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ラヴォ王国おうこく

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ラヴォ王国おうこく
ドヴァーラヴァティー王国 450ねん - 1388ねん ハリプンチャイ王国
アユタヤ王朝
ラヴォの位置
11世紀せいきのラヴォ王国おうこく水色みずいろ
公用こうよう モン
首都しゅと ラヴォ(-1087ねん
アヨダヤ(1087-1388ねん
元首げんしゅとう
xxxxねん - xxxxねん 不明ふめい
変遷へんせん
設立せつりつ 450ねん
アユタヤ王国おうこく併合へいごう1388ねん

ラヴォ王国おうこく(ラヴォおうこく)は、チャオプラヤがわ左岸さがん上流じょうりゅうからドヴァーラヴァティー王国おうこく領域りょういきまでたっする、1388ねんまで存在そんざいした国家こっかマンダラろん参照さんしょう)。発祥はっしょうはラヴォ (Lavo現在げんざいロッブリー)であるが、は11世紀せいきごろみなみのアヨダヤにうつり、近年きんねん歴史れきし分析ぶんせきによるとこれがアユタヤ王国おうこくになった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ラヴォの伝説でんせつじょう最初さいしょおうとされるプラヤ・カラヴァーナディトゥ (Phraya Kalavarnadit) は、ドヴァーラヴァティーの都市とし国家こっかぐんの1つとして450ねんごろにラヴォのまち建設けんせつしたといわれている[1]。カラヴァーナディトゥはチュラサカラジュ (Chulasakaraj) とばれるあたらしい時代じだいつくり、チュラサカラジュはシャムじんビルマじんによって19世紀せいきまでつづいた。チェンライシャーナヴァルマン1せい英語えいごばんは7世紀せいき遠征えんせい影響えいきょうりょくをチャオプラヤたにまでひろげた[2]。チェンラの覇権はけんくっしたドヴァーラヴァティー都市としぐんはラヴォとなり、西にし都市としぐんスワンナプーム形成けいせいした[3]。ラヴォはクメールがドヴァーラヴァティーを支配しはいする中心ちゅうしんだった。

クメールの影響えいきょう建築けんちくおもわれるプラーン・サームヨート寺院じいん

初期しょきのラヴォの母語ぼごモンだけとかんがえられている。しかし、ラヴォがモンぞくだけのくにであったかには議論ぎろんがある。それでもなお、ドヴァーラヴァティー時代じだい初期しょきにはマレーじんクメールじん故郷こきょうでもあった。歴史れきしなかには、ラヴォはモンぞくラワぞく混合こんごう[4][5]で、モンぞく支配しはいそうであったと主張しゅちょうするものもいる。ラヴォ王国おうこく支配しはいタイぞくがチャオプラヤだに移住いじゅうしてたという仮説かせつもある。クメールからのヒンドゥーきょう大乗だいじょう仏教ぶっきょう影響えいきょうおおきかったが、ラヴォでは上座かみざ仏教ぶっきょう主要しゅよう宗教しゅうきょうでありつづけた[6]。 7世紀せいき後半こうはん、ラヴォはきた拡大かくだいした。モンぞく国家こっかであるハリプンチャイ王国おうこく初代しょだい支配しはいしゃチャマデヴィ英語えいごばんはラヴォおうむすめといわれている。ラヴォ王国おうこく起源きげんかんする資料しりょうすくなく、いまかっている情報じょうほうのほとんどは考古学こうこがくてき調査ちょうさによる。とう年代ねんだいは、ラヴォ王国おうこくとうに「トウ・ホ・ロ」として朝貢ちょうこうしたと記録きろくがある。玄奘三蔵げんしょうさんぞう日記にっきでは、ドヴァーラヴァティー・ラヴォを「トウ・ロ・ポ・チ」というで、チェンラとパガン王朝おうちょうあいだくにべている。そうでは、ラヴォは漢語かんごうず(ロ・ホウ)としてられていた。10世紀せいきごろ、ドヴァーラヴァティーの都市とし国家こっかぐんは2つの曼荼羅まんだら、すなわちラヴォ(現代げんだいのロッブリー)とスワンナプーム(現代げんだいスパンブリー)に合併がっぺいした。北方ほっぽう伝記でんきによると903ねんタンブラリンガ英語えいごばんおうはラヴォを侵略しんりゃくし、マレーじん王子おうじをラヴォのおうとした。マレーじん王子おうじはアンコールだい虐殺ぎゃくさつびたクメールじん王妃おうひ結婚けっこんした。かれらのはクメールおうスーリヤヴァルマン1せいとなり、ラヴォはクメールとおなおう属国ぞっこくとなった。スーリヤヴァルマン1せいイサーン領土りょうど拡大かくだいし、おおくの寺院じいんてた。11世紀せいきにはビルマけいのパガン王朝おうちょう成長せいちょうによってラヴォへのクメールの影響えいきょうよわまった。1087ねんにラヴォはパガンおうチャンシッターによって侵略しんりゃくされたが、ラヴォおうのナライ (Narai) はパガンぐん撃退げきたいし、クメールとパガンの覇権はけんあいだ存在そんざいかんした。ナライはアユタヤうつした[7]。また、西にしのスワンナプーム王国おうこく影響えいきょうおよぼし、徐々じょじょ都市としうばっていった。ジャヤーヴァルマン7せいだいにもクメールによる侵略しんりゃくつづいた。この時期じき、ラヴォはクメールに宗教しゅうきょうてき同化どうかされ、ヒンドゥーきょう大乗だいじょう仏教ぶっきょう主流しゅりゅうになった。クメールの影響えいきょうはラヴォの芸術げいじゅつ建築けんちくにもおよび、プラーン・サームヨート寺院じいん代表だいひょうてきである。1239ねんスコータイタイぞく支配しはいしゃがラヴォからの独立どくりつ宣言せんげんし、スコータイ王朝おうちょうまれた。タイの年代ねんだいでは、ラヴォは「クメール」とばれ、13世紀せいきにはラヴォはスコータイおうラームカムヘーン拡大かくだい政策せいさくによって徐々じょじょ領土りょうどらし、中心ちゅうしんであるラヴォやアユタヤをうばわれた。アヨダヤ王国おうこくだい10代おう(ナライを初代しょだいとした場合ばあい)のヴォラチェトゥは、アユタヤ王国おうこくラーマーティボーディー1せい(ウートーン)と同一どういつされている[7]。ラヴォのラーマーティボーディー1せいとアユタヤおうパグワはともにしんアユタヤつくり、ラーマーティボーディー1せいはアユタヤおうとなった。しかし1370ねんにパグワはアユタヤをラーマーティボーディー1せいラーメースワンからうばい、ラーメースワンは故郷こきょうのラヴォにかえった。1388ねんにラーメースワンはアユタヤをパグワのトーンチャンからうばかえした。パグワのおいナカリンタラーティラートは1424ねんにアユタヤをスワンナプーム王国おうこくかえした。ラヴォの関係かんけいしゃ粛清しゅくせいされ、16世紀せいきまでいち貴族きぞくとして存続そんぞくした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]