(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ヴェニスに死す - Wikipedia コンテンツにスキップ

ヴェニスに

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴェニスに
Der Tod in Venedig
初版(1912年)
初版しょはん(1912ねん
作者さくしゃ トーマス・マン
くに ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
言語げんご ドイツ
ジャンル 中編ちゅうへん小説しょうせつ短編たんぺん小説しょうせつ
刊本かんぽん情報じょうほう
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1912ねんなつ
日本語にほんごやく
訳者やくしゃ 実吉さねよし捷郎はやお
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
テンプレートを表示ひょうじ

ヴェニスに』(ヴェニスにしす、Der Tod in Venedig)は、ドイツ作家さっかトーマス・マン中編ちゅうへん小説しょうせつ1912ねん発表はっぴょう

あらすじ[編集へんしゅう]

20世紀せいき初頭しょとうミュンヘン著名ちょめい作家さっかグスタフ・フォン・アッシェンバッハは、執筆しっぴつつかれてイギリス庭園ていえん散策さんさくしたかえり、異国いこくふうおとこ姿すがたたびへの憧憬どうけいをかきたてられる。

いったんアドリア海あどりあかい沿岸えんがん保養ほようかけたが、嫌気いやけがさしてヴェネツィアあしける。

ホテルには長期ちょうき滞在たいざいしている上流じょうりゅう階級かいきゅうポーランドじん家族かぞくがおり、その10代はじめとおもわれる息子むすこタジオのうつくしさにアッシェンバッハはせられてしまう。

やがて海辺うみべあそ少年しょうねん姿すがたるだけでは満足まんぞくできなくなり、をつけたり家族かぞく部屋へやをのぞきこんだりするようになる。

様々さまざま栄誉えいよつつまれた「威厳いげんある」作家さっかであるかれは、こうして美少年びしょうねんへのこいによって放埒ほうらつ心情しんじょうにのめりこんでいく。だが、ヴェネツィアにはコレラせまっていた。

滞在たいざいきゃくたちが閑散かんさんとするなか、アッシェンバッハは美少年びしょうねんからはなれたくないためにこのることができない。そして、少年しょうねんとその家族かぞくがついにヴェネツィアを旅立たびだ、アッシェンバッハはコレラに感染かんせんしてむかえるのであった。

執筆しっぴつ経過けいか評価ひょうか[編集へんしゅう]

トーマス・マンは1911ねん実際じっさいヴェネツィア旅行りょこうしており、そこで出会であった上流じょうりゅうポーランドじん美少年びしょうねん夢中むちゅうになり、帰国きこくすぐにこの小説しょうせついた。

ただし小説しょうせつでは主人公しゅじんこうアッシェンバッハは50だいで、つま先立さきだたれ一人娘ひとりむすめとついでおり、ヴェネツィアには一人ひとりたびをするという設定せっていだが、マンがヴェネツィアにたびしたのは30だいなかばで、つま子供こどもあにハインリヒ・マンなどと一緒いっしょだった。

また、主人公しゅじんこうのアッシェンバッハがグスタフというファーストネームをつのは、執筆しっぴつ直前ちょくぜん作曲さっきょくグスタフ・マーラー死去しきょし、かれ交際こうさいのあったトーマス・マンがその名前なまえりたためである。同時どうじにアッシェンバッハの容貌ようぼうもマーラーをしている。

トーマス・マンはこの小説しょうせついた直後ちょくごは、作品さくひん出来でき確信かくしんてないでいた。しかし、ほどなくフランス語ふらんすごやくがたいへんな評判ひょうばんんだのをはじめ、内外ないがいたか評価ひょうかけ、やがてマン自身じしんもこの小説しょうせつを 『トーニオ・クレーガー』 とならんで自分じぶんいた中編ちゅうへん小説しょうせつ代表だいひょうさくなすようになった。

実在じつざいのタジオ[編集へんしゅう]

1911ねん、マンに出会であったまさにそのなつのヴェネツィアでられたモエス男爵だんしゃく中段ちゅうだん左側ひだりがわ少年しょうねん
かれ一緒いっしょうつっているのはかれあねかれ右側みぎがわ)といもうとたち(下段げだん)、および友人ゆうじんのヤン・フダコフスキ(あだは「ヤス」、上段じょうだん人物じんぶつ
この写真しゃしん当時とうじ男爵だんしゃくは11さい誕生たんじょうむかえる直前ちょくぜんでまだ10さい

マンに見初みそめられた美少年びしょうねん自分じぶんほうをじろじろながめるドイツ作家さっか存在そんざい意識いしきしており、後年こうねんこの小説しょうせつのポーランドやくさいには、自分じぶんがモデルとなった作品さくひんであることにづいたが、そのことを公言こうげんしなかったため、モデルの身元みもと判明はんめいしたのはマンが死去しきょしてしばらくたってからであった。一説いっせつには1971ねん公開こうかい映画えいがたときだという。

この少年しょうねんシュラフタ(ポーランド貴族きぞく)のヴワディスワフ・モエス(Władysław Moes)男爵だんしゃくで、ヴェネツィアでマンと遭遇そうぐうしたのは11さいのときだった(男爵だんしゃく1900ねんまれ)。かれ当時とうじヴワジオ(Władzio)、アジオ(Adzio)などの愛称あいしょうばれていた。

モエス男爵だんしゃくだい世界せかい大戦たいせんこうもポーランドにみ、1986ねんくなった。ポーランド南部なんぶシロンスクけんピリツァのおかうえにある一族いちぞく墓地ぼちほうむられている[1]

オペラ[編集へんしゅう]

1973ねんベンジャミン・ブリテンが、オペラ《ヴェニスに》(Death in Venice )を作曲さっきょくしている。

日本語にほんごやく文庫ぶんこ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ [1]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • トーマス・マン しる高橋たかはし義孝よしたか わけ『トニオ・クレーゲル・ヴェニスにす』(あらため新潮しんちょう文庫ぶんこ、1995ねん12月。ISBN 978-4102022016  初版しょはんは1967ねん9がつ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]