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メルキオーレ・チェザロッティ

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メルキオーレ・チェザロッティ

メルキオーレ・チェザロッティ英語えいご:Melchiore Cesarotti1730ねん5月15にち - 1808ねん11月4にち)は、イタリアヴェネツィア共和きょうわこく支配しはいパドヴァ出身しゅっしん文学ぶんがくしゃ詩人しじん翻訳ほんやく

チェザロッティはフランス革命かくめい支持しじした啓蒙けいもう主義しゅぎしゃ1763ねんに『オシアン』をイタリア翻訳ほんやくし、イタリア文学ぶんがくさかいロマン主義しゅぎ気運きうん旋風せんぷうこしたとして名高なだか[1][2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1730ねん5がつ15にち、イタリア・パドヴァにてまずしい貴族きぞくもとまれる。

1763ねんにチェザロッティはスコットランド作家さっか政治せいじ詩人しじん文芸ぶんげい収集しゅうしゅうであるジェイムズ・マクファーソンあらわした『オシアン』をイタリア翻訳ほんやくし、フランス軍人ぐんじんナポレオン・ボナパルト愛読あいどくしょひとつとなった。

1768ねんパドヴァ大学だいがくギリシアヘブライ古典こてん教授きょうじゅとしてつとめる[2]。なお、チェザロッティのおしであったイタリアの詩人しじんであるウーゴ・フォスコロらが影響えいきょうけた。

パドヴァ大学だいがくつとめているあいだ古代こだいギリシア吟遊詩人ぎんゆうしじんであるホメーロスちょ叙事詩じょじしイーリアス』も翻訳ほんやくした。

1785ねんまたは1800ねん主著しゅちょ言語げんご哲学てつがくろん稿こう』をあらわして言語げんご問題もんだいかんして重要じゅうよう著作ちょさくとなった[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 万有ばんゆう百科ひゃっかだい事典じてん 1973, p. 375.
  2. ^ a b c 古賀こが弘人ひろと. “チュコフスキー”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)(コトバンク). 2019ねん6がつ10日とおか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]