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丸山まるやままなぶ

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丸山まるやま まなぶ(まるやま まなぶ、1904ねん明治めいじ37ねん10月26にち - 1970ねん昭和しょうわ45ねん2がつ27にち)は、日本にっぽん英文えいぶん学者がくしゃ民俗みんぞく学者がくしゃ小泉こいずみ八雲やくも研究けんきゅう九州きゅうしゅう民俗みんぞくがく研究けんきゅうにおいてられる。

経歴けいれき

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熊本くまもとけん和水わすいまちまれる。熊本くまもと県立けんりつ中学ちゅうがく済々黌せいせいこう進学しんがくし、国文学こくぶんがくしゃ蓮田はすだ善明よしあきとは親友しんゆうであった。英語えいごえい文学ぶんがく専攻せんこうし、広島ひろしま文理ぶんり大学だいがく文学ぶんがく英語えいごえい文学ぶんがく専攻せんこう卒業そつぎょう広島ひろしま文理ぶんり大学だいがく助手じょしゅ広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう教授きょうじゅ広島ひろしま文理ぶんり大学だいがく在学ざいがくちゅうよりコンラッド研究けんきゅうはげみ、1932ねん昭和しょうわ7ねん)には『文学ぶんがく研究けんきゅうほう』を出版しゅっぱんし、研究けんきゅうしゃ教育きょういくしゃとしての地位ちい確固かっことしたものにする[1]よく1933ねん昭和しょうわ8ねん)には柳田やなぎだ國男くにおたずね、これ以降いこう徐々じょじょ民俗みんぞくがくてんじ、1936ねん昭和しょうわ11ねん)に『小泉こいずみ八雲やくもしんこう』、『えい吉利よしとし年中ねんじゅう行事ぎょうじ研究けんきゅう』を出版しゅっぱん。1945ねん昭和しょうわ20ねん)の原爆げんばく蔵書ぞうしょ調査ちょうさ資料しりょうをすべてうしなったことを契機けいき郷里きょうり熊本くまもと帰郷ききょうし、1946ねん昭和しょうわ21ねん)に熊本くまもと語学ごがく専門せんもん学校がっこう現在げんざい熊本学園大学くまもとがくえんだいがく教授きょうじゅとなり、1970ねん昭和しょうわ45ねん)より熊本商科大学くまもとしょうかだいがく学長がくちょう著書ちょしょに『英国えいこくじん東亜とうあかん』、『熊本くまもとけん年中ねんじゅう行事ぎょうじ』、『熊本くまもとけん民俗みんぞく事典じてん』などがある。
解体かいたい危機ききにさらされていた熊本くまもと市内しない小泉こいずみ八雲やくも旧居きゅうきょ小泉こいずみ八雲やくも熊本くまもと旧居きゅうきょ)の保存ほぞん目指めざし、1960ねん昭和しょうわ35ねん)には、熊本日日新聞社くまもとにちにちしんぶんしゃ社長しゃちょう小崎おざきくにわたる荒木あらききよしこれなどとともに小泉こいずみ八雲やくも旧居きゅうきょ保存ほぞんかい結成けっせいした[2]だか出身しゅっしんしゃなどに寄金ききんつのり、八雲やくも旧居きゅうきょ翌年よくねん一部いちぶ現在地げんざいち移築いちく保存ほぞんされた。また、熊本商科大学くまもとしょうかだいがく現在げんざい熊本学園大学くまもとがくえんだいがく)において、没後ぼつご遺族いぞく寄贈きぞうによる基金ききんをもとに「課外かがい活動かつどうすぐれた実績じっせきをあげた個人こじんまた団体だんたい」を表彰ひょうしょうする丸山まるやましょうもうけられた[3]

年譜ねんぷ

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  • 1904ねん明治めいじ37ねん) - 熊本くまもとけん玉名たまなぐん江田えだむら現在げんざい和水わすいまち)にてまれる
  • 1917ねん大正たいしょう6ねん) - 田原たはら東部とうぶ尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん) - 熊本くまもと県立けんりつ中学ちゅうがく済々黌せいせいこう卒業そつぎょう
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん) - 広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう文科ぶんかだい卒業そつぎょう
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん) - 歩兵ほへいだい23連隊れんたい入営にゅうえい
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん) - 熊本くまもと県立けんりつ熊本くまもと中学校ちゅうがっこう教諭きょうゆ
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん) - 広島ひろしま文理ぶんり大学だいがく文学ぶんがく卒業そつぎょう
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん) - 広島ひろしま文理ぶんりだい助手じょしゅ
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん) - 広島ひろしまだか教授きょうじゅ
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん) - 応召おうしょう
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん) - 広島ひろしまだか文科ぶんかだい部長ぶちょう
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん) - 再度さいど応召おうしょう
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん) - 召集しょうしゅう解除かいじょ陸軍りくぐん大尉たいい
  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん) - 熊本くまもと語学ごがく専門せんもん学校がっこう教授きょうじゅ
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん) - 熊本短期大学くまもとたんきだいがく教授きょうじゅ
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん) - 米国べいこくNEAの招待しょうたいにより米国べいこくインディアナ大学だいがく留学りゅうがく江藤えとうためたくよせぐうする[5]
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん) - 熊本商科大学くまもとしょうかだいがく教授きょうじゅ
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん) - 熊本くまもと保田窪本ほたくぼほんまち現在げんざい熊本くまもと中央ちゅうおう保田窪ほたくぼ1丁目ちょうめ)に、かっぱ保育園ほいくえん現在げんざいのかっぱこどもえん)設立せつりつ[6]
  • 1959ねん昭和しょうわ34ねん) - 熊本商科大学くまもとしょうかだいがく付属ふぞく高等こうとう学校がっこう校長こうちょう[7]
  • 1960ねん昭和しょうわ35ねん) - 熊日くまにち社会しゃかいしょう受賞じゅしょう
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん) - 熊本商科大くまもとしょうかだい学長がくちょう
  • 1970ねん昭和しょうわ45ねん) - 熊本くまもと中央ちゅうおう病院びょういんにおいて心筋梗塞しんきんこうそくのため死去しきょ
  • 1982ねん昭和しょうわ57ねん) - 熊本くまもとけん近代きんだい文化ぶんか功労こうろうしゃ[8]

著作ちょさく

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  • 文学ぶんがく研究けんきゅうほう』(春陽しゅんようどう、1934ねん
  • 小泉こいずみ八雲やくもしんこう』(北星ほくせいどう書店しょてん、1936ねん)(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1996ねん
  • えい吉利よしとし年中ねんじゅう行事ぎょうじ研究けんきゅう』(三省堂さんせいどう、1937ねん
  • 英国えいこくじん東亜とうあかん』(京極きょうごく書店しょてん、1944ねん
  • 熊本くまもとけん年中ねんじゅう行事ぎょうじ』(日本にっぽん談議だんぎしゃ、1952ねん
  • 熊本くまもとけん民俗みんぞく山村さんそんへん)』(日本にっぽん談議だんぎしゃ、1954ねん
  • 山師やまし伝承でんしょう日本にっぽん民俗みんぞく学会がっかいへん日本にっぽん民俗みんぞくがくだい2かんだい3ごう(1955ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 脇田わきた裕正ひろまさ日本にっぽん」のコンラッド:戦前せんぜん日本にっぽんのコンラッド受容じゅようについて」『コンラッド研究けんきゅうだい2かん日本にっぽんコンラッド協会きょうかい、2011ねん、27-41ぺーじdoi:10.50823/conradstudies.2.0_27ISSN 1884-1805NAID 130008034360 
  2. ^ 熊本くまもとけん公式こうしき観光かんこうサイト「ふるさと寺子屋てらこや No.064 小泉こいずみ八雲やくも熊本くまもと
  3. ^ 熊本学園大学くまもとがくえんだいがく丸山まるやましょう規程きてい
  4. ^ ひゃくにんかた丸山まるやままなぶ編集へんしゅう委員いいんかいへん(1971)『ひゃくにんかた丸山まるやままなぶ熊本くまもと学園がくえん広報こうほうしつ
  5. ^ 山鹿やまが教育きょういく委員いいんかい近代きんだい山鹿やまがきずいたひとたち003 米国べいこく移民いみんちち 江藤えとうため」:https://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1281667313180/files/003.PDF
  6. ^ かっぱこどもえん沿革えんかくhttps://kosodate-web.com/kappa/enkaku.html
  7. ^ 熊本学園大学くまもとがくえんだいがく付属ふぞく高等こうとう学校がっこうホームページ「学校がっこうちょうエッセイ」:http://www.kumagaku-h.ed.jp/about/essay
  8. ^ 熊本くまもとけん近代きんだい文化ぶんか功労こうろうしゃ一覧いちらんだい21~40かい):https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/117560_209977_misc.pdf