ヴィクトリーヌ・ムーラン

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ヴィクトリーヌ・ムーラン
Victorine Meurent
誕生たんじょう 1844ねん2がつ18にち
出生しゅっしょう フランスの旗 フランスパリ
死没しぼつねん (1927-03-17) 1927ねん3月17にち(83さいぼつ
死没しぼつ フランスの旗 フランスコロンブ
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エドゥアール・マネによるヴィクトリーヌ・ムーランぞう

ヴィクトリーヌ・ムーランVictorine Meurent, 1844ねん2がつ18にち - 1927ねん3月17にち)はフランス著名ちょめいモデルであり、女性じょせい画家がかである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1844ねんパリまれる。ちちブロンズ彫刻ちょうこく色付いろづけをおこな職人しょくにんはは帽子ぼうし職人しょくにんであった。

16さいのとき、トマ・クチュール美術びじゅつモデル仕事しごとおこなう。ムーランはこのころクチュールの女性じょせいようアトリエでまなんだのかもしれない[1]エドゥアール・マネ裁判所さいばんしょでたまたま出会であったことがきっかけで、1862ねんの「まちうた」を皮切かわきりに[2]、マネのすう作品さくひんのモデルとなる。ムーランは「ラ・クルヴェット」(La Crevette、「エビ」)と渾名あだなされる[3] ような小柄こがらからだつきとマネの水彩すいさいの「オランピア」であざやかにえがかれている赤毛あかげ特徴とくちょうてき女性じょせいだった。ムーランはギターヴァイオリンき、これらのレッスンをし、カフェうたった。

ムーランはマネの「くさじょう昼食ちゅうしょく」と「オランピア」のモデルの仕事しごと有名ゆうめいである。どう時期じきに、マネとしたしかったエドガー・ドガとベルギーの画家がかアルフレッド・ステヴァンスのモデルもつとめた。ステヴァンスとの関係かんけいとく親密しんみつだった。

マネは1870年代ねんだいはじめまでムーランをモデルとして使つかつづけたが、このころムーランがのレッスンをはじめ、マネが反発はんぱつしていたアカデミック美術びじゅつかれるようになったため、二人ふたり疎遠そえんになった。マネがムーランをえがいた最後さいご作品さくひんが、しばしば「鉄道てつどう」としょうされる1873ねんの「サン・ラザールえき」である。この作品さくひんはマネが現代げんだいてき画題がだいあつかった最高さいこうれいだとかんがえられている。

モデルという職業しょくぎょうが、画家がかまえ裸体らたいさらすなど社会しゃかいてき不名誉ふめいよなものとされていたこともあり、ムーランは不遇ふぐうのままぼっしたというのが長年ながねん定説ていせつであったが、近年きんねん研究けんきゅうにより、後半こうはんせい画家がかとして一定いってい地位ちいていたことがあきらかになっている[4]

1875ねんに、ムーランは肖像しょうぞう画家がかエティエンヌ・ルロワに師事しじはじめた[2]1876ねんには、サロン・ド・パリ彼女かのじょ作品さくひん展示てんじされ、批評ひひょうしょう受賞じゅしょうしている。皮肉ひにくにも、マネがこのとし出品しゅっぴんした作品さくひん落選らくせんした。1879ねんにムーランが芸術げいじゅつアカデミー出品しゅっぴんした作品さくひん「16世紀せいきニュルンベルクの女性じょせい市民しみん」はマネの作品さくひんおな部屋へや展示てんじされた。ムーランの作品さくひん1885ねん1904ねん展覧てんらんかいにも展示てんじされた[2]。ムーランはサロンで6かい作品さくひん展示てんじしている。また、1880年代ねんだいまでは、エッチングでもっともよくられるノルベール・グヌットアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのためにモデルの仕事しごとつづけた。ロートレックはこのんでムーランを「オランピア」と紹介しょうかいした。

1903ねんにムーランはシャルル・エルマン=レオンと創立そうりつしゃトニ・ロベール=フルーリー後押あとおしによりフランス芸術げいじゅつ協会きょうかい会員かいいんとなった。1906ねんまでにはムーランはパリをはなれてコロンブ郊外こうがいうつり、余生よせいをマリー・デュフールという女性じょせいごした[2]二人ふたり住居じゅうきょ共同きょうどう所有しょゆうしたようで、80だいになってなおムーランが画家がか名乗なのっていたことが当時とうじ国勢調査こくせいちょうさ記録きろくのこっている。ムーランは1927ねん3がつ17にちぼっした。1930ねんにデュフールがんだのち住居じゅうきょ中身なかみ処分しょぶんされた。20世紀せいきまつに、近所きんじょ老齢ろうれい人々ひとびとが、ムーランのいえ最後さいごまでのこっていたヴァイオリンとそのケースなどがにくべられるのをたとかたった。

ムーランの作品さくひんは2てんしかのこっていない。

  • 油絵あぶらええだおも」("Le jour des rameaux") - 1880ねんごろ制作せいさく。2004ねん発見はっけんされ、現在げんざいコロンブ歴史れきし博物館はくぶつかん展示てんじされている。
  • 自画像じがぞう - 1876ねん制作せいさく。2021ねん9がつボストン美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞう

作品さくひん[編集へんしゅう]

ヴィクトリーヌ・ムーラン関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

エドゥアール・マネさく「Une jeune dame en 1866」別名べつめい「La Femme au perroquet(おんなとオウム)」1

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Jimenez, Jill Berk (2001). Dictionary of Artist's Models. London: Routledge. p. 372 
  2. ^ a b c d Summers, Claude J (2004). The Queer Encyclopedia of the Visual Arts. Cleis Press 
  3. ^ Ross King, The Judgement of Paris, p.37
  4. ^ 履歴りれきしょ:508)「まちうた」 エドゥアール・マネ 150ねんけた誤解ごかい朝日新聞あさひしんぶん 2017ねん7がつ11にち夕刊ゆうかん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]