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三浦みうらよし

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三浦みうらよし
三浦みうらよし(『英雄えいゆうひゃくしゅ』(歌川うたがわ貞秀さだひで))
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん あかりおう5ねん1496ねん
死没しぼつ えいただし13ねん7がつ11にち1516ねん8がつ9にち
別名べつめい あら次郎じろう通称つうしょう
墓所はかしょ 神奈川かながわけん三浦みうら
官位かんい 弾正だんじょうしょう
氏族しぞく 相模さがみ三浦みうら
父母ちちはは 三浦みうらよしどう
兄弟きょうだい 太田おおたやすし正室せいしつ
つま 里谷さとや信勝のぶかつむすめ
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三浦みうら よし(みうら よしおき[1])は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう相模さがみ三浦みうら最後さいご当主とうしゅ通称つうしょうあら次郎じろう官途かんとめい弾正だんじょうしょう

略歴りゃくれき

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三浦みうらよしどう嫡男ちゃくなんとして誕生たんじょうしつ里谷さとや信勝のぶかつむすめ真里谷まりやつじょかんいもうと異説いせつゆう)。

ちちから相模さがみこく三崎みさきしろしん井城いぎとも。現在げんざい神奈川かながわけん三浦みうら)をあたえられ、えいただし7ねん1510ねんごろ家督かとくゆずられる。「はちじゅうにんりょく勇士ゆうし」の異名いみょうち、足利あしかが政氏まさうじ上杉うえすぎ朝良ともよししたがって北条早雲ほうじょうそううんたたかうが、えいただし10ねん1513ねんごろには岡崎おかざきしろ現在げんざい伊勢原いせはら)・住吉すみよししろ現在げんざい逗子ずし)をこう北条ほうじょうによってうばわれて三浦半島みうらはんとうめられた。

ちちとも三崎みさきじょうこもって3ねんちかくにわたって籠城ろうじょうせん継続けいぞくするが、つい三崎みさきじょう落城らくじょうちちよしどう切腹せっぷく見届みとどけたのちてきちゅう突撃とつげきしてられたとう。これによって三浦みうら滅亡めつぼうし、北条ほうじょうによる相模さがみ平定へいてい完了かんりょうすることになる。

最期さいご

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三浦みうらきよしこころ北条ほうじょうだい[2]には、背丈せたけは7しゃく5すん(227センチ)とつたえ、最期さいご合戦かっせんにつけた甲冑かっちゅうてつあつさが2ふん(6センチ)、白樫しらかし丸太まるたを1たけ2すん(364センチ)に筒切つつぎりにしたものを八角はっかくけずり、それにふしきんとおしたぼうきむ砕棒)をもってたたかい、げるものめてかぶと頭上ずじょうつとみぢんにくだけてどうたっし、よこはらうといちりで5にん、10にんつぶされ、ぼうたってんだものは500めいになった。てきなくなると、みずかくびをかきってんだ、としるされている。『北条ほうじょうだい』よりまえ成立せいりつしたと推測すいそくされている『北条ほうじょう[3]にはそのような記述きじゅつはなく、えいただし15ねん(1518ねん)7がつ11にちちちよしどう家臣かしんたちととも討死うちじにした、としるされている。


ギャラリー

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ を「よしもと」と異名いみょうもととするせつもあり。
  2. ^ まき9「三浦みうらかいどうすん父子ふし滅亡めつぼうこと
  3. ^ まき2(2)「よしどう討死うちじにこと

関連かんれん史料しりょう

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  • 鎌倉かまくら幕府ばくふ吾妻あづまきょう
  • 上杉うえすぎ孝良たかよし改訂かいてい 三浦みうら一族いちぞく- その興亡こうぼう歴史れきし-』
  • 横須賀よこすか横須賀よこすか』『しん横須賀よこすか
  • 三浦みうら一族いちぞく研究けんきゅうかい三浦みうら一族いちぞく資料集しりょうしゅう
  • 三浦みうらきよしこころ北条ほうじょうだい
  • 相州あいしゅう兵乱へいらん

関連かんれん項目こうもく

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