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モジャイスク

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標ざひょう: 北緯ほくい5530ふん 東経とうけい3602ふん / 北緯ほくい55.500 東経とうけい36.033 / 55.500; 36.033

モジャイスクのしん聖堂せいどう(1802ねん–1814ねん 建設けんせつ
モジャイスク市街地しがいち

モジャイスクロシア: Можайск, Mozhaysk)は、ロシアモスクワしゅう古都こと人口じんこうは3まん3880にん(2021ねん[1]モスクワ西にし110kmに位置いちする。モスクワとスモレンスクポーランドむす東西とうざい方向ほうこう商業しょうぎょうの、またノヴゴロドトヴェリとロシア南部なんぶとをむす南北なんぼく方向ほうこう商業しょうぎょう中継ちゅうけい都市としとして発展はってんした。、モスクワがわとモジャイカがわ合流ごうりゅう地点ちてんにある。

文献ぶんけん最初さいしょ存在そんざい確認かくにんできるのは、1231ねんであり、そのときにはチェルニーゴフこうミハイル領地りょうちとしてであった。モンゴルの攻撃こうげきのちスモレンスク公国こうこく所領しょりょうになり、1303ねんモスクワのユーリー(ユーリー・ダニーロヴィチ)によりとされモスクワ大公たいこうこく支配しはいはいった。しかしその14世紀せいきなかばにはルーシへ勢力せいりょく拡大かくだいしたゲディミナスあさリトアニア大公たいこうこくアルギルダスとのあいだはげしい争奪そうだつ対象たいしょうとなった。1493ねんまで、モジャイスクこうには代々だいだいのモスクワ大公たいこうおとうといている。

モジャイスクはモスクワと西方せいほうむす商業しょうぎょうまちである一方いっぽう西にしからモスクワへはい外敵がいてきたいする防御ぼうぎょでもあった。17世紀せいき初頭しょとう動乱どうらん時代じだい(スムータ)にはロシア・ポーランド戦争せんそうこり、モスクワへポーランド・リトアニア共和きょうわこくぐん蹂躙じゅうりんされた。ポーランドぐん追放ついほうのためにちあがったドミトリー・ポジャルスキーひきいる義勇軍ぎゆうぐんは、1612ねん8がつ21にちから24にちにかけ、モジャイスクでポーランド・リトアニアぐん戦闘せんとうおこなった。1812ねんロシア戦役せんえきでは、1812ねん9がつ7にちナポレオン・ボナパルトひきいる大陸たいりくぐんとロシアぐんとのボロジノのたたかがモジャイスクの12kmさきボロジノむらこっている。ナチス・ドイツとのあいだどくせん(「だい祖国そこく戦争せんそう」)では、ドイツ国防こくぼうぐんは1941ねん10がつ16にち多大ただい犠牲ぎせいはらってモジャイスクを占領せんりょうし、モスクワ手前てまえ最終さいしゅう防衛ぼうえいせんまでの進路しんろひらいた。その1942ねん1がつ20日はつかには赤軍せきぐん奪回だっかいしている。

モジャイスクのクレムリン城塞じょうさい)には、14世紀せいき初頭しょとう最初さいしょ石造せきぞう聖堂せいどうてられた。この聖堂せいどうは1849ねん解体かいたい修理しゅうりをされている。1814ねんにはこれよりもおおきなゴシックリバイバル様式ようしきあかレンガのだい聖堂せいどう建設けんせつされた。そのきよしイオアキムきよしアンナ聖堂せいどうは15世紀せいき初頭しょとう建設けんせつされた聖堂せいどうをもとにしており、部分ぶぶんてきに15世紀せいき当時とうじ姿すがたのこす。せいフェラポントが1408ねん開設かいせつした修道院しゅうどういん重要じゅうようどころである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ city population”. 2023ねん5がつ17にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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