(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ヴァルター・オイケン - Wikipedia コンテンツにスキップ

ヴァルター・オイケン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァルター・オイケン
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1891-01-17) 1891ねん1がつ17にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく イェーナ
死没しぼつ 1950ねん3がつ20日はつか(1950-03-20)(59さいぼつ
出身しゅっしんこう クリスティアン・アルブレヒト大学だいがくキールライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学だいがくボンフリードリヒ・シラー大学だいがくイェーナ
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 経済けいざいがく
研究けんきゅう機関きかん フリードリヒ・ヴィルヘルム大学だいがくアルベルト・ルートヴィヒ大学だいがくフライブルク
テンプレートを表示ひょうじ

ヴァルター・オイケンどく: Walter Eucken, 1891ねん1がつ17にち - 1950ねん3がつ20日はつか)は、ドイツの経済けいざい学者がくしゃで、社会しゃかいてき市場いちば経済けいざい先駆せんくしゃであり、ドイツがたしん自由じゆう主義しゅぎとされているオルド自由じゆう主義しゅぎのフライブルク学派がくは創設そうせつした。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]
イェーナにあるオイケンてい

ヴァルター・オイケンは、イェーナで幼少ようしょう時代じだいごした。父親ちちおや哲学てつがくしゃでノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうしゃルドルフ・オイケンであり、母親ははおや画家がかのイレーネ・オイケンである。兄弟きょうだいには物理ぶつり化学かがくしゃアーノルト・オイケンドイツばんがいる。

学生がくせい時代じだいクリスティアン・アルブレヒト大学だいがくキールライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学だいがくボンフリードリヒ・シラー大学だいがくイェーナごし、歴史れきしがく国家こっかがくドイツばん国民こくみん経済けいざいろんドイツばん法学ほうがくまなんだ。1910ねんからは、ザクソニア学友がくゆうかいキールドイツばんのメンバーとなった[1]ヘルマン・シューマッハードイツばんのもとで学位がくい論文ろんぶん執筆しっぴつして卒業そつぎょうだいいち世界せかい大戦たいせん以降いこうは、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学だいがくでシューマッハーの助手じょしゅつとめた。この時期じきには、シュモラー年報ねんぽうドイツばん編集へんしゅうしゃとしても活動かつどうしている。1920ねんスモレンスクまれのユダヤじん作家さっかエディト・エァデジーク(Edith Erdsiek)と結婚けっこん

1921ねん大学だいがく教授きょうじゅ資格しかくベルリン取得しゅとく[2]1925ねんまではわたし講師こうしで、1925ねんには、エバーハルト・カール大学だいがくテュービンゲン招聘しょうへい教壇きょうだんった。1927ねんアルベルト・ルートヴィヒ大学だいがくフライブルク教授きょうじゅつとめ、かれぬまでそこで活動かつどうした。「経済けいざい政策せいさく基本きほん」を完成かんせいさせるよりもすこまえになくなり、ちょうどロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで「This Unsuccessful Age」というタイトルの公演こうえんおこなったあとであった(1952ねん出版しゅっぱん)。

業績ぎょうせき

[編集へんしゅう]

1930年代ねんだい初頭しょとう、ヴァルター・オイケンは、法学ほうがくしゃフランツ・ベームハンス・グロースマン=デルツドイツばんとともにオルド自由じゆう主義しゅぎの「フライブルク学派がくは」をきずきあげた。1933ねんからフライブルクで学長がくちょうマルティン・ハイデッガーナチズムてき大学だいがく体制たいせい導入どうにゅうし、学問がくもん業界ぎょうかいにおけるユダヤじん迫害はくがいはじまったとき、オイケンはおおやけ立場たちばあきらかにした。歴史れきしベルント・マルティンドイツばんによると、オイケンは「マルティン・ハイデッガーの本当ほんとう敵対てきたいしゃ」であった。

1936ねんになると、オイケンとその友人ゆうじんたちはナチス学生がくせい組合くみあいドイツばんいのちねらわれ、さらにオイケンのつま家族かぞくはユダヤけいであるとして脅迫きょうはくされていた。それにもかかわらずオイケンは当時とうじ、「学問がくもんたたかい」というタイトルで思考しこう自由じゆう支持しじする講演こうえんをおこなっていた。ゲシュタポは、なんもオイケンに尋問じんもんしたが、しかしかれ逮捕たいほすることはなかった。フライブルク・サークルドイツばん友人ゆうじん3にん経済けいざい学者がくしゃアドルフ・ランペドイツばんコンスタンティン・フォン・ディーツェドイツばん歴史れきしゲルハルト・リッターは、戦争せんそうわるまで勾留こうりゅうされた。

オイケンは、フランスとアメリカ軍政ぐんせいのアドバイザーに所属しょぞくしていた。ルートヴィヒ・エアハルトアルフレート・ミュラー=アルマックが、戦後せんごまもないころ計画けいかく経済けいざいてき行政ぎょうせい運営うんえい変更へんこうした改革かいかく根底こんていには、のちオルド自由じゆう主義しゅぎばれるようになった経済けいざい政策せいさく基本きほん思想しそうがあった。

オイケンは経済けいざい研究けんきゅうしただけではなく、哲学てつがく歴史れきしにもつよ関心かんしんち、様々さまざま領域りょういき学者がくしゃ芸術げいじゅつたちと意見いけん交換こうかんおこなった。かれ交流こうりゅうがあったのは、フリードリヒ・ハイエクヨーゼフ・シュンペーターヴェルナー・ハイゼンベルクアウグスト・マッケエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーマックス・レーガーヘルマン・シュタウディンガーなどであった。1947ねん、オイケンがモンペルラン・ソサイエティー創設そうせつ関与かんよしたとき、カール・ポパーなどとも交流こうりゅうつようになった。

かれにとってとく重要じゅうようだったのは、エトムント・フッサールとの交友こうゆう関係かんけいであり、オイケンに理論りろんじょうつよ影響えいきょうあたえた。経済けいざいにおけるイデオロギーだけを研究けんきゅうするのではなく、もっと一般いっぱんてき権力けんりょくのイデオロギーにも注目ちゅうもくするようになった。平和へいわみだ非合理ひごうり主義しゅぎドイツばん伝統でんとうがあるとして、かれはそこに哲学てつがくしゃフリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデッガー、さらにマルティン・ルター主意しゅい主義しゅぎジャン=ジャック・ルソー一般いっぱん意志いしアンリ・ド・サン=シモン進歩しんぽイデオロギーなどをくわえた。

研究けんきゅう内容ないよう

[編集へんしゅう]

基本きほん思想しそう

[編集へんしゅう]

オイケンの研究けんきゅう中心ちゅうしんは、権力けんりょく不自由ふじゆう、そして貧困ひんこんがどのようにつながっているのかという問題もんだいであった。この分析ぶんせきもとづいて、多大ただい可能かのうせいのある自由じゆうと、経済けいざい合理ごうりてきコントロールとを可能かのうにする経済けいざい秩序ちつじょドイツばんのための基本きほん条件じょうけんめることができた。かれは、国家こっか経済けいざい政策せいさくは、経済けいざい秩序ちつじょ形成けいせい志向しこうするべきであり、経済けいざいプロセスの操作そうさりだすべきではないと確信かくしんしていた。このようなかんがえのため、オイケンはオルド自由じゆう主義しゅぎ創設そうせつしゃであり、社会しゃかいてき市場いちば経済けいざいのひとりであるとられている。

1939ねん出版しゅっぱんされた『国民こくみん経済けいざい基礎きそ(Grundlagen der Nationalökonomie)』で、オイケンは秩序ちつじょ相互そうご依存いぞんドイツばんという仮説かせつてた。それによると、市場いちば経済けいざい--オイケンはよく「流通りゅうつう経済けいざい(Verkehrswirtschaft)」という概念がいねんもちいた--は、自由じゆう主義しゅぎてき法治ほうち国家こっかみだし、それにたいして計画けいかく経済けいざいは、ナチスがドイツに導入どうにゅうし、ソ連それんコメコン加盟かめいする東欧とうおう諸国しょこくでも実施じっしされたものだが、このような経済けいざい独裁どくさいせいす。かれ死後しご1952ねんに、つまエディト・オイケン=エァデジークドイツばん助手じょしゅカール・パウル・ヘンゼルドイツばん出版しゅっぱんした『経済けいざい政策せいさく原則げんそく』も重要じゅうようである。オイケンがかんがえた計画けいかく経済けいざい市場いちば経済けいざいにおける近代きんだいてき経済けいざい秩序ちつじょちがいは、教科書きょうかしょのスタンダードになっている。しかし、オイケンにとってそのちがいは、しかし今日きょうではしばしばわれているような、国家こっか経済けいざいたいする積極せっきょくせいにあるのではない(国家こっか比率ひりつドイツばん参照さんしょう)。そうではなく、そのちがいは、経済けいざい権力けんりょく分布ぶんぷにある。オイケンにとって、計画けいかく経済けいざいとは、中央ちゅうおう巨大きょだい権力けんりょくゆうし、個々人ここじんちから最大限さいだいげんうばうものであるのだが、これと対極たいきょく位置いちするのは、自由じゆう放任ほうにん主義しゅぎてきな「自由じゆう市場いちば経済けいざい」ではない。計画けいかく経済けいざい対極たいきょく位置いちするのは、むしろだれ他人たにん経済けいざいてき統制とうせいする権力けんりょくたない状態じょうたいでの完全かんぜん競争きょうそうであった。この2つのきょくのあいだで、べつあらたな経済けいざい秩序ちつじょがある。それは、個々ここ権力けんりょく集団しゅうだんが、価格かかく政策せいさくやロビー活動かつどうによって、市場いちば参加さんかしゃ経済けいざいてき自由じゆう干渉かんしょうすることができる経済けいざい秩序ちつじょである。

自由じゆう放任ほうにん主義しゅぎ経済けいざいは、オイケンの考察こうさつによれば、自動的じどうてき権力けんりょく集団しゅうだんたちによる経済けいざい統制とうせいをもたらす。だからオイケンは、ORDOドイツばん年報ねんぽうだいいちかん序文じょぶんつぎのように説明せつめいしている。

国家こっか活動かつどうおおいかすくないか--このいは完全かんぜん過去かこのものになっている。重要じゅうようなのは、りょう問題もんだいではなく、しつ問題もんだいなのである。国家こっかは、経済けいざいプロセスをコントロールしようとこころみてはならないし、経済けいざい自由じゆう放任ほうにんさせてもならない。{訳注やくちゅう市場いちばの}形式けいしき国家こっか計画けいかくするのはよい。経済けいざいプロセスを計画けいかく統制とうせいするのはダメだ。形式けいしきとプロセスとのちがいを確認かくにんし、あつかうこと、それが本質ほんしつてき大切たいせつなことである。そうした場合ばあいにのみ、ちいさなマイノリティではなくすべての市民しみんが、価格かかく調整ちょうせいメカニズムをつうじて経済けいざい統制とうせいできるという目標もくひょう達成たっせいすることができる。このことが可能かのう唯一ゆいいつ経済けいざい秩序ちつじょは、「完全かんぜん競争きょうそう」という秩序ちつじょである。すべての市場いちば参加さんかしゃに、マーケットのルールをえる可能かのうせいれられれば、この秩序ちつじょ実現じつげん可能かのうである。それゆえ国家こっかは、適切てきせつ法的ほうてき枠組わくぐみによって、市場いちば形式けいしき、つまり経営けいえいおこなわれるうえでのルールを設定せっていしなければならないのである
Walter Eucken

社会しゃかい福祉ふくし政策せいさく景気けいき刺激しげきさく

[編集へんしゅう]

カール・ゲオルク・ツィンドイツばん見解けんかいによると、アルフレート・ミュラー=アルマックは「社会しゃかい福祉ふくし政策せいさく国家こっか景気けいき刺激しげきさく構造こうぞう政策せいさくにオイケンよりもきわめてたか比重ひじゅういた。オイケンにとって、社会しゃかい福祉ふくし政策せいさくは、せいぜい「極端きょくたん苦境くきょうたいする最小さいしょう措置そち」として必要ひつようであるにぎず、景気けいき刺激しげきさくは、まった無駄むだであり、有害ゆうがいであるとすらかんがえていた。なぜなら、市場いちば経済けいざい理念りねんてきには、かれ秩序ちつじょ理論りろんかんがえていたように、景気けいき不景気ふけいき循環じゅんかんすることなどないだろうからである。このテーゼはオイケンのかんがえの論理ろんりてき帰結きけつからしょうじた。それによると、市場いちばのプロセスから内因ないいんせいのものとして説明せつめい可能かのう景気けいき循環じゅんかんこらないであろう。それゆえ、かれはすべての景気けいき理論りろん不充分ふじゅうぶんなものとして棄却ききゃくした[3]。ヴァルター・オイケンは、歴史れきし学派がくは代表だいひょうしゃたちにたいして、あらゆる具体ぐたいてき経済けいざい状況じょうきょうは、いちかいかぎりの性質せいしつ(Natur)にぞくするとみとめた。それにもかかわらず、かれ可能かのうかぎり、一般いっぱんてき妥当だとうする法則ほうそくせい経済けいざい領域りょういきにおいて確認かくにんすることを支持しじした。なぜなら、現実げんじつはいつでも、経済けいざいてき行為こういのいくつかの根本こんぽん要素ようそがひとつにミックスされることで存在そんざいしてい るからであり、この混合こんごうにおいていちかいかぎりであるからである[4]

しん自由じゆう主義しゅぎ社会しゃかい問題もんだいおろかにしているというひろ流布るふした偏見へんけんは、オイケンにも該当がいとうしない。オイケンによれば、19世紀せいき工業こうぎょう (Industrialisierung)が導入どうにゅうされ、社会しゃかい福祉ふくしてき困難こんなんしょうじていたとき、たしかに自由じゆう秩序ちつじょという理念りねんは、労働ろうどうしゃ事実じじつじょう自由じゆうをもたらさなかったというてんで、抵抗ていこうにあった。しかしながら重要じゅうようなのは、困窮こんきゅう労働ろうどう市場いちばにおける需要じゅよう独占どくせんによってしょうじたのであり、カール・マルクス主張しゅちょうしたように、工業こうぎょうすすむなかで労働ろうどうしゃが、生産せいさん手段しゅだん所有しょゆうけんうしなったからではない。19世紀せいきなか以来いらい労働ろうどうしゃ状況じょうきょう本質ほんしつてき改善かいぜんされたが、これは、 生産せいさん手段しゅだん所有しょゆうけん労働ろうどうしゃのもとにもどってきたからではなくて、機械きかい進展しんてんしたことで労働ろうどう生産せいさんせい上昇じょうしょうしたからであり、労働ろうどう市場いちばにおける需要じゅよう独占どくせんをさ らに改善かいぜんすることができたからである。社会しゃかい福祉ふくし問題もんだい改善かいぜんは、私的してき所有しょゆうけん廃止はいしにあるとかんがえてはならない。私有しゆう財産ざいさんたしかに苦境くきょうしうるが、共有きょうゆうざい さん問題もんだいす。あつまりさん主義しゅぎは、たしかに失業しつぎょう回避かいひできるが、個人こじん不安定ふあんていにするという重大じゅうだい危険きけんこすのであり、それにたいして流通りゅうつう経済けいざい市場いちば経済けいざい)は、人々ひとびと経済けいざいてき安定あんていせい保証ほしょうする。オイケンによれば、社会しゃかい福祉ふくし政策せいさく必要ひつようである。しかしそれは市場いちば失効しっこうさせるようなことであってはならない。むしろ社会しゃかい福祉ふくし政策せいさくは、秩序ちつじょ政策せいさくのなかに存在そんざいする。つまり、いちめんてき独占どくせんてき権力けんりょく崩壊ほうかいさせ、物質ぶっしつざい企業きぎょう家計かけい雇用こようしゃ雇用こようしゃのあいだで調和ちょうわのとれたかた ち分配ぶんぱいできるようによる競争きょうそうである[5]

オイケンのかんがえでは、経済けいざい政策せいさくは、たか雇用こようりつ維持いじすることへの責任せきにんふくまれている。失業しつぎょう事故じこ保険ほけん健康けんこう保険ほけん老齢ろうれい年金ねんきんのような社会しゃかい保障ほしょう必要ひつようであるということには異論いろんはない[6]

しかし、競争きょうそう政策せいさく以上いじょうに、「特別とくべつ社会しゃかい福祉ふくし政策せいさく」によって、「隙間すきまめ、硬直こうちょくやわらげる予防よぼう措置そち」が必要ひつようであるとかれかんがえた[7]。とくに「労働ろうどう市場いちば憲法けんぽう(Arbeitsmarktverfassung)」にたいしては、国家こっかうご必要ひつようせいがあるとオイケンはていた。なぜなら「労働ろうどう商品しょうひんではない」からであり、商品しょうひん市場いちば労働ろうどう市場いちばには「注意ちゅういされるべき」ちがいがある[8]。「労働ろうどうしゃ保護ほごさく」は、困窮こんきゅう除去じょきょするために必要ひつようである。国家こっか施策しさくだけでなく、労働ろうどう組合くみあいにも「労働ろうどうしゃ立場たちば改善かいぜんする」のにあたいする。独占どくせんてき状況じょうきょうにある組織そしきであろうと、労働ろうどう組合くみあいは「企業きぎょう独占どくせんてき優位ゆういによって登場とうじょうしなければならない」[8]

著書ちょしょ

[編集へんしゅう]
  • Nationalökonomie – Wozu? Godesberg 1947 (zuerst als Beitrag, 1938)
  • Die Grundlagen der Nationalökonomie. Jena 1939
  • Unser Zeitalter der Misserfolge. Fünf Vorträge zur Wirtschaftspolitik. Tübingen 1951
  • Grundsätze der Wirtschaftspolitik. Tübingen 1952
  • Kapitaltheoretische Untersuchungen. Mohr, 1954

共著きょうちょ

[編集へんしゅう]
  • mit Franz Böhm und Hans Großmann-Doerth: Ordnung der Wirtschaft. (Einzelpublikationen) 1937 ff.
  • mit Franz Böhm: ORDO. Jahrbuch für die Ordnung von Wirtschaft und Gesellschaft, Bd. 1. Godesberg 1948, bis heute fortgeführt

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Kösener Corpslisten 1930, 82, 181
  2. ^ Habilitationsschrift: Die Stickstoffversorgung der Welt
  3. ^ Karl Georg Zinn: Soziale Marktwirtschaft. Idee, Entwicklung und Politik der bundesdeutschen Wirtschaftsordnung S. 25-26 (PDF; 364 kB)
  4. ^ Bernhard Külp, Teil II Spezialgebiete der Lehrgeschichte: 9. Konjunkturtheorie
  5. ^ Bernhard Külp, Walter Eucken und die soziale Frage
  6. ^ Gerhard D. Kleinhenz, Sozialstaatlichkeit in der Konzeption der Sozialen Marktwirtschaft in: Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistik, Themenheft Sozialstaat Deutschland, Lucius und Lucius, ISBN 978-3828200487, Seite 406, 407
  7. ^ Walter Eucken: Grundsätze der Wirtschaftspolitik. Rowohlt, Reinbek 1965, S. 183.
  8. ^ a b Walter Eucken: Grundsätze der Wirtschaftspolitik. Rowohlt, Reinbek 1965, S. 185.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]