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墀門なり

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かどしげる
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ じん寿ことぶき3ねん3月22にち853ねん5月3にち
官位かんい せい大和やまとまもる
主君しゅくん 平城ひらじろ天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう
氏族しぞく 多治比たじひ真人まさとたん墀真じん
父母ちちはは ちち多治比たじひゆたかちょう
池子いけご藤原ふじわらどおけいしつ
テンプレートを表示ひょうじ

かどしげる(たじひ の かどなり)は、平安へいあん時代じだい初期しょき貴族きぞくせい多治比たじひ真人まさとのち墀真じん内蔵助くらのすけ多治比たじひゆたかちょう官位かんいせい大和やまとまもる

経歴けいれき

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平城ひらじろあさでは巡察じゅんさつ弾正だんじょうを、嵯峨さがあさではしょう判事はんじ大和やまとしょう/だいじょうつとめる。

淳和じゅんなあさはいり、てんちょう3ねん826ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、てんちょう5ねん828ねん丹波たんばかいにんぜられる。当時とうじ丹波たんばこく土民どみん荒々あらあらしく教化きょうかしたがわない状態じょうたいであったため、ふるくからおさめがたいとわれていた。そのためもんなり物事ものごとおうじるまえむちばつさきんじておこなとうもうせいおこなうことで、すうねんのち国内こくない道理どうりつうじるようになり、同国どうこく人々ひとびと賞賛しょうさんするようになったという[1]てんちょう9ねん832ねん治部じぶしょうにんぜられきょうかんふくす。またよくてんちょう10ねん833ねん多治比たじひさだなり奏請そうせいにより、一族いちぞくとも多治比たじひから墀に改姓かいせいする[2]

仁明にんみょうあさはいると、備前びぜんかいいで弾正だんじょうしょう歴任れきにんする。うけたまわ9ねん842ねん)に発生はっせいしたうけたまわへんさいしては、山城やましろこくどうひとつである大原おおはらどう警固けいご[3]同年どうねんしたがえじょう昇叙しょうじょされる。のち刑部おさかべ大輔だいすけ大和やまとこくはん使次官じかん宮内みやうち大輔だいすけて、うけたまわ12ねん845ねん武蔵むさし権守ごんもりよくうけたまわ13ねん846ねん武蔵むさしもり武蔵むさしこく国司こくしつとめる。それまで武蔵むさしこくにおいては盗賊とうぞく跋扈ばっこするような状態じょうたいであったが、かどしげる着任ちゃくにんしていくばくもしないうちに、綱紀こうき粛正しゅくせいされたという[1]

よしみさち3ねん850ねん文徳ふみのり天皇てんのう即位そくいまもなく大和やまともりにんぜられる。大和やまとこくでは豪族ごうぞくらがままにるまい制御せいぎょできない状態じょうたいにあったが、かどしげる豪族ごうぞくらをけることなくこれまでのやりかた統治とうちしたところ、国内こくないやすらかとなり人々ひとびとかどしげるにあがめづかえたという[1]じん寿ことぶき3ねん853ねん正月しょうがつせいじょせられるが、同年どうねん3がつ22にちびょうにより卒去そっきょ最終さいしゅう官位かんい大和やまと守正もりまさ

人物じんぶつ

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非常ひじょう剛直ごうちょく性格せいかくであった。ざいがくはなかったが、地方ちほうかんとしての行政ぎょうせい手腕しゅわんすぐれ、国司こくしにんぜられるとかなら評判ひょうばんがあがったという[1]

かんれき

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ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくひとし寿ことぶき3ねん3がつ22にちじょう
  2. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん8ねん2がつ21にちじょう
  3. ^ ぞく日本にっぽんうけたまわ9ねん7がつ17にちじょう
  4. ^ ぞく日本にっぽん』による。『日本にっぽんさんだい実録じつろく』ではてんちょう9ねん4がつ25にちとする。
  5. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかん2ねんうるう10がつ20日はつかじょう
  6. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく

参考さんこう文献ぶんけん

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