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ルイ=マティウ・モレ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドミニク・アングルによる肖像しょうぞう、1834ねん

モレ伯爵はくしゃくルイ=マティウ・モレLouis-Mathieu Molé1781ねん1がつ24にち1855ねん11月23にち)は、フランスの政治せいじフランスの首相しゅしょう在任ざいにん:1836ねん – 1839ねん、1848ねん)をつとめた[1]

生涯しょうがい

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高等法院こうとうほういん評定ひょうじょうかんエドゥアール=フランソワ・モレフランス語ふらんすごばん息子むすことして、1781ねん1がつ24にちパリまれた[1]ははクレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ親族しんぞくだった[1]恐怖きょうふ政治せいじちち処刑しょけいされたため、青年せいねんははとともにスイスやイングランドでごし[1]、1796ねん帰国きこくした[2]帰国きこくエコール・ポリテクニークまなび、社交しゃこうかいではポーリーヌ・ド・ボーモンフランス語ふらんすごばんフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンバルテルミー・カトリーヌ・ジュベール友人ゆうじん)のサロンとおった[1]

王政おうせい擁護ようご著作ちょさくEssais de morale et de politiqueナポレオン・ボナパルトとどまったことで官職かんしょくくようになり、1806ねん調査官ちょうさかん英語えいごばんに、1807ねんコート=ドールけん知事ちじ英語えいごばんに、1809ねん国務こくむいん評定ひょうじょうかん英語えいごばんdirecteur général des Ponts et Chaussées et des Mines任命にんめいされた[1]どう1809ねんあきには伯爵はくしゃくじょされた[1]。さらにフランスだいいち帝政ていせい末期まっきの1813ねん11月に司法しほう大臣だいじん英語えいごばん就任しゅうにんした[1]

ひゃくにち天下でんか(1815ねん)にdirecteur général des Ponts et Chaussées et des Mines復帰ふっきしたが、評定ひょうじょうかんには復帰ふっきせず、復古ふっこ王政おうせいはじまるとルイ18せいから官職かんしょく爵位しゃくいあらためて確認かくにんされた[1]復古ふっこ王政おうせいでは首相しゅしょうだい5だいリシュリュー公爵こうしゃく政策せいさく支持しじ、1817ねんから1818ねん12がつまで海軍かいぐん大臣だいじんつとめた[1]退任たいにん以降いこう野党やとう穏健おんけんぞくし、1830ねんなながつ革命かくめい結果けっかれた[1]

なながつ革命かくめいにより国王こくおう即位そくいしたルイ・フィリップ1せい親政しんせい(1830ねん8がつ – 11がつ)に外務がいむ大臣だいじんつとめ、しょ外国がいこくによる承認しょうにんをとりつけようとしたが、実際じっさいにはざいロンドン大使たいしシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール外交がいこう政策せいさくかじをとった[1]。モレはこのときわずかすうげつ外務がいむ大臣だいじん退任たいにんしたが、1836ねん首相しゅしょうアドルフ・ティエール一時いちじ失脚しっきゃくすると組閣そかくして、首相しゅしょう外務がいむ大臣だいじん兼任けんにんした[1]首相しゅしょう即位そくいしてすぐシャルル10せい在位ざいい大臣だいじん釈放しゃくほうしたが、一方いっぽうルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3せい)がストラスブール一揆いっきこしたためその対処たいしょにあたった[1]外交がいこう政策せいさくではスイスとの外交がいこう問題もんだい対処たいしょしたほか、教皇きょうこうりょうアンコーナ駐留ちゅうりゅうぐんげたが、たいメキシコ菓子かし戦争せんそう)、アルジェリアアルジェリア侵略しんりゃく)では積極せっきょくてき政策せいさくをとった[1]

やがて閣僚かくりょう公共こうきょう教育きょういく大臣だいじんフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー対立たいりつするようになり、対立たいりつは1837ねん3がつヌムールこう特権とっけんあたえる法案ほうあんをめぐりおおやけになり、モレは4がつ内閣ないかく改造かいぞうおこなってギゾーを排除はいじょした[1]。しかし同年どうねん11がつ議会ぎかい選挙せんきょ英語えいごばん与党よとうがふるわず、モレは議会ぎかいでギゾーいち、ティエールひきいる中央ちゅうおう左派さはcentre gauche)、オディロン・バロー英語えいごばんひきいるおうとう左派さはgauche dynastique)、そして共和きょうわ左派さはによる連合れんごうla coalition)に敵対てきたいされることとなった[1]。モレはそれでも国王こくおう信任しんにん背景はいけいに1839年初ねんしょまでちこたえたが、議会ぎかい解散かいさん1839ねん3がつ議会ぎかい選挙せんきょ英語えいごばん情勢じょうせいがほとんどわらず、モレは1839ねん3がつ31にち辞任じにんした[1]

1840ねんアカデミー・フランセーズ会員かいいん選出せんしゅつされた[1]以降いこう議会ぎかい頻繁ひんぱん演説えんぜつしたものの、党派とうは政治せいじ重要じゅうようポストにくことはなくなった[1]。1848ねんがつ革命かくめいではルイ・フィリップ1せいもとめられて組閣そかくこころみたが、失敗しっぱいわった[1]

だい共和きょうわせいでは1848ねんジロンドけんから選出せんしゅつされて憲法けんぽう制定せいてい国民こくみん議会ぎかいフランス語ふらんすごばん議員ぎいんになり、1849ねん国民こくみん議会ぎかい議員ぎいん選出せんしゅつされた[1]国民こくみん議会ぎかいでは右派うは指導しどうしゃだったが、1851ねん12月2にちのクーデターをもって政界せいかいから引退いんたいした[1]。1855ねん11月23にちヴァル=ドワーズけんシャトー・ド・シャンプラートルーフランス語ふらんすごばん死去しきょした[1]

評価ひょうか

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょではモレないかくに「首相しゅしょう権限けんげん縮小しゅくしょうされ、大臣だいじんしょく国王こくおう忠実ちゅうじつ二流にりゅう人物じんぶつによってめられ」たとひょうしている[3]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Molé, Louis Mathieu" . Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 18 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 653.
  2. ^ "モレ". ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん. コトバンクより2023ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ 服部はっとり春彦はるひこ. "なながつ王政おうせい". 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). コトバンクより2023ねん5がつ16にち閲覧えつらん

関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
クロード・アンブロワーズ・レニエ英語えいごばん
司法しほう大臣だいじん英語えいごばん
1813ねん – 1814ねん
次代じだい
ピエール・ポール・ニコラ・アンリオン・ド・パンセ英語えいごばん
先代せんだい
ローラン・グーヴィオン=サン=シール
海軍かいぐん大臣だいじん
1817ねん – 1818ねん
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先代せんだい
ジャン=バティスト・ジュールダン
外務がいむ大臣だいじん
1830ねん
次代じだい
ニコラ・ジョゼフ・メゾン英語えいごばん
先代せんだい
アドルフ・ティエール
外務がいむ大臣だいじん
1836ねん – 1839ねん
次代じだい
ルイ・ナポレオン・ランヌ英語えいごばん
先代せんだい
アドルフ・ティエール
閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう首相しゅしょう
1836ねん – 1839ねん
次代じだい
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
先代せんだい
フランソワ・ギゾー
閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう首相しゅしょう
1848ねん
次代じだい
アドルフ・ティエール
がくしょく
先代せんだい
イアサント=ルイ・ド・ケラン英語えいごばん
アカデミー・フランセーズ
席次せきじ34

1840ねん – 1855ねん
次代じだい
フレデリック=アルフレ・ド・ファルー英語えいごばん