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下條しもじょう信隆のぶたか

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下條しもじょう信隆のぶたか
時代じだい 江戸えど時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん 寛永かんえい2ねん1625ねん
死没しぼつ とおる元年がんねん4がつ1にち1716ねん5月21にち
改名かいめい つる千代ちよ幼名ようみょう)→さだしんじはつ)→信隆のぶたか
別名べつめい 長兵衛ちょうべえ通称つうしょう
墓所はかしょ 東京とうきょう渋谷しぶや広尾ひろお祥雲寺しょううんじ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家光いえみつ家綱いえつな綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐ
氏族しぞく 片桐かたぎり庶流下條げじょう
父母ちちはは ちち片桐かたぎりさだあきらはは青木あおき
兄弟きょうだい 信隆のぶたか片桐かたぎり信明のぶあき片桐かたぎりさだぼう松田まつださだなお
長五郎ちょうごろう
養子ようし石川いしかわしんきよししんじちか
テンプレートを表示ひょうじ

下條しもじょう 信隆のぶたか(しもじょう のぶたか)は、江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうき旗本はたもと大和やまとこく小泉こいずみはん2だい藩主はんしゅ片桐かたぎりさだあきら長男ちょうなんちちよりいししゅうりゅう相伝そうでんする。はは妾腹しょうふくのため、次男じなんじゅんじて下條しもじょうせいしょうし、別家べっけてて旗本はたもととなる。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

正保まさやす元年がんねん1644ねん)、将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ目見まみする。慶安けいあん4ねん1651ねん)、将軍しょうぐん徳川とくがわ家綱いえつないて書院しょいんばんになる。のち西城さいじょうて、本城ほんじょう勤務きんむとなる。うけたまわおう元年がんねん12がつ1653ねん)、べい300ひょうたまわる。のべたから2ねん1674ねん)にちちのこりょうのうち1000せきぶんされるが、さきの300ひょう返納へんのうされる。同年どうねん幕命ばくめいにより禁裏きんり造営ぞうえい奉行ぶぎょうつとめる。この功績こうせきによりのべたから4ねん1676ねん)、禁裏きんりより花鳥かちょう和歌わかさんじゅう六歌仙ろっかせん手鑑てかがみ明正めいせいいんより扇子せんすこう西院さいいんより色紙いろがみなどをたまわる。のべたから5ねん1677ねん)、江戸えどにおいても時服じふく3りょう黄金おうごん3まい拝領はいりょう元禄げんろく2ねん1689ねん)、使番つかいばんとなり、布衣ふいることをゆるされる。御先おさき鉄炮てっぽうあたまやり奉行ぶぎょう歴任れきにんのち老年ろうねんまでつとめるこうにより、紅裏もみうらふく着用ちゃくようゆるされる。

老年ろうねんまで勤務きんむしたのは、後嗣こうしめぐまれなかったことがかんがえられる。実子じっし長五郎ちょうごろうがいたが多病たびょう理由りゆう相続そうぞくできず、いで石川いしかわよしとうしんきよし養子ようしむかえるが、しんきよしあにそうじょう養子ようしとなるため実家じっかもどった。後年こうねん大久保おおくぼ忠直ただなおよんなん忠利ただとし下條しもじょうしんちか)を養子ようしとし、ついに隠居いんきょできたとおもわれる。とおる元年がんねん(1716ねん)にしょくし、寄合よりあいれっす。4月朔日さくじつ死去しきょ享年きょうねん92。