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中村なかむら徳也とくや

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
中村なかむら徳也とくや
誕生たんじょう (1895-06-10) 1895ねん6がつ10日とおか
秋田あきたけんじゅうもくむら
死没しぼつ 1939ねん10月28にち(1939-10-28)(44さいぼつ
職業しょくぎょう 薬店やくてんぬし
ジャンル 短歌たんか俳句はいく
ウィキポータル 文学ぶんがく
テンプレートを表示ひょうじ

中村なかむら 徳也とくや(なかむら とくや、1895ねん6がつ10日とおか - 1939ねん10月28にち)は、日本にっぽん歌人かじんである。

経歴けいれき

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秋田あきたけんじゅうもくむら現在げんざい五城目ごじょうめまちまれ。1910ねん五城目ごじょうめ小学校しょうがっこう高等こうとう卒業そつぎょうしたのち、秋田あきた石田いしだ病院びょういん薬剤師やくざいし見習みならいとしてみではたらきながら、将来しょうらい薬店やくてん開業かいぎょうそなえてよる簿記ぼき学校がっこうかよっていた。このころ徳也とくや地元じもと秋田あきたいさお新報しんぽう歌壇かだんらんにしばしば投稿とうこう作品さくひんり、地元じもとでは若手わかて歌人かじんとしてられるようになっていた。1912ねんころには石田いしだ病院びょういんとなり病院びょういんに、同郷どうきょうでのちに画家がかとなる館岡たておか栗山りつざん入院にゅういんしてくる。栗山くりやま俳句はいく短歌たんかしたしんでいたので、徳也とくや栗山くりやまのもとを見舞みまいながら文芸ぶんげいはなしはなかせていた。ちかくの県立けんりつ図書館としょかんにもあししげくかよって歌集かしゅう歌論かろんみふけり、うたさくつづけた。

24さい五城目ごじょうめまちもどってきた徳也とくや自宅じたく薬店やくてん開業かいぎょうし、商売しょうばいかたわら、短歌たんか仲間なかまあつめて「五城目ごじょうめ短歌たんかかい」をつくり指導しどうしゃになった。館岡たておか栗山りつざん徳也とくや弟子でしになって一枝いちえだというごう徳也とくやからもらった。その一方いっぽう俳句はいくこのんでいた栗山くりやまは、地元じもと俳人はいじん北嶋きたじまみなみ句会くかい焼芋やきいもかい」に徳也とくやさそい、みなみ弟子でしになった徳也とくやあんずはな(きょうか)の俳号はいごう俳誌はいし俳星』に投句とうくした。

昭和しょうわ時代じだいになると、秋田あきたけん歌壇かだんは、秋田あきた大黒おおくろ富治とみはる能代のしろ越後えちごさくさん五城目ごじょうめ中村なかむら徳也とくや代表だいひょうてき歌人かじんしょうされるようになり、正岡子規まさおかしきの『アララギ』にも所属しょぞくしていた3にんたがいに切磋琢磨せっさたくましながら秋田あきたけん歌壇かだんをもりてた。徳也とくやは『アララギ』のほか、歌誌かし現実げんじつ短歌たんか』の中心ちゅうしんてき同人どうじんとしてもたか評価ひょうかていた。ほか、県内けんない歌誌かしでは『あかね』、『かげ』、中央ちゅうおうでは『しおおん』、『水甕みずがめ』、『覇王樹はおうじゅ』などにも投稿とうこうし、秋田あきた代表だいひょうする歌人かじん一人ひとりになっていた。1935ねんには「短歌たんか新聞しんぶん」の秋田あきたけんしょとなり、秋田あきたから短歌たんか情報じょうほうおく通信員つうしんいんにもなっている。

私生活しせいかつでは1922ねんに27さい結婚けっこんしたが、1936ねん不治ふじやまい病床びょうしょうにつき、自分じぶん薬店やくてんあつかくすりかない皮肉ひにくなげきながら病床びょうしょう日記にっきつづり、おおくの短歌たんかのこした。1939ねん10がつ28にちに45さい病没びょうぼつ1964ねん出版しゅっぱんされた『中村なかむら徳也とくや歌集かしゅう』は館岡たておか栗山りつざん装丁そうていをおこなった。

参考さんこう資料しりょう

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