんし、その擁立ようりつをめぐってのしこりで組閣そかくむずかしくなった。プラチャンダは組閣そかく放棄ほうき示唆しさ[9]、7がつ22にちには正式せいしき野党やとうになることを決定けっていした。しかし、大統領だいとうりょうラーム・バラン・ヤーダブがプラチャンダに「政党せいとうあいだ合意ごういによる政府せいふ」を組織そしきするよう指示しじ政党せいとうあいだ合意ごういにはいたらなかったが、一時いちじ関係かんけい険悪けんあくになっていた統一とういつ共産党きょうさんとうマデシ人権じんけんフォーラムとの関係かんけい改善かいぜんし、ネパール会議かいぎ下野げやする方針ほうしんかためたこともあり、プラチャンダは8がつ15にち制憲せいけん議会ぎかい投票とうひょうで464ひょう大量たいりょう得票とくひょう首相しゅしょう選出せんしゅつされ[10][11]8がつ18にち就任しゅうにんしきおこなった[12]対抗たいこうのネパール会議かいぎシェール・バハドゥル・デウバもと首相しゅしょう得票とくひょうは113ひょうとどまった[13][14][15]首相しゅしょう就任しゅうにん、プラチャンダはネパール人民じんみん解放かいほうぐん最高さいこう司令しれいかん辞任じにんし、制憲せいけん議会ぎかい議員ぎいんとなっていたプラバカールアナンタふく司令しれいかん辞任じにんした[16]。8月18にち挙行きょこうされた首相しゅしょう就任しゅうにんしきには、プラチャンダとしてはめずらしく、スーツとトーピー(ネパールぼう)というちでのぞんだ(外部がいぶリンク参照さんしょう)。

8がつ22にちはじめての外遊がいゆうとして北京ぺきんオリンピック開会かいかいしき出席しゅっせきのため中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく訪問ほうもん翌日よくじつ胡錦濤こきんとう国家こっか主席しゅせきゆたか家宝かほう首相しゅしょう会談かいだんした。ネパールの首相しゅしょうはじめての外遊がいゆうインド慣例かんれいで、インド神経しんけいとがらせた[17]

組閣そかく難航なんこうし、もうすこしで内閣ないかく成立せいりつするという段階だんかいネパール統一とういつ共産党きょうさんとう内閣ないかくNo.2のポストを要求ようきゅう入閣にゅうかく予定よていしゃ6にん就任しゅうにん保留ほりゅうした。帰国きこく、プラチャンダは統一とういつ共産党きょうさんとう譲歩じょうほし、単独たんどくふく首相しゅしょうポストをあたえることに同意どういした。8がつ31にち毛沢東もうたくとうのほか統一とういつ共産党きょうさんとうマデシ人権じんけんフォーラム人民戦線じんみんせんせんネパール友愛ゆうあいとうネパール共産党きょうさんとうユナイテッドからなる24にん連立れんりつないかく発足ほっそくした[18]。この政権せいけんではキャスティング・ボートをにぎっていた統一とういつ共産党きょうさんとう基本きほんてき毛沢東もうたくとう信用しんようしておらず、また、マデシ人権じんけんフォーラムと毛沢東もうたくとうはかつてころいをするほど対立たいりつした過去かこがあり[19]、そもそもおおきな不安定ふあんてい要因よういんかかえた政権せいけんであった。

また、10年間ねんかんてき味方みかたとしてたたかってきた人民じんみん解放かいほうぐん国軍こくぐん合同ごうどう問題もんだい政権せいけんアキレス腱あきれすけんとなった。これは、「包括ほうかつてき和平わへい協定きょうてい」での7とう連合れんごうあいだ合意ごうい事項じこうで、プラチャンダはじめマオイストはこれに積極せっきょくてきであったが、国軍こくぐん制服せいふくぐみのトップ、ルークマングド・カトワル陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう公然こうぜんとこれに反対はんたいしていた[20]人民じんみん解放かいほうぐん国軍こくぐん編入へんにゅうすると国軍こくぐん政治せいじし、中立ちゅうりつせいたもてないというのがその理由りゆうである。カトワルはもと国王こくおう・ギャネンドラの側近そっきんであり、かならずしも心底しんそこからプラチャンダ政権せいけん忠誠ちゅうせいちかっていなかった。

統一とういつセンター・マサルとの合同ごうどう[編集へんしゅう]

プラチャンダは2009ねん1がつ12にち、ネパール共産党きょうさんとう毛沢東もうたくとう主義しゅぎ小規模しょうきぼ共産きょうさん主義しゅぎ地下ちか政党せいとう・「ネパール共産党きょうさんとう統一とういつセンター・マサル」(エカタケンドラ・マサル。指導しどうしゃプラカシュ(ナラヤン・カジ・シュレスタ))およびその公然こうぜん組織そしき人民戦線じんみんせんせんネパールとの合同ごうどう断行だんこうしん政党せいとうネパール共産党きょうさんとう統一とういつ毛沢東もうたくとう主義しゅぎ結成けっせいした。これにともない、党内とうない序列じょれつ変化へんかがおきている[21][22]

プラチャンダ側近そっきん狙撃そげき事件じけん[編集へんしゅう]

2009ねん2がつ9にち、プラチャンダの筆頭ひっとう私設しせつ秘書ひしょでネパール共産党きょうさんとう統一とういつ毛沢東もうたくとう主義しゅぎ政治せいじ局員きょくいんであるシャクティ・バハドゥール・バスネットがカトマンズの自宅じたくちかくで何者なにものかに狙撃そげきされ負傷ふしょうした。[23]

首相しゅしょう辞任じにん[編集へんしゅう]

2009ねん5月4にち、プラチャンダは突然とつぜん首相しゅしょう辞任じにんした。

マオイスト以前いぜんより同派どうはの「とうへい組織そしき(「ネパール人民じんみん解放かいほうぐん」)の国軍こくぐん編入へんにゅう要求ようきゅうしていたが、国軍こくぐん制服せいふくぐみトップのカトワル陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょうは「ぐん中立ちゅうりつせいたもてない」とこれを拒否きょひ政党せいとうもマオイストもとゲリラ組織そしき国軍こくぐん掌握しょうあくすれば、恐怖きょうふ政治せいじ可能かのうせいがあると警戒けいかいした。ついに2009ねん5月3にち、プラチャンダはカトワル参謀さんぼう総長そうちょう解任かいにんめたが[24]、これにたいしヤーダブ大統領だいとうりょうどう3にちよる首相しゅしょう解任かいにん決定けってい[25]首相しゅしょう行為こういを「憲法けんぽう違反いはん」と批判ひはん。また制憲せいけん議会ぎかい連立れんりつむネパール統一とういつ共産党きょうさんとうなど主要しゅよう政党せいとう一斉いっせい反発はんぱつ、マオイストのぞ連立れんりつ政権せいけんかく与党よとう政権せいけんからの離脱りだつ示唆しさした。ぐん内部ないぶ大半たいはんがカトワルに忠誠ちゅうせいちかい、その解任かいにん反発はんぱつし、政権せいけん中心ちゅうしんにあったマオイストまたた孤立こりつした。ネパール会議かいぎなどの野党やとう勢力せいりょくもカトマンズなどで抗議こうぎデモを開始かいしし、治安ちあん部隊ぶたい鎮圧ちんあつ行動こうどうすなど国内こくない一気いっき緊迫きんぱくした。ただネパールの暫定ざんてい憲法けんぽうでは大統領だいとうりょうぐんトップの任命にんめいけんあたえているものの、解任かいにんけん明記めいきしていないため、プラチャンダは「大統領だいとうりょう越権えっけん行為こうい」と激怒げきど。4にちあさ緊急きんきゅう幹部かんぶかい招集しょうしゅうもとめ、対抗たいこうさく協議きょうぎした。しかしどう4にち、マオイスト以外いがい連立れんりつ与党よとう相次あいついで連立れんりつ政権せいけん離脱りだつ制憲せいけん議会ぎかい比較ひかくだい1とうであるものの主要しゅよう政党せいとう連立れんりつ離脱りだつ与党よとう過半数かはんすうり、められたプラチャンダはみずからテレビ演説えんぜつで「辞任じにんした」と発表はっぴょう中心ちゅうしん政権せいけんはわずか8カ月かげつあまりで崩壊ほうかいした[25]

5月23にち後任こうにん首相しゅしょう統一とういつ共産党きょうさんとうもとそう書記しょきマーダブ・クマール・ネパール投票とうひょう当選とうせんなど3とう投票とうひょうをボイコットした。プラチャンダひきいる野党やとうてんずる方向ほうこうとなった。

退任たいにん2011ねんには中国ちゅうごく国際こくさい連合れんごう協力きょうりょくによって釈迦しゃか生誕せいたんルンビニ世界せかい平和へいわ都市とし構想こうそうすすめるルンビニ開発かいはつ国家こっか指導しどう委員いいんかい議長ぎちょう就任しゅうにんしていた[26][27][28]

ビデオ事件じけん[編集へんしゅう]

プラチャンダが辞意じい表明ひょうめいしたよく5月5にち衝撃しょうげきてきなビデオ映像えいぞうがネパール国内こくないのテレビで放映ほうえいされた。2008ねん1がつ2にちにマオイスト人民じんみん解放かいほうぐん駐屯ちゅうとんおこなわれたプラチャンダの演説えんぜつ模様もようあきらかにによって撮影さつえいされたもの)であったが、このなかでプラチャンダは人民じんみん解放かいほうぐん規模きぼが「7,000にんから8,000にんである」と表明ひょうめいしている。国連こくれんネパール支援しえんだん(UNMIN)監視かんしした登録とうろくされた人民じんみん解放かいほうぐんかずは、やく35,000にんであり、その資格しかく審査しんさ合格ごうかくした兵士へいしやく20,000にんである。人民じんみん解放かいほうぐん人数にんずう水増みずましして登録とうろくされていたというのである。プラチャンダはさらに「解放かいほうぐん3,000にん国軍こくぐん編入へんにゅうされることにより、国軍こくぐん全体ぜんたい毛沢東もうたくとう主義しゅぎうごかせる。」とも発言はつげんしている。これはカトワル参謀さんぼうちょう主張しゅちょう裏付うらづける「物証ぶっしょう」ともいえる発言はつげんである。これは国民こくみんおよび国際こくさい社会しゃかいたいする重大じゅうだい背信はいしん行為こういられており、マオイストたいする信用しんよう失墜しっついとともに、国連こくれんによる今後こんご和平わへいプロセスに深刻しんこくかげとしかねない状況じょうきょうとなっている[29][30]

首相しゅしょう(2[編集へんしゅう]

インドナレンドラ・モディ首相しゅしょうみぎ)と

2016ねん8がつ3にちふたた首相しゅしょう指名しめいされ、さい登板とうばんたした。ネパール会議かいぎなどとの連立れんりつ政権せいけんで、2018ねん実施じっし想定そうていされているしん憲法けんぽうでのそう選挙せんきょ実施じっしするまえ政権せいけんをネパール会議かいぎわたすことが連立れんりつ条件じょうけんだったとされており[31]実際じっさいにプラチャンダは2017ねん5月24にち首相しゅしょう辞任じにんした[32]

首相しゅしょう(3[編集へんしゅう]

2022ねん11月の議会ぎかいそう選挙せんきょ連立れんりつ交渉こうしょう結果けっか、プラチャンダと統一とういつ共産党きょうさんとうK.P.シャルマ・オリりょうもと首相しゅしょう交互こうご首相しゅしょうつとめることとなり、12月25にちビドヤ・デビ・バンダリ大統領だいとうりょうがまずプラチャンダをしん首相しゅしょう任命にんめい、26にち首相しゅしょう就任しゅうにん宣誓せんせいおこない3政権せいけん発足ほっそくした[2][33]。しかし2023ねん2がつ24にち、プラチャンダは3がつ9にち予定よていされている大統領だいとうりょう選挙せんきょ統一とういつ共産党きょうさんとうではなく野党やとうネパール会議かいぎラム・チャンドラ・パウデル候補こうほ支持しじすることを表明ひょうめいしたため連立れんりつ政権せいけん亀裂きれつはし[34]、2がつ27にちには外相がいしょうふく首相しゅしょうけん財務ざいむしょうふく統一とういつ共産党きょうさんとう閣僚かくりょう8にん全員ぜんいん辞任じにん表明ひょうめいした[35]。3月9にち大統領だいとうりょう選挙せんきょ英語えいごばんでは連邦れんぽうしゅう議会ぎかい議員ぎいんによる投票とうひょう結果けっか、プラチャンダの思惑おもわくどおりパウデルが33,802ひょう獲得かくとくして当選とうせんし、統一とういつ共産党きょうさんとう候補こうほスバス・ネムバンは15,518ひょうにとどまった[36]

以降いこうはネパール会議かいぎ支援しえんけて政権せいけん維持いじしたが、2024ねん3がつ4にちにプラチャンダは指導しどうあいだ見解けんかい相違そうい理由りゆうにネパール会議かいぎとの協力きょうりょく関係かんけい解消かいしょうし、シャルマ・オリひきいる統一とういつ共産党きょうさんとうあらたに同盟どうめい締結ていけつ[37]りょうとうラストリヤ・スワタントラとう英語えいごばんネパール共産党きょうさんとう統一とういつ社会しゃかい主義しゅぎくわえた4とうによる連立れんりつ政権せいけん発足ほっそくし、3月6にちふく首相しゅしょうふくむ16にん閣僚かくりょうえる大幅おおはば内閣ないかく改造かいぞう実施じっしした[38]

その[編集へんしゅう]

  • ネパール内戦ないせんのころ、マオイスト支配しはい地域ちいきには、農村のうそん各地かくち巡業じゅんぎょうしながら、演劇えんげきによってマオイストの正義せいぎ国王こくおう残虐ざんぎゃくせい宣伝せんでんする宣伝せんでん工作こうさくたい存在そんざいした。あるとき、過去かこのマオイストのたたかいをテーマにしたオペラを上演じょうえんしたところ、ていたプラチャンダはサングラスをなんもはずし、なみだをぬぐったという[39]
  • 息子むすこプラカシュ・ダハル登山とざんたい「ルンビニ=エベレスト平和へいわミッション2012」隊長たいちょうとしてエベレスト登頂とうちょう成功せいこうして山頂さんちょう毛沢東もうたくとう主義しゅぎはたかかげたことで有名ゆうめいである[40]
  • ネパールのジャーナリスト、スディル・シャルマは、プラチャンダの弱点じゃくてん野心やしんつよすぎることだと指摘してきしている[41]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ネパールにはミドルネームの概念がいねんがないため、ファーストネームとミドルネームは、ひとつながりの名前なまえとして表記ひょうきされる。
  2. ^ a b “ネパール「毛沢東もうたくとう主義しゅぎ議長ぎちょう首相しゅしょうに 中国ちゅうごく外交がいこう転換てんかん可能かのうせい. 朝日新聞あさひしんぶん. (2022ねん12月27にち). https://www.asahi.com/articles/ASQDW03YYQDVUHBI02M.html 2022ねん12月28にち閲覧えつらん 
  3. ^ 小倉おぐら清子きよこ『ネパール王制おうせい崩壊ほうかい
  4. ^ http://www.opmcm.gov.np/index.php?param=p7
  5. ^ “Chinese 'deliver arms to Nepal'”. BBC. (2005ねん11月25にち). http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4469508.stm 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん 
  6. ^ MSN『産経新聞さんけいしんぶんほか各紙かくし
  7. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』。
  8. ^ 『カトマンズ・ジャーナル』。
  9. ^ Bloomberg
  10. ^ The Himalayan Times 15th Aug. 2008
  11. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 2008ねん8がつ15にち[リンク]
  12. ^ en:Prachanda 12:32, 20 August 2008
  13. ^ https://web.archive.org/web/20130517234332/http://blogs.yahoo.co.jp/nepal_journal/56009842.html
  14. ^ http://blogs.yahoo.co.jp/nepal_journal/56229450.html
  15. ^ The Himalayan Times 15 Aug. 2008
  16. ^ 『カトマンズ・ジャーナル』 2008ねん8がつ16にち
  17. ^ Nepalnews.com Aug18 2008ほか
  18. ^ http://www.nepalnewsmobile.com/2008/aug/aug31/news10.php
  19. ^ マデシ人権じんけんフォーラム
  20. ^ http://www.kantipuronline.com/kolnews.php?nid=158793
  21. ^ http://news.xinhuanet.com/english/2009-01/13/content_10650636.htm
  22. ^ https://web.archive.org/web/20130510192900/http://blogs.yahoo.co.jp/nepal_journal/58218966.html
  23. ^ http://www.nepalnews.com/archive/2009/feb/feb09/news20.php
  24. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』2009ねん5がつ4にち東京とうきょうばん朝刊ちょうかん、4ぺーじ
  25. ^ a b 朝日新聞あさひしんぶん』2009ねん5がつ5にち東京とうきょうばん朝刊ちょうかん、4ぺーじ
  26. ^ “Questionable Wisdom of Ban Ki-moon's Visit to Lumbini”. Inter Press Service. (2012ねん3がつ12にち). http://www.ipsnews.net/2012/03/questionable-wisdom-of-ban-ki-moonrsquos-visit-to-lumbini/ 2017ねん6がつ5にち閲覧えつらん 
  27. ^ "Foundation, UN to transform Buddha's birthplace", China Daily, 18 July 2011.
  28. ^ “China Banks on Buddhism”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2013ねん8がつ21にち). https://www.wsj.com/articles/china-banks-on-buddhism-1377121691 2019ねん9がつ17にち閲覧えつらん 
  29. ^ カトマンズ・ジャーナル 2009ねん5がつ5にち
  30. ^ けぇ がるね?日記にっき 2009ねん5がつ5にち
  31. ^ “ネパールしん首相しゅしょうのプラチャンダ議長ぎちょう選出せんしゅつ. 読売新聞よみうりしんぶん. (2016ねん8がつ3にち). https://web.archive.org/web/20160805103246/http://www.yomiuri.co.jp/world/20160803-OYT1T50141.html 2016ねん8がつ3にち閲覧えつらん 
  32. ^ ネパールのダハル首相しゅしょう辞任じにん 産経新聞さんけいしんぶん 2017ねん5がつ24にちづけ
  33. ^ “Maoist chief Pushpa Kamal Dahal ‘Prachanda’ becomes Nepal’s new PM”. Indian Express Limited. (2022ねん12月26にち). https://indianexpress.com/article/world/pushpa-kamal-dahal-prachanda-appointed-new-prime-minister-nepal-8343712/ 2022ねん12月26にち閲覧えつらん 
  34. ^ “Nepal’s coalition in trouble as deputy PM, ministers resign”. Al Jazeera English. アルジャジーラ. (2023ねん2がつ25にち). https://www.aljazeera.com/news/2023/2/25/nepals-ruling-coalition-in-turmoil-deputy-pm-ministers-resign 2023ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
  35. ^ “Former Nepal PM Oli's party CPN-UML withdraws support to Prachanda-led government”. インディア・トゥデイ. (2023ねん2がつ27にち). https://www.indiatoday.in/world/story/nepal-cpn-uml-withdraws-support-pm-pushpa-kamal-dahal-prachanda-govt-2340283-2023-02-27 2023ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
  36. ^ “Ram Chandra Paudel elected Nepal’s third president amid crisis”. Al Jazeera English. アルジャジーラ. (2023ねん3がつ9にち). https://www.aljazeera.com/news/2023/3/9/nepal-elects-its-new-president-ram-chandra-paudel 2023ねん3がつ10日とおか閲覧えつらん 
  37. ^ “Nepal PM 'Prachanda' terminates alliance with Nepali Congress, reshuffles cabinet”. Deccan Herald. (2024ねん3がつ4にち). https://www.deccanherald.com/world/nepal-pm-prachanda-set-to-forge-new-alliance-with-ex-premier-olis-party-after-splitting-with-nepali-congress-2920727 2024ねん3がつ7にち閲覧えつらん 
  38. ^ “Nepal PM Prachanda appoints 16 new ministers, including three deputy PMs”. Deccan Herald. (2024ねん3がつ7にち). https://www.deccanherald.com/world/nepal-pm-prachanda-appoints-16-new-ministers-including-three-deputy-pms-2925222 2024ねん3がつ7にち閲覧えつらん 
  39. ^ カトマンズ・ジャーナル 2006ねん5がつ3にち
  40. ^ “Prakash Dahal's expedition team reaches peak of Mt. Everest”. Nepal News. (2012ねん5がつ26にち). http://test.nepalnews.com/index.php/politics-archive/19059-prakash-dahals-expedition-team-reaches-peak-of-mt-everest 2017ねん6がつ5にち閲覧えつらん 
  41. ^ 小倉おぐら清子きよこ『ネパール王制おうせい解体かいたい』。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 『ネパール王制おうせい解体かいたい』(小倉おぐら清子きよこちょ日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
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ネパールの旗 ネパール連邦れんぽう民主みんしゅ共和きょうわこく首相しゅしょう
だい2だい:2008ねん - 2009ねん
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(ネパール共産党きょうさんとう統一とういつセンター議長ぎちょう