ヴァツワフ・シェルピニスキ

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シェルピンスキの記念きねんメダル
ヴァツワフ・シェルピニスキ

ヴァツワフ・シェルピニスキWacław Franciszek Sierpińskiシェルピンスキー1882ねん3月14にち - 1969ねん10月21にち)とは、ワルシャワなまぼっしたポーランド数学すうがくしゃである。かれ集合しゅうごうろん選択せんたく公理こうり連続れんぞくたい仮説かせつかんする研究けんきゅう)やかずろん関数かんすうろん位相いそう幾何きかがくたいする多大ただい貢献こうけんをしたことでられている。かれは、700論文ろんぶんと、50さつほん出版しゅっぱんした(そのうちの2つ、『一般いっぱん位相いそう数学すうがく入門にゅうもん』Introduction to General Topology ,1934 と 『一般いっぱん位相いそう数学すうがく』General Topology,1952は、カナダ数学すうがくしゃ セシリア・クリューガーによって英訳えいやくされている)。

3 つの有名ゆうめいフラクタルが、かれにちなんでいる(シェルピンスキーの三角形さんかっけいシェルピンスキーのカーペットシェルピンスキー曲線きょくせん)。

教育きょういく[編集へんしゅう]

シェルピンスキは、医師いしコンスタンティ・シェルピンスキとルトヴィカのあいだにワピンスクでまれた。1900ねん、ワルシャワだい古典こてんギムナジウムを卒業そつぎょうワルシャワ大学だいがく理数りすう学科がっか入学にゅうがくし、1904ねん卒業そつぎょうした。1903ねん、まだワルシャワ大学だいがくにいたころ、理数りすう学科がっか生徒せいと対象たいしょうに、ゲオルギー・ヴォロノイのかずろんたいする貢献こうけんについて、もっと優秀ゆうしゅう小論文しょうろんぶんしょうすと発表はっぴょうした。これにたいしシェルピンスキは、自分じぶん小論文しょうろんぶんきんメダルを獲得かくとくした。これが、かれ最初さいしょ有名ゆうめい数学すうがく功績こうせき土台どだいとなったのである。かれは、自分じぶん作品さくひんロシア出版しゅっぱんされることに気乗きのりしなかったため、これを1907ねん、サムエル・ディクシュタインの数学すうがく「The Works of Mathematics and Physics」が出版しゅっぱんされるまでひかえた。

1904ねん卒業そつぎょうのち、シェルピンスキはワルシャワだいよん女子じょしムナジウムで、数学すうがく物理ぶつりがく教師きょうしとしてはたらいた。ところが、学校がっこうがストライキで閉鎖へいさしてしまったため、シェルピンスキは博士はかせごうるためクラクフへとった。クラクフのヤギェウォ大学だいがくで、かれはスタニスワフ・ザレンバによる数学すうがく授業じゅぎょう出席しゅっせきした。かれはまた、天文学てんもんがく哲学てつがくまなんだ。かれ博士はかせごうり、1908ねんリヴィウ大学だいがくいた。

数学すうがくへの貢献こうけん[編集へんしゅう]

シェルピンスキが集合しゅうごうろん関心かんしんったのは、「平面へいめんじょうにある(複数ふくすうの)てんひとつの座標ざひょう定義ていぎ可能かのうである」という定理ていり遭遇そうぐうしたからであった。その証明しょうめいについて当時とうじゲッティンゲンにいた数学すうがくしゃタデウシュ・バナヒェヴィチに質問しつもんしたところ、かれ回答かいとう一言ひとことカントールだけであった。これを契機けいき集合しゅうごうろん研究けんきゅう本格ほんかくてきはじめる。リヴィウ大学だいがく奉職ほうしょくして6ねんあいだすうおおくの論文ろんぶん発表はっぴょうし、かずろんかんする3さつほん公刊こうかんするまでにいたった。

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、迫害はくがいけるために家族かぞくともロシアうつり、ニコライ・ルージンとも集合しゅうごうろん研究けんきゅう継続けいぞく終戦しゅうせんとも復職ふくしょくするが、ワルシャワ大学だいがく移籍いせきポーランド・ソビエト戦争せんそうではポーランドぐん参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん立案りつあんたずさわる。さらにジグムント・ヤニシェフスキらと数学すうがく雑誌ざっしげに参画さんかくしながら集合しゅうごうろん研究けんきゅうすすめ、シェルピンスキ曲線きょくせんとして現在げんざいられているものを発表はっぴょうしている。

名誉めいよ受領じゅりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん記事きじ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

シェルピンスキのほんを、ここでいくつか閲覧えつらんできる。